第5話「影」
気づいたら、俺は暗闇の中にいた。
何も見えない、何も聞こえない、何も感じない。
かろうじてあるのは、意識だけ、他には何もなくただただ真っ暗な黒が広がっているだけだ。
……まず俺に襲いかかって来たのは、圧倒的な恐怖だった。
……何もない、ということが、これほどまでに恐怖心を煽るものだとは思ってもいなかった。
数秒の間、俺は恐怖に精神を支配され、何も考えられなくなっていた。
今はなんとか落ち着きを取り戻してはいるが、まだ頭がうまく回らない。
……確か、俺は紅葉と一緒に、影とやらがいる電柱の方へ向かっていった。うん、ここまでの記憶は確かだ。
問題は、そこで何があったかなんだが……。
急に視界が真っ黒に染まった事しか覚えてない。いや、むしろそれが正解の可能性が高い。
たった一瞬で、俺は黒い何かに飲み込まれた。
本当に信じられない事だが、その《影》は、実在したのか……。
ということは、俺、もしかして、影に喰われたとかそんな感じか⁈人間に害をなす存在ならば、それも充分にあり得る……。
急激に背筋が凍っていくのがわかる。もしかしてもしかしなくても、俺って今、ヤバいんじゃね?と頭の中で警告音が鳴る。
だが、状況が最悪だと認識したところで、俺には何もなすすべはない、ただただ、圧倒的な恐怖が、俺をまた支配し始める……
と、思った瞬間、視界の暗闇が、風船のように破裂した。真っ黒な世界から、ありとあらゆる色が存在する世界へと引き戻される。
「…おっと…。」
俺はいきなり変わった景色に目が慣れず、目眩で少しよろける。
「…っと、大丈夫だった⁈急に影が楽斗さんを呑み込むからびっくりして……ケガはない⁈なんか精神をやられたとか、ない⁈」
紅葉はかなり焦った様子で、俺の全身をくまなくチェックしながら言う。その手には、なんだか妙にでかい弓みたいなものが握られていた。
「大丈夫……だな、身体には何の異常もない。で、さっきのはなんだったんだ?」
俺は自身の無事を伝えつつ、この謎に満ちた現象について尋ねる。
「あれは影の捕食行動だよ。あのまま放置されると、人はやがて意識を刈り取られ、そのまま死んでいく。今回は本当に迂闊だった、というか楽斗さんが影の捕食対象なのすっかり忘れてたよ。ごめんなさい。」
紅葉は目を逸らし気味に俺に謝罪する。結果的に助かっているからそれはいいんだが、あの恐怖、あんな時間は二度と御免だ。果てしなく続く真っ暗闇とか、どんな夜道よりも怖い。
「まあ、次がなきゃいいよ、影ってやつがマジで実在することも見に染みてわかったからな。」
「…そっか、ありがとう。楽斗さんは優しいんだね。」
「優しいって…こんな程度の事いつまでも引きずったって意味ないだろ?」
そう言って俺に背を向けてスタスタと歩き出した紅葉に、俺はなんだか少し、悲しそうな表情が見えた気がした。
「それが当然だなんて、やっぱり楽斗さんは幸せなんだね。ふーん、たまにはあの詐欺師もいい選択をするんだねー。」
俺にギリギリ聞こえるくらいの声で、紅葉は小さく呟いた。
「…何のことだ?、紅葉。」
俺にはその台詞の半分以上が理解できず、思わずそう聞き返す。
「あっ…気にしないで、ただの独り言だから。それより今日はもう一体くらい狩りたいんだよねー。まだ時間はあるし、早く行こっ。」
振り向いた紅葉は、早口でそうまくし立て、少し走って俺から距離をとった後、もう一度振り向いて手を振った。早く来てってことだろう。さっきの話題は、あまり触れられたくないものだったたのだろうか。
…だとしたら悪いことしたな…。と、すっかり暗くなった街の中、街灯の光に照らされて歩く紅葉に、俺はそう思った




