4.来襲
目の前が白い。
街だ。重い霧があたりを覆っている。すぐそこにあるはずの雑貨屋の暖簾も見えない。
でも行かなくては。
焦燥感だけがつむじ風のように心臓を巻き上げる。
荷馬車だ。荷馬車を追いかけるんだった。
思い出したら居てもたってもいられなくなって、白い闇の中を駆け出した。
見えなくても、このあたりの街路はだいたい分かる。
街を出ようとする馬車を追いかけるなら、あの道だ。前に前に押し出されるように走っていると、重たいものが軋む音が聞こえてきた。
心臓が早鐘を打つ。息が苦しい。普通だったらとっくにへたりこんで喘いでいる。だが構わず走った。
大切なものが手の届かない場所に行ってしまうというのに、息のことなんて構っていられない。
やがて白の帳が開いて荷車が見えてきた。
はっとして彼は荷車の上の人影に釘付けになる。
あれこそ、大事なもの、奪われてはいけないものだ。
彼女はこちらに気づき、ぱっとうれしそうに顔を綻ばせる。それだけで嬉しくなって、さらにスピードを上げようとした、その時。
彼女がかぶりを振った。幼い瞳に涙が溢れる。口がひらいて言葉を紡ぐ。
声は聞こえなかったが、唇の動きから読み取った。
「さようなら。」と。
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ルネは目を覚ました。蒸し暑さが襲いかかる。寝藁にまで汗がしみこんで気持ちが悪い。
隣の寝台ではリアが眠りこけている。唇から透明な雫が垂れ、そのまま頬を伝い落ちる。その様子をなんとなく眺めながら、悪夢の残滓を払い落とした。
何はともあれ、暑い。窓に取り付いて隙間だらけの木戸を開けた。空はどんよりとした雲に覆われている。昨日よりは風があって過ごしやすそうだ。
肩や背中を掻きむしりながら、体を拭くための水を用意しようかと窓に背を向けようとする。
その時。
一瞬、窓の向こうを大きな黒い何かが横切った。
「え。」
確かめようと外を見ると黒い翼のようなものが宙を舞っている。他にも同じようなものがいくつか見える。あちこちから悲鳴のような怒号のような声が上がる。カラスではなさそうだ。
「リア起きろ!」
叫びながらクロスボウをひったくる。その刹那、破城搥でも叩きつけたような衝撃で建物が揺れた。同時に甲高い咆哮。窓から灰色の巨大なものが入り込んでくる。
何が起こったか考えるよりも速く体が動いた。素早く矢を番え、そいつ、爽やかな朝を告げる小鳥さんではない何者かに向かって、迷うことなく射出した。
矢は刹那もなく、魔物の胸に吸い込まれる。痛みに気が狂ったようになり暴れまくる化け物。部屋の備品が容赦無く破壊されていく。ルネが次の矢をつがえようとしたその時、唐突に静かになった。
リアの剣がそいつの首を斬り落としていた。
「まったく、人の寝起きになにすんのかね。」
リアは太ももから血を流している。化け物が暴れた時に寝ていたリアを引っ掛けたのだろう。おかげで彼女の表情は不機嫌そのものだ。
ルネは部屋いっぱいに広がる首無し死体を見た。体は一回り大きいが人間。腕のあるところに灰色の翼があり、膝より先が猛禽類の鉤爪に変わっている。
「ハーピーだ。」
魔女の使いっ走り。悪魔のなり損ね。そんなふうに言われるが実際に人を襲うという話は聞かない。窓の外からは相変わらず物騒な音がひっきりなしに響いてくるから、かなりの集団で襲撃をかけてきたのだろう。これはやっかいだ。
いつものようにリアの傷を手早く手当てし、装備をつける。完全武装で部屋から飛び出すと、ユージェニーが奥の部屋のドアを叩いていた。
「どうしたの?」
「フィリップが返事をしないの。さっきから叩いているのだけど。」
焦っているのか落ち着き払っているのかわからないが、放ってはおけない状況なのは確かだ。
「ドアを破ろう。」
ルネは即座に判断してドアに体当たりした。建て付けの良くないドアはあっさりと向こうに倒れる。
部屋は空っぽだった。
「どこに行ったのかな。」
他人事のようにユージェニーが言った。
「一緒だったんじゃないの?」
リアが訊く。
「どうして?」
「だって同じ部屋でしょ?」
「なんで家族でもない人と同じ部屋?あなたたちほど仲睦まじいわけではないのに?」
そういえばそうだ。いつの間にか自分達基準で考えてしまっていた愚に気づいた。気まずい。リアがあーとかうーとか言ってごまかそうとしている。
「そんなことより外、外。」
「あ、そうだ。鳥人間やっつけよう!」
そうして3人は戸口に向かった。