第三章 踊る蟹女
潜戸の中には、奇妙な沈黙が流れた。
天津神と出雲王と小人神は、いずれも無言のまま岩壁に刻まれた銀の文字に見入る。
『珠を探しにいきます。追わないでください』とは--。
「……『珠』ってなんだ?」
最初に口を開いたのは、天之稚彦だった。
「碧玉? それとも白珠とかのことか?」
稚彦は、思いつく輝石を並べてみた。
「うーん……多分、そういう貴石のことじゃないと思うけど」
考えながら、志貴彦は答える。
「邇芸速日がこだわってる『珠』っていったら……多分『十種の神宝』のことだと思うな」
そう言うと、志貴彦は己の首にかけた赤と青の勾玉を握った。
「……『十種の神宝』?」
志貴彦の方を向くと、稚彦は注意深く聞き返した。
「お前、『十種の神宝』の事を知ってんのか?」
「うん」
「……邇芸速日から、聞いたのか?」
「まあ、そういうことになるかな」
「--どこまで知ってる?」
「えーっとね。たしか、邇芸速日が地上へ降りてくるときにその宝物をもらったんだけど、途中で落としちゃって、全部ばらばらになって地上のどこかに飛んでいったんだ」
「ええええっ!?」
稚彦は、吃驚して大声を出した。ほとばしった叫び声が、潜戸の中でぐあんぐあんと反響する。
「そんな事になってたのか!?」
「なんだ、君、知らなかったの?」
「そんな話は聞いてねえっ」
稚彦は即座に言い返した。
知っていたのは、「邇芸速日が裏切った」という事実だけだ。だがまさか、『十種の神宝』までも失っていたとは……。
(……そうか。だから、奴はもしかして『戻ってこれない』のか?)
稚彦は、はたと思いあたった。
可能性はある。
特別に授けられた天の至宝を失くして、そのままおめおめと高天原に戻れるはずがない。
だから、自分の力で探し出そうと……?
「……待てよ。だけど、変じゃねえか?」
「何が?」
志貴彦はきょとんとした顔つきで訊ねた。
「『十種の神宝』は、その名の通り全部で十種類ある。なんで、『珠』だけを探しにいくんだ?」
「さあ。彼の考えることは、いつもよくわかんないんだけど。……そうだなあ、少なくとも、十個の内四個は集まってるから、残りを探したいんじゃないの?」
志貴彦は淡々と答える。しかし、さりげなく語られた彼の言葉の中には、またしても聞き逃せぬ情報が入っていた。
「……四つは、集まっているだと?」
稚彦は、慎重に志貴彦の言葉を反芻した。
「うん」
志貴彦は、恬淡としたまま答える。
「--どこに、あるんだ?」
「僕が持ってるよ」
志貴彦はあっさりそう言った。稚彦は愕然とし、思わず絶句する。
「……欲しい?」
目を剥いて息を呑む稚彦の顔を可笑しそうに見上げて、志貴彦は試すように笑った。
「でも、あげないよ。欲しいんなら、僕と戦わなきゃいけない。邇芸速日はそれで敗けちゃったけどね」
「……」
稚彦は無言で志貴彦を見下ろしたまま、唇を噛んだ。
(なめてんのか、このガキ……)
稚彦は、確かに武神ではない。だが、天津神として相応の力を授かった身だ。地上の者などに負けるとは思わなかった。
--しかし、眼前にいるこの一見華奢な少年は、実際に邇芸速日を従わせ、武御雷を地上から追い返しているのだ。
どうにも、得体の知れない子供だ。ここで、こんな子供と争うのが得策とも思えない。
それに……。
「……別に欲しくはない。神宝の回収は俺の役目じゃない。俺は、邇芸速日を探してるだけだ」
稚彦は、憮然とした面持ちで低く呟いた。
そう。『十種の神宝』については、最初に与えられた邇芸速日に、全ての権限がある。彼を捕まえた後、本人に取り戻すがどうか判断させればいい。
(……と、いうのがまあ、表向きの『正論』なんだけどな)
不意に稚彦は、口元に忍び笑いを浮かべた。
やはりここまで話を聞いてしまっては、好奇心は押さえがたい。
「……けどな、さしつかえなければ教えてくれねえ? お前が、何を持ってるかさ」
突如その場にしゃがみこむと、稚彦はねだるような視線で志貴彦を見上げた。
「ええ、なんで?」
稚彦の突然の変心ぶりに、志貴彦は戸惑いの表情を浮かべる。
「いや、単純に興味あるから」
そう言うと、稚彦はにやっと笑った。
高天原の至宝は、同時に天照大御神の宝でもある。
その大御神から、地上の王が何を横取りしたのか……考えるだけでも、ぞくぞくするじゃないか。
「なんだよ、それ? なんか君って、やることがいきなり飛ぶよね? ついてけないよ」
志貴彦は、呆れたような視線を稚彦に落とした。
「ああ、よく言われる。でも俺の中じゃさ、全部繋がってんだ。説明するのが面倒なだけだよ」
稚彦は平然と答えて、尚も志貴彦に頼み込んだ。
「な、いいじゃないか。教えてくれよ」
「……じゃあ、僕がそれを言ったら、残りの神宝が何か教えてくれるの?」
志貴彦は腰に両手を当て、不承不承といった体で訊ねた。
「なんだ、知らねえのか?」
「全てを知ってるわけじゃないよ」
「いいぜ。取り引きといこうじゃねえ?」
膝を抱えた両腕に顎を乗せたまま、稚彦は朗らかに応じた。
「……わかったよ。僕が持ってるのはねえ……えーっと、足玉と道反玉。あと、品物比礼と……熊の神籬かな」
「へえ、かなりいい物集めたな」
指を折りながら数えていた稚彦は、感心したように呟いた。
『足玉』は人に満ち足りた思いを与え、『道反玉』はあしき行ないを正す。共に、心を操る時に使う物だ。
『熊の神籬』はこの世のあらゆる場所を行き来できる物だし、『品物比礼』に至ってはこの世の全てを御する物とまで言われている。
「いや、それだけあれば、お前みたいなガキでも出雲王になれるよなあ」
「……言っておくが、志貴彦は神宝の力だけで王になったわけではないぞい。知恵と機転で危機を乗り越えてきたのじゃ!」
それまで黙っていた少彦名が昂然と顔を上げ、稚彦に反駁した。
「……ああ。ま、そうかもな」
稚彦は、適当に相槌を打った。
神宝は、その持ち主となる者の器量によって、発揮される能力が著しく変化する。神宝に本来備わった力を完全に引き出せる者など、この世に天照大御神ただ一人く
らいだろう。
恐らく大御神も、邇芸速日に大して使いこなせる能力がないと考えたからこそ、神宝を授けたのだ。自らを脅かすほどに優れた神であったら、けして渡すことはあるまい。
「ねえ、それで、あと何があるの?」
志貴彦が焦れたように尋ねた。
「あとは……そうだな、『沖津鏡』と『辺津鏡』……それと、『生玉』と『死反玉』だな」
「……あれ? おかしいよ、それだと八つだ。あと二つは?」
稚彦の説明を聞きながら、神宝の数を数えていた志貴彦は、不思議そうに首を傾げた。
「ああ、後は『蜂の比礼』と『蛇の比礼』だが……その二つは、『品物比礼』が兼ねてんだ。……おまえ、持ってんなら、そういう使い方したことねえの?」
「……ああ。そういえば、あったかも」
腰帯に巻き込んでいた空色の薄い布に手をやり、志貴彦は曖昧に答えた。
「……では、今の話から考えるに、邇芸速日が探しにいった『珠』とは、『生玉』か『死反玉』のことかのう」
少彦名は、考え込みながら呟いた。
「まあ、確定はできないけど。考えるとしたら、その線しかないよねえ」
少彦名を手の甲に乗せてやりつつ、志貴彦は微苦笑を浮かべた。
「……で、お前ら、その珠のありそうな所、見当がつく
のか?」
「ぜーんぜん」
志貴彦はあっさりと言った。
「わかんない、まったく。君こそ、知らないの?」
「俺が知るわけないだろう」
稚彦は偉そうに言い返した。
豊葦原に降りてきたばかりの自分が、一体地上のどんな場所を知っているというんだ。
「じゃあどうすればいいかなあ……」
困惑した表情を浮かべて、志貴彦もその場に座り込んだ。
しかし、三人で頭を突き合わせていても、ちっとも名案は浮かばない。虚しく時間ばかりが過ぎていった。
「……しょうがないから、地道に訪ね歩いてみる?」
彼方の海面に沈む夕日を眺めながら、志貴彦がぽつりと提案した。
「地道って、どういう事だ?」
いい加減しゃがんでいるのに疲れてきた稚彦は、立ち上がって身体を伸ばす。
「だから、珠に係わりのある場所や、知ってそうな人を聞いてまわるのさ」
「……面倒くさそうだな」
稚彦は、だるそうに欠伸をした。性に合わないやり方だ、と思った。
「しかし、他に方法もあるまい」
少彦名が渋い顔で呟いた。
「ま、そりゃそうだ」
稚彦は投げやりに答える。
どのみち、どうにかして邇芸速日を連れて帰らなきゃいけないんだ。少しでも手掛かりのある方法をやってみるしかないだろう。
「じゃ、それでいいんだね?」
「おう」
「うむ」
志貴彦の呼びかけに、稚彦と少彦名は不揃いな賛同を返した。
「……そんで、まずはどこへ行くんだ?」
稚彦は、岩壁に残された銀色の『秀真』を見つめながら訊いた。
「そうだなあ……この辺でいうと、まずは忌部の神戸かな」
少し考えて、志貴彦はそう答えた。
「いんべのかんべ?」
「意宇の郡にある郷だよ。そこは有名な玉造りの里で……出雲一の玉造り名人がいるんだ。もしかしたら、何か知ってるかも知れないよ」
「ふーん。で、それはここから遠いのか?」
「いや、丁度この帰り道。入海の近くだよ」
「ああ。そりゃちょうどいいや」
稚彦は、欠伸しながら頷いた。あまり期待していないことは明白だった。
(ああ、しかし……妙な成り行きだ)
目尻に滲んだ涙を擦りながら、稚彦は奇妙な気分で考えた。
生まれた場所も属性もまったく異なる三人の男が、「邇芸速日を探す」という共通の目的の元で、暫く行動を共にすることになったのだから。
※※※※
とりあえず潜戸の中で夜を過ごした三人は、夜明けと共に出発した。
出雲国の半島と内陸の間には、二つの入海がある。美保の関から大海に通じる東の方を「中の入海」と、また半島と本土の海岸線に囲まれ、淡海のようになっている
西の方を「内の入海」と呼んでいた。
東と西の入海の間は、細い水路でつながっている。稚彦たちは、まず水路の手前にある矢田の渡しまで海岸線を西へ歩き、そこから舟に乗って本土にある意宇の郡へ入った。
意宇は、出雲でも一、二を争うほど広い郡だった。その領は、軽く杵築の五倍はある。そして「内の入海」の南岸近くに玉湯川が流れており、その川辺に沿って人々の集落が開けていた。
「……ここが、忌部の神戸ってとこか?」
神戸の集落に入ってすぐ、稚彦は周囲をきょときょとと見回しながら聞いた。
神戸は、多くの山々に囲まれた、谷あいに出来た里である。
その緑が連なった景観も確かに美しかったが、それより稚彦が驚いたのは、この里に溢れた人の多さだった。
明らかに旅人と思われる男女が、小荷物を抱えて川辺を行き来している。
彼らの多くは頬を健康的に上気させ、髪を濡らしていた。その表情は朗らかで足取りも浮かれており、中には明らかに酔いが回っていると思われる者もあった。
耳をすませば、遠くから何やら歌が聞こえてくる。あちこちで人の輪が出来ており、その中では数人が立って踊りを披露していた。
「なんか、祭りでもやってんのか?」
「……いや、確かこの里は、毎日こんな感じだって聞いてたけど……」
稚彦の問いに、志貴彦が答えかけた時。
彼らの前に、突如奇怪な風体をした女が飛び出してきた。
「はいはいはい、二名様、ようこそ『神の湯』へ!」
女は、稚彦と志貴彦の顔を順に見比べると、唇を横にニイッと広げた。露になった女の歯は、菱の実にそっくりな形で、通常よりも多く並んでいた。
「三名じゃ!」
志貴彦の頭の上から少彦名が抗議したが、女は小人を無視して語り続けた。
「はいはい、ここが豊葦原に名高い、忌部の出湯! 出湯は神戸の川辺にあり。出湯は海でも陸でもあるよ! よって男も女も老いたも若いも、或いは道を連なり、或いは海を渡って、日に集い市をなし、さかんに宴をするものさ!」
女は稚彦に向かって、手に持った巨大な蟹のハサミをぬっと突き出した。
二つに分けて結い上げた女の髪には、数え切れぬほどの蟹の足が刺さっている。女は顔や手足に朱色の顔料を塗りたくり、裾の短い緋色の単衣をまとっていた。
「……なんだ、こいつは?」
女の迫力に圧倒されて、稚彦は目をしばだたせた。
「『寿かひ人』だよ」
「ホカヒビト?」
「おかしな芝居をしたり、ふざけた歌や踊りを見せて、人を喜ばせる連中さ。普通は宴とかに呼ばれるんだけど、ここでは出湯の宣伝に雇われてるんじゃないかな」
「お坊ちゃんの言う通り!!」
女は、両手に持った蟹のハサミを頭の上で交差させ、がしゃがしゃと振ってやかましい音を立てた。
「神戸は名高い出湯の里! ひとたびすすげば即ちかたち麗しく、再び湯浴みすれば即ちよろずの病、ことごとく癒ゆ!」
言いながら、女はその場でくるくると回った。度肝を抜く見てくれの割りには、意外にも優雅な舞だった。
「……なんで、頭に蟹の足が刺さってんだ?」
「『寿かひ人』は、蟹に似てるほど美人ってことになってんだよ」
「へええ……」
稚彦は呆気にとられ、眼前で奇妙な動作を続ける女を見つめた。
地上には、色んな美意識の基準があるもんだ。確かに面白い物ではあるが、これを美しいと感じるのはなかなか難しい。
「さあ、飲んでよし、つかってよし! 古より今に至るまで、験を得ずということはなし! ゆえに、人々はみな、神戸の出湯を『神の湯』と申します」
口上を言い終わると、蟹女は踊りをやめて綺麗に一礼した。その、一種完璧ともいえる見事な芸に、思わず稚彦と志貴彦はパチパチと手を叩いた。
「神戸は、この玉湯川の川辺に沿って十五の出湯がございます。さあ、どちらの湯にご案内いたしましょ? ……ちなみに、一回の入湯につき、干し昆布を三枚いただきます」
そう言うと、蟹女は頭を垂れながら、二人に向かってハサミを差し出した。
「悪いけど、僕達の目的は出湯じゃないんだ」
ハサミを手で退けて、志貴彦は蟹女に言った。
「では、どちらへ参ります?」
「玉造りの里へ行きたいんだよ」
「これはこれは、玉をお求めのお客様!!」
蟹女は更に歓喜したように、左右の腕を振ってハサミを鳴らした。
「上客でございます! では、こちらへご案内。……ちなみに神戸の勾玉は、碧玉ひとつにつき、鮭二十匹でお引き換え!」
蟹女は、足取りも軽く稚彦たちを川の上流に案内していった。その浮かれ具合からして、恐らく高価な取り引きが成立するほど、『寿かひ人』に入る分け前も多いのだろう、と稚彦は推測した。
川を上るにつれ、出湯客の姿は段々減っていった。人影もまばらな川原を黙々と歩いていた稚彦は、ふと重要な事を思い出した。
「……そういやお前、『熊の神籬』を持ってんだよな。あれを使えば一飛びに目的地に行けるってのに、なんで俺たちは、朝からずっと歩いてるんだ?」
自分で言った台詞に愕然となり、稚彦は思わず立ち止まった。
考えてみれば、自分たちは物凄く無駄な事をしていたのではないか?
「ああ、あれね……。あれは……『僕』は、あまりよく使えないんだ……」
歩き続けたまま、志貴彦は曖昧に答えた。
「ふーん、そうか。……じゃあ、仕方ねぇな」
稚彦はすぐに納得して頷くと、再び志貴彦達の後を追った。
まあ、神宝には向き不向きもある。使えないまま、宝の持ち腐れになっているのなら、歩くより他に手はないだろう。
やがて、それまで谷合を歩いてきた一行の眼前に、いきなり新しい里が広がった。
緑深い奥山の里は、川下の出湯の里とは対照的に静まり返っている。里の中には藁葺の小屋が幾つも並んでいたが、間を歩く里人の姿は殆どなく、ただ小屋から立ち上る数本の煙だけが、人々の営みを印していた。
「あちらに見えるのが、花仙山です」
蟹女は、近くに聳える低い山をハサミで指し示した。
「あそこから、とても質のよい碧玉や紅玉がとれます。それを、この里の巧たちがつるつる光る勾玉に磨きあげるのです!」
蟹女は、ただでさえ細長い唇を、更に横にギィーっと引き伸ばした。そうやって歯を見せるのが、彼女にとっての『微笑』らしかった。
「神戸の勾玉は豊葦原一! さあ、いずれの工房を構えるのも、名だたる巧ばかり! お客様は、どの巧をご指名で!?」
興奮したように叫ぶと、蟹女はハサミを振り回しながら、その場で激しく回転し始めた。その姿は、貧弱な赤い独楽のようだった。
「--奇稲田を」
踊り狂う蟹女の前で、志貴彦は冷静にそう言った。
「なんと!」
蟹女は足を止め、驚愕に目を見張った。
「クシナダ! クシナダをご指名で! なんと、お目の高いお客様! 奇稲田は、当代きっての玉造り! 里一番の名人でございます! ……その分、代価もはりますが、お客様は、さぞやご身分の高い方で……?」
蟹女は、探るように志貴彦を見下げた。これ以上はないというほど小さな目が、あまり品のよくない光を帯びる。
「かまわないさ」
志貴彦は事もなげに答えた。そのあまりに平然とした様子に、かえって稚彦は不安を覚えた。
「おい、大丈夫が……?」
「ふん、不案内のよそ者が。だまって志貴彦にまかせておれ」
志貴彦本人に代わって、少彦名が頭上から憎まれ口を叩く。
「いいから、奇稲田の所へ案内してよ」
「ほいさー上客! はいさー上客!」
蟹女は完全に舞い上がり、飛び跳ねながら一行を率いて行った。
「……奇稲田ってのは、そんなに凄い巧なのか?」
滑稽な足取りで進む蟹女の後ろを追いながら、稚彦は志貴彦に訊ねた。
「そうだねえ。僕が聞いてたのは、奇稲田は勾玉については知らぬ事のない巧っていう事と……後は、『ぬばたまの黒き御髪の美女』っていう評判だね」
「ふーん」
稚彦は、あまり興味なさそうに呟いた。
残念ながらこの三人組の中には、「美女」という言葉に特別な興味を示すほどの、精神的に成熟した男はいなかった。
やがて蟹女は一行を、日干し泥炭で壁を塗った独特の造りの工房前まで連れてきた。
「こちらが、世に名高き奇稲田の玉造り工房でございます。……あとは皆様、お入りになってご自由に交渉を」
蟹女はハサミを持った両手を体の前で揃えると、恭しく一礼した。
三人は、互いにちらっと顔を見交わした。誰も、自分からは進んで入ろうとはしない。無言の譲り合いが暫く続いた後、仕方なく志貴彦が前に進み出て、入り口に垂れ下がっていた古い布をめくった。
「……ごめんください。おじゃましまーす」
小声で挨拶をしながら、志貴彦は工房の中に入った。稚彦もその後に続く。
工房自体は、普通の竪穴住居とあまり変わりなかった。ただ、換気が行き届いてないのか、小屋の中はかなり蒸し暑い。それに、何か不思議な匂いが充満していた。
土間の上には、何枚か横長の筵が敷いてある。その上に三人の男が座り、顔を伏せて一心不乱に作業をしていた。
右手にいた若い男は、幾つもの原石を『叩き石』で細かく砕いていた。飛び散った原石の細かい欠片が、筵の周囲に散乱している。
奥にいた老人は、動物の骨で作ったと思われる、大きな錐を中空で手早く回転させ、時折磨き粉をふるいながら、器用に玉に穴をあけていた。
左がわにいた中年の男は、くぼみ砥石を使って、玉を磨き上げていた。咎って鈍い色をしていた原石が、彼の手にかかると、みるみるうちに美しい光沢をもった勾玉に仕上げられていく。男は時折玉を目の上に掲げ、明り取りから入ってくる光に翳しては、その輝き具合を確かめていた。
工房の奥には木で出来た台があり、その上に土器と一緒に出来上がった勾玉が並べられている。
巧たちは一切無駄口を叩かず、見事な手際と連携で玉を作り続けていた。その鮮やかさに三人はしばし無言で見とれていたが、やがて本来の用を思い出した志貴彦が
口を開いた。
「……すいません、奇稲田さんに用があるんですけど……」
巧たちは、志貴彦の呼びかけに何の反応も示さなかった。
作業に集中していて声が届かなかったのかと思い、志貴彦はもう一度呼びかけた。
「あのう……奇稲田さんは、この中に……いないんですよね……?」
志貴彦は、小声になりながら弱気に尋ねた。
この工房の中にいる巧は、いずれもむさくるしい男ばかりだった。噂に聞く『ぬばたまの黒き御髪の美女』の姿など、どこにもない。
「あの蟹、俺たちをだましたんじゃねえのか?」
志貴彦の背後で、稚彦が冷ややかに言った。あの蟹女の怪しさからすれば、充分ありうる事だと思えた。
しかしその時、左側で玉を磨いていた男が、突如ぬっと顔を上げた。
「--奇稲田は、ワシだ」
男は、いがらっぽい低音を響かせた。
「え、あんた……?」
男に見返された稚彦は、当惑して口ごもった。
男は、とても大きな顔をしていた。稚彦の倍はあるだろう。無論、体も大きかった。いや、ごついといってもいい。筋肉のみなぎった四肢はひどく頑丈そうで、その足は間違いなく臭いだろうと予想された。
「いや、でも、奇稲田ってのは、『ぬばたまの黒き御髪の美女』なんじゃ……?」
稚彦がそう言いかけた途端、それまで険しい表情をしていた男が、にたっと目尻を下げた。
「ほほお、そのように伝わっているのか。よきこと、よきこと」
男は、機嫌良さそうに目を細めた。そうやって笑っている姿を見ると、男は意外と人がよさそうだった。
「いや、でも、あんた『美女』じゃないよなあ……?」
「無論。ワシは、女ではない。『ぬばたまの黒き御髪の奇稲田』は、ワシの母の名だ」
男は、腕を組むと誇らしげに語った。しかし稚彦と志貴彦は、より一層疑わしい瞳で互いの顔を見交わした。
世に名高い美女の母から、こんなむさくるしい息子が生まれるのだろうか。一体、父親はどんな男だったというのだろう。
客人たちの微妙な空気を察したのか、男は中にいた巧たちに一瞥をくれて、念をおすように言った。
「ワシの母は美しい人だった。……なあ?」
巧たちは一瞬だけ頷くと、すぐに元の作業に戻った。あまり関わりたくはないようだった。
「母は、美しいだけでなく、最高の腕を持つ玉造りだった。……しかし、残念なことに、先年流行り病で亡くなってしまったのだ」
そう言うと、男は哀しそうに目を潤ませた。
「ゆえに、息子のワシが『奇稲田』の名を継いだのだ。『奇稲田』は、この里で最高の玉造りに与えられる名でもある。母に劣らず、ワシも腕は確かだぞ。……さあお前たち、どんな玉を作ってほしくてやってきた!?」
男・『奇稲田』は涙を拭うと、照れを隠すように大声で稚彦たちに迫った。
「えーっと、その前に、一つ聞きたいんだけど……」
志貴彦は少しきまり悪そうにしながら、おずおずと奇稲田に切り出した。
「僕達の前に、邇芸速日って人があなたを訪ねてこなかった? 珠を造ってほしいとか、何か珠を探してるとか、そんな用件で……」
「--邇芸速日?」
奇稲田は、怪訝そうに眉を顰めた。
「そう。もしかしたら、事代って名乗ったかもしれないけど……」
「事代。……邇芸速日、ねえ?」
奇稲田は、考え込むようにして腕を組む。
そんな彼の前で、稚彦は釈然としない顔で志貴彦をつついた。
「おい、俺の知る限り、邇芸速日に『事代』なんて異名はないぜ? あるとすれば、『火明』か『櫛玉』か、『天照国照彦』ぐらいだ」
天津神は--場合によっては国津神も、幾つもの別称を持っている。その中で、一番通りのよいものや本質に近いものを、代表として通り名にしていた。
「ああ、僕が邇芸速日に『八重事代主』って名前をつけてあげたんだよ。地上で生きていく為には、地上の名前がいるからね。でも結局、あまり使ってないけど」
「……へえ。随分と、念のいったことだな」
稚彦は皮肉げに呟いた。
地上で名を貰うというのは、そこへの帰属権を保障してもらうという事だ。
そうやって、出雲王に地上の安全を確保してもらいながら、同時に邇芸速日は天津神としての名も棄てぬままでいる。
今も稚彦達が彼をその名で呼べているのが、何よりの証拠だ。もし放棄したのなら、誰もその言霊を口に乗せる事はできないのだから。
天にも地にも生きる道を残して、さりとてどちらも完全には選ばず……。
(汚い奴め)
稚彦は心の中で邇芸速日を罵った。
しかしそれにしても、地上の名が『八重事代主』とは。うまくつけたものだ。
それは文字通り「事を知る」という意味の名である。邇芸速日は呪術神であり、呪術はその殆どが「言霊」によってなされるものだから、彼の本質をもっともよく現わした名といえた。
「……ああ、邇芸速日! 確かに一度、ここへ来た!」
奇稲田は、思い出したように手を叩いた。
「本当!?」
稚彦と志貴彦は、同時に声を上げて奇稲田に詰め寄った。
「それで、彼はここへ何をしにきた? 今、どこにいるか分かるか!?」
期待に満ちて勢い込む稚彦とは対照的に、奇稲田はむっとして表情を固くした。
「……何故そんなことばかり聞きたがるのだ。お前たちは、ここへ勾玉を求めにきたのではないのか?」
「うん、勾玉も貰うよ。代償は、この人がいくらでも出すって言ってるし」
そう言うと、志貴彦はまっすぐ稚彦を指さした。
「ええ!? お前、そんなつもりで……」
『ここにきたのか』と言おうとした稚彦を無視して、志貴彦は更に奇稲田に頼み込んだ。
「だけどその前に、邇芸速日の事が知りたいんだ。知ってるなら、教えてくれない?」
志貴彦は、真摯な瞳で奇稲田に縋る。
「……ふむ……」
あぐらを組んで、奇稲田は困ったように天を仰いだ。どうしたものかと、暫し逡巡する。しかしその時、奥で黙々と管玉を作っていた老人が、顔をあげて奇稲田に言った。
「悩むことはない。この里には、この里の掟がある」
突き放すようにそう言うと、老人はまたすぐに元の作業に戻った。
「……確かにな。いいか、小僧。この忌部の神戸では、何事もただで得ることはできない」
奇稲田は、志貴彦を見返してきっぱりと告げた。
「出湯につかるのも、玉を貰うのも……そして情報を得るのも、全て代償がいる。ただでは何も貰えない。それがこの里の掟だ」
「へえ。面白いね」
「そして情報は、時には玉にもまさる宝となる。やがて全ての人々が、先を競って情報を得ようとする時も来るだろう。……ゆえに、情報には一番高い代償を必要とするのだ」
「ふうん」
志貴彦は曖昧に呟いた。新しい考えなんだか、単にけちなだけなんだか、よく分からなかった。
確かに物々交換は、豊葦原の各地で行なわれている。しかし、こんなにもいちいち見返りを要求してくる里は、初めてだった。
豊葦原では、まだ富や知識は人々で共同に分け合うもの、という考えが強い。そうやって助け合いながらうまくやっている郷の方がずっと多いのに、この里はこんな
ギスギスした掟を作ってしまって、この先どうなってしまうのだろう?
「で、具体的には、何を支払えばいいのさ?」
「……鉄、だ」
奇稲田は、重々しく言った。
「鉄? 鉄なんか、玉の材料に使えるの?」
「玉ではない。正直言って、もはや玉造りでワシの右に出る者はおらん。だから、ワシはこれからは違う新しい事に……鉄を使った『鐸』作りに挑戦してみたいのだ」
「『鐸』って何さ?」
「大海の彼方にある異国の楽器だ。世にも霊妙な音を奏でるという。彼の地では、材料に青銅を使うため『銅鐸』と呼ぶらしいが。ワシは、この豊葦原でそれを作ってみたい」
「ふうん。でも何でわざわざ鉄で作りたいの?」
「決まっとるだろう。すでに異国にある物と同じのを作ってどうする。ワシは、まだ誰もやったことのない物に挑戦してみたいのだ」
「へええ、そう」
よくわからないが、志貴彦はとりあえず頷いておいた。
要するに、職人としての矜持の問題らしい。
豊葦原一、とか、豊葦原初、とかいう称号が欲しいのだろう。
「でも生憎だけど、僕たち誰も、鉄なんて持ってないんだ」
「それは、見ればわかる。……だから、採ってくればいいのだ」
「採ってくる?」
「情報に見合う代償は、『労働』だ」
奇稲田は、たくわえた顎鬚を撫でながらほくそ笑んだ。
「お前たち、斐伊川を知っているか?」
「知ってるよ、当たり前じゃないか」
「……俺は知らないぞ」
背後で、稚彦がぼそっと呟く。
志貴彦は振り返って稚彦を一瞥すると、『後で教えてあげるよ』と短く言った。
「斐伊川の上流に行ったことは?」
「ないけど」
志貴彦は、首を振った。
「斐伊川の上流には、鉄があると昔から伝えられている。しかし、確かめた者は誰もいない」
「なんでさ?」
「そこには、主がいる。主が鉄を守っているから、誰も近づけない」
「主って、どんな奴?」
「大蛇だ」
「ぎゃああああっっ」
突如、志貴彦の頭に乗っかっていた少彦名が、震え上がって悲鳴を上げた。
「ま、まさか、その大蛇を倒して、鉄を採ってこい、などというのじゃなかろうの?」
「……その通りだが」
奇稲田は、興奮する少彦名を怪訝な目つきで見ながら答えた。
「反対じゃっ。そこまでして、邇芸速日の行方など追わずともよい。そもそも、奴にそんな価値などないわっ」
「……こいつ、どうしたんだ?」
いきなり騒ぎ出した少彦名を呆れ顔で眺めながら、稚彦は志貴彦に尋ねた。
「少彦名は、蛇が大嫌いなんだよ」
志貴彦は、簡潔に説明した。
「のう、やめよう、志貴彦。そもそも、ニギハヤヒに用があったのは、稚彦じゃ。わしらは、かかわらずともよいではないか」
「それを言っちゃ、おしまいだけどね」
志貴彦は、困ったように苦笑した。
「では志貴彦は、恐ろしい大蛇退治をしてまでも、邇芸速日を探したいのか?」
「うーん、正直、僕はどっちでもいいんだよね。このまま帰れば、それはそれで楽だし。
行ったら行ったでなんか面白そうだし」
恐慌状態に陥っている少彦名とは対照的に、志貴彦は呑気に呟いた。
「面白そう、ではすまぬぞ。大蛇に食われたらどうするのじゃ」
「多分大丈夫だよ」
「なんでそんなに気楽なのじゃ」
「だって、僕は今まで、それで平気だったから。ね?」
志貴彦は、頭上の少彦名の顔を、指でつんっとつついた。
「……それで、結局お前たちはどうするのだ」
しびれを切らした奇稲田が、志貴彦と少彦名の会話に割って入った。
「行くのか、行かぬのか」
「……ああ。じゃあ、この人に聞いてよ」
志貴彦は、他人事のような顔で稚彦を指さした。
「一番邇芸速日を探したいのは、この人なんだ。だから、彼に決めてもらおう」
「……俺ぇ?」
指名された稚彦は、当惑して情けない声を出した。
「だってそうじゃない」
「そりゃ、確かにそうかもしれないが……」
「だったら、お前、さっさと決めろ」
奇稲田が、今度は稚彦に選択を迫る。
稚彦は一瞬、真面目な顔で押し黙ったが、次の瞬間、何を思ったか突如両腕を広げ、奇稲田に向かって弓矢を構える真似をした。
「おい、お前、なにを……っ」
「知らないだろうが、こう見えてこの俺は、弓の達人だ」
まっすぐに奇稲田を見据えながら、稚彦は言った。
彼の双眸には、本当に獲物を狙う時の迫力が漲っていた。
「もしお前が俺たちを騙したり、情報が間違っていた場合は、お前を殺す。お前が、この地上のどこにいてもだ。俺には、それができる。……いいな?」
稚彦は、奇稲田を射程内に捕らえたまま、脅すように言った。
完全に威圧された奇稲田は、硬直したまま、人形のようにかくかくと首を振った。
稚彦は腕を下すと、呆然として彼をみつめる人々に背を向けた。
そして、出口に向かってすたすたと歩き出す。
「……ねえ。結局、どうするの?」
志貴彦は、稚彦に向かってのんびりと呼びかけた。
「……あ? 決まってんだろ」
入口の布をバサッと払い上げると、稚彦は振り返らぬまま言った。
「大蛇の所へ行くんだよ」
『第三章終わり 第四章へ続く』