17.顕現
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ユージェニーの視界が歪んだ。
唐突に遠近感が薄れていき、遠くの景色が霞の彼方に消えていく。
同時に周囲の闇は、まるでインクを水で溶いたように薄く引きのばされていく。
視界の全てが灰色に薄められていくような感覚に目眩を覚えて目をつぶると、いやつぶっても、そこに瞼などないかのように同じ景色が見える。
「何なのこれは・・・。」
「私は神に特別の恩寵を賜っているの。私は神に触れられし者。」嘲笑とも恍惚とも言える声音が徐々にフィリップの肉声とは別のものになっていく。
リア、ルネ、ユージェニーの3人は互いを見合わせた。肉体の上に重なるようにして精神の姿が見える。意識の表層、中層、深層それぞれで無数に存在する自己像が同時に投影されている。要するに現実と精神世界が1つのヴィジョンで見えてしまっているのだ。
互いを見れば、合わせ鏡で見たように相手の姿が無限に連なって見える。
しかも、精神は深層に行けば行くほど、現実とは似ても似つかない姿になっていくものだ。
「同居人」に接するために意識の深層に触れる機会が多いリアとルネですら、それは目眩を起こしそうな光景だった。
もともと精神世界の住人だったユージェニーも、ここまで多数の層を同時に見たことはなく、圧倒されてしまう。
『聖者たる私を通って神の手が顕現するわ!』
突然、耳をつんざくような大音声がして、フィリップのいるあたりから光の柱が上がる。
それは現実に起こっていることなのか、精神世界内の出来事なのか見分けがつかない。
やがてその光柱が割れると、あり得ないほどに大口を開けたフィリップが現れた。
顎はだらりと垂れ、丸見えの喉の奥から白く輝く光の舌が幾本も伸びている。
上空を仰ぎ見ている眼球からはやはり光柱が夜の闇を貫く。
その体勢のまま、その光溢れるおぞましい存在が声ではない声で語りかけてくる。
『さあ、偉大なる冥界の光輝に全てを捧げなさい!』
風は吹いていないのに抗いがたい力で引き寄せられる。
フィリップだったものの喉の奥から伸びる光の舌は、のたうち、くねりながら広がってこちらを目指してくる。
ルネは、とにかくあれに触れたらおしまいだということは直観できたが、どうすれば逃れられるか検討もつかない。頼りの悪魔も奥に引っ込んでしまい出てこない。
リアに意識を向けても困惑が返ってくるばかりだ。
『まずはおまけからいただきましょうかね!』
高らかな宣言とともにいっそう強まった引力を感じる。重なる自己像の中から少しずつ黒いものが滲み出てきて、自分から引きはがされる。
「ううぅあぁぁあ!」体内を直接抉られるような痛みにうずくまる。
リアからも同じ黒いものが剥落し集められていく。同じように彼女も苦悶に肩を痙攣させている。
そして集まったそれは、徐々にある形をなしていく。
まず苦しげに歪む眉間、引き結ばれた口元、頭部に続いて鱗に覆われた全身が現れる。
リアとルネは、初めて自分たちに憑依していた存在の姿を目撃した。それはある種の水棲生物に似ていて、まとわりつく汚穢を取り除けば神々しい姿をしていた。
あまりの痛みにルネの意識が薄れていく。意識の底まで同時に見えるこの状況では、意識を失うことの意味するものは何なのか想像できない。
何もできずにただ、のたうち回るだけの時間が延々と続いた。2人から引きはがされた『悪魔』は半人半龍の全身を光の舌にからめ取られ、轟音とともにフィリップの口啌の中に消えていった。
リアが脂汗を流しながら、奪われたものを見つめている。意識の中で語りかけようとしたが、何も見えない。もはや超常の視界は失われ、リアとの精神世界での繋がりも切れてしまったようだった。
「リア・・・。」
「ルネ。」
互いの手を握ることでしか互いを感じられない。そういう感覚は久しく忘れていた。
2人は地面に力なく横たわったまま、喪失感に身を任せるしかない。
ユージェニーは一部始終を横目で見ながら一歩も動くことができなかった。
あれはまさしく四神の手。
これまでずっと恐れていたもの。自分のような、精霊の現し身などという中途半端な存在では到底太刀打ち出来ないのだと戦慄した。
河の精霊だったものを丸呑みにしたそれは、再びうねる舌を伸ばし始めた。
『次はあなたよ。コヴェンティナ。』
轟く声は落雷のようだ。
「これまで、なの?」
彼女はなりふり構わず民と森を守り続けてきた歳月を思って自嘲した。
「これじゃまるっきり人間じゃないの。」
迫り来る暴力を前に立ち尽くすしかないちっぽけな存在、それが自分だ。
少しぐらい長く生きて、多くのものを見てきたが、それが何だと言うのだろう。
無力感に苛まれながらも、ユージェニーは目の前の敵を睨んだ。
最後の瞬間まで毅然としていようという、それは諦めにも覚悟にも似た感情だった。
さあ、来るなら来なさい。
そう思って不気味にのたくる白い舌を待つ。
だが・・・。
蛇のようにくねるそれは中々こちらにやって来ない。
それどころか、徐々に動きが鈍くなってきているような・・・。
はっとして敵の足元を見る。フィリップだったものの足先から何か黒いものが滲み出ている。
「リア!ルネ!」
ユージェニーの鋭い声に、横たわっていた2人が反応した。フィリップの体から黒い霧のようなものが滲み出て、体に絡みつこうとしている。
その次の瞬間には、それらは体の中に引き戻されるが、しばらくするとまた体から滲み出そうとする。まるで何かの綱引きのようだ。
「あいつ・・・。」
リアは飛び起きると脱兎のように走り出した。向かう先は灰色の空間に浮かぶ兵士の死体。一瞬遅れてルネも続く。
リアが死体に飛びついて、鞘に収まったままの剣を抜き放った。ルネは地面に散乱する弓矢の中で、まだ使えそうなものを素早く探し出し、一転して番える。
ルネが放った矢が光の舌にからめ取られ、力なく落下した。
リアの振りかぶった剣もまた敵に届くことなく弾き返された。
フィリップのものだった頭部は相変わらず真上を向いているのに、隙がない。
だが、さきほどと僅かに変わった雰囲気を彼らは見逃さなかった。
飲み込まれたばかりの彼らの悪魔が、神の中で反逆を企てているらしかった。
フィリップの中で繰り広げられるであろう霊的存在同士の戦いの形勢に、少しでも影響を与えることができるかもしれない。
どれほど壮絶な綱引きなのか想像もつかないが、やってみるしかない。
僅かではあるが動きの鈍ってきている光の舌をかいくぐり、2人は地道に攻撃を続けた。ユージェニーも弓を持ってそれに加わり、妖獣ユーリーに至っては、幾本もの光に絡みつかれながら、なおもがき続けている。
そうして、どれだけ時間が経ったのか。
周囲の灰色の靄が少しずつ薄くなってきた。
空の茜色が見え始め、夜が明けかけていることにようやく気づく。
疲労はすでに限界に達していた。
が、それは敵にとっても同じだろう。
「うぐ、ぐ。ぐぐ。」
相変わらず真上を向いたままのフィリップの口から、うめき声が出始めた。
その声とタイミングを合わせるように、滲み出す黒い影が脈動する。
「ぐが、ぐ・・・・」
うねる光の舌の動きがついに止まって、
「ぐぁああああああっ!」
断末魔とも聞こえる苦悶の叫びが響くや、その体から黒い奔流が一気に離れていく。
それらは空中で渦を巻きながら、鱗を持つ生物の形を取る。
これまで自身を絡め取っていた敵を警戒するかのように。
「エペー。」
ユージェニーが尊崇の念をもってその存在を見上げた。
『我は還れり。』
宿題をやり遂げた少年のような晴れ晴れしさで、その存在は応えた。
そして嬉々として元の宿主であるリアとルネの中に戻っていく。ただいま、とでも言い出しそうな様子だ。
リアとルネは少しだけ複雑そうな顔をしていたが、何も言わずそれを受け入れた。
光の舌は朝陽に紛れるように薄れて消えていった。
フィリップの姿をしたものは、なおも天を仰いで立っているが、だらりと垂れた顎の奥からは、乾いた咳が時折漏れるだけだ。
そうしてそのままどさりと倒れた。
「終わった・・・のかな。」
ルネがおそるおそる近づいてみると、フィリップは目を見開き口をぱかりと開けたまま気を失っていた。眼球は真っ赤で、瞳孔が白く濁っている。
「息はあるわ。」リアが弱々しく上下する胸を見て言った。
死んではいない。が、正常な機能を取り戻すのは難しそうだ。なにより、超常の存在である神を直接宿したのだ。どれほど人格が破壊されるのか想像したくない、とルネは思った。