僕は君のもの
「あなたの事なんか大嫌い。もう顔も見たくないから婚約を破棄して」
オリヴィエはハロルドにそう告げた。彼女はまるで害虫を見るような心底嫌そうな顔をこちらに向けていた。
「君がそう望むのなら」
「ええ。あなたからのプレゼントも全部処分するわ。だってもう要らないもの」
「そうか。それは悲しいけど君に贈れた事が僕には嬉しかったよ。たくさん悩んで選んだんだ。それじゃあ、もう行くね。何かあればいつでも言ってね。たとえ婚約者じゃ無くなったとしても僕はずっと君の味方だよ」
「ふうん、そう。でももう二度と会うことも無いでしょうね。さようなら、お元気で」
「うん。さよなら、本当に君の事を愛していたよ」
去っていく後ろ姿を見てオリヴィエはこれで良かったんだと思い込んだ。自分の家が没落寸前でハロルドの為にならないと分かった日からずっと婚約を破棄しようと考えていた。もう体裁を保てないくらいこの家にはお金が無かった。
オリヴィエはハロルドからプレゼントされたドレスと装飾品を質屋に売った。でも、彼から貰った手紙は全て取っておく事にした。10年分の手紙はかなりの量があったが手紙はお金にならないからと自分に言い訳をして引き出しに仕舞った。
プレゼントを売って作ったお金も膨大な借金の前には焼け石に水でついに食うものに困るようになってきた。すっかり萎れて萎びてしまった父親、気が付くといなくなっていた母親。お腹が空いたと泣くまだ幼い妹。屋敷が売れればまだ生活が出来るだろうに悲しいくらいに買い手がつかなかった。
オリヴィエに売れるものなんてもう殆ど無かった。だから、彼が好きだと言ってくれた長い黒髪を理髪店で売った。鬘にする為に根本から不恰好に短く切られた髪がとても惨めだった。安っぽい帽子でその頭を隠してから野菜と卵、それにパンを入れた紙袋を抱えてオリヴィエは家に帰って来た。その姿を見て父と妹は泣いた。2人は彼女がその髪をとても大切にしていた事を知っていたからだ。
「おねえさま…。ごめんなさい」
「良いのよ。軽くて動きやすくなったわ。却って働くのに丁度良かったわよ」
「オリヴィエ、済まない。私が情けない父親なばかりに苦労をかけて」
「大丈夫よお父様。これからもっと頑張って働くわ。きっと生きていれば何とかなる。だからそんな苦しそうな顔をしないで」
オリヴィエは夜空を見上げて彼の事を思った。榛色の髪、淡い緑色の瞳。最後に見た時の彼はとても悲しそうな顔をしていた。いつもの癖で髪に触れようとしてからずっと共にあったそれが無くなっていたことに気付いた。彼の為に毎日香油を付けて梳った。彼が好きだと言ってくれたからずっと伸ばしていたし、自分でもその長い黒髪が気に入っていた。
今もまだ、彼の事を愛していた。政略結婚だったけれど一緒にいて穏やかな彼の事をすぐ好きになった。そして、いつの間にか愛するようになっていた。でも、今の自分じゃ彼に何もあげられない。何のメリットも無い結婚を彼の両親は認めないだろう。優しい彼から婚約破棄を言い渡されるよりは自分から告げた方がまだましだと思っていたけれど、それでも胸は痛んだ。
オリヴィエは家族には黙っていたが明日には遠くの街へ出稼ぎに行く。とても口に出せないような仕事だが彼女にはもう選り好みする事も出来なかった。家族の為にはそうするしか無かった。
次の日、女衒が待つ馬車乗り場まで彼女が歩いていくとその姿は無く、代わりに先日別れを告げたばかりの元婚約者が立っていた。
「やあ、オリヴィエ。ここにいた彼には帰って貰ったよ。とても聞き分けの良い人だった」
そんな筈は無い。かなり荒っぽい強引な男だ。きっとハロルドが金を握らせるか何かして追い払ったのだろう。
「ハロルド、わたしは彼に仕事を斡旋して貰う予定だったのに一体どうしてくれるの?」
「君は、それがどういう仕事か分かっているのかい?」
普段穏やかなハロルドの冷ややかな目に彼女は驚いた。やはり元婚約者が身体を売るなんていうのは彼には耐えられないのだろう。
「分かっているわ。春を鬻ぐのよ」
「君はいくらで君を売るんだい?」
「半月で80万。普通の仕事じゃ稼げない額よ」
「ねぇ、そんな端金で君の価値を下げないで。お願いだから僕の側にいてくれないか?援助ならいくらでもするから。僕は言ったよね、いつでも頼って欲しいって」
「あら、それってお妾さんってことかしら?良いわよ。どうせする事は変わらないもの。あなたの好きにして。でもさっきの額よりは多く手当を頂戴ね」
「分かった。君の望む通りにするよ」
ハロルドはとても悲しそうな顔をしてからそっとオリヴィエの手を取った。
ハロルドは本邸では無くオリヴィエの為に森の奥の小さな家を購入した。必要なものは全て揃っていて、そこは2人で住むには充分すぎる広さだった。
「オリヴィエ、君はこの家から一歩も出てはいけないよ。家の中なら何をしても良い。欲しいものがあれば何でも用意するから言ってね」
「欲しいものなんて無いわ。これは契約なんだからわたしはこの家から一歩も出ないわ」
「そうか…、僕は暫くはこの家で寝泊まりは出来ないけど落ち着いたら毎日2人で過ごそう。ここは街から離れてるから星が良く見えるよ。また明日来るから今日はおやすみ」
ハロルドはそう言うとオリヴィエの額にキスを落とした。彼は名残惜しそうに振り向いてから帰って行った。オリヴィエは今日からこの家で1人きりの夜を過ごすのかと考えた。勿論生まれてこの方1人暮らしなんてした事が無いのでこんなに心細くなるなんて思ってもみなかった。父と妹はどうしているだろうか。せめて置き手紙くらいして来れば良かったと後悔した。
次の日、たくさんの食材と何枚かの質の良い服を持ってハロルドはやって来た。そして、彼女の頬にキスをして、おはようと言って微笑んだ。
彼は手際良く朝食の準備をして甲斐甲斐しく彼女にそれを手ずから食べさせた。そんな扱いを受けるのが久しぶりで少し悲しくなった。ハロルドはお茶をする時に良くこういう風にお菓子なんかを食べさせてくれた。少し前まで食べるものにも困っていたのに今はこんな風にハロルドにどろどろに甘やかされている。この家から出るつもりは無いけれど果たしてこのままで良いのかは今の彼女には判断できなかった。
本邸に連れて行かれなかったのは多分、何らかの事情があるのだろう。婚約破棄した相手を滞在させるのは外聞が悪い。誰も訪れないようなこの家でわたしは一生飼われるのかも知れない。ハロルドは優しい、自分が知る限り1番優しい人だった。だからこそ長年一緒に過ごしたわたしの事を手離せないんだろう。
「ねえ、ハロルド。わたしはここで何をすれば良い?」
「この家の中でなら君の思う通りに過ごしてくれて構わないよ」
「衣食住の世話をされてお金まで貰ってるんだから何でも良いから役目を頂戴。お願いよ」
「そうか。それじゃあ君から口づけをして欲しいって言ったらどうする?」
予想外のお願いにオリヴィエは困惑した。お金で買われている以上、もっと酷いことも想像していた。それこそ女衒に連れられて行った先でさせられるような事を求められても仕方ないと思っていた。
でも、実際に彼が求めたのはとてもささやかな願いだった。そういえば恥ずかしいからと自分からキスをした事は無かった。そもそもハロルドに対してオリヴィエは好意をはっきりと示した事が無く、それで彼はこんな態度を取っているのだと気付いた。
オリヴィエは心を落ち着かせてからハロルドの頭に手を伸ばして引き寄せ、キスをした。今まで何度もしてきた行為なのに自分からするというだけでどうしようもないほど羞恥を感じた。きっと今、顔だけじゃ無く耳まで赤くなっているだろう。
ハロルドの顔を見ると彼は蕩けるような笑顔でオリヴィエを見ていた。まるで、彼がまだ彼女の事を愛していると錯覚してしまいそうな表情だった。
「ごめんね、オリヴィエ。暫く家の事でバタバタするからここに来られない。食料や日用品は使用人に届けさせるから安心して欲しい」
「分かったわ。この家から一歩も出ないであなたを待っているわ。これで安心かしら?」
「ああ、僕のことを信じて待っていて」
それから暫くしてハロルドがオリヴィエの事を迎えに来た。久しぶりに会う彼は目の下に濃い隈を作りかなり疲れているようだったけれどオリヴィエを見るととても嬉しそうに微笑んでから彼女を抱きしめた。
「オリヴィエ、これから本邸に行こう。君の部屋も整えてあるよ」
「えっ?だって本邸にはあなたのご家族がいるんじゃないの?」
「実は両親と兄はとても残念なんだけど馬車が事故にあって全員亡くなってしまったんだ。葬儀や相続で手間取ってね。迎えに来るのが遅くなってしまってごめんね」
そう言ったハロルドの口角は上がっていて全然残念そうには見えなかった。オリヴィエは初めて彼の事が怖いと感じた。
「君の家の借金は全て返したけど家の維持までは難しいからこの家を君のご家族にあげるね。大丈夫。設備は整っているし生活費も援助するよ」
彼は三日月のような目で笑っていたけれど何を考えているのか全く読み取れなかった。
久しぶりに訪れた本邸では使用人たちが慌ただしく働いていた。オリヴィエはメイド長に部屋へと案内された。この部屋は屋敷の女主人が使う部屋で、前は彼の母が使っていた場所だった。薄い緑と榛色で統一された家具は誰のことを表しているのか一目瞭然だった。
とても立派なベッドに腰掛けるとふわふわの掛け布団が心地良かった。クローゼットには様々な種類のドレスが掛けられており、それらは全てオリヴィエのサイズにぴったりだった。
ハロルドは本邸に戻ってからも毎晩オリヴィエに口づけを強請った。彼女は羞恥を感じながらもその行為を受け入れ、心待ちにするようになった。ハロルドはきっとわたしの事をまだ愛している。彼の言動や行動で同情ではない事が分かった。いや、分からさせられた。それでもいつまでたっても寝室には呼ばれなかった。いつでもそうなる覚悟は出来ているのにと彼女は焦れた。
彼はオリヴィエにどの部屋に入っても良いよと全ての部屋の鍵を渡していたので暇になったオリヴィエはハロルドがいない間にこっそりと彼の部屋に入った。屋敷の主人としては質実剛健な部屋だったが机の上に細い鼈甲の櫛を見つけて不審に思った。今の自分の髪の長さでは櫛など必要ない。しかし、明らかに女性向けの櫛が誰のものなのかとても気になった。
毎晩口づけを強請る癖にハロルドは決して彼女を寝室には呼ばなかった。とても愛おしそうに見つめるのに誰かの櫛を私室に置いている。そして、わたしの事を側に置くために多分彼は家族を殺した。
目の前の男が何を考えているのかオリヴィエには分からなかった。とても優しく、愛されているはずなのに恐ろしい。彼の秘密を知りたいけれど知ったらどうなってしまうのか考えることが怖かった。
今朝、今日は帰りが遅くなるから先に寝ていてと言われたので本を切りが良いところまで読んでから布団に入ったがなかなか眠気が訪れず何か飲み物を貰うために調理場へ向かった。作り置きのお茶があった為それをコップに移して自室に戻ろうとするとハロルドが地下室へ降りていく所を見つけた。彼を追いかけようかと迷ったがそこで何か決定的なものを見るのが怖くてそっと来た道を戻った。
地下室には1度も入った事が無かった。鍵は持っているけれどじめじめと薄暗い気がして積極的に行こうとは思えなかった。しかし、ハロルドがそこで何をしているのかがとても気になった。
オリヴィエは地下室に何があるのか気になるけれど訪れる勇気も無く日々を過ごしていた。毎晩ハロルドに口づけをするけれどそれ以上は無く別々の部屋で寝る。寂しいと思うけど結婚しているわけでも無いのだから当たり前なのだろう。そもそも婚約破棄したのに口づけを強請るのもどうなのかとオリヴィエは思った。
また夜中にふと目が覚めて喉の渇きを覚えたため調理場でお茶を飲んだ。誰でも飲めるようにいつも沸かしていてくれるのはありがたいなと思う。自室に置いておけば良いのだが気分転換に歩きたくなるので彼女はそれはしなかった。
人のいる気配を感じてそちらを向くとハロルドがあの櫛を手に地下室へ降りていくのが見えた。やはり地下には人がいてその人物の為に櫛を使っているのかと考えて胸が苦しくなった。わたしにはもう必要のない櫛。自分で選んだ事とはいえ短すぎる髪の毛が恨めしかった。
オリヴィエは思い詰めていた。日々何もせず邸で過ごす事にも、地下室にいる誰かにも、口づけを強請るくせに夜を共にしないハロルドに対しても苛々して正気でいられない、と思った。
一生こんな風に過ごしていかなければいけないのかと考えると発狂してしまいそうだった。彼女は日に日に自分自身によって追い詰められていった。食欲も湧かず、夜も寝付けず何度も目を覚ました。
つい地下室に行く彼を探してしまう。わたしは彼の事を愛しているはずなのに、どうしてこんなにすれ違ってしまったんだろう。分かっている、勝手に婚約を破棄して春を鬻ごうとした事に彼はきっとまだ怒っている。この状況は完全に自業自得なのにハロルドを責めてしまう自分が嫌になった。きつい言葉を投げかける癖に毎晩キスをして、全ての鍵を持っているのに地下室へ確認しに行かない臆病な自分をいっそ殺してしまいたかった。
オリヴィエは完全に自縄自縛に陥っていた。この頃は家族の事を考える事も減った。どんどん窶れて行くオリヴィエを見てハロルドの顔が曇った。ハロルドはどうにかして彼女に元気になって欲しかったが何をしても逆効果できつい言葉で罵られる事もあった。
「オリヴィエ、君を愛しているからこそ君に幸せであって欲しい。君がこの邸にいる事がが辛いのなら他の方法も考える。だからどうか君の思いを聞かせて欲しい」
「ねぇ、どうしてそんな事言うの?わたしの想いなんてあなたには分かっているんじゃないの?もう、限界なの。毎日夜を待つだけの生活も何もできない自分も大嫌い。もう嫌なの、嫌…」
オリヴィエはしゃくりをあげて泣いた。子どものように彼にしがみつくとそっと頭を撫でられた。
「ごめんよオリヴィエ。僕が君の事を追い詰めていたんだね。今日はもうお休み。明日時間を作るから話し合おう」
「もう、待てないわ」
オリヴィエはハロルドを自室に引き込むとベッドに押し倒した。そのまま深い口づけを落とした。自らの夜着を脱いでハロルドの服に手をかけた。その手を彼は優しく引き剥がした。
「オリヴィエ、僕はお金で君を買った訳じゃないんだ。もちろん君の事を愛しているけれど今の状況で君を抱くのはさらに君を追い詰めるだけだと思う。暫くは夜の口づけもしなくて良い。ただ、側にいてくれるだけで良いんだ」
「ねえ、ハロルド。わたしはあなたのお人形じゃないわ。そんな風に言われるくらいならもう死んだ方がましよ」
オリヴィエは裸足のまま庭へと駆けて行った。ハロルドはその場に縫い留められたように彼女の事を追いかける事ができなかった。
何も持たずに衝動のままに邸を出て来てしまったけれど靴も履いていないから砂利が当たって痛い。
このまま歩いてどこかに行くのはどう考えても現実的では無かった。まだ夜は肌寒い季節で貧乏生活をしていたとは言え野宿経験のないオリヴィエは邸に戻るしか無かった。何も出来ずに結局ハロルドに寄生する事しか出来無い自分が心底嫌になった。
邸に戻って来たオリヴィエをハロルドは強く抱きしめた。その身体が温かくて、思わず涙が出た。
「オリヴィエ、すまない。僕は君の事を幸せにしたいだけなんだ。愛している。だから後少しだけ時間が欲しい」
「わたしはもうどうすれば良いか分からないの。今晩、何もしなくて良いから隣で寝て欲しい」
「君がそう望むのなら」
オリヴィエはその晩、初めてハロルドの寝室に入った。広いベッドの真ん中で抱き合って眠った。ハロルドの身体がとても温かくて久しぶりに夢も見ないくらい深い眠りについた。
翌朝目が覚めるとハロルドはもうそこには居なかった。ハロルドがいた場所はまだ温かかったが置いていかれたのかと思うと悲しくなった。そんな事を考えていると扉が開いてハロルドがコーヒーを手に入って来た。メイドに頼まず彼が自ら持って来てくれた事が森の家で暮らしていた時の思い出させた。
「ありがとう。あなたが淹れてくれたの?」
「ああ、オリヴィエが好きな豆を使ったよ」
ひとくち飲むと芳しい香りと程よい苦味で頭がすっきりと冴えて来た。昨日はあんな風に癇癪を起こして一緒に寝て欲しいと強請れば抱きしめたまま眠ってくれて、寝起きにはこちらの好みに合わせたコーヒーまで淹れてくれる。
こんなにも大切にされているのに足りないと思ってしまう。あの櫛の事さえなければもっと穏やかに彼の事を愛せるのにと恨めしく思った。
ハロルドは執務室でため息を吐いた。オリヴィエに対して自分はどうするべきなのか。日々追い詰められて弱っていく彼女を見るのは辛かった。初めは簡単に自分を切り捨てた彼女には少しは後悔して欲しいという気持ちもあった。それでも、あんな風に窶れたオリヴィエを見ると胸が痛んだ。
10年前、ハロルドが初めて彼女に会った時、目の前に現れた少女の事をまるで絵本の中の夜の女王様みたいだと思った。漆黒の長い髪に意思の強そうな金色の瞳、今まで見た誰よりも美しい女の子だった。
「こんにちは。ハロルド様。わたくしはオリヴィエと申します。これから仲良くしていただけると嬉しいですわ」
その金色の瞳に真っ直ぐに見つめられて、彼はすぐに恋に落ちた。彼女と過ごす時間は何よりも甘美で、彼女の為なら何でもしようと彼は心に決めた。口下手な彼が吃ってもオリヴィエは馬鹿にしたり詰ったりせず次から次へと面白い話をしてくれた。
その声も瞳もくちびるも指も髪も全てが愛おしかった。特に漆黒の長く美しい髪を彼は愛した。その髪を飾る宝石に艶を出す為の香油、繊細な櫛などを数え切れないほどのプレゼントを贈った。彼女も彼の気持ちを汲んで髪を伸ばし続けてくれた。手入れが大変だとぼやいていたけれど彼の為に髪を伸ばし続けてくれる彼女の気持ちが嬉しかった。彼女の髪の長さは2人の過ごした年月の徴でもあった。
彼女の家が傾き始めているという噂を聞いた時、父は婚約を解消した方が良いのではないかと言った。お前は頭も顔も良いのだからもっと良い縁談があるはずだ、と言う父の顔を真っ直ぐ見る事が出来なかった。
彼は次男なのでどんなに優秀でもどこかに婿に行くのが順当だった。それならば落ちぶれかけているオリヴィエの家よりも他を選べと言うのは至極貴族的な考えだった。
オリヴィエを他の男なんかと結婚させたく無い。彼にとってオリヴィエは最早信仰の対象に近かった。
彼女を愛しているけれど自分なんかが汚してはいけない、そういう存在だった。彼女に触れるときはいつも緊張した。
でも、そう見せないように表情を作る努力を彼は重ねた。
初めて我慢できずに初めて口づけをした日、目を閉じた彼女の震える長い睫毛に欲情した。いけないと思うのに求めてしまう浅ましい自分がとても嫌になった。
それでも我慢できずに彼女からのキスを強請った。なのに彼女から愛を請われた時、それを無碍に断ってしまった。いっそこのまま壊してしまおうかとも考えたがそうするにはあまりにも自分にとって彼女は神聖だった。そんな事をしなくても折れそうなくらい薄くなってしまった彼女の身体と心に負担をかける事をしたくなかった。
オリヴィエはハロルドともう一度向き合いたかった。今はとても対等とは呼べない関係だけれど、それでもハロルドの隣にいたいと思った。自暴自棄で全てを捨てようとした日、彼にまた救われた。家族のために全てを抛って尽くせば彼の事を諦められると思っていたけど、それは間違いだった。
オリヴィエはハロルドの事を恩人だと思っている。彼女は美しく生まれて育ったけれど心ない人たちからは見た目だけの空っぽな娘だと良く揶揄われた。慣れているしそんな事で傷付いてたまるかと幼い頃の彼女は思っていた。
お腹の大きくなってきた母はオリヴィエの事を構ってくれないし父も仕事が忙しいらしくいつも彼女が寝た後に帰宅していた。オリヴィエは孤独だった。誤解されやすい美貌と意地っ張りな性格のせいで同世代の友達なんて1人もいなかったのだ。
ある日、父の知り合いの令息との縁談が持ちかけられた。まだ早すぎるんじゃないかとも少しだけ思ったけれど、婚約者ならわたしと仲良くしてくれるんじゃないかという期待もあった。
結婚する相手ならきっとわたしを1番大切にしてくれる。話だってきっと聞いてくれる。
そう考えるとオリヴィエは彼に会うのがとても楽しみになった。
待ち合わせ場所に着くと、そこにはとても緊張した顔の男の子がいた。彼は榛色のふわふわとした巻毛に薄い緑色の瞳をしていた。淡い色彩と大人しくて少しオドオドしている彼は自分とは正反対だなとオリヴィエは思った。
オリヴィエがする取り止めのない話をハロルドはとても楽しそうに聞いていた。その表情を見て、彼女はこの子とならきっと上手くやっていける確信した。
2人で何度もお茶をした。ハロルドはナッツの入ったクッキー、オリヴィエはヌガーの入ったチョコレートを毎回好んで食べた。そのうち、ハロルドがオリヴィエにお菓子を食べさせるようになった。甲斐甲斐しく世話をされる事が嬉しくて彼女はそうされるのが好きだった。
街に出かけて本を買って読んだり、庭でかくれんぼをしてから昼寝をして変な日焼けが出来たりとても幸せな日々を過ごした。
ハロルドの気弱で吃ってしまう所が父には気に入らないらしく良く怒鳴られ、兄は両親に隠れてこっそりと彼を殴った。両親から放置され気味で友達がいないオリヴィエと家に居場所が無いハロルドは破れ鍋に綴じ蓋だった。
平均より少し小さかったハロルドもいつの間にかオリヴィエより大きくなりついには彼女を見下ろすようになった。成長するにつれて細かった身体には筋肉も付き、顔つきも変わっていった。
頼りなかった男の子は美しい男性になった。オリヴィエに対してはいつも笑顔で優しい彼だったが他の人には一線を引いていて素っ気なかった。でも、そういう所もオリヴィエは好きだった。
ハロルドとオリヴィエが成長していくにつれいつの間にか彼女の悪口を言う人はいなくなった。遠くに引っ越したり隠居したりが頻発したため当時は不思議に思ったがあれはきっと彼の仕業だったのだろう。
オリヴィエは悩み抜いて、決断した。次にハロルドを見かけたら地下室に行こうと。
その日の夜遅く、ハロルドがあの櫛を手に地下室に降りていくのを見てオリヴィエは音を立てないように追いかけた。この先に何が隠されているのか知る事が怖かったけれど勇気を出して彼の後をつけた。
薄暗い地下室に降りていくと肌寒くてオリヴィエは腕をさすった。足音を立てないように慎重に階段を降りるとぼんやりとした明かりの先に彼の後ろ姿が見えた。
ハロルドは長い黒髪を梳っていた。良く見るとその部屋中にオリヴィエが処分したはずのプレゼントが大量に保管されていた。宝石にドレス、万年筆に懐中時計など全て見覚えのある品々だった。
ハロルドが梳っているのは確かに理髪店で売ったはずの自分の黒髪だった。こんな長さの黒髪は滅多に出ないと店主が言っていたからきっと間違いないはずだ。ハロルドはうっとりとした表情でその髪を梳かしていた。
「ハロルド、その髪は…」
「こんばんは。オリヴィエ。これはね、君の髪だよ。毎晩この部屋に来る度に君がついて来てくれないかってずっと願っていたんだ。僕は君の意思でこの部屋に訪れて欲しかった。君が思い詰めているのも知っていたけど自分からここに連れてくる勇気がどうしても出なかったんだ。だから、来てくれてありがとう」
どう考えても目の前の男は正気じゃなかった。ハロルドの執着がこんなにも強いという事を今更思い知らされた。オリヴィエはこの状況に頭が追いつかなかった。
「君に贈ったものはすごく悩んで選んだものが多かったから全部買い戻したよ。君にまた贈ろうと思ったんだ。髪だって、ほら」
そう言ってハロルドは優しい手つきでオリヴィエに鬘を被せた。
「元通りだ。君は何も失ってなんかいない」
オリヴィエはもう声も出なかった。ハロルドは長い黒髪に口づけをしてからオリヴィエを抱きしめた。
「初めて君に会った時から僕はずっと君のものだよ。だからこれから先も君の側にいさせてね。もう僕のことを置いていかないで」
ハロルドは透明のケースに保管されていた万年筆を取り出してオリヴィエに持たせた。それも数年前に彼からプレゼントされた物だった。
そして、後ろの棚に入っていた紙をテーブルの上に置いて後ろからそっとオリヴィエの手を取った。そこには婚姻届と書かれており、片方の名前の欄だけ空白だった。
「ごめんね、オリヴィエ。たくさん考えたけどやっぱり僕は君の事を手離せない。ごめんね。お願いだからここに名前を書いてくれないかな?」
オリヴィエは優しく手を重ねてきた男に眩暈がした。何て支離滅裂で我儘な男なんだろう。ずっと優しかった筈なのにどこで掛け違ってしまったんだろう。
そう思うと同時に彼女はこの結末に安堵していた。そして手の中にある使い慣れた万年筆で空欄に署名をした。
もう、これから先はハロルドの事だけ考えて生きていけば良い。そう考えてからその目を閉じ、あいしてると小さく呟いた。
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