1.森の中
その国は、未だ四神教の布教が行き届かない辺境を多く抱え、西方国家群の中では後進地帯の座に甘んじている。
辺境のほとんどは、暴れ川、断崖や山岳地帯など人の侵入を拒む地勢に満ち、昼なお暗い森に覆われている。正当な教えの伝播と発展を掲げる人間たちは、いつの時代も森を手懐け征服しようと力を奮ってきた。
その時代も、王権の後援の下、とある辺境の地の開拓が大規模に行われていた。
その地もやはり『アイヒェンヴァルツの森』と呼ばれる広大な森を抱える。
そこは狼の森であり、狼たちを束ねる伝説の魔獣の森であった。
土地の人々は、その獣を畏れをこめて『アイヒェンヴァルツの妖獣』と呼んだ。
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足を進めるたびにいやらしい下草がまとわりついて、水分をなすりつけてくる。
森は鬱蒼としていて薄暗く、蒸し暑い。
リア・デュモンは髪をかきあげて額の汗を拭う。
長い髪に長身。整った顔立ちだが、優美さよりも勝ち気さが印象的だ。それも今は不快さに眉を歪めている。
革のブーツにしっかりとした脚絆。森に巣食ういやらしい生き物どもから身を守る装備が、今は暑苦しさを助長するばかりだ。
彼女は後ろを振り返って相棒に声をかける。
「ねえ、これってやっぱりあれじゃない?」
「あれって?」
従弟にして相棒、ルネ・デュモンは何気なしに聞き返す。長い付き合いで、彼女の言うことなど大体想像がついたが、それは触れないでおいた。
「だからさ、詐欺、狂言、で誘拐。こうやって森の奥に誘い込んでさ、疲れて身動きできなくなったところをがっ、と。」
「がっとって。だれを?」
「あたしでしょあたし。薄気味悪い森に妙齢の乙女ときたら、次に来るのはよだれを垂らした金持ちのおっさんしかいないじゃん?」
「妙齢の乙女ねえ・・」
ルネは遠い目をした。
彼はリアの3つ年下の17歳。身長はリアを少し超えているが、優しげな雰囲気とカールのかかった栗色の髪のせいで、どちらかというと従姉のサポート役のように見られることが多い。
「でも確かに。」
ルネは歩を止めて周囲を見回した。リアの言うことも分からなくもない。ほぼ丸一日、あてもなく森を歩かされれば怪しみたくもなる。案内人だという男は斥候に行くと言って先行し、それっきり半刻は経つ。
けれども流れ者の自分達をこんなところに誘い込んで何の得がある?「乙女」発言に水を刺された従姉は、ちぇーとか言いながら腐っている。
やや大柄な体格であるものの、客観的に見れば美人の範疇に入ってしまうから、誘拐というのもありえない話ではない。が、それにしては手が込みすぎていないだろうか。
「来たみたいよ。」
姉の言葉のすぐ後に、ルネも気配を感じとる。前の茂みから案内人が姿を現した。
「どうもお待たせしてすいませんねえ。目印がいくつかやられてたもんで、直してたんでさあ。」
案内人、狩人をしているというヨーナスという男が頭を掻きながら現れた。森と獣を相手にする仕事にしては、妙に口数が多い人物だ。
「目印が?」
「そうでさ。これも獣どもの悪さってやつで。ですがご安心を。おれはこの森だったら目隠ししても歩けるんで。」
ヨーナスが手布で汗を拭きながら言った。木の葉ずれの隙間からも、太陽が西に傾き始めたのが見える。
「で、獣とやらの気配は?」
「いや、今日はどうも空振りのようで。こっちも日が落ちる前に引っ込んだほうがいいでしょうな。」
「まったくなんでこんなことに・・・。」リアがため息をつく。
リアとルネが森に来たのは、付近に出没して人里を襲うという獣を退治するためだった。狡猾で凶悪だというその獣の名は『アイヒェンヴァルツの妖獣』。この領の大半を占める森の名を冠した伝説の魔物だ。
どうしてそんなことをしなければならなくなったかというと、
「それはもうあそこでリアがしょーもない挑発に乗ったから。」
「分かってますってば。はいはい。」
言って肩を竦める。その刹那、リアは異常を感じ取った。首の裏がぞわりとする気配。
「もしかしたらビンゴかもよ。」
他の二人も察知したのか、武器を手に周囲を窺う。
四方に複数の気配。すでに囲まれている。この段取りの良さは・・。
「空振りって言ったの誰よ。」リアが悪態をつく。
「いやすみません。どうも勘が鈍ってるようで。」
悪びれもなく言うヨーナス。その態度が怪しすぎるんだよとルネは思う。
クロスボウに矢を番え、グラディウスをすぐ抜けるようにしておく。
背中合わせにしたリアが長剣を抜き放った直後、灰色の毛並みが姿を現した。見える範囲に獰猛そうな狼が5頭。油断なくこちらを窺っている。隙を見せたらすぐに襲いかかってきそうだ。
「こいつらが『妖獣』?」
「いやあ、これは下っ端でしょうな。」存外信心深いのか、熱心に四神に捧げる印を切っている。
「数に物を言わせるなんて、伝説の獣とやらも案外俗物ってことね。」
ボスへの悪口を聞き取ったのかどうか、狼たちが動き始めた。
ルネがクロスボウを射出した。手近な狼がまともに矢を受けて斃れる。即座にクロスボウを投げ捨て、グラディウスを抜き放って盾を突き出す。
2頭の狼が襲いかかってきた。ルネは巧みに盾と短剣を操って攻撃を防ぐ。背中はリアに預けてあるから、前だけを気にすればいい。2人のいつもの戦い方だった。
「シュッ。」
リアが素早く斬り込んで1頭斬り伏せた。獣の血の臭いが立ち込める。
既に2頭、仲間がやられているのに、群れに怯む気配がない。どうもただの狼ではなさそうだった。
かわされ続け、じれた1頭が飛びかかってきた。ルネは盾を叩きつけて逆に押し倒し、すかさず短剣を突き立ててとどめを刺す。
隙ができないよう素早く体勢を整えると、目の前に4頭。さっきより増えている。
「そっちあといくつ?」弾んだ従姉の声。
「4。」
「へえ。じゃあこっち終わったら手伝ってあげるっ。」
その途端に後ろから鈍い音が2つ。どうやらリアのほうはもっと数がいるようだ。隙を見せられないから、振り返って見ることはできないが。
獰猛な獣がこの数はさすがにきつい。これ以上敵が増えたらジリ貧になることもありうる。
3頭目の腹に剣を突きたてた刹那、
「ルネ!」リアの鋭い声に無我夢中で振り返って盾を構える。直後に重い衝撃。
牙自体は防いだものの、中途半端な体勢だったことが災いして押し倒された。
のしかかってくる獣の影を睨み、剣を突き上げる。
間に合うか。
剣が届くかどうかという瞬間、ふいに狼の影が消えた。突き上げたグラディウスは空を切っていた。慌てて立ち上がると、矢を受けた狼はのたうち回りながら逃げていくところだった。
「リア!陣形っ!」腹立ち紛れに叫ぶ。
「ごめんって。」
周囲に残っている狼たちも、次々と矢を受け逃げていくのが見える。
どうやら助かったようだが、誰だ?