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空見つの国  作者: かざみや
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 第六章 還矢(かえしや)

 槌音を響かせて建築が進められる「杵築の宮」の背後にそびえる山の麓には、志貴彦が仮住まいしている邑があった。

 山の斜面に作られたその邑は本当に小さく、竪穴の住居と高床の倉が、併せてもわずかに五、六件しかない。仮初にも「出雲王」である者が住まうにはあまりにも寂しい場所であるような気がしたが、等の志貴彦はというと、

『この方が落ち着くよ。僕、ずっとここにいたいなあ』

と、意外にもこの邑の閑寂とした風情を気に入っている様子だった。

 御諸の助けによって高千穂から脱出した志貴彦たちは、全員でこの邑へやってきた。しかし、元々放心していた邇邇芸は、移動の衝撃を受けて、とうとう昏睡状態に陥ってしまった。

 そこで志貴彦は、とりあえず邇邇芸を、高床の倉の中に運び込むことにした。地面の上に直接立てられた住居よりも、倉の方が床下を風が通り抜けるので、幾分は涼

しいだろう、という心づかいだ。


 志貴彦は邇邇芸の身体を担いで倉に上がると、その中に筵をしいて彼の身体をそっと横たえた。

「……この人が、邇芸速日の弟なんだってさ。やっぱり、少し似てるねえ」

 枕元に座った志貴彦は、邇邇芸の青白い顔を興味深げに覗き込んだ。意識を失った邇邇芸は、時折か細い声でうわ言を呟いている。傍目から見ても苦しそうだった。

「……この人、このまま死んじゃうの?」

 志貴彦は、自分の膝の上にのせた少彦名に向かって尋ねた。

「死にはせぬ。今は、命を支えていた『復若』を失った反動が身体にこたえているだけじゃ。……いずれ、落ち着いて目を覚ますじゃろう」

 ぶらぶらと両足を投げ出して座ったまま、少彦名は邇邇芸を見下ろして答えた。

「『復若』を失うって、そんな大変なことなの?」

「うむ。天津の神族にとって、それは時として死よりも恐ろしい。こ奴は、生まれてから一度も、己が有限の存在になる事など想像してみた事はなかったじゃろう。まったく未知の領分に、たった一人で投げ出されたのじゃ。……気の毒にのう」

 言いながら、少彦名は恐ろしそうに体を震わせた。

「……でも、永遠の存在じゃなくなったっていうことは、年取って、子供を残して、死んでいくって事だろう? それって、豊葦原の生き物なら、みんな当たり前のことなんだけどなあ」

 志貴彦は、釈然としない様子で首を捻った。

 この地上に、変わらぬ物など何もない。全て、始まりと繁栄と衰退があって、命は公平に交代していく。それこそが、あらゆる者に当分に与えられた運命だ。

「確かに、地上は生命の循環する世界じゃ。……じゃが、高天原は不変を至上の命題とする。……やつらは、変化するように生まれついてはおらぬのよ」

「ふうん」

 よくはわからなかったが、志貴彦はなんとなく適当に頷いた。

 だがそれならば、『天津』と『国津』は根源から異なった世界だ。そこには、それぞれ違うものを見て、違う考えを持った者達が存在している。その両者が分かりあおうとするのは、多分相当に難しい事なのではないだろうか。


「……しかし、邇芸速日と天之稚彦を二人だけにしてしまって、本当によかったのか?」

 二人はしばらく黙って眠る邇邇芸を見守っていたが、やがて少彦名が心配そうに志貴彦に尋ねた。

「だって、とりあえず、あの二人で話し合ってもらわないと、どうにもならないじゃないか」

「しかし、あ奴らの望むことは、真向から対立しておるのじゃぞ」

 少彦名は気がかりな様子で志貴彦を見上げた。

 天之稚彦の目的は、邇芸速日を高天原に連れ帰って裁きにかけることだ。しかし、邇芸速日はできる限りそれを逃れたいだろう。二人の意見が一致をみるとは到底思

えなかった。

「--大丈夫じゃない? 二人とも、いきなり戦いを始めるって柄でもないだろ」

 志貴彦は屈託のない表情で、呑気そうに呟いた。

「そうかのう? ひとは追いつめられると何をしでかすかわからぬぞ。特に、天之稚彦はかっとなると好戦的になる男のようじゃし」

「……ああ、確かにそうかも」

 志貴彦は、旅の途中の稚彦の突飛な言動を思い出して、可笑しそうに笑いをこぼした。

「お主はどちらの味方なのじゃ」

「僕? ……僕は、別にどっちでもないかなあ。邇芸速日が天に帰るっていうなら、それでいいし。ここにずっといたいっていうなら、いればいいし。やりたいようにすればいいんだ。それが一番だよ」

 鷹揚に構える志貴彦の姿を見て、深刻な表情だった少彦名は、思わず微苦笑を浮かべた。

「……確かに、それが一番じゃ。誰しも、そのように生きることが出来れば、苦しみなどとは無縁でいられるのじゃがな。……しかし、物事はそう簡単にはいかぬのが常でのう……」



※※※※



 あまり大きくない竪穴の住居の中で、二人の天津神はにらみ合って対峙していた。

「……オレは、絶対に戻らないからな」

 邇芸速日は腕を組んで、不貞腐れたように天之稚彦から顔を背けた。

「戻るとしたって、別の形でだ。なんで、お前みたいな下級神の手で捕えられて、反逆者として連れ帰られなきゃならないんだ。絶対に御免だ」

 邇芸速日は、尊大な態度で言い捨てた。

 頂点に近い神格に生まれついた彼は、高天原にいる間、大抵の下格の神に対して、いつもこのような傲岸な態度をとっていた。

 地上に堕ちて予想もつかぬ数々の困難に遭遇しているうちに、彼の挙動は段々卑屈な方へとねじ曲がっていってしまったが、稚彦のような同胞を前にすると、つい昔の癖が出てしまうのだ。

「……へえ。お前、自分の立場ってものがぜんっぜん分かってないのな」

 稚彦は邇芸速日に侮蔑の視線を返しながら、挑むように言った。

「お前はもう、特権階級でもなんでもない、最下層の『叛神』なんだよ!」

 稚彦は、自分より背の低い邇芸速日を見下しながら、彼を打ちのめすように叫んだ。

(もう少しは、気骨のある奴かと思ってたが……結局、ただのどうしようもないだだった子じゃねえか)

 稚彦は、苛々と歯噛みした。

 こうして相対した『邇芸速日』という神は、稚彦の予想をものの見事に裏切る男だった。

 邇芸速日を探し求める間、稚彦は自分なりに彼が帰ってこない理由を推測していた。

 邇芸速日は、高天原のあり方に疑問を抱いたのだろうか、とか。或いは、地上に何か魅力を感じたのだろうか、とか。

 しかし、捕まえた邇芸速日と言葉を交わす内、稚彦のそんな幻想は吹っ飛んだ。邇芸速日には、そんな高邁な考えなどまるでなかったのだ。彼は、ただの日和見な逃亡者にすぎなかった。


「とにかく、俺はお前を連れていくからな。そうじゃなきゃ、俺の役目は終わらない」

 稚彦は、己の予測の甘さと、眼前の男のあまりの不甲斐なさに、屈辱さえ感じながらそう宣告した。

「……だったら、お前もそんな仕事やめればいいじゃないか」

「--お前みたいな奴と俺を一緒にすんな!!」

 邇芸速日が投げやりに呟いた一言は、稚彦をますます激昂させた。

 稚彦は突如、背に負っていた金の弓矢を外す。そして弦に矢をつがえると、邇芸速日の顔に狙いを定めた。

「い、いきなり、何をするつもりだ……!」

 稚彦の行動に驚いた邇芸速日は、狼狽して、ぺたんと土間に座り込んだ。

「よーく分かった。お前みたいな根性の腐った奴に、言葉は通じない。逆らうなよ、邇芸速日。逆らったら、動けなくしてから天へ連れていくぞ!!」

「や、やめろ! オレを殺したって、お前に得なことなんて一つもないぞ……!」

 邇芸速日は、悲鳴を上げながら頭を抱えた。

 そんな邇芸速日の情けない姿は、稚彦の神経を余計に逆なでする。

(……こいつ、本当に二、三本打ち込んでやろうか)

 稚彦が一瞬本気でそう思った時、その場の緊迫した空気を崩すように、開け放した入り口の向こうから、鳥の鳴き声が聞こえてきた。

(……鳥……?)

 不審に思った稚彦は、弓矢を下ろして入り口の方へ視線を投げる。すると、一羽の雄雉が小屋の中に飛び込んできた。


「--伝令ー」

 小柄な雄雉は、入り口の近くに積み上げてあった高坏の上に器用に止まり、ぱかっと嘴を開いた。

「伝令ーー。私は、『名無ななし』。高天原よりの伝令である」

「……伝令だと?」

 稚彦は怪訝そうに、『名無』と名乗った雄雉を見つめた。

「天之稚彦。天之稚彦。汝を豊葦原へ使わせたその故は、地上にいる邇芸速日を捕縛し、高天原へ帰還せしめんがためである。しかし、未だその復奏なき。子細を述べよ。子細を述べよ」

 雄雉は、羽根をばたばた動かしながら一気にそう伝えると、再び黙り込んだ。そうして、返事を待つように、その円らな瞳で稚彦をじっと見上げる。

「伝令--そうか、これが『きじの使い』……」

 稚彦は、雄雉を見返しながら呟いた。

 雉はよく、高貴な神々の間で連絡の為に使われている。

『雉の使い』は、聞いた言葉を正確に記憶し、相手に伝えた後、またその返事を持ち帰るという役目を担っていた。

 稚彦は、実際に『雉の使い』を使ったことはなかった。しかし、これは恐らく、思兼神かその配下の誰かから飛ばされてきた伝令に違いない。

「……みんなせっかちだなあ。俺が地上へ降りてから、まだ一月と経っちゃいないのに……」

 稚彦は額髪を押さえて、呆れた表情を浮かべる。

 しかし、稚彦の前に地上へ行った者で、使命を完全にまっとうできた者はいない。多分高天原も、いろいろと慎重になっているのだろう。

「まあ、しかし、いい頃合だったぜ。ちょうど邇芸速日を捕まえたところだ。もうすぐ戻れるからな……えーっと、待てよ……なんて伝えてもらおうかな……」

 稚彦は目を瞑って、雄雉に伝えてもらうべき、正式な伝言の内容を考えた。

 もしかしたら、天照大御神自身が聞くかも知れない重要な返信だ。やはりそれなりに、格式のある文言を連ねなければならないだろう。


 --だが、その一方で。

 土間の上に座り込んだ邇芸速日は、恐怖に凍りついた視線で、雄雉の姿をずっと見据えていた。

 あの雄雉が、高天原へ天之稚彦の返信を持ち帰れば、邇芸速日の全てはおしまいになる。

 自分がこうして天之稚彦に捕えられたことを天へ伝えられてしまったら……もう、どこにも助かる道はない。

 なんとしても、あの雄雉だけは天へ返すわけにはいかない……どうあっても、絶対に!

(どうすれば……どうすれば、いいんだ!!)

 焦燥にかられながら、邇芸速日は必死に考えた。時間はない。今、やらなければ。なんとかして、天之稚彦を止めさせる方法は……!


「……よし、まとまったぞ。いいか、『名無』。今から言う通りに伝えて……」

「--天之稚彦!」

 稚彦が『名無』に話しかけた時、邇芸速日は大声で背後から彼を呼び止めた。

「--あ?」

 稚彦は、肩越しに振り返る。

 その瞬間、邇芸速日は、己の両眼で稚彦の双眸を捕らえた。そして、言霊に呪力を乗せて唇から送り出す。

虚空そらは照る、国は照る、火の明かりは櫛の如く玉の如く、賑々しきは速き日のあるがままに」

「え……?」

 邇芸速日は、一音一音に力を込めながら、呪言を『ことあげ』ていった。すると、同時に、稚彦の瞳の焦点が揺らぎ始める。

(いちかばちかだ……かかれ、天之稚彦!)

 邇芸速日は、呪術神として己の持ちうる全ての力を尽くして、稚彦の意識を支配下に置こうとした。

 まがりなりにも、相手も天津神だ。成功するとは限らないが……しかし、呪術とは究極のところ、思いの強さの勝負ではないか。ならば、今の自分の「助かりたい」という願い以上に強烈な思いなどあるはずがない。

「--天照国照彦火明櫛玉邇芸速日(あまてるくにてるひこほあかりくしたまにぎはやひ)と並べ」

 邇芸速日がそう命じた途端、稚彦の瞳からすっと瞳孔が消えた。


(かかった……!)

 必死だった邇芸速日の顔に、薄ら笑いが浮かんだ。邇芸速日は勝った。彼が捨て身でかけた呪術は、成功したのだ。

 邇芸速日は指を上げて、高坏の上に止まった雄雉を指さした。虚ろな瞳の稚彦が、こくっと頷く。

 邇芸速日の呪力の支配下に置かれた稚彦は、完全に、彼の命ずるままに動く人形と化していた。

(そうだ……いいぞ……)

 邇芸速日はほくそ笑みながら、意識の中で稚彦に次の行動を命ずる。稚彦は、邇芸速日の思い描いた通り、雄雉を見下ろしてその口を開いた。

「……天之稚彦は、この豊葦原の王となる者である」

 平板な声でそう告げると、稚彦は『名無』に向かって金の迦古弓を構えた。

「地上の国は、天之稚彦のものである」

 続けて言い、稚彦は更に羽々矢を弦につがえる。

「邪魔をするものは許さぬ……たとえ、高天原であろうと!」

 そう叫ぶと、稚彦は『名無』に向かって一気に羽々矢を打ち込んだ。

 放たれた金の矢は、小さな雄雉の胸を軽く貫いた。無力な『名無』は一瞬で絶命し、高坏の上からぽとりと落ちる。

 空中に、雉の羽毛が飛び散った。土間に落ちた『名無』の小さな亡骸の周りに、血だまりが広がっていく。

 雄雉の命を奪った金の矢は、そのまま藁で出来た小屋の屋根を打ち抜いた。

 稚彦は、感情のない瞳で、己の放った金の矢が描く軌跡を見上げる。

 雉を殺し、屋根を射上げた金の羽々矢は、勢いの衰えることのないまま、青い空の彼方へ飛んでいく。

 高く、高く……遠い、高天原まで。



※※※※



 高天原の東端には、主宰神・天照大御神の鎮座する「日ノ宮」がある。

 数ある神々の宮居の中でも、最も豪奢で壮麗な「日ノ宮」では、天照大御神との謁見を望む場合、多くの儀礼と取り次ぎを経なければならなかった。

 ましてや、大御神の私的な場でもある「奥殿」には、通常の神族はまず立ち入ることさえ許されない。

 しかし、その奥殿に何のためらいもなく踏み入る神が、

高天原にただ一柱だけいた。

 造化三神の一柱・高御産巣日である。


 広い板張りの奥殿の中で、天照が一人文机に向かっていると、高御産巣日が突然供も連れずに入ってきた。

「……いつも申し上げていると思うが。先触れもなしに訪ねるのは、やめていただきたい」

 文机に向かったままの天照は、さらさらと動かす筆を止めることもなく、恬淡と告げた。

「……ふむ。考えておこう」

 厳かに答えると、高御産巣日は、板床の上に敷かれた畳座の上に座った。

 背後でカタン、という音が聞こえた為、天照は仕方なく手を止めた。高御産巣日が、持ってきた何かをそこに置いたらしい。

 振り返った天照の目に映ったのは、紫檀で作られた厚い足付きの「盤」だった。

「……大御神、わしと盤雙六ばんすごろくをいたさぬか?」

 高御産巣日は、盤の上に手を置いて天照を誘った。

「……」

 天照は、美しい瞳に怜悧な光を浮かべて高御産巣日を見返す。

「今は、そういう気分ではありませぬ」

「そうか。……では、始めようぞ」

 高御産巣日は、天照の意見など聞く風もなく、一方的に手招きした。

 天照は、その流麗な美貌に一瞬不快な表情を浮かべたが、結局黙って文机の前を離れた。


 『初神』天之御中主の次に世界に出現した高御産巣日は、天照が最も敬意を払わなければならない相手だ。

 天照が今のように高天原を掌握することが出来たのも、彼の力添えあってのことなのだから。そうでなければ、天は天照の二人の妹のうち、どちらかのものになっていたかも知れない。

 妹の一人、須佐之緒すさのおは死者の世界『根の国』の司を拝命して以来、天照に対してずっと恭順を示している。

 しかし、いま一人の妹は、堕天させてからその行方さえわからないままなのだ……。


「それ、そなたが白だ。よいな」

 天照が対座すると、高御産巣日は盤の上に乗せてあった白の駒を、手の甲で天照の側に寄せた。

 造化三神の一柱であり、高御産巣日と対をなす神である神魂かんむすひが高天原への不干渉を表明し、自らの宮に籠もり続けているのに対し、高御産巣日は天照の後見役を自認して、積極的に神々の前に姿を現わしている。

 彼は本来は『独り神』--即ち無性神であったが、しばしば具現を必要とすることから、便宜上壮年の男性の姿を模していた。

「……」

 天照は、気のない態度のまま、己の側に寄せられた白駒を数えた。

 紫檀の盤の上には、十二個ずつ向かい合った、計二十四の長方形の枡目が描かれている。

 この中に、白黒各十五個の駒をそれぞれ並べ、振って出た賽子の目数に合わせて駒を進めていくのだ。そして、全ての枡目に駒を先に移動させたほうが勝ちとなる。

 こんな単純きわまりない遊戯の何が面白いのか、天照にはまるで分からなかった。

 しかし昔、異国からやってきた天日槍神がこの盤上遊戯を伝えて以来、高天原の中で急速に流行した。今では、宴の席には必ず持ち出される。一部では、どうやら賭博の対象にもされているらしい。


「では、わしが先に賽を振るぞ」

 明らかに不機嫌な天照の前で、高御産巣日が賽子を投げた。

 盤の上に落ちた賽子が、カラカラと音をたてながら枡目を転がっていく。

 しかし次の瞬間、盤の上にビシッとひびが広がった。直後、紫檀を突き破った金の矢先が、桝の中央へ飛び出す。

「……」

 天照と高御産巣日は、どちらも無言のまま割れた盤の上に視線を注いだ。

 白と黒の駒はばらばらに床に落ち、賽子は板間の上を転がっていく。

 紫檀の盤には、下から金の矢が逆さまに突き刺さっていた。高御産巣日は、盤を引っ繰り返す。その下には、床下から金の矢が突き上げたと思しき、小さな穴が開いていた。

 高御産巣日は、紫檀の盤から金の矢を引き抜いた。天照はその矢を一瞥し、冷厳とした口調で言った。

「--羽々矢ですな」

「羽々矢……天之稚彦が豊葦原へ行く際、父神から授けられた矢か」

 高御産巣日は厳粛な面持ちで呟くと、すぐに金に光る羽々矢をつぶさに調べてみた。

「……矢に血がついておる」

 高御産巣日は、嫌悪を露にしながら言った。羽々矢には、乾いた血がこびりついていた。そんな不浄の物が、この「日ノ宮」に飛び込んでくるなど、けしてあってはならぬことだった。

「天之稚彦は、国津神と戦ったのだろうか」

「さて……ここからは、わかりませぬな。しかし、彼の真意を顕らかにする方法はある。--高木の神、その羽々矢をこちらへ」

 天照は、高御産巣日の尊称を呼んで、彼に矢を渡すよう促した。高御産巣日は、言われるまま羽々矢を天照に託す。

 金の羽々矢を両手で受け取った天照は、金糸で日の意匠が描かれた、優雅な神御衣の長い裾をひいて立ち上がった。

「……もし天之稚彦が我が詔を違えず、荒ぶるものを射つる矢の至れるならば、当たるでない。しかし、もし天之稚彦にきたなき心あらば、この矢にて災難あれ」

 矢を見つめたまま厳かにのりあげると、天照は床に開いた穴から、金の羽々矢を下へ投げ下ろした。

 天へ向かって突き上げられた羽々矢は、今最高神の言霊を受け『還矢』となって地へ突き返された。

 遠く、遙か彼方--豊葦原へ。



※※※※



 薄靄が晴れるように、意識が覚醒するのを天之稚彦は感じた。

 はっとして、顔をあげる。

 何度も瞬きして、掌で己の頬を二、三発叩いた。

 どうもおかしい。急に深い眠りに落ちた後のように、記憶がぷっつりと跡絶えている。

 稚彦は、自分が何をしていたのか反芻してみた。ここは、邑の中にある竪穴の小屋だ。少し蒸し熱くて、藁の匂いのする……。

 自分は確か、邇芸速日を詰問していたはずだ。そうしたら、雉がやってきて……何か、やりとりをしていて……そうしたら、邇芸速日に呼び止められて……。

「--そうだ、邇芸速日!」

 稚彦は、思い出したように叫んで振り返った。

「……な、なんだよ」

 小屋の中に座り込んだままの邇芸速日が、怯えたように反応した。

「お前、さっき俺になんかしたな!?」

「し、知らない! オレは、何も……」

「嘘つけ! お前の目を見た途端に、頭の中がおかしくなったんだ! さてはお前、俺をなんか術にかけやがったな……!」

 稚彦は激昂し、更に邇芸速日に詰め寄ろうとする。しかしその時、小屋のあちこちに血が飛び散っているのに気付いた。不審に思った稚彦は、辺りを見回す。そして、高坏の下に血だらけになった雉が落ちているのに気づいた。

「--雉? そうだ、『名無』じゃないか、こいつは」

 稚彦はしゃがみこみ、土の上から雄雉を拾い上げた。

 血に染まり、羽根の抜けた雉の胸には、小さな細い穴が穿たれている。

「これは、矢傷だ……」

 稚彦は顔を顰めた。

 哀れな『名無』はすでに事切れていたが、まだ暖かかった。ということは、この雉が落命してから、それほど時間はたっていないということだ。

 意識がなくなる直前まで、稚彦は『名無』と喋っていた。そして記憶が跡絶え、気がつくと雉は死んでいた……。


「……どういうことだ、これは……お前、この雉に何をした!」

 稚彦は、雉の亡骸を抱えたまま、邇芸速日を厳しく詰責した。

「お、オレは何もしていない……」

「だったら、なんでこの雉は死んでるんだよ! ついさっきまで生きてたじゃないか!」

「--お前がその雉を射殺したんだ!」

 邇芸速日は稚彦に指を突きつけ、逆になじるように言い立てた。

「--俺? ……俺が、こいつを殺しただって!?」

 稚彦は仰天して目を丸くした。

「ああ、オレは見た。お前が、その金の弓矢で雉を射殺したんだ!」

「俺がそんなことするわけないだろう!」

「だったら、矢束を確かめてみろよ!」

「いいさ、みてろよっ」

 そう答えると、稚彦は腰につけた『やなぐい』に入れた羽々矢の数を確かめた。自分が、雉を射たはずがない。

邇芸速日が、苦し紛れに嘘をついているに違いないんだ。

証拠は、ここにあるんだから……。


「……っ」

 矢束を数えていた稚彦は、はっと息を呑んだ。

 ありえない事が、起きている。

「……足りない……一本足りない……」

 稚彦は愕然としながら呟いた。

「ほうら、見ろ! ……やっぱりお前が殺したんだ! 伝令殺し! お前も反逆者だっ」

「そんな……そんな馬鹿なことがあるわけない! --そうか、分かったぞ! お前が、俺を操ってやらせたんだな!」

 そう叫んだ瞬間、稚彦は全てが理解できた。

 ……そうだ。あの時、邇芸速日は稚彦の意識を操った。そして、伝令の雉を殺させたのだ。

 雉が、高天原に返信を持って帰れぬよう--そして、稚彦までもが、高天原へ文字通り『弓引いた』ことになるように。


「……ちくしょう、もう許せねえ!!」

 あまりに姑息な邇芸速日のやり方に、稚彦の怒りは頂点に達した。稚彦はガッと羽々矢を掴んで『やなぐい』から引き抜き、弦につがえると、そのまま邇芸速日に向かって迦古弓を構えた。

「本当に、殺してやる……!」

 嗔恚の目で邇芸速日を見つめ、稚彦は弦をギリギリと引いた。今にもその指から、挟んだ矢尻を離そうとした、瞬間。

 背後から打ち込まれた金色の衝撃が、突如稚彦の胸を貫いた。

「な……んだ……!?」

 突然の激痛が稚彦の全身を襲う。

 稚彦は弓矢を取り落とし、土間の上に膝をついた。

「かはっ」

 喉の奥から苦しみが突き上げてくる。

 稚彦はむきだしの土の上に両手をつき、大量の血塊を吐き出した。 

 何が起こったのか、分からなかった。

 激しくむせ続ける稚彦は、乱暴に口元の血を拭って己の胸に視線を落とした。

 --そこには、一本の金色の矢が刺さっていた。

「……これは……羽々矢……どうして……どうして、羽々矢が俺に……?」

 呆然として羽々矢を見つめる稚彦の頭の中に、奔流のように疑問が渦巻いた。

 どうして、羽々矢が自分に刺さっているんだ。どこから、この羽々矢は打ち込まれたんだ。--敵がいるのか。ああ、『敵』って誰なんだ……!?

「なんで、だ、よ……?」

 唇からぼとぼと血を落としながら、稚彦は悔しそうに顔を歪めた。

 視界が白濁する。意識が遠くなる。

 死ぬのか。自分は、ここで死ぬのか。

 誰に殺されたんだ。……何故、死ななければならないんだ。

 教えてくれ。

 頼むから、教えてくれ……。



※※※※



「……お、オレじゃない! 天之稚彦を殺したのは、オレじゃないんだ! オレたちは、ただ話し合いをしていただけなんだ。そしたら、空からその金の矢が飛んできて、天之稚彦に刺さったんだ! 信じてくれよ!」

 騒ぎを聞いて小屋に駆けつけた志貴彦と少彦名の前で、邇芸速日は必死に弁明した。

「……いいよ、そんな一生懸命に言い訳しなくても。ちょっと静かにしてて」

 土の上に倒れ伏した天之稚彦の遺体を見つめながら、志貴彦は冷ややかに言った。

 無論、志貴彦は邇芸速日が真実を語っているとは思っていなかった。おそらく、この中で二人の間には、何らかの諍いが起こったのだろう。

 しかし志貴彦には、邇芸速日が稚彦を殺したとも考えられなかった。邇芸速日は全方位において姑息な男だが、「神殺し」などという大それた事をしでかす程の勇気はない。

 金色の矢に背中から貫かれて絶命した天之稚彦の衣は、全身、己の流した血で汚れていた。固く目を閉じた苦しそうなその表情には、彼の無念が溢れている。


「問題は、彼を射貫いたこの矢だよねえ……少彦名、これどこから飛んできたか分かる?」

「……さて。見当もつかぬのう」

 志貴彦の肩の上で、少彦名は困惑して首を傾げた。

「そうだよねえ。僕らには、彼の交友関係なんてわかんないし。仮に、恨みを受けていたのだとしても、別に僕らが稚彦の仇を打つ立場にはないしね。……とりあえず、

僕らは僕らにできることをしようか」

「わしらに出来ること、とは何じゃ?」

「決まってるじゃないか。弔いだよ。このままここに放っておいたんじゃ、さすがにあんまり可哀想だろう?」

「……おお。そういえば、そうじゃのう」

 少彦名は、その小さな瞳に憐憫の色を浮かべた。

 天の若子として生まれた男神が、こんな地の果てで客死するとは。稚彦の親神が知ったらなら、どのように嘆くだろうか。

「しかし、弔うにしても、身内の一人も参列せぬとは、いかにも哀れよのう……このことを、奴の友にでも知らせずにおいてよいものか……」

 少彦名が、しみじみと呟いていた時。

 突如小屋の入り口から、、鳥の一団がバサバサと中に入り込んできた。


「--稚彦さまぁー!!」

 入ってきたのは、一羽の巨大な大雉に率いられた数種の鳥の群れだった。先頭にたっていた雌の大雉は、稚彦の亡骸を見つけるやいなや、彼の腕に止まって悲痛な叫び声をあげた。

「疾風が、風の使いが、誰よりも先にあたくしに報らせて下さいましたのよ! 稚彦さまが高天原への反逆の意を顕らかにしたため、大御神のお怒りに触れて討たれたと! でも、あたくしは、この鳴女はそんなこと信じておりませんでしたわ! ……ああ、それなのに、それなのにぃ……!!」

 鳴女は、稚彦の遺体に取りすがって噎び泣いた。

「……え、そういう事だったの?」

 呆然と鳴女の慟哭を眺めていた志貴彦は、その独白を聞くと、驚いて邇芸速日の方を見た。

 邇芸速日は、自分は何も知らぬという風に、硬直したまま顔を横にぶんぶんと振った。

「本当に、お亡くなりになってしまうなんて……いいえ、あたくしは、今でも信じませんわ! これは、何かの間違いです。……あの『名無』は、昔から有名なうっかり

者。いつも、お役目の途中で豆を食べにいっては務めを疎かにしていたものです。きっと、あの『名無』が何か粗相をしたに違いありませんわ! ……稚彦さまが反逆など、なさるわけがありませんもの……!」

 鳴女の嘆きに合わせるように、従ってきた鳥達も稚彦の周りに降り立ち、共に哭き声を上げた。


「……あの、泣いてるとこ悪いんだけど」

 狭い小屋の中は、鳥達の様々な歔欷の声が混じり合って、奇妙な空間と化していた。志貴彦は、鳴女の涕泣が治まるのを待っていたが、いっこうに止む気配もないため、仕方なくおずおずと話しかけた。

「鳥さん達は、稚彦のお友達?」

 志貴彦に話しかけられた鳴女は、長い首をもたげ、濡れた瞳のまま彼を見上げた。

「えーえ! 八十五年来の親友でございます。そういうあなたはどなた?」

「僕は……八束志貴彦だけど……」

「まあ! では、出雲王さまですわね! 出雲王さま、どうかこの鳴女のお願いを聞いてくださいまし」

「--お願い?」

「稚彦さまの『もがり』を、あたくしたちの手で執り行なわさせていただきたいのですわ」

 鳴女は、真摯な瞳で訴えた。

「君たちが……稚彦の『殯』を?」

 意外な申し出に少し驚いて、志貴彦は稚彦を取り囲んだ鳥達を見回した。

 『もがり』とは、鎮魂の儀式である。

 この頃、死者が出ても、すぐにその亡骸を葬ってしまったりはしなかった。

 まず、遺体を安置する為の『喪屋(もや)』を建てる。

 そしてその中に使者を納め、八日八晩に渡って故人の魂を鎮める為の儀式を行う。

 その葬礼のことを、『もがり』というのだった。


「私が、『持箒者(ははきもち)』を務めます」

 まずサギが名乗りをあげた。喪屋の場を掃き清め、穢れを払う役目だ。

「わしが、『造綿者(わたつくり)』をいたそう」

 年老いたトビが、死者の亡骸を浄める役をかって出た。

「じゃあボクが、『御食人(みけびと)』になるっ」

幼いカワセミが、決然と言った。

「だったらあたしは、『碓女(うすめ)』よ」

メスの小雀が、当然のように言った。死者に備える食べ物を整える役目と、穀物を担当するものだ。

「ではオレは、『持傾頭者(きさりもち)』を受けよう」

 うずくまっていた雁が、死者への供物の器を持って随行する役を、重々しく引き受けた。

「あたくしは当然、稚彦さまのための『哭女(なきめ)』を務めますわっ」

 大雉の鳴女が、悲壮な決意で宣言した。

 『哭女(なきめ)』は、死者の為に、八日八晩泣き続ける役だ。ぴったりだった。

「なんか、もう最初っから、やる気まんまんなんだね……」

 志貴彦は感心した。

 鳥たちの中では、既に稚彦の葬送を執り行う為の役割分担が決まっている。

 彼らは、それぞれ決意に燃えた瞳で、志貴彦を見つめていた。


「でも知らなかったよ。稚彦って、こんなに鳥たちに慕われていたんだね」

「ふむ。あやつは、高天原にありながら、ある意味その則を超えた自由な存在じゃった。

天と地の間を思うままに行き来する鳥は、奴に近いのかもしれん。

眷属のようなものかもなあ」

 少彦名は、どこか羨ましそうに呟いた。

「出雲王さま、お願いしますわ。あたくし達に、『もがり』をさせてくださいませ」

 配下の鳥たちを従えて、鳴女は頼み込む。

「うん、いいよ」

志貴彦は、朗らかにほほ笑んだ。

「大勢の方が、彼も喜ぶよ。皆で盛大に送ろう。じゃ、さっそく……」

 志貴彦は、不意に続きの言葉を飲み込んだ。

 突然、奇妙なことが起こったのだ。

 倒れていた稚彦の亡骸が、突然ボワッと淡い光を纏った。

 光はどんどん濃さを増し、やがて卵のように稚彦の体を覆った。光の卵は、限界まで膨張していく。

 破裂する……そう思った志貴彦は、咄嗟に顔を背けた。

 ……だが、予想された破裂音は響かなかった。

 志貴彦は、再び目を開けて、土間の上を見る。

 そして、愕然とした。

 ついさっきまで、そこにあったはずの稚彦の遺体が……こつ然と、消えていたのだ。

「え、今の、なに……?」

 志貴彦は、呆然と呟く。

 他の者たちも、みな呆気にとられたまま、何もない土間の上を見つめていた。

 人も、鳥も、神も……いったい何が起こったのか、わからなかった。



※※※※



 空を覆い尽くした雲は、濃い群青の色をしていた。

 夜明け前の、一番暗い時だ。

 一面に広がった海は、規則正しく波を浜辺に打ち寄せていた。見渡す限りの海原には、浮かぶ島もなく、また渡る舟もない。ただ膨大な水の塊が、薄く遠く無限に広がっているだけだった。

 --天之稚彦は、裸足の足に波の感触を覚えてふと目を開けた。気がつくと、彼は見知らぬ浜辺に一人で立っていた。

 そこは、ひどくうら寂れた浜だった。振り返ると背後は絶壁の断崖で、ぱっくりと開いた暗い窟の奥に、数隻の朽ちた舟が打ち捨てられている。

 生命の気配のしない海だと、稚彦は思った。--全てが死に絶えた後の世界とは、こういう所をいうのかも知れない。

 稚彦は、しばらくぼんやりと佇立していたが、やがて海の彼方に、何か光る物があるのに気がついた。

 緩慢な仕種で、稚彦は光の方に視線を送る。

 光は、音もなく近づいてくる。目を凝らし、稚彦はそれが人の形をしているのに気がついた。

 それは、襲のように光を纏った一人の丈高い男だった。彼は、悠然とした所作で波頭を踏みながらやってくる。水の上を歩いてきた男は、稚彦の立つ砂浜の前までくると、その足を止めた。

 稚彦は、男を見上げる--見覚えのない青年だった。

 踝まで届く青年の長い解き髪は、輝くほどに豪奢な金色をしていた。静謐な光をたたえたその双眸は、晴れた日の海のように深く蒼い。彼の肌は象牙の色をしていて、均整のとれた美しい痩躯に、典雅な漆黒の衣を纏っていた。

 天上でも地上でも、稚彦はこれまでこのように不思議な青年を見たことがなかった。なんという霊妙な存在--希なる美しさ。

 ……いや。

 同じ位に美しい神を、稚彦は一人だけ知っている。

 それは、天の王だ。日輪の化身。--この世の全てを統べる者。


「……天照大御神……?」

 稚彦は、虚ろに呟いた。そんなことが、あるわけはないと思いながら。

 しかし眼前の青年は、冷淡に稚彦を見下ろし、無言の。まま頷いた。

「そんな……馬鹿な……」

 稚彦は当惑して言いよどんだ。

 他の多くの天津神がそうであるように、天照大御神もまた、黒髪と黒瞳を備えていた。何度か大御神の姿を目にした事はあるが、このような色合いなど一度も見たことはない。

「……これが、我の本質だ」

 天照は唇を開き、音曲のように美麗な声で稚彦に告げた。

「本質……?」

「--天之稚彦。汝は、我の放った『還矢』を受けた。……故に、我の『本質』を視ることができる」

「『還矢』を受けた……俺が……!?」

 驚愕した稚彦は、すぐに己が絶命した時の事を思い出した。

 自分の胸に刺さった『羽々矢』。どこからきたのか、何故打ち込まれたのかさえ分からぬまま、自分の命を一瞬で奪った金の矢。あれが『還矢』--即ち、反逆者を討つ為の『天の怒り』だったというのか!?


「汝は、天への叛心を抱いたであろう。故に、矢は汝を打ち抜いた。……『還矢』は、けして過たぬ」

「--俺は、そんなことはしていない! 俺にはそんな記憶はない。……例えやったとしても、それは邇芸速日の呪術にかかった上でのことだ! それは俺自身の意志ではないっ」

 大御神の前で、稚彦は必死に抗弁した。

 冤罪だ。これは、邇芸速日の罠……作られた罪、明らかな冤罪じゃないか。

「……天之稚彦。心の中にひと欠片もない望みは、たとえいかに強力な呪術であっても引きだせぬ」

 天照は、反駁を試みる稚彦を憐れむように見下げて、そう言った。

「……え……?」

「汝自身が言霊にした以上、その想いは始めから汝の中にあったものなのだ」

「俺の中に……謀反の心が……あった……?」

 天照の蒼い瞳は、相手の真実を抉り出す、磨ぎ澄まされた鏡のようだ。その双眸に捕えられた稚彦は、いいようのない不安にかられて、己の胸を掴んだ。

 確かに、今の高天原のあり方には、反発していた。天津の神族の中にも、居場所のなさを感じていた。全てに辟易し、変化を望んでいた。

 でも……だからといって、天津神としての誇りを捨てたことはないのに……。


「だけど、俺は、あなたの命令で……あなたの詔を受けて、地上で働いてきたのに……」

「--それは些事に過ぎぬ」

 天照は、冷厳な口調で言下に言い捨てた。

「汝の心には、隠された叛意があったのだから。--いかに働きを見せようと、それをもって罪を消すことなどできぬ」

「そんな……ひでぇ……」

 そうではない、と主張したかった。天照は間違っている、と言いたかった。

 しかし、圧倒的な存在感を持つ天照の前で、稚彦はあまりにも無力だった。彼の必死な思いは、小さな呻きにしかならなかった。

 稚彦は俯き、足元の砂を睨み付けた。

 ……どんなにがんばっても、駄目なのか。

 何かが違っていたら、もう受け入れられることはないのか。

 そうやって、異質なものを片っ端から排除していくのが、高天原のやり方だっていうのか……!


「天に生くる者の則はただ一つ」

 懊悩する稚彦に向かって、天照は厳然と宣告する。

「我に従え--さもなくば、死ね」

「……俺は、あんたなんかには従わない!!」

 稚彦は昂然と瞳をあげて、最高神に抗言した。


 ……ああ、これが謀叛だっていうなら、それでもいいさ。

 俺は、そんな世界ではもう生きたくない。

 別の場所へ行く。

 俺が俺のまま、生きていける所が、きっとどこかにあるはずだから

 どんなに遠くても、時間がかかっても、それを探せばいい。

 だから俺は、たった今、高天原と決別する。


「……それを選ぶか」

 稚彦の気迫に動じることもなく、天照は冷然とした態度でそう言った。

「では天之稚彦……汝の魂を砕くぞ?」

 天照は、稚彦に向かってその長い指を伸ばした。

 稚彦は逃れようとしたが、何故か身体は硬直したまま、ぴくりとも動かなかった。

 見返した天照の蒼い瞳に、得体の知れぬ深い空洞を見つけて、稚彦は慄然とした。


これは何だ。これが神か。

こんなものが、天の王だというのか……!


 稚彦の恐怖は、言葉にならなかった。身動きできぬ稚彦の眼窩に、天照の爪が迫る。いましもその先が触れようとした時--彼らの間を裂くように、鋭い銀光がその隙間を走り抜けた。

 稚彦は、思わず顔を背けた。閉じた目蓋の上からも、まばゆい銀光が突き刺さってくる。

「なんだ……いったい……!?」

 眩しさに耐え兼ねた稚彦は、しばらく両手で顔を押さえていた。やがて、指の隙間からも差し込んでいた激しい光が、徐々に弱まっていった。

 稚彦は、顔から手を退けた。面を上げ、瞳を瞬いた彼は、そこに信じられない光景を見た。

 天照大御神は、数歩離れた波頭の上に戻っていた。そして、大御神と稚彦の間に--一人の見知らぬ少女が、忽然と出現していたのだ。


 少女は、稚彦に背を向けて立っていた。

 天照は、その蒼い瞳に激しい衝撃を浮かべて、現れた少女を見つめていた。

「……お前は……!」

 愕然と呟く天照の言葉には、明らかな動揺があった。

いつも泰然としている天照が、これ程までに取り乱すのを、稚彦は初めて見た。

「--去れ」

 少女は、無機質な声で天照に告げた。

「去るがいい、天照」

「邪魔をするのか……また私に逆らうのか!」

 搾り出した天照の声は、鋭い怒気を孕んでいた。

 もしそれをぶつけられたのが稚彦だったならば、即座に打ちのめされてしまう程の、激しい憎悪を含んだ言霊だった。

「お前の思い通りにはならない。天も、地も……そして、人も」

 しかし少女は、超然としたままそう言った。

「……」

 天照は答えず、長い間少女を凝視していた。

 幽寂の海は、時間の止まった空間のようだった。誰も動く者はいない。稚彦も立ち尽くしたまま、彼らにかける言葉さえ思いつかなかった。


 ……どれくらい経ったろう。

やがて、天照が漆黒の衣の袖口で、己の口元を隠した。そうして瞳を伏せると、彼は溶けるように波頭の上から消えてしまった。

 少女はずっと、天照の消えた波の上を眺めていた。

 稚彦は、暫く待った。しかし耐え切れなくなった彼は、後ろからそっと少女に声をかけた。

「……あの、あなた、は……?」

 少女が振り返った。

 それは、稚彦よりも幾分幼く見える娘だった。

 彼女は、なめらかな銀色の髪をしていた。伸ばしていればさぞ美しいと思われるのに、彼女は首の後ろでその銀髪をざん切りにしていた。

「……真鳥まどり

 少女は答えながら、稚彦の顔を見た。

 彼女は、清冽な紫の瞳をしていた。それはまるで色水晶のように透き通っていて、夜の闇によく映えた。

「--真鳥?」

 稚彦は繰り返す。--聞いたことのない名だった。

 彼女は、とても純美な娘だった。

 鮮麗なその姿は、ひどく印象に残る。先程の天照と同様、一度見たら忘れられぬはずだが、稚彦の記憶にその姿はなかった。

「……『真名』ではない。お前に、私の『真名』を名乗る必要はない。……かつて、私をそう呼んだ者もいたというだけだ……」

 少女はあまり感情のこもらない声で、恬淡と語る。

 これは誰だろう、と稚彦は思った。

 少女は、あの天照から稚彦を救った。大御神と呼ばれるあの最高神が、この少女には一切手を出すことが出来なかった。

 ということは、少女は天照大御神にも匹敵するほどの力を持つ、高位な神族だということが考えられる。

 しかし、不思議と彼女の体からは『神性』が感じられなかった。『神性』を持たぬ神族などいない。

 では、彼女は人か? そんなはずはない。これは、明らかに人間ではない。ならば、この奇妙な存在は--一体何だというのだ。

「私は、お前に己の真実を語る必要を持たない。……だが、幾つかの疑問には答えてやれる……短い間だけだ」

「……え、あ、そ、そうなのか?」

 真鳥に告げらた途端、稚彦は素に戻った。


(そうか。よくわからないが、とにかく時間がないんだな)

 稚彦は、慌てて考えを巡らした。

 疑問は山程あるのだが、とりあえず、重要な事を聞いてしまわなければならない。

「えーっと、まず、ここは何処だ?」

 稚彦は最初に、基本的な疑問を口にした。

 そうだ。気づいたら、自分はこんな見も知らない場所に立っていた。まずここが何処だか分からなければ、この先どうすればいいかも決められない。

「……ここは、『なづきの磯』だ」

「『なづきの磯』?」

 聞き覚えのない言葉を耳にして、稚彦は怪訝そうに顔を歪めた。

「黄泉--『根の国』へ行けぬ者が、立ち寄りさ迷う場所」

「『根の国』へって……じゃあ、俺はやっぱり死んだのか!?」

 稚彦は愕然と叫ぶ。しかし真鳥は、従容としたまま彼に答えた。

「……厳密に『死んだ』とはいえない。お前は、始めから『通常の死』を持たぬ者だから」

「--え?」

 稚彦は頭が混乱してきた。この少女が何を言っているのか、よく分からなかった。

「……つまり、俺は今、どうなってるんだ?」

「天照によって、『存在を消滅』させられた状態だ。……だが幸いにも、その魂は砕かれてはいない」

「じゃあもしかして、俺は復活できるのか!?」

 稚彦は勢い込んで真鳥に尋ねた。

「できない」

 一瞬膨らんだ稚彦の希望を、真鳥は言下に否定した。

「言ったろう。お前という『存在』は、天照に消滅させられた、と。『天之稚彦』として復活することは、二度とできない」

「そうか……」

 稚彦はがっくりと項垂れた。やはり、そんな都合のいいことがあるわけがない。

「だが、お前は極めて珍しい霊性として生まれてきている。天と地、両方の側面を備えた二重神として……」

「--え?」

「……お前は常に、高天原に違和感を感じながら生きていなかったか?」

 真鳥は稚彦を一瞥すると、そう訊いた。

「ああ、確かにそうだけど……」

「それは当然のことだ。お前には、国津神として生まれる可能性もあったのだから」

「俺が……国津神だって!?」

 稚彦は仰天し、頓狂な声をあげた。

「お前は天津と国津、両方の側面を同時に抱えた二重魂だった。どちらの場所にも誕生できる資質があったが、結局『天之稚彦』として高天原に生まれた。……だからその時から、国津神としてのお前の資質は、『天之稚彦』の裏側へ押さえ込まれたのだ。しかし、常にその二重性は歪みとなって、お前の中で軋み続けたのだろう」

 真鳥は微風になびく己の銀髪を押さえながら、淡々と語った。

「しかし今、天津神としてのお前--『天之稚彦』は消滅した。次は、国津神としての側面が開放される番だ」

「どういう事なんだ?」

「……『復活』ではなく、お前の属性を『転化』させるのだ」

 そこまで言うと、真鳥はふと海原の方を振り返った。

 海面が、明るさを増している。重かった雲が、薄い紫苑の色に変わっていた。

 まもなく、陽が昇る。


「……ああ、夜明けか。もう終わりだな。日は、私の領分ではない」

 眩しそうに空を見上げ、真鳥は物憂げに呟いた。

「私は行かなければ」

「--ちょ、ちょっと待ってくれよ! これで終わりだなんて……。属性を『転化』させるって、結局俺はどうすればいいんだよ!」

 去ろうとする真鳥を呼び止め、稚彦は必死にとりすがった。一番肝心な事が、まだ分かってない。

「……地上の国に、戻ればいい。お前が生まれるべきだった、もう一つの場所へ」

「戻るったって……一体どうすれば」

「……そこに、舟があるだろう」

 真鳥は気だるげに、窟の奥に棄てられた古い小舟を指さした。

「あれに乗って、海原へ漕ぎ出せばいい。ここへ来た者は、皆そうやって還っていったものだ。……それぞれ自分が望む場所へ」

「あの……ボロ舟でぇ?」

 稚彦は不安そうに呟きながら、示された小舟に目をやった。

 どれもこれも、腐り果てている。乗っただけで、底板を踏み抜いてしまいそうだ。とてもではないが、この茫漠の大海を渡り切れるとは思えない。


「辿り着いた場所に、お前を待つ者がいるだろう」

「待つ者って……まさか、志貴彦たちか?」

「違う。もっと、はじめから縁深き者……お前の『転化』の導き手だ。かたちに惑わされず、よく見極めることだな。……お前達は、すでに出会っているよ」

 そう言って薄く笑うと、真鳥は顔を上げて雲に閉ざされた空を見た。

 彼女が紫の瞳を閉じると、その背に大きな二枚の羽が現れる。

 真鳥は砂を蹴った。白い翼を羽ばたかせ、彼女は天高く飛翔していく。

 稚彦は呆然と見上げながら、遠くなる真鳥の姿を眺めていた。

 蒼茫の海原を渡る真鳥の姿は、小さな白い塊に見えた。何かに似ていると、稚彦は思った。

 ……そうだ、あれは月だ。日の輝きに消される前の、薄いあえかな月。

(そうか、だから……)

 稚彦が銀光の意味を悟った時、海の彼方に朝陽がその姿を現わした。稚彦は、眩しさに一瞬目を細める。

そして再び瞳を見開いた時……その海の上には、もう何もなかった。










『第六章終わり 最終章へ続く』

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