20.兆し
翌朝、ユージェニーは少し遅めに目覚めた。
やはり疲れは相当なものだったようだ。まだ若い少女の体なのに、節々が痛い。
リアとルネはどうしているだろう。もし、彼らが森に入っているなら、ユージェニーの眷属が気づくことができるはずだったが、今のところその兆候はない。
外からは村人たちが忙しそうに立ち働く音が聞こえてくる。
いざ離散して移住する決意をしたものの、決意だけでどうにかできるものではない。各地の伝手を頼り移住先を探したり、持っていける財産を見繕ったりと、済ませておくべき準備は山積しているのだ。
どうか皆無事であってほしい。
守り神たる責任を果たせなくなったユージェニーとしては、今や祈るしかない。
その時、ドアを叩く音がした。
応えて招き入れると、見知った女性が現れてフィリップが意識を取り戻したと言った。
ユージェニーは一瞬驚き、すぐ向かうと応えて身支度を急いだ。
「えへ、えへ。」
幼児のような満面の笑みを浮かべて、フィリップは彼女を迎えた。
外れた顎はどうにか戻され、頭全体を布で固定している。眼球も元の位置に戻っているが、キョロキョロと落ち着かなげに動き回るだけだ。
「話は、聞けないみたいね・・。」
ユージェニーは落胆して言った。
「人格が壊れてしまっているように見えますな。まだ調べてみないと分かりませんが。」
トマス村長が言い添えた。彼のフィリップを見つめる目は複雑だ。今のところ軽蔑の色が一番強そうではあるが。
「色々聞きたかったのだけど。」
実際のところ、四神の侵攻はどのようになされるのか、知っているのと知らないのとではこれからの身の振り方が違ってくる。
「あばばばばー!」
何が面白いのか、フィリップが大笑いしている。
ユージェニーとトマスは揃ってため息をついた。
ユージェニーの帰還から一週間が経った。
領都からは、断片的ではあるもののかなりの情報が集まってきている。
曰く、悪魔の軍勢が攻めてきた。
曰く、肉欲に堕落した領主に神罰が下った。
曰く、魔女が獣に乗って逃げていった。
要するに、未だ領都は混乱の渦にある。
ユージェニーの見立て通り、領主は殺されたに違いない。
あの最後の戦闘の前に、街はかなりの被害を出していたし、都市機能の少なくない部分が麻痺していただろう。
それに領主の死による政治的、軍事的空白が止めを刺した格好である。
王権がそれを把握し、手を打つまでに数ヶ月はかかるだろう。村はまだ多くの時間を準備に使えるはずだ。
リアとルネの行方は未だ分からない。すでに旅立ってしまって、この付近にはいないのかもしれない。ユージェニーは少し寂しさを感じたが、今回の一件で、2人には散々な目に合わせてしまった。恨まれることはあっても、これ以上の助力を期待するのは虫が良すぎるだろう。
意外なことに、フィリップの人格は少しずつ回復の兆しを見せている。
初めて意識を取り戻した時は赤子そのものだったが、今は幼児程度の会話をこなせる。
このまま待てばあるいは・・・。
ただフィリップの人格が戻ったとして、それがユージェニーの手に負えるかという不安があった。また以前のように丸め込まれてしまうかもしれないし、それはなくともまた冥界神を召喚などされたら大変だ。
いっそ殺してしまおうという意見も出たが、役に立つ情報を引き出せる望みがあるうちは生かしておこうということになった。
一ヶ月が経った。
木々が色づき、風に冷たさが混じり始めた。
移住の準備と共に、村の防備の再構築、いざという時のための避難経路の確保など、仕事は着々とこなされていった。
領都からは未だに何の動きも伝わってこない。新たな領主が立ったという話も聞かない。
ただ、当初混乱を極めていた街の治安がひと段落し、交易が再開されたという話は伝わってきた。秩序が回復して生活に余裕が出てくれば、災いの元を断とうとする動きも出てくるだろう。
急がねばならない。
フィリップの人格は急速な回復を見せた。
だがその分危険さも増した。ある時は微動だにせず意味不明な独り言を丸三日つぶやき続け、ある時は手がつけられないほど暴れた。
今は会堂の地下牢に幽閉されている。以前リアやルネを閉じ込めたのと同じ場所である。
今日は比較的落ち着いているという話を聞き、ユージェニーはそこに足を運んだ。
男は机に腰をかけて一心に書き物をしている。
頬はこけやせ細って、以前のような貴公子の面影は見当たらない。
ユージェニーは、フィリップの動作がひと段落するまで辛抱強く待った。
手元の紙は「雲」という単語で埋め尽くされている。執拗なまでの情熱をもって、その紙の余白という余白が埋められると、男はようやく傍らにいる少女に気づいた。
「雲の中にいた。」
フィリップが不思議なものを見るような顔で言った。
「そう。」
「雲の中に数えきれないぐらいの生き物がいてあっちこっちで生まれたり死んだりしていた。」
ユージェニーは黙って聞いている。
「気持ち悪くなって雲から出た。そうしたら・・・。」
フィリップの目から涙がひとすじ一筋流れた。
「同じような雲が数えきれないぐらいあった。本当に数えきれないぐらい。数えきれないぐらいを数えきれないぐらい集めても、まだ数えきれないぐらいの雲があったんだ。」
「そうなのね。」
「そいつらはめいめいが勝手に動いて時々光ったり消えたり生まれたりして、でもずっとずっと 向こうの方になると渦を巻いて眩しい、ほんとに眩しい・・・。」
フィリップの目からとめどなく涙が溢れてきている。
「そろそろ休んだ方がいい。」
そう言って椅子から立とうとすると、
「聞け、娘よ。」
急に声色が変わった。ユージェニーは驚いて彼の顔を見た。
無垢な廃人の顔が、一転してこの世ならぬ凄みを持った表情に様変わりしている。
見開かれた両目は薄く輝く菫の色。全ての感情を漂白するかのようだ。
ユージェニーは動きを止めて次の言葉を待った。
「我もそなたも等しく、生まれては消えていく儚いうたかたに過ぎぬ。」
「アエイヌース。」
「そなたがアエイヌースと呼んで幼子のように恐れるものは何か。あわれなものよ。」
「でも!」
「人の子よ、塵芥の上に立つ、それこそが力よ。知れ、そして行け。」
瞳が閉じられた。
フィリップの体がぐらりと傾き、そのまま横倒しに倒れた。
ユージェニーは慌てて肩を支えたが、勢い余って男の頭部が床を打ち、鈍い音が響いた。
頭から血を流すフィリップを寝台に横たえ、後の世話を頼むと、ユージェニーは会堂を後にした。
あの時フィリップの口を動かしていた存在は、紛れもなく冥界神アエイヌースだった。
ユージェニーはその気配を覚えている。
その口から発せられた驚くべき言葉が、激しく心を揺さぶる。
「四神も私も同じだというの。そして人の子、と呼んだ。それこそが力、と。」
ユージェニーの脳裏には、透徹した神の眼光が焼き付いている。これまでの年月、長い長い戦いの間、繰り返し無力感を味わってきた。
四神の侵攻を前に、奪われ打ちのめされ続けた歳月だった。
「だが。」
記憶に残る姿がある。神の拘束から力づくで逃れてみせたあの姿。
ユージェニーはその姿を思い描き、考え続けたのだった。




