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空見つの国  作者: かざみや
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 第五章 ニニギ受難

 日向国は臼杵郡の高千穂にある二上峰は、常に深い霧に覆われていた。

 ただ薄暗く曇った空は、昼夜の区別すら判然としない。一面濃い霧に隠された峡谷の中は道も見えず、物の見分けすらつかない有り様だった。

 そんな雲海に浮かぶ峰の頂上付近を、あてもなくただ歩き続けている二人連れの男がいた。

 二人とも、まだ若い。一人は青年といってよいくらいの年かさで、もう一人はまだ少年らしいあどけなさを残していた。

 激しい疲労と焦燥を浮かべた二人の顔は、よく似通っている。一目で、明らかに兄弟であると知れた。


「……ああ、一体ここは何処なんだ」

 かろうじて歩みを続けていた年かさの男が、とうとう音をあげてその場に座り込んだ。

 恐らく山頂付近と思われるこの一体は、著しく気温が低い。峰を登り始めた時は確かに夏だったのに、知らぬ内に秋か冬に紛れ込んでしまったかのようだ。

 外気は低いのに、動き続けているものだから、衣の下の肌はじっとりと汗ばんでいた。それが一層男の体温を奪い、体力を消耗させる。倒れるのも時間の問題だろうと思われた。

「オレ達は、どのくらい歩いてたんだ。今はいつなんだ。本当にこの道でいいのか……」

 独言のように呟きながら、男は悄然と項垂れた。

 この高山と雲海は、入り込む者全ての五感を狂わせる魔の領域のようだ。

 ただひたすらに頂上をめざして歩き続けていた男は、最早自分が何の為に登っていたのかすらよく分からなくなってきていた。

「……雲海が、紅の色を帯びてきてる。きっと、朝日が昇ってるんだ……」

 年下の少年の方も、足を止めて周囲を見回した。

 真綿のような厚い霧が少しずつ色づいていく光景は、とても幻想的で美しかった。

 しかし生憎と、少年の方にもそんな風景に浸って感動できる程の余裕は残っていなかった。

「……本当に、この先にオレ達の目指す物はあるんだろうな、邇邇芸ににぎ?」

 座り込んだ男は、恨みがましい目で少年を見上げた。

「間違いないよ。だって、あそこに見えてるじゃないか、

兄上」

 少年は、細い指で雲海の彼方を指さした。そこには、霧の中から突き出した、巨大な三つ叉の『逆矛さかほこ』が屹立していた。

 この少年--邇邇芸が『兄上』と呼ぶ神は、天にも地にもただ一人しかいない。

 先程から、地べたに腰を下ろして文句ばかりを垂れている男--彼こそが邇邇芸の実兄、『高天原の裏切り者』こと邇芸速日であった。

 邇芸速日は高天原の上流生まれの為、元来は端麗な眉目の持ち主である。だがその面に幼少の頃から張り付いた傲岸な表情が、他の全ての美点を打ち消していた。

 しかも今の彼は、隠す事の出来ない荒んだ陰を背負っている。

 邇芸速日の纏った浅黄色の衣は、元々とても仕立ての良い上質な物だったが、既にあちこち擦り切れてぼろぼろになっていた。かつては瑪瑙の玉を連ねた御統みすまるで飾り立てて結っていた髪も伸びて痛み放題、まるで見る陰もない。

 その見た目の全てが、邇芸速日の流転の運命を物語っていた。何不自由のない天界の上位種から、地上へ堕ちて『裏切り者』の烙印を押されるまでの、彼の不幸を……。


「あの、『逆鉾』の所へ行くんだ。他に、方法はないんだから……」

 邇邇芸は彼方に見える『逆鉾』の姿を眺め、自らに言い聞かせるように呟いた。

 兄の邇芸速日と、顔の造作こそ似通ってはいたものの、つい最近地上に降りてきた邇邇芸には、邇芸速日のような苦労の後はなかった。萌黄色の神御衣を纏ってきちんと角髪を結ったその姿は、いかにも育ちのよい「箱入り息子」を感じさせる。

「……だが、何日もずっと峰を歩き続けているのに、あの『逆鉾』はいつ見てもずっと同じ姿をしていて、ちっとも近づいた感じがしないじゃないか」

 邇芸速日は不平を並べながら、雲海の中の『逆鉾』を忌ま忌ましげに睨み付けた。

「まあ、確かにそれは変だけど……」

 邇邇芸も兄の隣に腰を下ろしながら呟いた。

 邇邇芸たち兄弟は、少なくとも、三日はこの峰を歩き続けているはずだ。

 しかし、あの『逆鉾』は三日前に見た時からその見た目の大きさや形がまったく変わることはなく、進めど進めど一向に近づいた気配がなかった。

「……認めたくはないが、オレ達は、完全にこの雲海に惑わされているぞ」

 邇芸速日は、膝を抱いて投げやりに言った。

「そうかも知れない、でも……」

「そもそも、お前の話が間違ってるんじゃないか?」

「……間違ってなんかない。本当なんだよ、兄上」

 邇邇芸はむっとしたように兄に反駁した。

「『あの人』が言ったんだ。……日向の高千穂にある、『逆鉾』の所へ行けばいいって」

 邇邇芸は兄に答えながら、ぎゅっと己の両手を握り締めた。



 --それは、先の神集いが終わった後の事だった。

 その日の神集いは、天之稚彦の爆弾発言によって、尋常でない展開を見せた。参集した神々は、神集いが終了した後も、興奮をおさめ切れぬまま、それぞれ声高に意見を交わしながら、己の宮に退出していった。

 そんな喧しく騒然とした中を、邇邇芸は一人、供も連れず沈鬱な面持ちで歩いていた。

 父の天忍耳あめのおしほみみは、神集いが終わるや否や、今までにない険しい表情で供緒とものおたちを連れて自身の宮へ戻って行った。邇邇芸は恐ろしくて、とても父に話しかける事が出来なかった。

 大変な事態になってしまったと、邇邇芸は思った。

 天照大御神の前で散々不敬な態度をとった天之稚彦が地上行きを命じられたのは、自業自得で同情する気にもならない。しかし問題は、彼が地上へ行かされるその目的だ。

 天之稚彦は、天照大御神から「叛神・邇芸速日の捕縛」という勅命を受けた。

 そう、天之稚彦は、兄の邇芸速日を捕える為に地上へ行くのだ。彼は、見事役目を果たすだろうか。もしも、天之稚彦が成功してしまったら……。


(兄上の咎は一族に及ぶ。ボクだって、無事では済まない……)

 邇邇芸はぞっとして、両手で己の肩を抱いた。体の中を、冷たい物が下りていくのを感じた。

 そもそも全ては、兄の邇芸速日が地上を平定する第一の使者の役を承った事から始まった。

 使者に選ばれること自体は、名誉な事だ。

 しかしそれを実現するのは、たとえどんな優秀な神であっても多分不可能だろうと、邇邇芸は思った。

 ましてや、あの兄である。使命を完遂できるわけがない。

 邇芸速日の性格と実力をよく知っていた邇邇芸は、兄が地上へ行く前に逃げ出すだろうと思っていた。

 しかし意外にも、邇芸速日は素直に出発した。そして地上へ行ってから--その行方をくらませたのだ。

 そして、いくらたっても天へ復奏しない邇芸速日は、いつの間にか「地上の王に媚び諂った」という事にされていた。

 だが、邇邇芸にはわかっていた。兄は、そんな大層な事をしでかしたのではない。多分、ただ重荷から逃避したのだろう。それこそ兄らしいではないか。

 しかし事実がどうであるにせよ、結果として「天の務めを疎かにした」事に変わりはなかった。

 大御神の勅命を果たさなかった邇芸速日には、確かに罪がある。だが彼が失踪したその後も、邇芸速日の処分は「保留」という名目で有耶無耶にされてきた。

 無論、それには理由がある。

 邇芸速日、そして邇邇芸の父である天忍耳が、かつて天照大御神自身が須佐之緒との誓約によって生成した五柱の神の一柱であったからだ。

 天照大御神は、自らの生成した天忍耳に対して、特別な感情は一片も抱いていない。しかしそれでも、大御神直系の神族ということで、天忍耳とその一族は始めから特権階級にあった。

 それ故、彼らより神格の低い神々は、自分達が表だって邇芸速日を断罪するのをはばかった。邇芸速日の罪は、神々の暗黙の総意の下で、「見逃されてきた」のだ。

 --しかし、あの天之稚彦は全てを打ち壊した。

 天照大御神は、皆の前で邇芸速日の罪を裁くと明言した。

 もしそんな事が起こったら、一体どうなるのだろう。兄は、父は、、自分は、そして一族は……。


 天安河宮を出たものの、すぐには自分の宮に戻る気になれなかった邇邇芸は、河の流れを追うように一人悄然と歩き続けた。

 どれくらい、進んだだろうか。やがて耳に入ってくる大きな水音に気付き、邇邇芸は足を止めた。

 知らぬ間に、随分下流へと出てしまったらしい。広い川瀬には澄んだ水が蕩々と流れ、河原には削られた丸い小石が無数に転がっていた。

 人気なく寂然とした河原は、今の邇邇芸にはむしろ落ち着ける場所だった。彼は川縁に一人佇立し、長い間黙って水面を見つめていた。

「……邇邇芸のみこと

 物思いに耽っていた邇邇芸は、背後から不意にかけられた声に驚き、振り返った。

 そこには、一人の若い女神が立っている。

「あなたは……?」

 邇邇芸は、怪訝そうに女神を見ながら問い返した。それは、邇邇芸が今まで一度も見た事のない女神だった。

 彼女は、膝まである長い黒髪を、どこも結うことなく解き下ろしていた。そして、本来なら額に締めるはずの赤い細帯を、両目の上に巻いている。

「わたくしは、佐具女さぐめと申します」

 女神は、丁寧な物腰でそう名乗った。

 佐具女は、珍しい装束を着ている。一枚布で出来た、筒のような白い貫頭の衣だ。その衣には袖がついていなかった為、彼女は両の腕をむき出しにしていた。

「佐具女……?」

 女神の名を聞いた邇邇芸は、首を捻った。

「聞いたことがございませんか?」

 佐具女は赤帯で目を隠していたが、まるで邇邇芸の仕種が見えていたかのように軽く笑った。

「ああ……」

 邇邇芸は当惑した表情で答えた。

 この自分が知らないという事は、低位の女神なのだろうか。しかし相対した彼女からは、どこか不思議な品高さが感じられる。

「……大変な事になりますね。天之稚彦は、役目を果たすでしょう。邇芸速日の命は断罪されます。そしてその咎はあなたや父君、そして一族全てに及ぶのですね」

「な……っ!」

 邇邇芸は絶句した。元々大きな目を見開いて、まじまじと佐具女の白い顔を凝視する。

「あなたはいきなり、何という事を口にするのですか……!」

 動揺しながらも、邇邇芸は非難めいた口調で、無遠慮な佐具女を咎めた。

 自分は、仮初にも高天原の上位神族だ。こんな所で、見知らぬ女神に出し抜けに非礼を受ける覚えはない。

「……恐ろしいですか? しかし、真実を恐れるのは愚か者のする事ですよ」

 佐具女は動じる風もなく、落ち着き払って答えた。

 彼女の言葉には、聞き分けの悪い子供を諭すような響きがあった。

「……何が言いたいのです」

 どうも不審に思った邇邇芸は、警戒しながら佐具女に訊ねた。

「わたくしは、あなたの決意を尋ねに参ったのですよ。……あなたに、兄君を救う覚悟があるかどうか」

「……僕が、兄上を救う?」

 邇邇芸はきょとんとした。

 一体この女神は、何を唐突な事を言い出すのだろう。

「あなたと兄君の命運は、既に一つとなりました。あなたがご自分を守りたければ、その前に兄君を救わなくてはならないのではありませんか?」

 佐具女は、まるで邇邇芸の心を見抜いたかのように、いきなりそう切り出した。

「それは……っ」

 邇邇芸は、焦って口ごもった。

 それは確かに、邇邇芸がさっきからずっと考えていた事だったが。

 何故それを、この女神はたやすく言い当てるのか。


「それは確かに……そうかも知れないけど……」

 俯きながら邇邇芸は、暗澹とした気分で呟いた。

 望もうが望むまいが、自分と兄はもはや一蓮托生の運命を背負わされてしまっている。もし連座を逃れたいと思えば、兄を裁きから回避させるしかない。

「そうです……賢い子ですね、邇邇芸の命。少なくとも兄君よりは……」

 そう答えると佐具女は、口元に薄い微笑を浮かべた。

 気持ち悪い女だと、邇邇芸は思った。何故彼女は、全てを見透かしたような話し方をするのだろう。

(予見の女神だとでもいうのか……?)

 邇邇芸は探るように佐具女を見つめる。しかし彼女の仮面のような面からは、その奥に隠された真意を読み取る事はできなかった。

「しかし……兄上を救うといっても、簡単に出来ることでは……」

「方法は困難ですが、不可能ではありません。……あなたに覚悟がおありならね」

 佐具女は思わせぶりにそう語る。その時、邇邇芸はやっと、彼女が自分を試しているのだと気が付いた。

 曖昧な言葉で相手の真意を探るふりをしながら、佐具女は邇邇芸の技量を測っていたのだ。

 邇邇芸が、その『方法』とやらを授けるに値するかどうかを。

(成程……ならば、あなたの考えを聞かせていただこうか)

 邇邇芸はきっと表情を引き締めると、佐具女を見下ろして、毅然と言った。


「ボクは……『兄上の為』というのではなく、『自分自身の道を拓く為』ならば、それをやる勇気はある」

「ええ、それでいいのですよ」

 佐具女は当然だという風に頷くと、何故か嬉しそうに笑った。

「では、その方法とかを、教えてもらえるのか?」

「……分かりました、教えましょう。まずあなたは、最初に天之稚彦より先に地上に降り、兄君の身柄を確保なさい。そうして、高天原と交渉するための『切り札』を探しに行くのです」

「--『切り札』?」

 思わぬ言葉を聞かされて、邇邇芸は一瞬戸惑った。一体、あの兄の命と引き換えにできる、どんな物があるというのか。

「あなたは、『斎庭のゆにわのいなほ』を知っていますか?」

「……『斎庭の穂』? ええと、邑君むらきみが管理する天狭田あまのさなだでとれる、神聖な稲のことだろ……?」

 邇邇芸は答えながら、己の記憶を辿った。そういう話を以前聞いた覚えがある。

 たしかそれは、邇邇芸や兄が生まれるよりずっと昔の出来事だった。

 創世から間もない頃、食物を司る保食うけもちという女神が、豊葦原で殺された。そしてその後、彼女の亡骸からは、五つの穀物が生まれたのだ。

 天照大御神はその五穀の内、栗・稗・麦・豆の四つの雑穀を地上へ広げる事を認め、残りの稲は高天原へ取り上げて、天で管理する事とした。

 その天の稲が、『斎庭の穂』である。

 そこの神聖な田で実った稲は、毎年新嘗祭の時に、天照大御神だけが口にする事ができた。


「……その『斎庭の穂』を、天狭田から盗み出した者かいます」

「--なんだって!?」

 邇邇芸は、驚愕して大声で叫んだ。

 天狭田は、管理者である熊人の一族以外、立ち入る事さえ許されぬ大御神の直轄地である。

 ましてそこに実る黄金の稲穂は、他への持ち出しを禁じられた高天原の秘宝だった。

 もし佐具女の言う事が事実なら、盗んだ者は邇芸速日など比べ物にならぬ程の大罪……即刻死を賜るほどの罪ではないか。

「しかし……しかし、そんな話はどこからも聞いていないが……」

「当然ですわ。これは、天照大御神の体面に大きく関わることですから、表沙汰になど出来る訳がありません。今はまだ、ほんのごく一部の大御神の側近しか知らぬ事ですが……でもそれだからこそ、あなたにとってはこれが『切り札』となり得るのですよ」

「……どういう意味だ?」

「『斎庭の穂』は、豊葦原へ持ち出されています。あなたはそれを先んじて回収し、密かに天照大御神と取り引きをすればいいのです。……『奪われた稲穂を内密に天へ戻す代わりに、邇芸速日の罪を不問にせよ』とね」

「--そんな恐ろしい事を、このボクにやれっていうのか!?」

 邇邇芸は思わず悲鳴のような声をあげた。

 なんて計画だ。一歩間違えれば、この自分までもが大御神の怒りに触れかねない。

 こんな不遜で無謀な事を、あんな兄の為にやれというのか、この女神は!?

「ええ、あなたがやるのです。……これは、あなたの一族全ての命運を左右する賭です。あなたがやるしかありません」

 動揺してうろたえる邇邇芸に対し、佐具女は突き放すように言った。

「しかし、他の者に任せるという方法も……」

「そうすれば、そこから秘密が漏れますよ」

「では、父の力を借りて……」

「お父君は高天原の重鎮のお一人です。自らが動かれるような事をなされば、必ず周囲に嗅ぎつけられるでしょう」

 邇邇芸の必死の抗言を、佐具女は次々と畳み掛けるように否定した。

「……っ」

 邇邇芸は、もうそれ以上反駁の言葉を思いつかなかった。認めたくはないが、佐具女の言う事は、全て悔しい程に的を射ていた。

「……恐くなったのですか? でもね、あなたはもうこの話を聞いてしまいましたから。逃げ出す事は出来ませんよ。……どのみち、どちらへ転んでも、最早あなたに平穏な道など残されてはいないのです。選択肢は限られてしまったのだから……」



「……それでその後、佐具女が教えてくれたんだ。豊葦原の筑紫の大島に、日向って国がある。そこの高千穂の二上峰の雲海の中に『逆鉾』が刺さっていて、その下に『斎庭の穂』が隠されているって」

 霧に濡れてまとわりつく額髪を払いのけながら、邇邇芸は兄に説明した。

「しかし、どうにも胡乱な話だなあ。大体、『佐具女』なんて女神、聞いたことないぞ」

 邇芸速日はくの字に曲げた膝を抱え、疲れた顔でぼやいた。

「そりゃ、ボクも最初は疑ったよ。だけど、兄上は佐具女の教えてくれた通りの場所にいた。それで、信じる気になったんだ」

 邇邇芸とて無論、始めから佐具女の話を信じ込んだ訳ではない。

 しかし、佐具女は何故か邇芸速日の隠れている場所を知っていた。邇邇芸は半信半疑だったが、とりあえずそこに行って、本当に兄がいるかどうか、確かめてみよう、

と思い立った。

 何故ならその時、いましも天之稚彦が出発しようとしていたからだ。彼に先に兄を見つけられてしまっては困る。そこで邇邇芸は、佐具女の情報に賭けてみる事にした。

 邇邇芸は一応、天之稚彦への妨害工作もやっておいた。父の名を盾に適当な理由をつけ、彼が天磐船などを使えないようにしておいたのだ。

 勿論、そんな事をしても、天之稚彦はいずれなんらかの方策で地上に降りてくる。しかし、多少なりとも時間が稼げればいい。これは、早い者勝ちの勝負なのだから……。

 そして、佐具女の言葉は正しかった。邇芸速日は、彼女の教えた通り、出雲国は美保関の潜戸で、岩戸で蓋をした中に引きこもっていたのだ。


「……しかし、逃げてくれてた方が、まだましだったよ。まさか、本当に出雲王の手下にされてたなんてさ。こんな事、気の毒でとても父上には言えやしないよ!」

 立ち上がった邇邇芸は、兄を見下ろして苛ついた口調で詰った。

「オレのこれまでの苦労も知らず、わかったような口をきくな! オレはただ、どんな困難の中でも、自分にとってよりよい方法を模索していただけだ!」

 邇芸速日は、むっとした顔で言い返した。

「その結果が、岩戸の中で引きこもりだろ! 情けないったら、ありゃしないよ!」

「うるさい! 事態が膠着した時には、じっとして周囲の変化を待つことも大事なんだ! お前みたいなガキに分かるかっ」

「なんだよ、兄上は、どうすればいいか、自分では何も思いつかなかっただけじゃないか! ボクが降りてきたから、今こうしていられるんだろ!」

 天津神の兄弟は、険悪な雰囲気のまま睨み合った。

 元々、特別に仲がいいわけでも悪いわけでもない。

 普段ならば、お互いに大して関心もなかった。佐具女に宣言した通り、邇邇芸は『自分の為』だからこそ、ここまでやってきたのだ。

 岩戸の中で発見した時、邇芸速日は、

『ここは居心地がいいから、暫くこのままでいたい』

と言いはった。

 しかし、邇邇芸から追手がかかっている事を知らされた途端、掌を返したように弟の言う事に従った。

 邇邇芸と邇芸速日は呪力を使って潜戸の中から抜け出したが、岩戸は元のままにしておき、まだ邇芸速日がその中にいるかのように見せかけておいた。

 しかし、遅かれ早かれ、いずれ邇芸速日が潜戸から出奔したことは暴かれる。その時の為に、邇邇芸は『秀真』を岩壁に残しておく事にした。

 追手に、「邇芸速日は『珠』を探しに行った」と思わせるのだ。

 そうすれば、彼らは見当違いな所を捜し歩くだろう。それで、随分と時間が稼げる。その間に、『斎庭の穂』を見つけてしまえばいい……。

 邇邇芸一人の頭では、とてもこれだけの計画は思いつけなかった。全て、あの佐具女が授けてくれた知恵だ。

 あの女神にいかなる思惑があるのかは知らないが、今のところ計画は全て成功している。そのせいか、邇邇芸はかなり佐具女の事を信用する気になっていた。

 ここまできた以上、後は『斎庭の穂』さえ手に入れば、それで天照大御神との裏交渉に持ち込める。やっとの思いで、後一歩という所まで来たのに。

 肝心の邇芸速日自身が、ここにきて足を引っ張り始めていた。



「……大体だな、オレは、わざわざこんな山登りなんかしなくってもよかったんだ。あのまま潜戸の中にいた方が、どれだけ楽だったか……」

「まーた、始まった。それ、何回繰り返せば気がすむのさ!」

 とめどなくこぼされる邇芸速日の繰り言に、邇邇芸はいい加減辟易して顔をしかめた。

「そもそも、天を追われた時からオレの不幸は始まったんだ。ああまったく、地上はさばえなす悪神の国だよ本当に……」

 呆れ顔で見下ろす弟を無視し、邇芸速日はひとり己の不幸に浸っていた。

 高天原にいた時は、良かった。主流派の邇芸速日は常に下位の神々に敬意を払われ、何不自由なく気ままに暮らしていた。

 しかし、ある日の神集いをさぼってしまった事から、この不幸の連鎖は始まった。

 それは、地上行き第一号を決める集いだったのだ。神々は皆、自分が行きたくなかったものだから、その場にいなかった邇芸速日に役目を押しつけた。

 天照大御神の勅命を拒むわけにもいかず、邇芸速日は『十種の神宝』を押しつけられて、結局地上へ行かされるハメになった。


 邇芸速日が天磐船に乗り、地上へ降下している最中に、まず第一の災難が彼を襲った。「天の八又」にさしかかった時、そこの主である猿田彦が、邇芸速日から『十種の神宝』を奪おうとしてきたのだ。

 揉み合いの挙げ句、邇芸速日はたった一人で豊葦原の紀伊国へ堕とされた。その時に、神宝は全て地上のどこかへ飛んでいってしまった。

 さて、未知の世界で、身の振り方も分からず途方に暮れた邇芸速日は、とりあえず偶然見つけた土地の男・大山彦に依り憑き、山奥の洞穴に引きこもって静かに暮らす事にした。それは退屈だったが、それなりに平穏でもあった。

 しかし、そこへ……。

 そこへ、ある日突然、あの志貴彦たちがやってきたのだ。


 その時志貴彦は、異母兄たちと諍いをおこし、故郷を追われて豊葦原を彷徨っていた。そして紀伊国で出会った大山彦の妹に頼まれ、その兄を捜しに来たのだ。

 驚くべき事に、志貴彦は旅の間に、邇芸速日が失くした神宝の一部を見つけ、我が物としていた。

 邇芸速日は神宝を取り戻そうと、志貴彦に呪術勝負を挑んだ。しかし彼はあっさりと敗北した挙げ句、真名をとられて志貴彦に従属する事になってしまった。

 --しかし、邇芸速日の不幸はそれだけでは終わらなかった。

 志貴彦に従属した事は、天津神としては確かに屈辱である。しかし、逆に言えば、それは地上での安全な身分を確保したという事にもなった。

 主となった志貴彦は変わった少年で、何故か邇芸速日を『友達』として扱ってくれた。もし、もう少し長く彼らとの日々が続いていれば、いつか本当に『仲間』と思

える時が来たのかもしれない。

 だが運命は、あくまで邇芸速日にとって過酷だった。

 邇芸速日が地上への帰属を決めた途端、高天原から第二の使者--武御雷がやってきたのだ。

 武御雷は、邇芸速日が及びもつかぬ程の見事な手腕で、出雲王である志貴彦と、彼に与する者達を屈伏させた。

 志貴彦に従っていた邇芸速日は、当然武御雷に見つかった。武御雷は、出雲に与した邇芸速日の姿を見て、「裏切り者」と詰った。

 その時邇芸速日は、むきになって武御雷に身の潔白を訴えた。志貴彦達と過ごした時間はまだほんの僅かだったし、やはり邇芸速日には天津神としての自分の方が大切だったのだ。

 武御雷は、「潔白ならば『証』を示せ」と邇芸速日に迫った。追いつめられた邇芸速日は、言われた通り高天原への恭順をあらわした。

 --つまり、『御魂振り』という禁術を使って志貴彦を殺そうとしたのだ。

 志貴彦は一度死にかけたが、結局息をふきかえした。

 そして『国引き』という、誰も思いもつかなかった方法で混乱した事態を収集し、武御雷を天へ追い返した。

 全てが終わった後で、志貴彦は邇芸速日を赦してくれた。屈託なく笑って「友達だから」と言ってくれた。

 しかし……。

 こんな自分に、彼らの仲間である資格があるだろうか。もはや天にも地にも、どこにも自分の居場所はない。行きつく先は、ただ暗い闇の中。永劫に光の入らぬ岩戸の中だけが安らげる場所なのだ……。



「……やっぱり、戻ろうかな……潜戸へ……」

 膝を抱いた邇芸速日がぼそっと呟くと、傍らにいた邇邇芸が即座に形相を変えた。

「それじゃ、兄上はよくてもボクらが困るんだよ! 絶対連れてくからね。さあ、立って!」

 邇邇芸は、兄の腕を引っ張った。邇芸速日がいやいや立ち上がる。

 だがその時、何か鋭い風のような物が、邇芸速日の左頬を掠めた。

「なんだ……!?」

 『何か』は、そのまま邇芸速日の横を擦り抜け、後ろの霧の中に吸い込まれていった。

 邇芸速日は、手の甲で己の左頬を擦る。そこには、薄く血の跡がついていた。

「血……?」

「あ、兄上!」

 邇邇芸が切羽詰った声で叫んだ。

 突如、彼らに向かって数本の矢が降り注ぐ。

「うわ、なんだ、これは!?」

 邇芸速日は、咄嗟になんとか身をかわした。飛んできた鋭い矢尻は、何本か邇芸速日たちの衣の端を射貫き、どこかにあるであろう木の幹に突き刺さる音を立てた。

「……動くなよ、余所者……」

 呻くような声を響かせながら、霧の中から二人の男が現れた。

 それは、どちらも弓矢を構えた大男と小男だった。木の皮で茶色く染めた簡素な衣をまとい、目の回りを黒く隈取っている。

「……どうもここ数日、峰の中に変な気配がすると思ったら……やっぱり余所者が入り込んでやがったな……」

 大男は、矢の照準を邇芸速日の額に合わせたまま、憎々しげに呟いた。

「……この高千穂の霊峰を、よりにもよりって余所者に穢されるとは……絶対に、許せん」

「どうするんだ、大鉗おおくわ

 隣に並んだ小男が、その弓で邇邇芸の心臓を狙ったまま大男に尋ねた。

「無論、ここで射殺すさ、小鉗こくわ

 大男は、凄味のある声で小男に答えた。

 男達は粗野だが、まるで熊のように恐ろしい迫力で邇邇芸たちを見据えていた。天津神の兄弟は、身動きもできぬまま、引きつった顔を身交わした。


「な、な、なんだ、こいつらは……?」

「……多分、土蜘蛛だよ、兄上……」

「土蜘蛛……?」

「日向の土着の民さ」

 小声でそう告げると、邇邇芸は素早く腕を動かして、

大鉗・小鉗に向かって何かを投げるような仕種をした。

 途端、薄暗かった周囲に光の閃光がほとばしる。

「なんだ、これは……!?」

 突然の光に驚いた大鉗・小鉗は、弓を離して両手で目を庇った。その隙を見て、邇邇芸が兄の腕を掴む。

「逃げるよ、兄上!」

「あ? ああ……っ」

 弟に引き摺られながら、邇芸速日もその場から走り出した。

「逃がすな! なんとしても、奴らを仕留めろっ」

 大鉗の叫びに呼応するように、霧の中から無数の矢が飛んできた。どうやら、中にはまだ多くの手勢が潜んでいるらしい。

「おい、邇邇芸、今の光はなんだ!?」

「……ええ!? 単純な光玉じゃないか。兄上も呪術神の端くれなら、あれくらいやってよね!」

 情けなさに悲鳴をあげながら、邇邇芸は必死に矢の雨の間を走った。その後ろを邇芸速日が、荒い息でなんとかついてくる。

 前も後ろも分からぬ霧の中を、二人は懸命に走った。息は切れ、汗はしたたり落ちる。避け損ねた矢が何本かあたって皮膚や衣を傷つけたが、そんな事を気にしている余裕はなかった。

 道なき道を闇雲に進む内、段々と射かけられる矢がまばらになってきた。それでもまだ走り続けていると、やがて矢は完全に飛んで来なくなった。

「……あ、はあ……っ」

 ずっとまとわりついていた土蜘蛛の微かな気配も消えた時、邇邇芸はやっと安心して足を止めた。

「た、多分、もう大丈夫だよ、兄上」

「……そうか……?」

 限界を超えて走り回った邇芸速日は、既に意識が朦朧としていた。

 彼は、放心したまま立ち止まった。

 「それにしても、ここは一体どこ……」

 呟きながら顔を上げた邇邇芸は、その時、眼前に信じられぬ物を見た。

「あーーっっ」

「な、なんだ、また土蜘蛛がいたのか?」

 邇芸速日はビクッと身を震わし、怯えながら周りを見渡した。

「違うよ、兄上。あれを見て」

 邇邇芸は、すぐ前にそびえる物を指さした。

 彼らの目の前……数歩先の霧の中に、突き立てられた巨大な逆鉾がある。


「逆鉾か……これが……」

 邇芸速日は、前方に屹立する逆鉾を見上げながら、呆然と呟いた。

 三つ又の逆鉾は、邇芸速日の倍ほどの大きさがあった。

 それは薄い朱色をしており、所々錆びている。

 柄の根元はひときわ濃い霧で隠されていて、逆鉾が一体山のどこに刺さっているのか分からないようになっていた。

「たどり着いたんだ……ついに……」

 邇邇芸は、逆鉾を見上げて、感慨深げに言った。

 この数日間、求めても求めても、一向に近づく事の出来なかった、逆鉾。

 それが、今、こうして目の前にある。

 ただ夢中だったので、どの道をたどってここまで来たのかは覚えてないが、土蜘蛛から逃れようと闇雲に走り回っている内に、やってくることが出来たのだ。

「この逆鉾の下に、『斎庭の穂』があるんだ……」

 夢見るように言いながら、逆鉾に向かって数歩進みかけた邇邇芸は、突然何かにぶつかったように立ち止まった。

「……どうしたんだ、邇邇芸?」

「ここから先へは、進めない……結界が張ってある」

 邇邇芸は、手を伸ばして悔しそうに呻いた。

 探し求めた逆鉾は、すぐそこにあるのに、目に見えぬ何かが……邇邇芸が破れない結界が間を阻んでいて、先へ進むことが出来ない。

「結界? 解除できないのか?」

 邇芸速日は弟の隣に並び、透明な膜に似た『境界』を手で叩いた。

「無理だよ。これは、ボクらよりも高次の力場で造られている。もっと、上位の力でないと……」

「情けないな、お前。それでも天津の呪術神か」

「兄上だって、同じだろ! それにしても、誰がこんな高度の技を……」

 言いかけて、邇邇芸は言葉を飲み込んだ。

 目に見えぬ境界の向こうで、何か薄い影のような煙が立ち上り始めたのだ。

 ゆらゆらと揺らめく煙は次第に大きくなり、二本に分かれた。

 そしてそれは、段々と濃い色彩を帯び、人のような形を成してゆく。

 無言のまま凝視する邇邇芸と邇芸速日の前で、煙は突如二人の乙女に変化した。



「……はい、こんにちはー」

 現れた乙女たちは、声を揃えていきなり挨拶した。

 彼女たちは、ある一点だけを除いて、ほぼ同じ姿をしていた。

 高く一つに結い上げた髪、ほっそりとした姿態、薄紅色の優美な裳、乳白色の領巾……

その発した声までも、二人は寸分違わない。

 しかし決定的に違うのは、彼女たちの持つ、その容貌だった。

 右手に立った乙女は、桜花の咲き誇るが如くに、匂いやかな美女だった。

 左手に立った乙女は、長い間風雨に晒されて、すっかり荒びてしまった岩の様な醜女だった。

「わたくしは、コノハナサクヤヒメ、と申します」

 右の美女が名乗った。

「わたくしは、イワナガヒメ、と申します」

 左の醜女が名乗った。

「わたくし達は、姉妹です」

 二人の乙女は、同時に喋った。

「はあ……」

 突然出現した乙女に度肝を抜かれた邇芸速日は、虚ろに呟いた。

 姉妹といわれて、納得出来るような気もするし、釈然としない気もする。

「わたくし達は、逆鉾の番人です」

 イワナガヒメが、無表情のまま告げた。

「あなた達が探しているのは、これかしら?」

 サクヤヒメが、鮮麗な笑みを浮かべて訊いた。

 彼女が掲げた両手の上に、こつ然と金色の稲穂が出現する。

「それは……斎庭の稲穂……!」

 驚いた邇邇芸は、咄嗟に手を伸ばして、稲穂を掴もうとした。

 しかし指は空しく透明な膜にぶつかり、稲穂はすぐにサクヤヒメの手の上から消え失せた。


「残念でした。これは、幻です」

 サクヤヒメは、邇邇芸に両の掌を見せながら、気の毒そうに言った。

「幻……?」

 右手を伸ばしたまま、邇邇芸は戸惑いの表情を浮かべる。

「本物の稲穂はこの結界の中、逆鉾の根元にあります」

 イワナガヒメは、平板な声で、淡々と語った。

 そして、姉妹は再び声を揃えて、邇邇芸たちに尋ねた。

「あなた達は、この結界を通りたいですか?」

 ……その、乙女たちの唱和を聞いた、時。

 邇芸速日の体の中に、なんともいえない嫌な感覚がわいた。

 これまで、数々の不運に見舞われてきた邇芸速日は、不吉なものに対する直感が、やたらにきくようになっていた。

 その、彼の発達した防衛本能が、しきりに『警戒』を呼びかけている。

(これは……関わらない方がいい……)

 邇芸速日は、そう確信した。

 そして、乙女たちから、そろそろと後ずさる。

 しかしそんな邇芸速日の隣で、弟の邇邇芸は、乙女たちに向かって素直に返答した。

「もちろん、行きたいさ。通してくれるの?」

「これからわたくし達の出す質問に正しく答えられたら、通してあげます」

 勢い込む邇邇芸に、イワナガヒメは無機質な声で答えた。

 邇芸速日は、そんな弟の姿を見て、よっぽど「やめておけ」と忠告してやろうかと思った。

 だがその時同時に、邇芸速日の頭の中で、姑息な考えが起こった。

『どうなるのか取りあえず、弟で試してみればいい』、と……。


「質問? 言っておくけど、ボクはこれでも、相当の学識を積んでいるんだ。大抵の問題になら、答えられるよ」

 邇邇芸は、自信ありげに胸を張る。

 乙女たちは、ほんの一瞬、互いの瞳を見交わした。

 そして、同時に邇邇芸を見つめると、再びその声を揃えて尋ねた。

「では質問です。わたくし達二人のうち、あなたが妻にしたいのは、どちらかしら?」

「へ?」

 邇邇芸は、きょとん、とした。

 てっきり、難しい問題を出されるとばかり思っていたのだ。

 邇邇芸は、戸惑いながら、並んだ二人の乙女の姿を見比べた。

 一人は、花のように麗しい美女。

 もう一人は、岩のような恐ろしい醜女。

「えーっと…………、サクヤヒメ」

 邇邇芸は深く考えず、万人が述べるであろう答えを口にした。

 しかし、その瞬間。

「呪われろっっ」

 突如、イワナガヒメが憤怒の形相を浮かべ、邇邇芸の顔に向かって息を吹きかけた。

「呪われろ、愚かしき天神の御裔! 目に映る顔よきもの、木の花の如き儚き麗しさに惑わされる、愚鈍な者め。我を選べば、きさまの命は、雪降り風吹くとも、巌のごとくとこしえであっただろう。しかしきさまは、愚かにも散りゆくさだめを選んだ。故に、汝と汝の血より生まれる全てのものは、うつろい衰え果てる死の命を持て!」

「あああああっっ」

イワナガヒメの怨嗟を浴びた途端、邇邇芸は両手で顔を押さえてうずくまった。


「助けて、助けて誰か……兄上……っ」

「どうしたんだ、邇邇芸!」

復若(おち)が……ボクの中の、おちの力が消える……」

「なんだって!?」

 邇芸速日は仰天し、慌てて弟に触れようとした。

 しかし、邇邇芸は兄の手を振り払う。

 その瞬間、ちらっと、邇邇芸の顔がかいま見えた。

「……っ」

 邇芸速日は、ぞっとして、言葉を失った。

 邇芸速日と同じように、そこいらの女神よりも美しかった邇邇芸の肌に……無数の細かいひび割れが刻まれている。

「罠だ、これは……。誓約(うけい)だったんだ……」

 深く顔を覆い隠し、邇邇芸は苦しそうに呟いた。

 イワナガヒメに呪いの言葉を吐かれた瞬間、邇邇芸ははっきりと、己の中の復若が砕かれるのを感じた。

 天津神は、その殆どが、初めから半永久的な不老不死に生まれついている。

 それゆえ、「死を賜る」か、「殺される」ことでもない限り、不変の命を保ち続ける。

 しかしそれも全て、恒常的に若さを保つ『おち』の力を備えているからこそ、出来ることだ。

 その『おち』が内部から消滅してしまった今、邇邇芸は……。

(人や動物のように、可死の……有限の存在へ、ボクは……)

 固く目を瞑ったまま、邇邇芸は恐怖にうち震えた。

 無限種の天津神に生まれながら、呪いによって、有限の存在へと落とされてしまった。

 いや、邇邇芸だけではない。

 呪いの中で、イワナガヒメは、「汝と汝の血より生まれる全ての者」と、明言したではないか。

 この先、邇邇芸が生むであろう子も、その子孫も全て、天津神の血を持ちながら有限の生命に縛られる、呪いの生を辿ることになるのだ。

 『誓約』は、言葉に呪力をかけた勝負だ。

 邇邇芸は、それに負けた。

 この呪いは、永久に有効だ。

 けして、敗れることはない……。


「さあ、あなたもお選びなさいな」

 打ちのめされてうずくまる邇邇芸を一顧だにせず、サクヤヒメは笑顔のまま、邇芸速日にも選択を迫った。

「あああ……」

 美しい化け物を前に、邇芸速日はうろたえる。

 邇芸速日は、弟をおいて逃げ出そうとした。

 しかし、素早く進み出た姫たちが、彼の両腕を掴む。

 姫たちは、邇芸速日達が超える事の出来なかった結界の内外を、自由に行き来出来るのだった。

「さあ、選ぶのです」

 女人にはありえない腕力で邇芸速日の手を捕らえたまま、イワナガヒメが言った。先ほどまであんなに荒れ狂っていたのに、もう元の無表情に戻っていた。

 逃げ場をなくした邇芸速日の額に、汗が流れ落ちた。

 先ほど、邇邇芸は美しいサクヤヒメを選んで可死の呪いを受けた。

 では、イワナガヒメを選んだら? 助かるのか?

 ……いや、そんなはずはあるまい。きっと、そちらにも罠があるはずだ。

 なんと答えても、必ず男を破滅に導く罠が。

 彼女たちの存在の基盤には、美醜に固執する男を祟る、深い怨念がある。

 しかし、この怨恨の形は……確か昔、似たような話を聞いた覚えが……。

(イザナミ……?)

 邇芸速日は、はっとした。

 そうだ、これは、醜く変貌した己を棄てた夫・イザナギに対する、イザナミの恨みに似ている。

 ではこれは、彼女の復讐の呪詛なのか。

 この美女と醜女は、共にイザナミの側面ということになるのか?

(しかし、何故あの地母神が……)


 焦る邇芸速日の耳に、その時突然若い男の怒号が突き刺さった。

「--見つけたぜ! 邇芸速日!!」

「えっ……!?」

 振り返った邇芸速日の眼前に、忽然と数人の男達が出現した。

 一人は、金色の弓矢を抱えた髪の長い青年。

 いま一人は、襲を深く被った顔の見えぬ少年。

 そして最後は、頭の上に小人を乗せ、首から光る鏡のような飾りを下げた、見覚えのある少年で……。

「……志貴彦!?」

 邇芸速日は唖然と、小人を連れたその少年の姿を見つめた。

 そう、そこに現れたのは、紛れもなく八束志貴彦--邇芸速日の地上の主であり、同時に『友達』でもあるはずの少年だった。


「……やあ、本当にここにいたんだね、邇芸速日」

 志貴彦は邇芸速日の姿を見つけると、屈託なく笑いかけた。そして、傍らにいた襲の少年に、感心したように話しかける。

「やっぱり君がいると、目的地に早くつくねえ、御諸」

『当然だな。この【熊の神籬】は、望む場所へどこだろうと瞬時に移動できる。……まったく、便利な代物だよ……』

 襲の少年は、その手に持っていた緑の小枝を得意気に振ってみせた。

『……それじゃあ、オレはここまでだ。あとは、お前らで好きなようにやるんだな』

 そう言い残すと、襲の少年は現れた時と同じように唐突にその場から姿を消した。

「志貴彦……お前、なんでここに……?」

 邇芸速日は、愕然としながら志貴彦に訊ねた。何故今、よりにもよって彼がこんな所に出てきたのか、まったく分からなかった。

「はは、君もなんだか取り込み中だったみたいだね。ま

た、何か揉め事かな?」

 志貴彦は、姫達に捕まったままの邇芸速日を眺めると、面白そうに言った。

「僕っていうよりね、彼が君に用があるんだってさ」

 志貴彦は、隣に立つ見知らぬ青年を片手で指さした。

「彼……?」

 邇芸速日は、腕を押さえられたまま、その青年へ視線を移す。

 それは、見覚えのない男だった。

 派手な神御衣。じゃらじゃらと手足に付けた宝玉。無駄に毛先を長く伸ばした奇抜な角髪。そして、その身に纏った全ての装飾に負けぬ、ひときわ華やかな顔立ち。

 彼が天津神だということは、一目で分かった。しかし、これは一体誰だったか……。


「お前……お前、誰だっけ?」

「俺は、天之稚彦だ!」

 青年は、むっとしたように怒鳴った。

「アメノワカヒコ……稚彦、そんなのいたっけ……?」

 邇芸速日は、頭を捻った。

 どこかで聞いたような気もする。しかし、すぐには思い出せない。

 ということは、直接話した事はない相手だ。自分たちと、あまり親交のない神族。……つまり。

「--オレより下級の神族だな?」

 邇芸速日の問い返し方は、いたく天之稚彦の心証を害したようだった。彼は金の弓矢を抱え直し、険のある声で邇芸速日に告げた。

「ああ確かにそうだ。……しかし、今は役目を受けている」

「--役目?」

「お前を地上で捕縛し、天へ連れ帰って裁きにかけるという『重要』な役目だよ!」

 天之稚彦は、「これでどうだ!」といわんばかりに、一気にまくしたてた。

「……げっ!!」

 天之稚彦の宣告を聞いた途端、邇芸速日は色を失う。

 --そうだ。確かに、弟が潜戸に来た時言っていたではないか。

 邇芸速日の行方を追って、高天原から捕縛と断罪の使者が来ると。それから逃れる為に、自分たちはここまではるばるやってきたんじゃないか。

 恐れていた、天からの使者。それが--この天之稚彦なのか。

 邇芸速日は、まじまじと眼前の天之稚彦を凝視した。

 この男が、邇芸速日を高天原へ連れ帰る。

 そして全ての神々の前で、邇芸速日はその罪を問われるだろう。天を裏切り、地に帰属し、逃亡したその罪を……。

 邇芸速日から全てを奪い、破滅へと導く者--それが、とうとう目の前に現れてしまった。


(どうして……どうして、皆オレを放っといてくれないんだ……!)

 自分は、確かに務めを果たせなかった。だからといって、天に逆らおうとか、そんな大層な野心は微塵もないんだ。

 だったら、うやむやにしてくれたって、いいじゃないか。どうして、曖昧なまま生きていてはいけないんだ。

ただ静かに……静かに、一人でいたかっただけなのに。

 そんな小さな望みさえ、天は許してくれないというのか。

 邇芸速日が絶望に打ち菱がれていると、彼の前で志貴彦が困惑した声をあげた。

「……えー!? 稚彦ってば、そんな用事で邇芸速日を探してたの?」

「ああ、そうだ……言ってなかったか?」

 稚彦は志貴彦を一瞥し、素っ気無く答えた。

「聞いてないよー。そんな理由なら、僕、君をここまで連れてこなかったのに」

 志貴彦は口を尖らせながら、天之稚彦に非難がましい視線を浴びせる。

 その声を聞いた途端、邇芸速日は救いを求めるように志貴彦を見上げた。

 --そうだ、志貴彦がいる。彼は、邇芸速日の『友達』だったじゃないか。

 どうして志貴彦が天之稚彦と一緒にいるのかは知らないが……もしかしたら、昔、武御雷を追い返した時のように、今度も天之稚彦を撃退して、邇芸速日を助けてくれるかも知れない。


 邇芸速日は、志貴彦に助けを求めようした。しかしその時、彼の耳に乙女たちの不吉な会話が聞こえてきた。

「……あっちの方が、いい男ね」

「そうね、これより面白いわ」

 咲耶姫と石長姫は、邇芸速日の腕を抱えたまま、天之稚彦を見つめて頷きあった。

「あっちにしましょう、石長姫」

「そうしましょう、咲耶姫」

 姉妹は阿吽の呼吸でそう言うと、共に稚彦に向かって呼びかけた。

「……ねえ、そこの、あなた」

「こちらをご覧なさいな」

「……へ?」

 二人に話しかけられて、天之稚彦は初めて気づいたように乙女たちを見た。

 それまで、邇芸速日を捕まえている姫達の姿は、稚彦の眼にはただの背景としてしか映っていなかったのだ。

「あなたが求めているのは、この神かしら?」    

 咲耶姫は妖艶に微笑んで、稚彦の前に捕まえた邇芸速日を突き出した。

「……あ? ああ……」

 突然に咲耶姫に質問された稚彦は、戸惑いながら答えた。

「では、わたくしの質問に正しく答えられたら、あなたにこの男を差し上げます」

 石長姫は、凄まじい力で邇芸速日の上腕を締め付けながら、淡々と稚彦に告げた。

「--はあ?」

 稚彦は怪訝そうに眉を顰めたが、石長姫は構わずそのまま言葉を続けた。

「わたくし達二人の内、あなたが『汝妹』にしたいのは、どちらかしら?」

「……へぇ!?」

 稚彦は頓狂な声をあげて、パカッと口を開いた。

 訳が分からぬ様子で、対照的な二人の姫の姿を交互に見回す。

 しかしその時、捕まえられたままの邇芸速日は、心の中で「やった!」と歓喜の叫びをあげた。

 稚彦は何も分かってないが、今、彼に向かって恐怖の『誓約』が発動されたのだ。

 この男も、間違いなく咲耶姫を選ぶだろう。そして、弟の邇邇芸と同じように呪いにかかる。そうすれば、邇芸速日を追うどころではなくなるに違いない。


「……いや、俺、どっちも別にいらないわ」

 しかし邇芸速日のあえかな期待を裏切って、天之稚彦は、素っ気無く姫達に答えた。

「俺、まだ汝妹とか興味ないし。めんどくさいだけじゃねえ?」

 本当にどうでも良さそうに、稚彦は呟いた。

 稚彦の目の前にいたのは、希に見る美女と醜女だったが、彼はどちらにもまったく心を動かされた様子がなかった。

「……なんですって……」

 稚彦の答えを聞いた途端、咲耶姫の美しい瞳に不穏な光が浮かんだ。

「侮辱だわ……許せないわ……」

 その美貌に似合わぬ、怒気を孕んだ凄味のある声が咲耶姫の唇から発せられる。

「不遜ですわね……わたくし達に対して……」

 口調は穏やかだったが、空を切るように冷たい怒りが石長姫の身体から立ち上った。

「な、なんだ……」

 尋常ならざる気配に圧倒されて、稚彦はじりじりと後ずさる。

「どうしてやろうかしら……」

「ただの呪いではすみませんわよ……」

 姫達は、幽鬼のように稚彦に迫った。一緒になって女達に引き摺られながら、邇芸速日は絶望的な気分になった。

 なんて馬鹿な男だ。姫達を本気で怒らせてしまった。

下手に泣き叫んだ時よりも、女はこうなった時が一番恐ろしい。

(『復若』を砕くよりも、恐ろしい何かをするつもりか……?)

 巻き添えになるのを恐れた邇芸速日は、再び助けを求めるように志貴彦を見た。

 しかし志貴彦は、眼前の騒ぎなど気にならぬ様子で、首から下げた鏡の飾りにじっと見入っている。

 やがて、得心がいったように「ああ!」と呟くと、稚彦の側に近寄って、彼の袖をくいくい引っ張った。


「……ねえ! これ、見てよ」

「--あ!? 今、それどころじゃ……」

 稚彦は切羽詰った声で答える。

「でも、見たほうがいいよ」

「なんだよ、一体……っ」

 稚彦は苛立たし気に、志貴彦の差し出した鏡を一瞥する。

 しかし次の瞬間、衝撃を受けたように、稚彦の双眸が大きく見開かれた。

「--成程な。そういうことか!」

 突如、稚彦の顔に不適な笑いが広がった。

 彼はいきなり地を蹴って後ろに下がった。そして、抱えていた金の弓を横向きに構える。

 稚彦は弦に二本の弓をつがえると、二人の姫に向かってその照準を合わせた。

「--何をする気!?」

 邇芸速日の腕を離さぬまま、咲耶姫は鋭い視線で稚彦を睨めつけた。

 しかし稚彦はまるで臆することなく、咲耶姫に向かって傲然と言い放つ。

「……いやお前ら、随分と面白い姿に化けてたもんだなあ。そのままだと、永遠に気づかなかったかもしれないだろうよ。--だが生憎と、こっちには『辺津鏡』があるんでね!」

「……ひっ!」

 稚彦がそう言った時、石長姫が初めてその顔に恐怖の色を浮かべ、上衣の袖で己の口元を隠した。

 怯える乙女の前で、稚彦はためらう事なく弦を引っ張った。ぎりぎりと音がするまでためた後、一気に二本の矢を放つ。


「--真実の姿に戻れ! 生玉と死反玉!」

 空を切る金色の矢は、瞬時に二人の姫に打ち込まれた。共にその額を射貫かれた時、姫達は同時に邇芸速日の腕を離した。

「おのれ……!」

 頭を矢で貫かれた咲耶姫は、両袖で額を押さえながら片膝をついた。乱れた黒髪の間から除く凄絶な瞳が、稚彦たちを睨み上げる。

「許さぬぞ……我らを砕く者め! この場と共に全て燃えてしまうがいい!」

 断末魔の叫びを残すと、咲耶姫の姿はぐずくずと溶け落ち、最後には薄紅色の丸い塊になった。

「燃えろ、燃えろ……全て消えてしまえ!」

 咲耶姫に続いて呪いの言葉を残し、石長姫も同じように溶けて消えた。そして、その後には乳白色の丸い玉が残される。

 稚彦は弓矢を収めるとほうっと息をつき、放心して座り込む邇芸速日の側に歩み寄った。

 そして彼は腰を屈め、邇芸速日の両側に残された薄紅と乳白色の玉を拾い上げる。

「『偽りの姿を砕かれれば、神宝はその真の姿を曝け出す』……か。御諸があの後に言ってた事も、あながちでたらめじゃなかったって訳だな」

 稚彦は、二つの玉を手の中で転がしながら呟いた。

 それは、『鏡』を手にした後、高千穂へ向かう前に、御諸が気紛れのように口にした言葉だった。


「しかしまあ、こんな所で本当に残りの神宝に出くわすとは。妙な偶然もあるもんだ」

 稚彦は、己の手の中にある玉をじっと見つめた。

 咲耶姫に化けていた薄紅の玉は、生を操る『生玉いくたま』。

 そして、石長姫に化けていた乳白色の玉は、死を操る『死反玉まががえしのたま』。

 二つとも、『十種の神宝』に数えられる希少な宝玉だった。

「いや、偶然じゃないか。そういや、お前『珠』を探してたんだもんな。お前の所にくりゃ、それがあるのも道理ってことか。……だが悪いな。この生玉と死反玉は、俺がもらっとくぜ」

 二つの玉を懐に収めながら、稚彦は片手で邇芸速日の頭をぽんぽんと叩いた。

「ああ……?」

 俯いたまま、邇芸速日は虚ろに答える。

 混乱する頭の中で、数え切れぬ程の疑問がぐるぐると渦巻いていた。


 これは、どういう事だ。あの二人の姫が、『生玉』と『死反玉』だっただと?

 すぐ目の前にいたのに、自分はそれに気付かなかった。なのにどうして、天之稚彦にはそれが分かったんだ。

 --いや、待てよ。彼は確かさっき、『辺津鏡』を持っていると言っていた。そもそも何故、彼らの手に『辺津鏡』があるんだ!?

 大体、自分は、『珠』など探してはいなかった。あれは邇邇芸が考えた、ただのめくらましだったはずだ。

 だが実際自分たちは『珠』に辿りつき、しかしそれは天之稚彦に横取りされて……。

 一体、何と何がどう繋がっているんだ。

 これは、どういう状況なんだ……!

 いくら考えても、答えは出ない。事態は、完全に邇芸速日に理解できる範疇を超えていた。


「……しかし、『珠』が自分であんな姿に変わったっていうのも、おかしな話だよな。誰か『珠』を変化させた奴がいるはずなんだが、そいつは一体……」

 思い悩む邇芸速日の横で、稚彦は考え込むように呟いていたが、不意に口を噤んだ。

 息を呑んで一点を見つめる。

「……なんだ、何かまたあったのか……?」

 怪訝そうに立ち上がる邇芸速日の背後で、突如轟音が響き渡った。

 邇芸速日は、驚いて振り返る。そこで彼が見たのは、全身に亀裂が入り、真っ二つに折れていく『逆鉾』の姿だった。

「逆鉾が……!?」

 邇芸速日は悲鳴をあげる。

 二つに折れた逆鉾は、霧の彼方に崩れ落ちていった。その直後、周囲に炎が沸き上がる。燃え盛る火は勢いよく霧を飲み込み、瞬く間に雲海を炎の海に変えた。

 激しい炎を見つめながら、邇芸速日は蒼白になった。

 逆鉾は、折れてしまった。そして周りの霧が、燃えている。--と、いうことは。


「稲穂が……『斎庭の穂』が失われる……!」

「おい、それ以上行くとお前も燃えるぞ!」

 咄嗟に走り出そうとした邇芸速日の肩を、稚彦が押さえて止めた。

 はっとした邇芸速日は、その場で立ち尽くす。

 炎は、まるで意志を持った生き物のように荒れ狂い、邇芸速日達の周りに迫っていた。

 『番人』である咲耶姫達が消えた以上、逆鉾との間を阻んでいた結界も解かれたはずだ。

 しかし、炎の勢いを目の当りにした邇芸速日には、それ以上進む勇気がなかった。

 邇芸速日はただ呆然と佇立したまま、稲穂を取り戻す事もできずに、じっと激しくなる炎を見つめていた。

「……大変じゃ! 力場が壊れるぞ!」

 それまで黙って事の成りゆきを見守っていた少彦名が、突然焦って声を上げた。

「--壊れたら、どうなるのさ?」

 頭の上の少彦名を見上げて、志貴彦が妙に冷静に聞き返す。

「全員、この場と一緒に消滅じゃぞ!」

「……そりゃ大変だ。ねえ、御諸! 御諸、来てよ」

 少彦名の言葉を聞いても、志貴彦は相変わらず落ち着いていたが、とりあえず急いで虚空に向かって呼びかけた。

『……なんだ。もう、オレの助けがいるのか?』

 志貴彦の求めに呼応して、すぐに御諸は現れた。

「見てわからないのかい? このままじゃ、皆燃えてしまうよ! ここから、全員避難させてよ」

『……どこへだよ』

「うーんと、とりあえず、出雲の今の僕の家まで」

『しょーがねえなあ、ったく』

 御諸は大儀そうに言いながら、右手で懐から小枝を取り出した。そして、左手で枝の先端を弾く。

 ビィィーン、と奇妙な音波が全員の耳殻に突き刺さった。

 次の瞬間、御諸と共に、その場にいた全ての男達の姿がかき消えた。--そして、霊峰高千穂の中には、荒れ狂う炎だけが残された。















『第五章終わり 第六章へ続く』

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