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空見つの国  作者: かざみや
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 第二章 国引きの御子

 天津神ではあったが、天之稚彦は飛翔の能力を持たない。

 それゆえ、どうやって地上まで降りていくか、稚彦はしばし悩む事となった。

 最初は、まあ順当に「天磐船あめのいわふね」に乗っていこうと考えた。しかし、意志持つ磐の船であり、天神を乗せて空を渡ることを使命とする彼らは、既に予約でいっぱいだった。

 次に、天磐船の眷属である「天鳥船あめのとりふね」を借りにいった。しかし、こちらは司に『現在休眠期である』と断られてしまった。

 仕方がないので、稚彦は原始的な手段をとる事にした。大雉の足につかまり、そのまま地上まで飛んで運んでもらおうと思ったのだ。


「……大丈夫ですかしら」

 稚彦が頼みに行った時、大雉の鳴女なきめは心配そうに嘴を開いた。

「そりゃあ、稚彦さまのお頼みですから。聞いてさしあげたいのはやまやまですけれど。今まで、そんな方法で地上に降りた神族はいらっしゃいませんのよ。やはり、天磐船が空くまでお待ちになったほうが……」

「--いや。多分、いつまでたっても順番はこないと思うんだ」

 しゃがみこんで鳴女と視線を合わせると、稚彦は確信めいた表情で言った。

「なんでですの?」

「察するに、俺は意地悪されてるんだよ」

「まあ……」

 鳴女は、驚いたように丸い目玉をぐるぐると回した。

「みなさま、ひどいんですわね。きっと、稚彦さまがかわゆいから、妬いてらっしゃるんですわっ」

 鳴女は非難がましく呟きながら、ぷりぷりとして毛を逆立てた。

 鳥族の中でも上位種にあたる鳴女は、通常の雉の約五倍の大きさをしている。翼は長くて強いし、足も太くしっかりしている。稚彦がぶらさがったとしても、まず問題はなさそうに見えた。

「--な、美鳥の上に、力持ちのお前だ。俺一人くらい、簡単なもんだろう? 頼むよ!」

「まああ稚彦さま、いつも正直ですわね。それは、わたくしにはた易いことでございますとも。……でもね、稚彦さま。どんな理由であれ、天神を代表して地上へ行かれるのに、そんな格好で降りていったら、国津神たちに笑われてしまいませんこと?」

「そんなの気にしやしねえよ。俺は高天原でだって、いつも笑われてたんだからさ」

 屈託なくそう答えると、稚彦は機敏な動作で立ち上がった。

「そおお? そこまでおっしゃるのなら、仕方ありませんわねえ。……わかりましたわ。では稚彦さま、わたくしの足にしっかりとお掴まりになってね」

 鳴女は首をもたげると、翼を開いて飛び上がった。そして何度か空を旋回した後、稚彦の目の高さで止まる。

 稚彦は両手を伸ばして、鳴女の足首を握り締めた。

「……では稚彦さま、絶対にわたくしを離さないでくださいましねー。手を離したら、その後は知りませんことよーー」

 稚彦が掴まったのを確認すると、鳴女は勢い良く舞い上がった。そして彼をぶらさげたまま、天界の門である「天の石位あめのいわくら」に向かって、一直線に飛び去っていった。



 高天原を後にしてから、どれだけの下降を続けただろう。

 鳴女の足にぶら下がった稚彦の目に、やがてきらきらと光る美しい海面が見えてきた。

「……なあ、鳴女。あれが、地上の海か?」

 長い毛先を風になびかせながら、稚彦は訊いた。

 さっきから、やたら空気に潮の匂いが混じっている。清浄な大気しか存在しない高天原では、まったく嗅いだことのない風だった。

「そうですわ。あれが、稲佐の浜。豊葦原の西の国、『出雲』に広がる海ですのよ」

「へええ……」

 眼下を見下ろしながら、稚彦は思わず感嘆した。

 穏やかに光る波に満ちた、蒼氓たる海原。そしてそこから続く、白い砂の広がる浜辺。

 浜の向こうには、緑の木々が生い茂っている。その彼方に人々の国が--『出雲』があるのだろうか。


「……この辺りは、出雲の中でも『杵築』と呼ばれる郷ですわ。この浜から一刻ほど歩いたところに、『杵築の宮』というものがございます。そこに、出雲王がいらっしゃるそうですわよ」

 天と地の間を自由に行き来できる鳥族の鳴女は、稚彦よりもずっと地上の物事に詳しい。貴重な情報を貰った稚彦は、上を向いて鳴女の足を引っ張った。

「--な、もう、俺を降ろしてくれてもいいぜ!」

「何をおっしゃいますの。ちゃんと、浜の上までつけてあげますわよ」

「いや、ここまで来たらもう着いたも同じだって! 後は自分でなんとかするよ。ここまでありがとな! ……じゃっ!」

 笑顔でそう告げると、稚彦はパッと鳴女の足を握っていた手を離した。

 一瞬宙に浮いたと思った次の瞬間、稚彦は身体に重い負荷を感じる。地上の引力に捕まったのだ。

 凄まじい速度で落下しながら、稚彦は楽しそうな喚声を上げた。

「おおう、これが噂の『重力』ってやつだな! 思ってた以上におもしれえーっ!」

 初めて味わう感覚に、稚彦は興奮していた。

 成程、これが大気の重みか。どこか水の中を歩くのに似ている気もする。

 だが自分は、神族の中でも身のこなしが敏捷な方だ。これしきの負荷の中での着地など、造作もない。それよりむしろ、思いっきり体重をのせて、着いた時あの浜辺の砂がどのくらい吹き飛ぶが試してやろうか--。

 そうして、今しも大地に足を着けようとした時。

 突如、稚彦の前に小さな人影が飛び出してきた。

「--おいお前、どけっ!!」

 稚彦は焦って怒鳴った。

 稚彦の声に驚いた相手が、上を向く。それは人間の子供だった。子供は、落下してくる稚彦を見るとその目を丸くした。

(ぶつかる……っ)

 稚彦は、思わず目を瞑った。

 しかし衝突する直前、子供はひょいっと脇に退いた。

 慌てたはずみで均衡を崩した稚彦は、頭から砂浜に墜落した。

「--っ!!」

 顔が地面に直撃し、口に砂が大量に入り込む。

 稚彦はそのまま、うつ伏せに倒れ込んだ。

 顔を打った。--いや勿論、身体のあちこちも。

(なんだっけ、これ……ああそうだ、『痛い』っていうんだよな、こういうの……)

 稚彦は、長い間忘れていた感覚を思い出した。

 高天原にいれば、滅多に物理的な痛みや苦しみを味わうことはない。

 --成程。初っ端から、地上は危険な所だ……。


「……ねえ、君。死んだの?」

 倒れたまま動かない稚彦の上に屈み込み、子供が指先で頭をつついた。

「困ったなあ。ここに置いておいたら、皆の迷惑になる

し。僕一人じゃ捨てられないし。……誰か、呼んでこないと……」

 子供が立ち上がる気配がする。稚彦は、すかさず右手を動かして子供の足首を握った。

「わっ、死体が動いた!」

「……死体じゃねえ……」

 くぐもった声で呟くと、稚彦は砂まみれの顔を子供の方に向けた。

「おい、ガキ……俺の顔は無事か……?」

「え、顔……?」

 怪訝そうに問い返すと、子供はしゃがみこんで乱暴に稚彦の顔についた砂を払った。

「あ、面白い! あんなに大きな音がしたのに、どこも腫れてない!」

 子供は珍しい物を見たかのように、はしゃいで声をあげた。

「ああ、ならまあ、いいや……」

 両手を地面につき、稚彦はゆっくりと起き上がった。彼の背から、ずざざーと砂が流れ落ちる。

 全身から砂を払い落とす稚彦を見上げて、子供は無邪気な声で訊いた。

「……ねえねえ、君って『砂かぶりじじい』?」

「俺みたいに若くて綺麗な『じじい』がいるかっ!」

 稚彦は、むきになって言い返した。

 『砂かぶりじじい』が何かは知らない。多分この土地の地祇か何かだろうが、とりあえずあまり歓迎できない響きの名前だった。

「じゃあ、誰さ」

「……天之稚彦」

 口に残った砂を吐き出して、稚彦はしかめっ面のまま子供に答えた。

「アメノバカヒコ? 変な名前!」

「『バカ』じゃねえっ。『ワカ』! 『ワカヒコ』だっての!」

「似たようなものじゃない」

「似てねーよ!」

 叱りつけて、稚彦は子供を見下ろした。

 --この、著しくひとの調子を狂わせる子供は、一体なんだ?

「……お前、この土地の子供か?」

「うん。僕は志貴彦。八束志貴彦やつかしきひこっていうんだ」

 志貴彦と名乗った子供は、稚彦に向かってにっこりと微笑んだ。

 それは、柔和な白い面に、丸い瞳が印象的な少年だった。

 優しげな造作と華奢な手足をしているから、喋らなければ少女でも通る。--もっとも、彼はしっかりと男の証である角髪を結い、白い袴をはいていたが。


「ねえ、バカヒコ」

「稚彦だって言っただろう!」

「どっちでもいいや。ねえ、今、どこから来たの?」

「……」

 しばし迷った後、稚彦は右手を上げて人差指で上空を指さした。

「--空? 見たまんまの答えじゃないか……」

 志貴彦はがっかりしたように呟いた。

「『天』、だ! 俺は天から降りてきた」

「天ーー? まさか、高天原から来た天津神だとでもいうの?」

「その通り。俺は天津神族にして天津国玉の子、天之稚彦だ」

 両手を腰にあてて、稚彦は誇らしげに名乗った。

 --しかし、次の瞬間に志貴彦が示した反応は、稚彦の予期せぬものだった。


「……あーあ、また困ったのが来ちゃったよ……」

 志貴彦は肩を落とし、諦めたように嘆息した。その姿は彼の外見に似合わず、ひどく大人びているように見えた。

「『また』? ……『また』ってなんだ」

「いや、ただの言葉のあや。こっちのことだよ、気にしないで。それで……天津神さんが、何しに出雲に来たのさ」

 そう言うと志貴彦は横を向き、聞こえるか聞こえないかの声で『……まあ、大体わかるけどね』と呟いた。

「ああ? 今なんか言ったか?」

「だから、こっちの事。……それで?」

「--ああ、えーと、俺はだな……出雲に人捜しに来たんだ」

「……人捜し?」

 志貴彦は細い首を傾げ、意外そうな顔をした。

「そうだ。だから俺は……そう、『杵築の宮』ってとこに行かなきゃならない。--ああ、ちょうどいい、お前、案内できるか?」

「え、僕? できるよ、できるけど……でも……」

「でもなんだよ」

「うーん、行っても仕方ないと思うんだけどな」

「なんでお前にそれがわかるんだよ」

「ええ、だって……」

「--とにかく、ここにずっといたって始まらないだろ。いいから、行こうぜ」

 稚彦は、志貴彦の肩をポンッと叩いた。

「うん、まあ……いいよ。そんなに言うなら、自分の目で見てみれば……」

 どこか投げやりに呟きながら、志貴彦は仕方なく稚彦の案内を引き受けた。



「おお、なかなか立派な物があるじゃないか」

 『杵築の宮』に通じる参道の入り口に来ると、稚彦は感心したように大きな鳥居を見上げた。

「『宮』っていってもよ、どうせ地上にある物だから? 神籬ひもろぎ磐座いわらに屋根つけた程度のもんだと思ってたんだが」

 青々しく茂った松の大木に挟まれた参道をゆっくりと歩きながら、稚彦は物珍しそうに周囲をきょときょとと見回した。

 宮の敷地内には、浄池や水舎が点在し、あちこちに祠が備えられている。鳥居からすぐには本殿の姿が見えぬ事からも、全体は結構な規模であるように思われた。


「どういう認識で地上に降りてきたんだよ」

 稚彦の隣を歩きながら、志貴彦が呆れ顔で呟いた。

「いや、みんな適当に岩屋とか、地面に穴ほって、動物と一緒に暮らしてんのかなー、って」

「……まあ、そういうとこもあるけどね。場所によるよ」杵築は結構栄えてるんだ」

「らしいな」

 稚彦は素直に頷いた。

 どうやら、豊葦原には高天原の認識以上に文化的な部分もある。あまり嘗めてかからない方がいいかもしれない。

「--そういや、ところでお前いくつだ?」

 突然気付いたように、稚彦は傍らの志貴彦に訊ねた。

「僕? 僕は……今年で十三歳になったけど」

「十三? ……まあ、確かにその程度の見た目だな。で、実際は何年くらい生きてるんだ? 五十年か?」

「--何言ってんだよ。そんなに生きてたら、おじいさんになって死んじゃうじゃないか。生まれてから、十三年なの!」

「まさか」

 稚彦は、信じられぬといった風に瞳を瞬いた。

 高天原では若手とされている稚彦だが、それでも生まれてから百年は経っている。

 発生してからたった十数年の生き物など……稚彦の想像の範疇を超えていた。

「十三年しか経ってないんじゃ、言葉も禄にしゃべれねーだろ?」

「……今、こうして話してるじゃないか」

「あ、そーか! 気づかなかったぜ」

 稚彦は愉快そうに哄笑した。

 そんな稚彦の脳天気な横顔を見て、志貴彦は『やっぱバカヒコだよ……』と呟いた。


「……しかし、妙にうるせえな」

 笑いを収めると、稚彦は怪訝そうに眉を顰めた。

「なんか、さっきから、やたらに槌の音ばっか聞こえねえ?」

「……ああ、そりゃそうさ」

 志貴彦は冷静に呟き、前方を指差す。

 二人の前には、境内と参道を区切る第二の鳥居が立っていた。しかしその鳥居の向こうには、肝心の本殿の姿がない。

 広い境内の中は、まだ殆どが更地状態だった。その間を多くのたくみがせわしなく行き交い、幾つかの柱を建てようとしている。

 あちこちで槌やかねの音が鳴り響き、怒号の飛び交う工事現場は、騒然とした雰囲気に満ちていた。

「まだ造ってる最中なんだよ。出来上がるのは、再来年くらいじゃないかな」

 工事の様子を眺めながら、志貴彦は朗らかに言った。

「ええ!?」

 稚彦は思わず愕然となる。

 中に入って見ると、確かにそこは造りかけの物ばかりだった。

 またその中にいたのも、大工仕事を担う巧とその手伝いに集められた男奴おやっこ達ばかり。宮の主となるべき出雲王本人はおろか、その側近の姿さえ見つけることはできなかった。


「おい、いつからこんな事やってんだ!?」

「えーっと、今年の始めかな」

「宮一つ造るのに、三年もかかるってのか? ったく、地上ってのは、ほんと訳わかんねえ……」

 稚彦は額を押さえて呻いた。

 高天原なら、こんな宮造りなど波比岐神はひきのかみがその眷属に命じて一晩で終わらせる。

 生き物の成長がやたらに早いかと思えば、その一方で物作りには恐ろしい程時間がかかる。豊葦原は、常識外れな事ばかりだ。

「……なんだ、これ? 妙にでかいじゃないか……」

 境内を歩き回っていた稚彦は、ある巨大な杉柱の前で足を止めた。

「ああ、これは宇豆柱うづばしらだよ。これを、本殿の棟持柱にするんだ」

 稚彦の隣に立った志貴彦は、柱を見上げて言った。

 その『宇豆柱』は、一本の太さが稚彦の片手程もあった。しかもそれを三本纏めて金輪で束ね、一つの巨柱となるように仕立てている。またその長さは、背後に聳

える山の頂から湧き出す雲に届くかと思われる程長大だった。

「これを棟持にするって事は……よっぽど天高い宮を建てるつもりか?」

「そう。なんかね、みんな凄くはりきっちゃって。『天の御巣みすのごとく、大磐石に柱を太く建て、大空に棟木を高く上げて、富栄える新しい宮居をお造りしま

す』って言ってくれちゃうんだ。僕は、べつに別にそんな大きくなくてもいいって言ったんだけどね」

「へえ……」

 相槌を打ちかけた稚彦は、志貴彦の発した言葉がどこか変なのに気がついた。


「--誰が、造るって言ったんだ?」

「出雲のみんなが」

「……誰に?」

「僕に」

「--はああ!?」

 稚彦は大げさに声を張り上げた。志貴彦が何を言っているのか、よく分からない。暫く考え込んだ後、稚彦は志貴彦を見下ろして再び尋ねた。

「もっかい、聞くぞ。……ここは、誰の為の宮だ」

「出雲王」

「ここに住むのは、誰だ」

「僕」

「……じゃあ、お前は誰だよ」

「出雲王。……一応、ね」

 従容とした態度のまま、志貴彦は恬淡と答えた。

「じゃあ、お前が--出雲の……王、なのか!?」

 稚彦は息を飲んだ。志貴彦の姿があまりに自然なので、なんだかこれは現実ではないような気がする。

 引佐の浜でぶつかりかけた子供が出雲の--この豊葦原を代表する国の、王だと!?

(王が一人で、海辺をほっつき歩いているものなのか……?)

 稚彦は混乱した。当初に考えていた予想と、あまりにも違う展開だった。

 そもそも、出雲王と対面するのはそう簡単ではないだろうと思っていた。彼らは、自分たちの領を奪おうとした天を敵視しているはずだから、必ず側近や周囲の人間の邪魔が入る。それをどう攻略し、いかなる方法で本人から邇芸速日の情報を聞き出すか……。

 稚彦は色々考えてみたが、結局いい手段は思い浮かばなかった。だからてっとりばやく、体当たりの正面突破するつもりでここまで来たのだ。


「そうだって言ったじゃない。……まあ、どうでもいい事だけどね」

 志貴彦は他人事のように言った。

「いや、しかし……」

 稚彦は困惑して口籠った。

 『王』という言葉から、稚彦が一番に思い出すのは『天の王』--即ち天照大御神だ。ただ姿を現わすのさえ、幾つもの儀式と手順を必要とする、権威の権化。

 それと比べて、この『出雲王』はあまりにも違いすぎる。いくら豊葦原が未開の世界とはいえ、こんな子供を王に戴く事が、本当にありうるのか?

「どうにも信じられねえなあ……。お前の思いこみか、勘違いじゃねえの? それか、間違いとか」

 稚彦がそう呟いた時、足下の方から強く彼を否定する声が上がった。


「間違いではない!」

「--へ?」

 稚彦は声のした方へ視線を落とす。

 彼の足先には、腰に両手をあて顔を怒りで赤くした一人の小人が立っていた。

「志貴彦は、紛れもないこの出雲の王じゃ! お主、世に名高い『国引きの御子』を知らぬか!」

 いきり立った小人は、ビシッと稚彦を指さした。

「……やあ、少彦名すくなひこな

 志貴彦は小人を見ると朗らかに微笑み、しゃがみこんでその前に両手を差し出した。

 小人は掌に飛び乗ると、慣れた様子でひょいひょいとその腕をつたい上がり、右肩の上に座った。

「世間知らずの田舎者め! どこから来おった!」

 少彦名と呼ぶらしいその小人は、鼻を鳴らして挑発的に稚彦を見上げた。彼は中指ほどの大きさしかないくせに、大層偉そうだった。

「高天原から来たんだってさ」

 志貴彦が鷹揚な口調で説明する。

「高天原……では、天津神か!」

 小人の目に、微かな敵意が点った。

「また、地上に干渉しに来おったな! しつこい奴らじゃ! よかろう、志貴彦に害をなそうというなら、このわしが受けてたつぞいっ」

「やめなよ、少彦名。潰されるのがオチだって。大体、この人はまだ何も言ってないじゃないか……ねえ?」

 志貴彦は、同意を求めるように稚彦を見上げた。小人は、仕方なく憮然とした表情で口を噤む。

 小人は、大きさだけを除けば、志貴彦と同じくらいの年かさに見えた。どちらが真似たのか分からぬが、二人は似たような髪型と服装をしている。まるで兄弟のようだった。

(これは一体なんだ……? ……待てよ。『スクナヒコナ』?)

 小人を眺めていた稚彦の頭に、ふっとその名が引っかかった。

 それは、どこかで聞き覚えのある名前だった。この小人を『見た』記憶はない。しかし、この名は確かに聞いた事がある。そう、高天原で催された宴の中で、時折笑い話として……。


「--ああ、そうだ! 千年前ふざけてて高天原の雲から落っこちて、そのまま帰って来れなくなった、神魂かんむすひの出来損ないの子だ!」

 稚彦は、少彦名を指さしながら大声で叫んだ。

 神魂は、高御産巣日と対をなす造化三神の一柱である。その神格は非常に高く、あの天照大御神でさえ敬意を払わなければならぬ相手だった。

 ただし、高御産巣日が積極的に天照大御神の擁護に回っているのに対して、神魂は滅多に己の宮内からその姿を現わすことはない。

 世界の一番始めに出現した天之御中主あめのみなかぬし・高御産巣日・神魂の三柱は、基本的にみな性を持たない『独神ひとりがみ』である。しかし便宜上、高御産巣日は壮年の男性の、そして神魂は中年の女性の姿をとることを常としていた。(稚彦は、天之御中主については「今は姿を隠している」こと以外、殆ど何も知らない)


 高天原の創始以来、神魂は千以上の御子神を生成している。いずれも神格の高い神々だったが、その中に一人だけ、いたずらで教えに従わぬ子がいたらしい。

 ひときわ小さく生まれたその子は、ある時高天原からこぼれ落ちた。その後の行方は、誰も知らない。海の彼方の『常世の国』に行ってしまったらしい、というのが専らの噂だった。

 生まれるよりずっと前の事だから、稚彦はその御子神の姿を見たことがない。しかし、時折酒の肴に話題にのぼるその神の名は、確かに「少彦名」といった。



「なんだ、お前が例の『少彦名』か! こんな所にいたんだなー! 噂通り、ちびっこいのっ」

「何がちびじゃ! お主こそ何者じゃ。名を名乗れ!」

「俺? 俺は、稚彦。天津国玉の子、天之稚彦さ」

「天之稚彦? 天津国玉のことは知っておるが、奴にはそのような名の御子神などいなかったはずじゃ」

「そりゃ、お前さんが知らないのも無理はないさ。俺は、百年前に生まれたばかりの若神だからな。いつまでも千年前の自分の知識が通用すると思うなよ、年寄神!」

 稚彦は少彦名の目を覗き込むと、勝ち誇ったように笑った。

「くうう、生意気な若造が……」

 少彦名は顔を歪めて、悔しそうに歯ぎしりする。

「歯がなくなるぜ、年寄り? ……しっかしまあ、それにしても、なんであんたがこんなとこで子供と馴れ合ってるんだ?」

「ふん。わしは、出雲王となるべき志貴彦を助け、共に国造りを進める為に、わざわざ常世の国からこの出雲へやってきたのだ」

「えー!? 嘘ばっかり」

 胸を張って豪語する少彦名に茶々を入れたのは、他ならぬ志貴彦本人だった。

「遭難して稲佐の浜に流れついたところを、僕が助けてあげたんじゃないか。結果論だけで話すのは、誤解を呼ぶもとだよ。出雲王だってねえ……まあ、なんとなく? なっちゃっただけだしなあ」

「--地上の王ってのは、『なんとなく』なれる物なのか?」

 志貴彦の方に視線を戻し、稚彦は唖然として言った。

「さあ。他の人の場合はわからないけど。僕はそうだったね」

 志貴彦は平然と答えた。

「よくわかんねえな。つまり、具体的にはどうやって決めたんだ?」

「えーっとね、僕は元々この杵築郷の長の息子だったんだ。もっとも、九人兄弟の末子だから、最初は国とか全然関係なかったんだけど。--去年の冬かな、天から武御雷って人が引佐の浜に降りてきて、突然地上をよこせって言い出したんだよね。で、それぞれの郷の代表が話し合って、杵築の長を『出雲王』として認めるから、代わりに一人で天神と交渉してくれ、って事になったんだ。それでその後また兄さん達が話し合って、長の座を譲るから、僕に天神を追い返しに行けって言ったんだよ」

「……え、そんなんで決まったのか?」

 稚彦は愕然となった。

 なんて適当なんだ。王を決めるのに、そんないい加減なやり方があるのか。


「まあね。要するに、誰も厄介事をやりたくなかっただけなんだ。貧乏籤をひいた人が、『王』って名前を押しつけられたんだよ」

「……じゃが、お主、けして侮るでないぞ!」

 淡々と呟く志貴彦に代わって、肩に乗った少彦名が息巻いた。

「きっかけはどうであれ、人々が志貴彦を出雲王と認めたのは、相応の功績と能力があったからじゃ! 雷神が地上を求めたとき、志貴彦は『国引き』して領土を増やし、戦わずして奴を追い払った。志貴彦が豊葦原を救ったからこそ、民は志貴彦を崇めるのじゃ!」

「大げさだよ、少彦名。王なんて名ばかりなんだ。大体、今だって殆どの人は僕の顔も知らないし……それに、僕の事をよく思ってない人だって、少なくはないんだからね」

 志貴彦は困ったように少彦名をたしなめた。

「ああ、そういう事か……」

 分かったような、分からないような気分で稚彦は呟いた。

 まあ、仮初にも神魂の御子神である少彦名がここまで強固に主張するのだから、このいとけない少年が『出雲王』であるというのも、間違いではないのだろう。

 さっき志貴彦が語った出雲王誕生の経緯も、稚彦が持っていた情報と合致する。

 --それにしても。生まれや歳は関係なく、その能力や功績だけで『王』の称号を得られるとは、豊葦原はなんと自由な国なのか。

 裏を返せば、それは確立した秩序や制度がない事を意味する。保障がなくて、不安定だという事だ。

 だけど何も決まっていないからこそ、ここでは何でも出来るのかも知れない。

 けして、高天原では出来ない事が--。


(だから、邇芸速日は帰ってこようとしないのか)

 稚彦は、姿を消したままの邇芸速日の事を考えた。

 呪術系神族は、祭司系と並ぶ高天原の主流派である。その呪術系の長である天忍穂耳の長子に生まれた邇芸速日は、始めから恵まれた上流の存在だった。

 努力などする必要もなく、当たり前のように周りから敬意を払われ、それに何の疑問も持たず生きていく。

 稚彦は、一度も邇芸速日と言葉を交わした事はなかった。ただ、時折何かの宴や集いの折に、取り巻きを引き連れた姿を見かけた事があるだけだ。

 ただそれだけなのに--何故か、稚彦は邇芸速日があまり好きではなかった。いや、はっきり『嫌い』といってもいい。

 前に、父神の天津国玉とたまたま邇芸速日の話になった時、父はぽつりと『私は、彼の父神の気持ちがよくわかる』と呟いた。

 何故だ、と聞いた稚彦に、父は憮然とした表情で答えた。

『愚かな息子を持つと、父は苦労するものだ。私など、まだ一人だからいいほうか……』

 つまり父は、稚彦も邇芸速日も共に馬鹿だと言いたかったらしい。

 一緒にされては、いい迷惑だ。自分はあんな奴とは違う。いつも楽ばかりして、面倒な事から逃げている、あんな奴とは……。

 邇芸速日は、稚彦を苛立たせる存在だった。彼が地上へ行く事が決まった時、稚彦はいい気味だと思った。

 たった一人で、行くがいい。あの、誰もお前を助ける者のない世界へ。きっとお前は、全てを放り出して逃げてしまうだろうが……。

 そして案の定、邇芸速日は帰って来なかった。

 --しかし邇芸速日は、本当にただ逃げ出しただけだったのだろうか。彼は、この地上で何かを見つけたのではないのか。

 高天原にはない、何かを……。


「志貴彦の事はよかろう。それよりお主、何しに降りてきたのじゃ」

 考え込む稚彦を、少彦名の声が現実に引き戻した。

「武御雷に続き、お主も地上をとりに来たのか?」

「……ああ。まあ、高天原はまだそのつもりらしいから、多分またそんな奴も来るだろうけど。俺の役目は違う。俺は戦いに来たんじゃない。大体、俺は武神じゃないからな」

「では、なんじゃ」

「だから、人捜しに来たんだよ。人っていうか--ある天津神を捜しに」

「……ああ、そういえばそう言ってたよね」

 志貴彦が、思い出したように手を打った。

「なあ、お前が出雲王ならさ、知らねえか? 邇芸速日っていう天神なんだけど」

「……『邇芸速日』?」

 驚いたようにそう言うと、志貴彦は肩の上の少彦名とそっと顔を見交わせた。

 彼らは、それ以上何も自分からは言い出そうとしなかった。その奇妙な沈黙は、まるで邇芸速日について何か聞かれるのを嫌がっているかのようだった。

「知ってんのか、知らねえのか、どっちだよ」

 二人の反応に苛立ちながら、稚彦は訊ねた。

「……まあ、知ってるといえば、知ってるかな」

 志貴彦は、歯切れ悪く答えた。

「どっかで会ったのか?」

「うん、去年、偶然ね……まあ、助けてあげた内に入るのかなあ、あれは?」

「充分じゃ。志貴彦の助けなくば、奴はのたれ死んでおったわい」

 少彦名は、当然といった顔で答えた。

「ゆえに今あやつは、志貴彦に従う身となっておる」

「……へえ」

 呟いた稚彦の瞳に、剣呑な光が浮かんだ。

「じゃあやっぱり、地上の王に媚びへつらって、高天原を裏切ったっていうのは、事実だったのか……」

「そんな言い方しないでよ。僕は、誰も従えているつもりはないんだから。彼は、僕の……トモダチさ」

 志貴彦は穏やかに抗議した。

「なんて言おうと、事実は変わらねえよ」

 そう決めつける稚彦の身の内に、ふつふつと怒りが沸いてきた。

 やはり、奴は『裏切り者』だったのだ。

 一度でも「違うかもしれない」と思ったのが、間違いだった。

 高天原の今の在り方には、稚彦だって疑問を持っている。

 だけど自分の生まれた世界を、眷属を捨てて、地上の王に従うなど。

 そんな事を、仮にも天津神の誇りを持って生まれた者がするなんて。

「それで、奴は今どこにいる? 会わせてくれ。言わなきゃいけない事があるんだ」

「会うのは無理だよ」

「なんでだ。……奴を、かばう気が?」

 出会ってから初めて、稚彦は志貴彦を敵意のこもった目で睨んだ。

 普段は大抵陽気な稚彦だが、たまにこういう表情をすると、顔立ちが整っている分だけ凄味が出て結構恐ろしい。

「そんな怖い顔しないでよ。……僕だって、彼には会えないんだからさ」

「何故だ。奴はお前に従っているんだろう?」

「でも、僕のいうことなんて聞かないもん。彼はね、今、美保関にある岩屋の中に引きこもってるの。もう半年以上説得してるけど、まったく出てこないもんね。さっきだって、実はその帰りだったんだ。……いいさ、連れてってあげるよ。君、邇芸速日を引っ張り出せるもんなら、やってみてよ」

 半ば投げやりに言いながら、志貴彦は肩の上の少彦名を見下ろして、「ねえ?」と、笑った。



※※※※



 出雲は、豊葦原本州の西側にある国だ。

 西隣には石見や長門の国があり、海峡を挟んだその更に西には、四つの国からなる『筑紫の大島』がある。

 また、出雲の北には『韓国(からくに)』と呼ばれる未知の異国があり、その間には大海が広がっていた。

 出雲国から大海には、矢じりのような細い半島が突き出している。

 半島は、出雲郡・楯縫群・秋鹿群・島根群の四つの群に分かれていたが、むしろ内陸よりも栄えており、出雲国の中心となっていた。

 志貴彦が生まれ育った杵築郷のある出雲郡は、半島の西の領である。

 しかし、肝心の『美保関』がある島根群は、半島の東端……つまり、正反対の場所なのだった。


 稚彦と志貴彦と少彦名の三人は、入海の海岸ぞいを歩きながら美保関を目指していた。

 傾きかけた夕日が、入海の水面を朱に染める。返す波は金色を帯びていて、色の落ちていく空と美しい調和をなしていた。

「……なあ。あと、どのくらい歩くんだ?」

 空を見上げながら、稚彦は傍らの志貴彦に尋ねた。

 志貴彦は、前方を指さしながら答えた。

「あそこに、断崖が見えるでしょ」

「……あー?」

 稚彦は、示された方角に目を凝らした。

 確かに、志貴彦の指さす方角に険しい崖がある。

 しかし、そこは何故か、著しく茂った青い柴にびっしりと覆われていた。

「なんだ、ありゃ……」

 稚彦は唖然となった。

「なんだ、あの不自然な柴の生え方は……っていうか、そもそも柴ってあんな所に生えるものだったか?」

「普通は生えないね」

 志貴彦は、前を向いたまま答えた。

「でも、生えちゃったんだから、仕方ないじゃない? ……まあ、僕が思うに、あれが彼の心の表れなんだよ」

「……彼?」

「だから、邇芸速日さ。誰にも会いたくないんだよ。その為に、誰も近づけないようにしてるんだと思うよ」

「じゃあ、あの中に邇芸速日がいるっていうのか?」

「多分ね。……見たわけじゃないけど」

「見てないのに、なんでわかるんだよ」

「僕の友達が……クエビコっていう、凄く賢くて物知りで信用できる奴なんだけど……教えてくれたんだ。 あの後すぐに、邇芸速日があの中にある潜戸に逃げ込んだってね」

「……あの後?」

「武御雷っていう、雷神を追っ払った後さ。……どたばたしてたからね。 僕は邇芸速日の行動にまでは気が回らなかったんだ」

「ああ、そうか……って、おい、ちょっと待てよ」

 何気なく相槌を打とうとした若彦は、大変なことに気づいてぎょっとなった。

「じゃあ、お前が……つまり、出雲王が武御雷と対決していた時、邇芸速日はその場にいたのか?」

「無論、おったわ。奴は式彦との勝負に敗れ、真名を差し出して下僕になった身じゃからのう」

 志貴彦の頭に乗っていた少彦名が、眩しそうに夕陽をみながら呟いた。

「……少彦名、彼は僕のトモダチだよ。下僕なんていうと、まるで僕が恐ろしい独裁者のように聞こえるじゃないか」

 志貴彦は、やんわりと少彦名を諭した。

「おお、すまぬ。志貴彦は優しい子じゃのう」

「いやあ、そんなことないよ」

「……っーか、お前ら、そんなことはどうでもいいんだよ!」

 少彦名の頭を片手で押さえつけて、稚彦は二人の会話に割って入った。

「つまり、地上へ降りた邇芸速日は、お前らの側に与して、天の使者である武御雷と戦ったんだな?」

「ううん」

 色をなす稚彦の勢いを削ぐように、志貴彦はあっさりと否定した。

「邇芸速日はねー、ぎりぎりで裏切って、僕を殺そうとしたの」

「……は?」

「だけど結局、それも失敗したんだ。でもまあ、僕は死ななかったし、雷神とも戦わずにすんだし……うん、最後は全部うまくいったかな」

 満足そうに呟いて、志貴彦は懐かしげに笑った。

「……」

 稚彦は、返す言葉が見つからない。

 頭がひどく混乱していた。

(つまり……えーっと、なんだ……)

 地上へ降りた邇芸速日は、助けられたか勝負に負けたか知らないが、とにかく出雲王の配下になった、と。

 しかし、肝心な時に、その主を裏切った……?


「邇芸速日は天を捨て、更には地をも裏切った……」

「その通り!」

 稚彦の手を押しのけて、少彦名が叫んだ。

「奴は二重の裏切り者。卑怯の極みじゃ。邇芸速日は、この世のどこにも行き場をなくした。 故に、こんなところに引きこもっておるのじゃ」

「まあ、恥ずかしいんだろうね。僕は、もういいから出ておいでって、何度も言ってるんだけど」

「……なんで。自分を殺そうとした奴だぜ?」

 稚彦は、困惑しながら言った。

 この常に従容とした幼い出雲王が一体何を考えているのか、さっぱりわからなくなってきた。

「僕を殺そうとした人なんて、兄さんたちを始め、他にも沢山いるさ。でも、僕はこうして生きてる。 だから、別にいいんだ。それに、邇芸速日って、結構面白かったしね。一緒にいると、退屈しないよ」

「はあ……」

 稚彦は、あっけにとられて呟いた。

 これは、余程の大物か、それともただのバカか、どちらかだと思った。


「それより、今からここ下りるからね。いい?」

 志貴彦は立ち止まると、下を向いて言った。

 なんだかとんでもない話をしている内に、彼らは肝心の柴の断崖までたどり着いていたのだ。

「ちゃんとついてきてね。油断したら海に落ちちゃうよ。そうしたら、面倒みないからね」

 そう言うと、志貴彦は柴を握って器用に断崖を下り始めた。

「おい、待てよ」

 稚彦は、慌てて式彦の後を追う。

「ったく、この俺がこのくらいの事できないとでも思ってんのか……」

 ぶつぶつ文句を言いながらも、稚彦は上手に柴の断崖をつたい下りて行った。

(まったく、このガキは、優しいんだか冷たいんだか、わかんねえ……)

 彼らの前には、巨大な潜戸……即ち、長い間の海食によって穿たれた大洞穴があった。

 しかもその潜戸は、巨大でぶ厚い岩石によって完全に入口を塞がれている。

 そこはあまり光が差し込まぬ為に薄暗く、そして肌寒かった。

「……この岩戸の向こうに、邇芸速日が隠れてるっていうのか?」

「多分ね。呼びかけて、返事がきたことはないけど」

 志貴彦は、巨大な岩戸を見上げながら答えた。

「前にね、タケミナカタっていう、僕の友達の中で一番の力持ちに引っ張ってもらったんだけど、びくともしなかったんだよ」

「だろうな」

 稚彦は、素直に納得した。

 岩戸の高さは、軽く稚彦の倍はあった。

 それはひどく頑丈そうで、重さははかりしれない。

 さすがは、腐っても呪術神だ。これほどの物を、自らの住居のふたにしてしまうとは。


「あのタケミナカタでダメなら、もう誰にも動かせないんだよね」

「まあ、地上の者の力じゃ、無理だろうな」

 高天原でも、それほどの力を持った神はそうはいまい。

 出来るとしたら、タヂカラオくらいだ。

「……だが、呪術でなされたものには、呪具で対抗するって、な」

 口元に不敵な笑みを浮かべ、稚彦は、いつも担いでいる袋を肩から下した。

 丁寧に袋の口を開け、中から一対の弓矢を取り出す。

 途端、あふれ出した金色の光が、周囲を昼間のように明るく照らし出した。

「それ、なに?」

 眩しさに目を背けながら、志貴彦は尋ねた。

「俺の、宝物」

 稚彦は、にかっと笑った。

 それは、高天原を発つ時に、父神から授けられた迦古弓と羽々矢だった。

 稚彦は、金色に輝く弓を、ぎゅっと握りしめた。

 この弓は、力に溢れている。こうして手に持っているだけで、血が沸き立ってくるようだ。

 父神の宮の宝物庫に隠されている時から、稚彦はこの弓を使ってみたくて仕方なかった。

「ねえ、何するつもり……」

「黙って見てなっ」

 稚彦は、ゆっくりと弓の弦に、矢をつがえた。

 そして、岩戸に狙いを定める。

 指先に力を込めて弦を引いた時、稚彦はなんともいえない高揚を感じた。

 間違いない。この弓矢はずっと、稚彦に使われる時を待っていたのだ。

「……いけっ」

 稚彦は、一気に矢を打ち込んだ。

 放たれた矢は、鋭い金の光線となって、岩戸に突き刺さる。

 岩戸の表面に亀裂が入ったと思った瞬間、それは無数の岩塊となって崩れ落ちた。

 潜戸の中には轟音が響き渡り、大量の砂煙が立ち上る。

 三人は、咄嗟に脇へ退いて転がり落ちる岩塊を避けた。

 やがて全てがおさまった後、志貴彦は潜戸の様子を伺いながら呆れたように呟いた。


「無茶するよ、まったく……僕たちまで潰れたら、どうするつもりだったの?」

「この矢が、俺に害をなすもんか。お前らは……まあ、お前らで、なんとかしただろ?」

 稚彦は、平然と答えた。

 もともと弓は得意で、高天原にいた時からよく手にしていた。

 しかし、さすがは天の至宝だ。ただ『引いた』だけで、これだけの威力とは。

「しかし、邇芸速日は潰れてしまったかもしれぬぞ」

 志貴彦の上で、少彦名が顔を顰めた。

「そんな、やわな奴かね……?」

 言いながら、稚彦は潜戸の中に踏み込んだ。志貴彦も後に続く。

 潜戸の中は、結構な広さだった。

 三人で暫く探してみたが、肝心の邇芸速日の姿は、どこにもなかった。

「……これだけ探していないということは、やはり潰れてしまったのではないか?」

 少彦名が咎めるように言った。

「最初から、いなかったんじゃねえのか? 大体、お前らの情報だってあやしいもの……」

 稚彦が応戦しかけた時、奥の方を調べていた志貴彦が声を上げた。

「ねえ、これ見てよ」

 志貴彦が、すぐ横の岩壁を指さす。

 そこには、銀で焼き付けられたような記号が並んでいた。

 記号は、丸や三角に幾つか棒を組み合わせたような形をしている。

 それが、全部で十個ほど横に並んでいた。

「なんだろう、これ……今まで見たこともないよ。なんかの印?」

「……秀真ホツマ、だ」

 壁の記号を凝視し、稚彦は低い声で言った。

「ホツマ? 何それ」

「神代文字……高天原で使われている『文字』だよ」

「もじ? もじって、何さ」

 志貴彦は、きょとんとする。

「言葉を形にして、永遠に残したものだよ」

「そんなことができるの?」

 志貴彦は驚愕した。

 地上では、物事は全て口伝で継承される。

 音に消えていく言葉を、記号にして保存することが出来るなんて、考えたこともなかった。

「ま、俺たちはな」

「じゃあ、あれなんて書いてあるの? 早く読んでよ」

「あー……」

 勢い込む志貴彦とは対照的に、稚彦は口ごもって腕を組んだ。

 何度か情けなさそうに頭を振り、やがて困ったような顔で口を開く。

「あのホツマはな、こう書いてあるんだ……『珠を探しにいきます。追わないでください』」  










『第二章終わり 第三章へ続く 』

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