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空見つの国  作者: かざみや
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 第四章 和尓(わに)の純愛

 斐伊川は、別名「出雲大川」とも呼ばれる。

 その源は、伯耆と出雲の境にある鳥上山から流れ出ていた。川はそのまま仁多郡の横田の村に出て四つの郷を経由し、大原郡の境に出る。そして更に、斐伊など四つの郷を通って出雲郡の境の多義の村に出、河内と出雲の二つの郷を通り、北へ流れ更に折れて西へ流れ、最後に杵築の郷を通って「神門かむど水海みずうみ」に入った。

 出雲国全体を西流する大河である斐伊川は、人々に多くの実りをもたらす。川の両岸は地味が豊かであり、ある所では桑・麻などが枝がたわむほど実り、また別の所では土壌が肥沃なため草木が群がり繁っていた。

 また川の中では鮎・鱒・鮭・鰻など多様な魚が生息していて、淵や瀬を並び泳いでいる。

 「豊かなる園」とも称えられ、出雲の国人に量り知れぬ恵みをもたらすこの母川は、しかし同時に凶暴な側面も備えていた。一度大雨となれば途端に河川は溢れ、大洪水を引き起こす。斐伊川は古よりしばしばその流路を変え、数え切れぬほどの人々の命をも呑み込んできた。


 ……さて、稚彦たち三人は、その斐伊川をひたすら上流に向かって進んでいた。

 川辺を歩いている間に、稚彦たちは多くの村人に遭遇した。その度に、「上流の主」について何か知らないか、と尋ねてみたが、返ってくる答えはひどくまちまちだった。

『ああ、知ってるよ。主は若い娘が好物で、片っ端から喰ってしまうんだ。だから、上流には男と婆しかいなくなったんだよ』

『あれは、恐ろしい化物です。八つの頭と八つの尾を持ってるから、八俣の大蛇とも呼ばれているらしいですよ』

『なんかー、真っ赤なんだってー。目はほおずきみたいで、腹からはいつも血がしたたってるとかー』

『大蛇の体からは、様々な木が生えておるんじゃ。杉や檜や、色々のう』

 あまりにも人によって言う事が違うので、稚彦は「主」がどういう姿をしているのか、かえって想像出来なくなった。


「仕方ないよ」

 ごろごろと石の転がる川原を歩きにくそうに進みながら、志貴彦は平然と言った。

「……誰も本当の姿を見たことがないんだろ。だから、噂ばかりが大きくなってしまってるんだ。よくあることだよ」

 どうやら志貴彦は、「主」がどんな形態をしていようとあまり興味はないようだった。

 川は遡るほどに、足場の悪い急流となっていった。そこはもはや山の中の渓谷といってよく、多くの積み重なった巨岩や奇石がしばしば水の流れを塞き止めているため

に、進むことさえ困難になっていた。

「うーん、どうやら、僕らは阿伊川あいがわの方に入ってきちゃったみたいだなあ」

 巨石の折り重なる渓流を見回しながら、志貴彦は足を止めて呟いた。

「--阿伊川? 斐伊川じゃねえのかよ」

 清流をふさぐ奇岩をよじ登ろうとしていた稚彦が、非難がましい声を上げる。

「いや、元は斐伊川なんだけど。支流がいっぱいあってね。その一つがここだと思うんだよね。……見てよ」

 志貴彦は、渓谷を覆うように生い茂った、緑々しい楓の木々を指さした。

「この感じからすると、ここは多分下檜山したひやまだ。とすると、やっぱりこれは阿伊川なんだよ」

「……どっちでもいいけどよ」

 いい加減歩き疲れてきた稚彦は、投げやりに岩の上に座り込んだ。

「このままじゃ、先へは進めねえぞ。どうするよ」

「……さて、僕にきかれてもねえ……あれ?」

 答えかけた志貴彦は、ふと川面に何かを見つけてそちらへ目をやった。

 川上から、白い物が流れてくる。

 水縁に近づいた志貴彦は、腰を屈めて渓流の中へ手を入れ、流れてきた物を拾った。


「……櫛だ」

 手首を振って水を払いながら、志貴彦は拾った物を注視した。それは、いかにも使いこまれた様子の、古い柘植の櫛だった。

「……櫛が流れてくるということは、この上にもまだ人がおるという証ではないか?」

 志貴彦の頭にのった少彦名が、考え深げに言った。

「そうだよねえ? ……じゃあ、進んでみた方がいいのかなあ?」

 志貴彦が、頭を傾げた時。

 林の奥から、細い声が響いてきた。

「それは……わたしのだよ……」

 ぎょっとした志貴彦は、思わず背後を振り返った。

 楓の林ががさがさと揺れ、中から一人の老婆が姿を現す。

「ああ、櫛……わたしの大事な櫛……!」

 櫛が志貴彦の手の中にあるのを見つけた老婆は、慌てた様子で転がるように駆け降りて来て、その手から櫛をひったくった。

「よかった……これがないとわたしの大切なものが守れない……」

 愛しそうに櫛に頬擦りする老婆を、志貴彦は呆気にとられて見つめていた。そして、ある重要な事に気付くと口を開いた。


「--ねえ、おばあさんの髪は、櫛ですくほど残っていないんじゃない?」

「口の悪い子だね。どこから来たんだい。うちの村には、お前のようにしつけの悪い子供はいないよ」

 胡散くさ気に志貴彦を睨みつけると、老婆は大事そうに櫛を懐に仕舞い込んだ。

「『うちの村』って、じゃあこの上流に、やっぱりまだ人の集落があるのかよ!」

 稚彦は、枯れ木のように干からびた老婆を興味深げに見下ろしていたが、その言葉に驚いて声をあげた。

 奇岩で塞がれた堰の界隈は、景観としてはそれなりに面白いが、とても人の住める場所とは思えない。一体この険しい山の何処に、人の集落を築くだけの場所があるというのか。

「あるさ。ここは、阿伊村の地だ。……この川だって、昔からこうだったわけではないからね」

 老婆はきっと稚彦を見上げ、むきになったように抗弁した。

「どういうこと、おばあさん?」

 老婆の言い方が気になった志貴彦は聞き返した。

「……全ては、あの『化物』のせいだよ……」

「『化物』!?」

 志貴彦と稚彦は、同時に老婆の言葉に食いついた。

「やっぱりここには、大蛇がくるの?」

 目を煌めかせた志貴彦が、勢い込んで老婆に訊ねる。

「……さあ。あれがなんなのか、わたし達にはわからないね。だが、あれは恐ろしい化生だ。若い娘の歌声に引かれて川を上り来たり、その度にこの沢を壊す。……おかげで、美しかったこの阿伊村の渓谷も、今ではこんな有り様さ」

 老婆は、渓流の合間に点在する沢山の巨岩や奇石を眺め回し、悲しそうに溜め息をついた。

「阿伊村には尊い乙女が八人おった。しかし、その内の七人が化生の生け贄となってしまい、今や残るはただ一人。わたしたちは、絶対に乙女を守らなくては。……お前たちも、さっさとここから帰るんだね。化生は、いつ現れるか、まったくわからんよ……」

 項垂れながら呟くと、老婆は薄い白髪頭を振って、もとの林の中へ一人去っていった。


「……今の、どう思う?」

 老婆の消えた方を見つめながら、志貴彦は頭上の少彦名に尋ねてみた。

「そうじゃな。今までに聞いてきた噂の類よりは、多少は信憑性が高いかのう……」

「まあ、そうだよねえ」

 志貴彦も頷いた。

 なんだかあの老婆は怪しかったが、それでも言っていた話の内容には、ある程度の具体性があった。それになにより、現地の村人の証言である。

「……だったら、とりあえず実行してみたらどうだ?」

 苔むした岩の上に胡座をかいた稚彦が、志貴彦にそう呼びかけた。

「--実行? 何をさ?」

 志貴彦は、稚彦を見上げてきょとんとする。

「簡単な事だろ。--俺たちは、鉄が要る。鉄は、主が守っている。主と思しき化生は、乙女の歌声に引かれて阿伊川を上ってくる。……だから、お前、女装して歌ってみろよ」

「ええ!?」

 志貴彦は、迷惑そうに顔を歪めた。

「なんでそうなるのさ! なんか、それっておかしくない!?」

「おかしかねーよ。これ以上はないほど、すっきりとした論法だぜ?」

 稚彦は、自信に満ちあふれた様子で言い返した。

 彼の中では、なんの誤謬もない、我ながら見事な発想の展開だと思えていたのである。


「ともかく、乙女がいれば、化生とやらは出てくるかも知れないんだろ? おびき出してみようぜ」

「でも、なんで僕が女装しなきゃならないのさ」

「いいか、考えてみろよ? ここには、女はいない。ということは、誰かが乙女に変装しなきゃならないってことだ。だが残念な事に、俺には女装は似合わない。……だから、お前がやるしかない」

 岩の上から志貴彦を指さして、稚彦は勝手にそう決めつけた。

「ええー、やだよ! ねえ少彦名?」

 志貴彦は困り果てて、頭上の少彦名に助けを求める。

「……うーむ」

 少彦名は唸ると、立ち上がった。彼は腕を組み、岩の上でにやにやと笑う稚彦の姿をじっと凝視する。

「……たしかに、奴の女装姿は見たくないのう」

「ええ!?」

 志貴彦は仰天した。

 てっきり、少彦名は自分の味方をしてくれるものとばかり思っていたのだ。予想外の言葉に、志貴彦は当惑の表情を浮かべた。

「--へえ、小人? 珍しく意見が合うな」

 稚彦は、意外そうに少彦名を見つめた。

「ふん。わしは、思ったままを率直に述べただけじゃ。別にお主の味方などしておらん」

 少彦名は、つんと顔を背けた。

「えー!? じゃあ、僕なら似合うっていうの?」

「少なくとも、あやつよりはの」

 少彦名は、慰めるように言った。

 稚彦は、確かに美男の男神である。

 しかし彼は、手足の骨格がしっかりとしている為に、女装が似合うような中性的魅力はなかった。

 たとえ稚彦が髪をおろして裳をつけ、その身に領巾を纏ったとしても、そこには「気持ちの悪い男」が出来上がるだけだろう。


「でも僕、いま女物の装束なんて持ってないよ」

「……ああ、それはそんなに気にしなくていいんじゃないか?」

 口を尖らせる志貴彦に対し、稚彦は気楽な調子で言った。

「お前くらいの年頃なら、まだ完全な女の盛装なんてしてないもんだ。ガキは、男か女かわかんないようなカッコで、その辺走り回ってるもんだろ。とりあえず角髪だけ解けば充分だよ」

「そういう所は、大ざっぱなんだ。……わかったよ、もう。少彦名まで。結局、僕がやるしかないんだろ!」

 半ば投げやりに呟きながら、志貴彦は諦め顔で乱暴に角髪を結った紐を解いた。

 痛みのない柔らかい髪が、背中まで流れ落ちる。

 慣れない手つきで適当に髪をとかしつけたが、自分では果たして、これが似合っているのかいないのか、まったく分からなかった。

 志貴彦の頭から飛び降りた少彦名は、川原の小石の上に立って、不貞腐れた彼の姿をしげしげと見上げた。

「……どう? 乙女に見える?」

「うーーむ。……なんと答えたら、嬉しいかの?」

「何だって嬉しくはないよ」

 志貴彦は苦々しく答えた。

「……ま、とりあえず、それで歌ってみるんだな。運がよければ、化生とやらが来るかもしれないぜ」

 稚彦は、可笑しそうに笑った。

 言い出したのは自分だったくせに、稚彦はまるで他人事のように楽しんでいた。

「で、何を歌えばいいのさ?」

「俺に聞くなよ」

「……」

 志貴彦は膨れっ面で稚彦を睨むと、しゃがみこんで少彦名に尋ねた。

「ねえ、何歌えばいいと思う?」

「さてのう……何か、知っている歌でよいのではないかの?」

 少彦名も当惑して答えた。こちらも、あまりあてにはならなかった。

 仕方ないので志貴彦は、昔、杵築にやってきた『寿かひ人』が、芝居の中で歌っていた歌を思い出して、口ずさんでみた。


 この蟹や いずくの蟹

 ももづたう つぬがの蟹

 横さらう 何処にいたる

 伊地遅島 美島にとき

 みほどりの かづきいきづき

 しなだゆう ささなみぢを……


「……それは、いったい何の歌じゃ?」

 志貴彦がそこまで歌った時、少彦名が小声で訊ねた。

「蟹がお嫁さんを探しにいく歌さ」

 短く答えると、志貴彦はまた歌の続きを思い出して声を響かせた。


 うしろでは 小盾ろかも

 歯並びは 椎か菱なす

 いちいの わにさの土を

 初土は 膚赤らけみ

 底土は に黒き故

 三栗の その中つ土を……


「何が言いたいのか、さっぱりわからぬぞい」

「僕にだってわからないよ。蟹の理想の人のことなんだから……」

 そう言いかけた志貴彦は、不意に口を噤んだ。

 素早く立ち上がり、注意深く周囲に視線を走らせる。

 遠くから、何かが響く音がしていた。

 大地が揺れ、川面が激しく波打っている。上の林では楓の幹が震え、青々しい葉が何枚も志貴彦たちの上に降ってきた。

「おい……っ!」

 突然の地鳴りに慌てた稚彦は、岩の上で立ち上がりかけた。しかし濡れた苔の上でずるっと足を滑らせ、身体の均衡を崩す。稚彦は、そのまま勢いよく渓流の中へ落ちた。

 勢いの早い水に流されかけた稚彦は、焦って川底の岩に掴まった。そしてなんとかそれをよじ登り、水面にバシャッと顔を出す。

 頭を振って目を開いた稚彦は、その時眼前に信じられぬ物を見た。


 何かとても巨大な生き物が、川を遡ってやってくる。

 --それは、なんだか青白い体表をしているものだった。

 その生き物の胴回りは、ほぼ河幅いっぱいある。

 それは左右の渓谷にガンガンぶつかりながら、ヒレのように見える前足で懸命に水をかき、周囲に大雨のような飛沫を飛ばしながら近づいてきた。

 水の中で岩に掴まったまま、稚彦は呆然としてその生き物を見つめた。その巨大な生物は、のしのしと近づいて来たが、稚彦から数歩手前の所でその歩みを止めた。

 生き物は、ぬうっと尖った顔を上げた。

 そこには、人の拳くらいの大きさの、まん丸で真っ黒な瞳がついていた。

 生き物は、静止したまま、じいっと稚彦の姿に見入った。稚彦も、身動き出来ぬまま息を呑んで生き物と見つめ合った。

 生き物には、刃物で切り込みを入れたような口がついていた。やがて生き物は、突如その大きな瞳をうるうると潤ませ、口をぱかっと開いた。


「……姫じゃない」

 開いた口には、尖った歯が沢山並んでいた。

 しかしそこから漏れたのは、意外なほど愛らしい声だった。

「姫じゃない。歌が聞こえたのに、姫じゃない。うそつき、うそつき、うそつき……!」

 生き物は激しく身悶えし、体を揺すった。

 その度に水飛沫が飛び、渓谷が揺れる。

 生き物は、何か丸く銀色をした首飾りの様な物を紐で頭に吊るしており、暴れる度にそれが日の光を反射してぴかぴかと光った。

「な、なあ、ちょっと落ち着けよ、お前……」

 なんとか宥めようと、稚彦は生き物に声をかけた。その時彼は、それがあまりにも巨大ではあるが……『サメ』によく似ている事に気がついた。

「お前の探している姫っていうのは、あいつの事じゃないか?」

 稚彦は、川原に立ってこちらを見つめる志貴彦の姿を指さした。

 生き物は、目玉を動かしてじいっと志貴彦を凝視する。しかし、すぐに激しく頭を振り動かした。

「ちがーう、ちがーう、あんなの姫じゃなーい」

 だだをこねる生き物の様子は、まるで幼子のようだった。

「あーあ、『和尓わに』にも否定されちゃった。だから、君の計画はやっぱり駄目だったんだよ」

 志貴彦は溜め息をつきながら稚彦を非難すると、下ろしていた髪の毛を再び手早く角髪に纏めた。

「『和尓』? ……これは、サメじゃないのか?」

「そういうの、出雲では『和尓』って呼ぶんだ。よくあちこちの海にいるよ。……もっとも、ここまで巨大なのは、一度も見たことないけど」

「……じゃあ結局、大蛇じゃなくてこの和尓とやらが、斐伊川の主だったのか?」

 稚彦は、眼の前でじたばた暴れる『和尓』を見つめながら言った。

「うーん、でも普通、和尓は川にはいないんだけどねえ……」

「なにそれ! なにそれ! ボク、主なんてしらない。ボク、姫に会いたいだけ。姫はどこ。姫はどこ。姫はどこ!」

 和尓は、大きなヒレをばたばた動かした。巨大な図体のわりに、ひどく子供っぽい海獣だった。

「歌を歌ったくせに! 姫がいない! おまえたち、うそつき! だいきらいっ」

 和尓は、円らな瞳で稚彦を責め立てた。

 この幼い和尓にそんな風に言われると、なんだか稚彦は、こちらの方が悪人になったような気がしてきた。


「……っーか、そもそも『姫』って誰だよ」

「姫は、姫。ボクの大好きな人。姫にあいたい!」

「じゃあお前は、その『姫』とやらに会いたくて、ここまで上ってきたのか?」

「そうさ。あたりまえじゃないか!」

 和尓は、威張るように答えた。

「それでこの騒ぎか……結構、はた迷惑だよね」

「確かにのう」

 川原で志貴彦と少彦名はこっそり頷きあった。

「それで、その『姫』ってのは一体……」

 稚彦が聞きかけた時、渓谷の中に新たなる異音が響き渡った。

 川を塞ぐ巨石の向こうから、何か破裂音の様なものが聞こえてくる。

 なんだ、と稚彦が振り返った瞬間、凄まじい勢いで挟まっていた巨石が吹っ飛んだ。

「うわっ!」

 稚彦は、反射的に身を竦める。

 半壊した巨石は空を飛んで和尓の向こう側に落ち、そのままごろんごろんと豪快な音をたてながら渓流を落下していった。

 ついさっきまで岩がはまっていた空間に、一人の若い娘が姿を現す。

 娘は深い紅の上衣に、くすんだ白の裳を合わせて纏っていた。緩く結い上げた横髪には、赤い実のついた柊の枝を飾っている。


「--溝織姫みぞおりひめ!」

 娘の姿を見た途端、和尓が甲高い声で叫んだ。

鰐男わにお!」

 娘も叫び、歓喜の表情を浮かべて走り出した。

 川の中に浮かんでいた邪魔な稚彦を突き飛ばし、和尓に駆け寄ってその巨体をひしと抱きしめる。

「やっぱり、鰐男ね! 地響きがしたから、そうじゃないかと思ったのよ! ああ、よかった、またあなたに会

えるなんて……」

「寂しかったよ、溝織姫。何度来ても、ここから先へは進めなかったんだ。ボク、てっきり、もう姫がボク会いたくなくなっちゃんだと……」

 巨大な和尓は、甘えるように人間の娘に顔を擦り寄せた。

「……ばかね、そんなわけないじゃない! 何もかも、あの手名椎てなづち足名椎あしなづち達のせいよ! あたしを村から出さないように、監禁しやがって……っ」

 娘は、和尓を抱きしたまま悔しそうに歯ぎしりした。

 突き飛ばされた稚彦は、暫く水中でもがいていたが、やがて実はこの川は足がつく事に気が付いた。

 水面に顔を出し、川底の砂の上に立ってみると、水は稚彦の胸くらいまでしかなかった。

 口の中に溜まった水を吐き出した稚彦は、川の真ん中で熱い抱擁(……というか、形としては、一方的に娘が和尓に抱きついていただけだが)を交わす、和尓と娘に向かって呼びかけた。


「おい! お前たち、一体何なんだ!?」

「……え?」

 その時、娘は初めて気がついたように、稚彦の方へ視線を投げた。

「あら、あなた……何なさってるの? そんな濡れ鼠になって」

「お前がさっき俺を突き飛ばしたんだろ!」

「あら、失礼。まったく気づきませんでしたわ」

 娘は悪びれる風もなくそう言うと、和尓から手を離して稚彦に名乗った。

「あたしは、溝織姫といいますの」

「きれいな名前だよねー」

 和尓はうっとりと呟いたが、稚彦はあえてそれを無視し、娘に続きを促した。

「名前はわかったけど、それで何者だ」

「この阿伊の土地神・大山津見の末娘ですわよ」

「土地神の娘?」 

 稚彦は、溝織姫の姿をしげしげと見つめた。

 彼女は明るい容姿の娘で、やや直情的な感が強いが、それでもなかなかに魅力的な相貌をしていた。

「それで、その和尓は……」

「この子は、あたしの汝兄なせの君よ」

「そうだよねー、汝妹なにも

 和尓と溝織姫は、互いに瞳を見交わして、幸せそうに微笑みあった。

「汝兄と汝妹ってことは……君たち、恋人同士なの?」

 川原から和尓の様子を眺めていた志貴彦が、不思議そうに問いかけた。

「あたりまえですわ。それ以外の、何に見えまして?」

 溝織姫は、心外だという風に言い返す。

「え、でも……さっき櫛を拾いにきたおばあさんが言ってたよ。阿伊の乙女を食べに来る化物が、渓谷を壊して困ってるって」

「櫛を拾いにきたばばあ……手名椎のことね!」

 志貴彦の言葉を聞いた途端、溝織姫は突如その形相を一変させた。

「あのばばあ、まだそんな根も歯もない噂を余所に振りまいているのね!」

「根も歯もないって……でも、この谷がこんな険しい場所になったのは、その和尓が壊して回ったからじゃないの?」

 志貴彦は、和尓の巨体を一瞥した。

 さっきも、和尓が近づいただけで、あれだけの振動が起こったのだ。

 この散らばった巨岩や奇石が、和尓が山を崩した結果だと言われれば、それなりに納得も出来る。


「違うわ、逆よ! この優しい鰐男に、そんな乱暴な事ができる訳ないじゃない。あたしに鰐男を近づけさせない為に、村の連中がここを岩で塞いだのよ!」

 溝織姫は顔を真っ赤に上気させて、その怒りをぶちまけた。

「と、いう事は……お主ら、村の者に仲を反対されておるのかの?」

 自分と同じ位の大きさの川縁の小石に上り、少彦名は冷静に訊ねた。

「……そう。悲劇の恋人同士なのよ」

 溝織姫は、和尓の鮫肌を優しく撫でながら哀しげに俯いた。

 確かに、乙女と大和尓の並んだ姿は、はたから見てもひどく不釣合いだった。稚彦たちはしごく素直に納得し、皆そろって深く頷いた。

「……ちょっと、あなた達。なんで悲劇の理由を聞かないのよ?」

 しかし溝織姫にとっては予想外の反応だったらしい。姫は瞳をあげて、不満そうに三人の男を見回した。

「いやまあ……見ればわかるしなあ……」

「誰にも、あたしの気持ちなんかわかんないわよ!」

 おずおずと言いかけた稚彦に対し、溝織姫は噛みつくように叫び返した。どうやら、姫は『悲劇』の理由を皆に聞いてほしいようだった。

「えっと……じゃあ、なんで、反対されてるのかな?」

 溝織姫の圧力を感じた志貴彦は、仕方なく全員を代表して姫に尋ねた。

「この村の住人が、ごうつくばりだからよ!」

「ごうつくばり?」

「そう。……あなた達、まあ、いらっしゃいな」

 溝織姫は和尓を伴って川原へ上がり、稚彦たちを自分の方へ手招きした。

 どうやら、本格的に話し出すつもりのようである。

 稚彦たちは仕方なく姫の近くへ進み寄り、和尓を中心として輪になって川原に座りこんだ。


「この阿伊川の上流ではね、砂鉄がとれるの。この村の住人はね、古くからその砂鉄を大和の方の国や、遠い異国と密交易して、得た莫大な富を自分たちだけで貯めこんでいたのよ」

「……へえ。じゃあ、斐伊川の上流に鉄があるっていう噂は、本当だったんだね」

 志貴彦は、玉造りの里で奇稲田から聞いた話を思い出して呟いた。

「そう。でも、砂鉄がうまくとれるかどうかは、この阿伊の土地神であるあたしの父、大山津見の気分次第なのよ。土地神がご機嫌な年は砂鉄がたくさん出て、不機嫌になるとちっとも見つからなくなるの」

「ふうん、そりゃ大変だ」

 稚彦は、口先で適当に気のない相槌を打った。

「--ところが近年、父の機嫌はどんどん悪くなる一方なのよ」

「なんで?」

 志貴彦は素直に問い返した。

「父には娘が……つまり、あたしの姉が七人いたの。でも姉達は次々と父の元を去っていき……最後には、あたし以外の全員がいなくなってしまったのよ」

「--どうしてそんな事になったのじゃ?」

 少彦名が眉を顰めて尋ねた。

「それはもちろん、親よりも恋を選んだからよ」

 溝織姫は胸を張り、誇らしげに言った。しかし稚彦たちは訳が判らず、無言でこっそり見つめあった。

「……あのねえ、そもそも海神の使者と山の姫の結びつきは、清らかな神婚と言われていたのよ」

 溝織姫は、物分かりの悪い男どもに苛立ちをおぼえながらも、諭すようにゆっくりと語った。

「古来から、海神の使者である和尓は、照りはえる紅葉のように美しい山の女神を恋い慕い、海から川を遡って女神のもとへ依りついたものだわ。そして、山の女神もいつもその想いを愛しく感じた。海と山の神婚は、斐伊川の正しい伝統だったの」

「『照りはえる紅葉のように美しい山の女神』って、自分たちの事かよ……」

 話に余計な茶々を入れた稚彦は、溝織姫と和尓の両方から睨まれて、すぐに口を噤んだ。

「でも、山の土地神である父は、いつからかこの神婚を厭いはじめたの。娘達が揃って海神の使者と恋をして山を出ていったものだから、娘を海の者にとられてしまったと、逆恨みしてしまったのね」

「……ちょっと待ってよ。じゃあ、君の姉さん達は、全員が和尓と結婚したの!?」

 溝織姫の話を聞いていた志貴彦は、仰天して問い返した。

「そうよ」

 溝織姫は、当然のように答える。

「うえ、悪趣味姉妹……」

 横を向いた稚彦は、小声で悪態をついた。


「あたしは、姉さんたちの恋話を聞く度に、いつ自分の番がくるのかしら、とわくわくしてたわ。そして、遂にあたしもこの鰐男と出会ったのよ。あたしも姉さんたちと同じように、一目で恋に落ちたわ……それなのに!」

 溝織姫は、拳を握って川原を叩いた。小石が二、三個飛んでいった。

「あたしの時になったら、父は和尓との結婚を認めないって言ったのよ! おまけに、一生この阿伊村から出るなって命令しやがって!」

 溝織姫は、憤然と父神への怒りを吐き出した。

「父のご機嫌をとりたい村人たちは、率先してあたしを社の中に閉じ込めて封印したわ。その先頭に立ったのが、父の巫女である手名椎と、村長の足名椎よ! その上、鰐男があたしに会いに来られなくする為に、通路であるこの川をこんな岩で塞いだ挙げ句、化物が乙女を喰いに来るっていう噂まで流しやがってー! 悔しーっ!」

「確かに、斐伊川の化物の話は、随分色んな形で広がっておったのう。しかし、なぜそんな噂まで流さねばならなかっのじゃ?」

 少彦名は釈然としない様子で頭を振った。

「決まってるじゃない。この機に乗じて恐ろしい話を広め、他人を近づかなくさせて、砂鉄をずっと独占するためよ!」

 溝織姫は、小さな少彦名に向かって激しくまくし立てた。

「理解のない父と、村人の強欲によって、あたしと鰐男の愛は引き裂かれてしまったのよーー」

「泣かないで、溝織姫ー」

 姫と和尓はぴったりと寄り添い、共に悲嘆の涙にくれた。

 当人たちはいたく真剣そうだったが、なんの関係もない稚彦たちにしてみれば、何だかどうでもいい事のようにも思えた。


「……何日も何日も社に体当たりして、やっと『要』ごと結界をぶち壊して出て来たのよ。後は、破壊した時に吹っ飛ばした『要の櫛』を回収すれば、あたしはこの村を出て、鰐男と神門水海の彼方まで恋の逃避行よ!」

「やっとこの時が来たんだね、溝織姫-!」

 和尓は姫に擦りよりながら、丸い瞳を輝かせて歓喜の声を上げた。

「……『櫛』?」

 盛り上がる二人の前で、志貴彦はふと呟いた。

「あー、そうそう。鰐男に会えた喜びで、最初の目的を忘れる所だったわ。結界を破壊した勢いで『要の櫛』も川の中へ飛ばしちゃったのよね。あたしはそれを拾いにきたのよ。……あなた達、あたしの『櫛』を見かけなかったかしら?」

 溝織姫は、三人の男を見回して聞いた。

 稚彦は、ちらっと志貴彦に視線を投げた。少彦名も、心配そうに志貴彦を見上げた。

「……それってもしかして、白っぽくて少し欠けた所のある、古い柘植の櫛かなあ?」

 皆の視線を浴びながら、志貴彦は悠然と溝織姫に訊ねた。

「そうよ、見かけた!?」

 溝織姫は、期待に満ちた瞳で志貴彦につめよった。

「うん、僕がさっき拾った」

「よかったー! じゃあ、返してくれる?」

 溝織姫はほっとしたように相好を崩し、志貴彦に向かって手を差し出す。

 しかし志貴彦は、恬淡と一言答えた。

「もう持ってないよ」

「なんですって!?」

「櫛を拾いに来たおばあさんにあげちゃったんだ。えっと、その……手名椎、とかいう人かなあ?」

「ばかあああっ!!」

 溝織姫は、憤激して立ち上がった。

「あの『櫛』はねえ、あたしの『御魂代みたましろ』なのよ! あれを巫女に握られてる限り、あたしはこの土地から物理的に離れることが出来ないのよ! 結界だって、何度でも修復されるわ! どうしてくれるのよ!」

 姫は怒号を上げながら、志貴彦を嗔恚の瞳で見下ろした。

「--ごめんね。僕、知らなかったんだよ」

 志貴彦は殊勝に頭を下げた。

「ごめんね、じゃすまないわよ! ……ああ、あなた達みたいな余所者の考えなしな妨害のせいで、あたしの恋路はめちゃめちゃよう……」

 溝織姫は激しく嘆きながら、顔を覆った。どうも、随分と感情の起伏の激しい娘のようだった。


「……姫」

 気落ちする溝織姫の姿を痛ましげに見つめていた和尓は、不意に決然とした口調で言った。

「ボク……ボク、姫のためなら、なんだってするよ。そう、ボクが……海を棄てるよ!」

「鰐男……?」

「ボクが、海を棄てて山で暮らす。だから、姫……ここでずっと一緒にいよう……?」

「鰐男……!」

 溝織姫は、和尓の深い愛に感激し、涙に濡れた瞳を歓喜に輝かせた。--だが、すぐに激しく頭を振る。

「駄目よ……無理だわ。父は、海神族そのものを嫌っているの。それにここの村人も、あなたの何も知ろうとはせず、その大きな体だけで恐れてしまっているわ。……あたし達は、ここでは永遠に結ばれることはできないのよ……」

「ひめぇーー」

 溝織姫は絶望的に呟く。和尓は、ぼとぼとと大粒の涙を零した。

「あたし達は、ここで引き裂かれ……うう、あたしはいずれ、よくわからない天津神と、めあわされてしまうのよ……」

「--『天津神と、めあわせる』?」

 退屈そうにあさっての方を向いていた稚彦は、ふと溝織姫の漏らした一言が気になり、振り返った。

「どういう事だ? あんたの父神は、娘を天津の神族と結婚させたがってるのか?」

「そうよー。あたしの父は変わり者で、昔からずっと、けして手の届かない天の国に憧れを持ってるのよ。いつか、天の御裔が地上に降りてくるのを捕まえて、婿にするってのが父の夢なのよー。それなのに、娘がことごとく逆らって、海神族と結ばれたもんだから、怒っちゃったのよー」

 溝織姫は一気に語りながら、ずずっと洟をすすり上げた。

「……いや、でも、滅多に天神は地上へなんか降りて来ないぜ? それって、途方もなく確率の低い夢じゃないのか?」

「……自分はなんだよ」

「俺は例外さ」

 冷静な突っ込みを入れる志貴彦に対し、稚彦は平然と言い返した。

 蕩々と流れる渓流の辺で、姫と和尓はいつまでもほとほとと涙を流し続けた。三人の男達は、どうすればいいかも分からず、ただ途方に暮れて二人を眺めていた。



 ……どれくらい、無為な時間が流れた頃だろう。

『……お前ら、本当に馬鹿じゃないか?』

 円座の中に、突如異質な声が上がった。

 頬杖をついてぼーっとしていた稚彦は、慌てて顔を上げて周囲を見回した。そして愕然となる。

 志貴彦の隣に、まったく見知らぬ人物が、忽然と出現しているのだ。

 頭からすっぽりとおすいをかぶったその人物は、不思議なことに志貴彦とまったく同じ背格好をしていた。胡座をかいて座ったその仕種までも、瓜二つである。

「……やあ、御諸みもろ

 更に驚愕すべき事には、志貴彦は出現したその人物を見ると、親しげに話しかけた。

「けっこう久しぶりだね。……相変わらず、突然現れるけど」

 志貴彦は、古い友人を迎えたように、襲の人物に対して微笑みかけた。

『だって、お前ら揃ってどうしようもないもんな。ちょっかい出すのはやめとこうかと思ってたんだが』

 御諸と呼ばれたその人物は、襲の奥でおかしそうにククッと笑った。その声も志貴彦とよく似ていたが、志貴彦よりもどこか意地悪そうだった。

「……だったら、そのまま黙って引っ込んでおればよかったのじゃ」

 少彦名が憮然と言った。彼も、この『御諸』という少年を知っているようだった。

 稚彦は、溝織姫と和尓の方を見た。二人とも、目を丸くして、突如出現した少年を見つめている。

 稚彦は、襲の少年を指さして志貴彦に訊いた。

「……おい。こいつは、なんだ!?」

「ああ、彼はね。御諸っていって……僕の、『幸魂奇魂さきみたまくしみたま』だよ」

「『幸魂奇魂』ぁ? ……じゃあ、お前の『分霊』ってことか」

 稚彦は、納得して胸を撫で下ろした。

 『分霊』は、神族の魂の一部が具現化した存在だ。

 大抵は、『荒魂』と『和魂』とに別れるものだが……中には、『幸魂奇魂』のような希少な物に分化する場合もあった。


「こんな突然呼ぶなよ。一瞬驚いたじゃねえか」

「いや、別に僕が呼んだわけじゃないよ。御諸は自由だからね。いつも、好きな時に出てくるんだ。……分霊っていうより、友達みたいなものだよ。僕より賢いしね」

『……ああ、よくわかってるなあ、主。……それに比べて』

 御諸は満足げに頷くと、突如襲の腕を伸ばして、手に持った小枝で稚彦を指した。

『お前は馬鹿だ、天之稚彦。……天津神のくせに、あれに気づかなかったのか?』

「--なんだとお?」

 御諸に喧嘩を売られたと思った稚彦は気色ばむ。

 しかし御諸は答えぬまますっと腕を動かし、和尓が頭からかけていた飾りを示した。

『ようく見ろよ、天津神。これでもわからなければ、お前は本当に救いようがないぜ?』

「--ああ?」

 腹立ちを覚えながらも、稚彦は言われるままに和尓の方を視線を移す。

 和尓がかけている、飾り。--それは、掌くらいの大きさで、丸くて、銀色をしていた。飾りは時折、林からの木漏れ日を反射してきらきらと輝く。まるで、鏡のよ

うに……。

(鏡……?)

 稚彦は和尓に駆け寄った。その頭にかかっていた飾りを両手で引っ掴む。


「ああーー!!」

 飾りを凝視した稚彦は、思わず驚愕の叫びをあげた。

「やめて、やめて、苦しいよ!」

 鏡と一緒に紐を引っ張られた和尓が、じたばたと暴れる。しかし稚彦は、和尓を無視して手に持った鏡に見入った。

「鏡--これは、これは……『辺津鏡』だ!」

『ご名答』

 襲の奥から、御諸が揶揄するような声を出した。

 稚彦は、更に鏡の裏をひっくり返す。すると、そこにも、金色をした輝く神鏡があった。

「間違いない……これは、『沖津鏡』……!」

 稚彦は、鏡を見つめたまま息を飲んだ。

 『沖津鏡』と『辺津鏡』は、金と銀の両面鏡である。

 『沖津鏡』は見る者が望む物を映し出し、『辺津鏡』は見る者の真の姿を映し出した。

 共に、かつて邇芸速日が与えられ、そして地上にばらまいてしまった『十種の神宝』の一つである。


「おい、和尓! これをどこで手にいれた!?」

「どこって、神門の海の中に浮かんでたんだよー。きらきら光ってきれいだったから、ボク首飾りにしたのー。ねえ、痛いよー、はなしてー」

「ちょっとあんた! 鰐男から手を離しなさいよ!」

 恋人の苦しむ姿に怒った溝織姫が、稚彦の腹を思い切り蹴り上げた。巨石をも砕く溝織姫の強烈な蹴りを食らった稚彦は、吹っ飛んで川原に転がった。

「……うっ、なんつー、乱暴な女……」

 すぐに身を起こした稚彦は、咳き込みながら悪態をついた。

『……おいおい。随分弱いな、天津神』

 御諸は、稚彦の無様な姿を眺めて嗤笑する。

「自業自得よ! あたしの鰐男を苛める者は、誰であろうと許さないわよ!」

「たくましいよ、姫ー」

 和尓はうっとりと溝織姫に擦り寄った。

『……まあ、こういうのも面白いけどな。許してやりな、溝織姫。その男は、あんたたちの窮地を救う鍵をくれるぜ』

「--え!?」

 憤然と立ち尽くしていた溝織姫は、思わぬ言葉を聞かされて、瞳をまたたいた。

『ほら、教えてやりな、天之稚彦。……辺津鏡の持つ力はなんだ?』

「……ああ?」

 川原に座り直した稚彦は、唇に滲んだ血を拭った。

「--見る者の、真の姿を映し出すってんだろ」

『その通りだ。……溝織姫、和尓に銀の鏡を見せてやりな』

「……え? ええ……」

 戸惑いながらも、姫は優しく和尓の頭から紐を取り外し、両面鏡の銀色の方を和尓の顔に向けた。

『和尓、鏡の中に何が見える?』

「えーと、えーとね……男の子?」

 和尓は鏡をぬっと覗き込み、その中を注視した。

「まあ……」

 横から鏡を覗きこんだ溝織姫は思わずため息をつく。

 そこには、色白で無垢な瞳を持った、一人の清らかな少年の姿が映し出されていた。

『それが和尓、お前の本質さ。……お前は、随分と純粋な生き物のようだな』

 御諸は皮肉げな口調で和尓を誉める。

 それを聞いた志貴彦は、御諸にしては珍しいことだ、と思った。


『……さて、天之稚彦。辺津鏡には、付属効果があることを知っているか?』

「--付属効果? 聞いたことないが……」

 稚彦は、漠然と呟いた。

 彼は、『十種の神宝』について、通り一遍の知識しか持っていない。『辺津鏡』に何かを映し出す以上の力があるなど、初めて聞くことだった。

『まあ、お前の頭じゃそうだろうな。……だが、これは辺津鏡に限ったことではないが、十種の神宝は、その統括具である品物比礼の力を重ねることにより、更なる能力を顕現させることができる』

「……どういう事だよ」

 馬鹿にされている事だけは理解できた稚彦は、憮然とした口調で聞き返した。

『--和尓をそこに映った姿に変化させられるのさ』

「ええ!?」

「本当に!?」

 御諸の話を聞いていた和尓と溝織姫は、共に驚愕の声をあげた。

『オレは、真実しか告げない。……さあ、和尓。後はお前の決意次第だ。愛する者と生きるために、今の姿を棄てられるか?』

「棄てるよ!」

 和尓は少しの逡巡も見せず、即座にそう答えた。

「ボクは、迷いなんてないんだ。始めから、姫とだけ生きていくって、決めていたんだから!」

「鰐男……なんて素敵なの、あなた……」

 和尓の決然とした凛々しい姿に、溝織姫は思わず感動の涙を浮かべた。

「ああ、でも……それでも、まだ無理よ。人の姿になっただけでは、まだこの村に受け入れられる事は出来ないわ。天津神の御裔、とかいう無茶な条件じゃないと、父はあたし達を祝福しない……」

『ああ、それも平気だ』

 御諸は、事もなげに言った。

『おい、天之稚彦。お前、この和尓を義弟にしてやれ。それで全部解決だ』

「……はああ!?」

 御諸の無茶な提案に、稚彦は吃驚して声をあげた。


「冗談じゃない! 系譜は、天津の神族にとって、もっとも大切なものだ! 俺の独断で、勝手に書き加えることが出来るかよ!」

『度量の小さい男だな。……お前は、そういうものこそを嫌ってたんじゃないのか』

 御諸に冷ややかに指摘されて、稚彦はハッとなった。

 そうだ。確かに、自分はそんな高天原の身分階級世界を厭っていたはずだったのに。いつのまにか自分自身の中にも、その考えは根付いてしまっている。

 一番大切な者以外の全てを投げ出せる和尓の潔さに比べて、この自分の矛盾はなんと情けないことか……。

 所詮、自分も天津の血を否定しきれることはない。

(恵まれた中にいて、ただ不満を唱えるだけの、子供でしかないのか……)

 行き着いたその考えは、一瞬稚彦を打ちのめした。

 しかし同時に、稚彦はある事に気づいて怪訝そうに御諸を睨んだ。


「……ところで、お前、なんで俺のことまで知ってるんだ?」

『オレはなんでも知ってるのさ』

 御諸は軽く稚彦をいなす。

 歯噛みする稚彦と、余裕で構える御諸を見比べながら、不意に志貴彦が思いついたように声を上げた。

「あ、ねえ……じゃあ、和尓を僕の義弟にしてあげるの

はどう?」

「--あなたの?」

 和尓を抱きしめた溝織姫は、不思議そうに志貴彦を見た。

「うん。僕はね、天照大御神の妹の建早須佐之緒(たけ

はやすさのお)の六世孫なんだ」

「--お前が!?」

 志貴彦の衝撃の告白は、溝織姫よりも稚彦を仰天させた。

 須佐之緒は、天照大御神の妹神で、月読を含めた『三貴子』の一柱である。稚彦が生まれるはるか以前に天照に天界の主権を譲り、死者を統括する『根の堅州国』の王となって地下世界へ去っていった。

 聞いた話では、須佐之緒は高天原にいた時、天照大御神と誓約うけいを行ない、三人の女神を生成したらしい。女神はその後、どこぞの守護神となるため高天原を去っていき、その後の消息は稚彦の知るところではないが……とにかく、そのスサノオの御裔がこの「八束志貴彦」だと!?


「まあ、六世孫だから、天津神の血なんて殆ど残ってないし、僕の父さんは地上の人だから、半分はただの人間なんだけど。一応、広い意味では『天津の御裔』ってのにもあてはまると思うよ。……どう?」

 志貴彦は、鷹揚に説明しながら溝織姫に尋ねた。

「それは……あなたがいいというのなら、あたし達はありがたいけれど……」

 溝織姫は戸惑ったように呟く。しかし姫の隣りにいた和尓は、やる気に満ちた視線を志貴彦に注いだ。

「いいよ。僕は、もともと異母の兄さんが八人もいたし、この少彦名みたいなおしかけ義兄弟もいるから、別に兄弟が何人増えたって平気なんだ。……じゃあ、鰐男。僕と、義兄弟になろうね」

「うん」

 志貴彦は、和尓に向かって微笑みかける。和尓は嬉しそうに頭を振った。

 非常に簡素なものだったが、それでもこれは正式な『誓約』だった。この二言で彼らの中に言霊の効力が刻まれ、志貴彦と鰐男の間に義兄弟の契約が成立した。

『……さて、じゃ、あとは和尓を変化させるだけだな。溝織姫、辺津鏡を和尓の前に掲げてみな』

 御諸が溝織姫に指示すると、姫はすばやく言われた通り鏡を翳した。

「……おい、ちょっと待てよ。変化させるったって、肝心の品物比礼がないと……」

「ああ、それは僕が持ってるから」

 口を挟む稚彦の前で、志貴彦はさりげなく帯と一緒に巻いていた薄い布を解いた。

「これが品物比礼さ。……御諸、いつもの呪言でいいんだよね?」

『ああ、うまくやりな』

 志貴彦は和尓の前に立ち、辺津鏡の上で空色の品物比礼をひらひらと揺らめかした。

「……ひ、ふ、み、よ、ここのたり。……ふるべゆらゆら」

 志貴彦が呪言をのりあげると、辺津鏡から清冽な銀の光が溢れ出た。光は和尓の姿を呑み込み、渓谷中に満ちる。稚彦は、まぶしさに思わず顔を背けた。

 閉じた目蓋の向こうに光が消えたと感じた時、稚彦の耳に溝織姫の嬉々とした声が入ってきた。


「……まあ、鰐男! とっても素敵よ!」

 稚彦は目を開けた。そこには、一人のすっきりとした若々しい少年が立っていた。

「う、うーん、なんだか不思議な感じなんだけど……」

 かつて和尓だった少年・鰐男は、照れながら長い手足を無器用に動かしていた。

「ありがとう! これで、あたしたち皆、うまくやっていけるわ! 何もかも、あなた達のおかげよ!」

 溝織姫は志貴彦の手を握り締め、感謝に満ちた瞳で男達を見回した。

『……そりゃ、よかったな。じゃあ、その見返りというわけじゃないが。溝織姫、よければ礼に、その鏡をオレたちにくれないか?』

 志貴彦の背後に立っていた御諸が、喜ぶ溝織姫にそう申し出た。

「……これを? それは、あたしは、鰐男さえいれば他に何もいらないから、あげてもいいけど……鰐男、構わないかしら?」

「うん、いいよ。ボクも、姫だけいればいい」

 溝織姫と鰐男は幸せそうに寄り添い、同時に「はい!」と言って志貴彦に鏡を渡した。

「それじゃあ、あたし達村へ帰るわ。ほんと、ありがとねー」

「さよなら、義兄さんとみなさんたち。ボク、ずっと忘れないからねー」

 姫と鰐男は腕を組み、満面の笑顔で手を振りながら、渓谷の向こうへ去っていった。


『……どうだ、この志貴彦の見事な収める方。王たるものは、こうであるべきだぜ』

 襲の奥にある顔を稚彦の方へ向けて、御諸は嘲弄するように言った。

「……別に、俺は王じゃない。王になりたいとも思わない」

 稚彦は辛辣に言い返した。

『へえ?』

「……お前は、鏡が欲しかったんだろう。その為にやらせたんだ」

『……ああ。その位は、わかるんだなあ』

 御諸はどこか残念そうに呟いた。

「--何が目的だ」

 稚彦は、険のある瞳で御諸を睨めつけた。

『恐い顔すんなよ。オレは、お前の敵でもない。……少なくとも、今は』

「……今、は?」

『深読みするな。無駄な時もあるぜ』

 襲の陰の奥で、御諸の白い歯だけが光った。どうやら、笑ったらしい。

『……まあ、敵じゃないって、証をみせてやろうか。……おい、志貴彦。その鏡を持ってきな』

 御諸は己の主霊に対し、本当に友達のような気軽さで呼びかけた。


「……どうするの、御諸」

 肩に少彦名を乗せた志貴彦は、両面鏡を携えてやってきた。

『ちょっとそれを、こいつに貸してやりな』

「これを? ……はい」

 志貴彦は、言われるまま素直に、鏡を稚彦に渡す。

「どうするんだよ」

 鏡を受け取った稚彦は、御諸を睨んだまま訊いた。

『おいおい、お前は本当にどうしようもないのか? 沖津鏡がなんだか、忘れたのかよ』

 御諸は、大仰な仕種で呆れ返った。

「沖津鏡は……沖津鏡は、見る者の望む物を映し出す鏡で……」

『お前は、何の為に地上へ来た? お前は、何を探している。砂鉄か? 大蛇か? ……違うだろう……』

 稚彦は、ハッとなった。

 そうだ。あまりにも目的がずれかかっていたせいで、本来の使命を忘れていた。

 確かにこの川へ来たのは、奇稲田に渡す鉄を探す為だ。そうしなければならなかったのは、彼に情報を貰う為。邇芸速日に会ったという、その情報を……。

 だけどもう、そんな必要ないじゃないか。奇稲田との取り引きには、もう意味がない。もう奴の為に鉄など探さなくていい。『鐸』とやらを作る為に、どうしても材料が欲しいのなら、奇稲田が自分で勝手に鉄でも銅でも探しに行けばいいんだ。

 今ここには、『沖津鏡』がある。『沖津鏡』は、見る物の望みを映し出す鏡だ。自分が望んでいたのは、鉄を探す事でも、和尓を救う事でもなくて……。

「俺が望んでいるのは、邇芸速日……邇芸速日の、居所だ……!」

 稚彦がそう呟いた時、手に持った沖津鏡が強く反応した。鏡の表面に、幾重もの金の波が浮かぶ。

 稚彦は、目を反らすことなく鏡に見入った。金の波は、一際激しくうねり、細かく振動する。……やがて、全ての波が消え去った後、鏡の表面には一つの光景が映し出された。

「ここは……?」

 鏡を覗き込んだまま、稚彦は呟いた。

 そこには、高い山の頂と、広大な雲海が映っていた。そして雲海の合間には、逆さに突き立った巨大な三つ叉の鉾が見える。

 これまで、稚彦が一度も見たことのない場所だった。

「どこだ、ここは……?」

『……高千穂だよ』

 戸惑う稚彦に向かって、御諸は厳かに告げた。

「高千穂……?」

『神門の水海の遙か彼方にある、四つの国を持つ筑紫の大島。……その中の一つ、日向の国にある高千穂の峰に--お前の探す、神がいる』


















『第四章終わり 第五章へ続く』

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