第一章 神集い(かみつどい)
高天原の南側に鎮座する天安河宮は、年に三回だけ神々で満員になる。
一つは、夏至に行なわれる「夏越の祓」。二つ目が、秋に斎庭の穂が実った時の「新嘗の祭」。そして最後が、大晦日にある「大祓」だ。
だが、今はそのどれでもなかった。
暦は、葉月。季節で言えば夏だ。
高天原は、その名の如く天高くにある神々の世界だから、年中快適で殆ど暑さ寒さを感じることはない。しかし、今頃地上の国「豊葦原」では、大地に芽生えた生き物達が酷暑に耐え兼ねている、と噂になっていた。
「……どうも今年は、特別暑いらしい」
すぐ傍に座っていた、年老いた神のひそひそ声が、天之稚彦の耳に入ってきた。
「常の『夏』とは違うらしい。暑さに耐え兼ねて、死んでしまう者も地上では出たとか……」
「やはり、『あの方』のお怒りが……?」
「他にあるまい。あの、闇於加美でさえも、日の君をおもんばかって地上へ雨を降らせるのを止めたというではないか」
「ええ、あの偏倚な女神が!?」
「仕方なかろう。あの方の御不興を買って、この高天原で無事に済む者など、一人としてないのだから……」
頭を寄せ合ってこそこそと噂話をしていた老神たちは、恐ろしげに肩を竦めると、沈鬱な表情で口を噤んだ。
彼らの丸い背を一瞥し、天之稚彦はひとり口元に憫笑を浮かべる。
退屈なじじいどもだ。
--いや、奴らだけじゃない。神格の高い奴から低い奴まで。皆つまらない奴らばかりだ。この天津の神族っていうのは。
くだらない世界だ、ここは。ただ息を潜めて無事を願う以外の生き方を、誰も知らない。
天安河宮の内拝殿に巡らされたこの廻廊には、そんな神々があまた溢れている。
基本的に決められた集会は年に三回のはずなのだが、実際ここにやってくる回数はそれより遙かに多かった。
この高天原の主権を握る神は、実際には独裁--というよりも、むしろ恐怖政治をしいているというのに、何故か形式上の合議を好む。
何か突発的な問題が起こる度に、広闊な高天原の各地に宮を構える天津の神族達は、この集会所に呼び出された。そして、皆でああだこうだと話し合う「ふり」をする。--筋書きも結論も、始めから決められているというのに。
俗に天神八百万と言われるが、天津の神族が正確には何人いるのか、天之稚彦でも知らなかった。
しかし、高天原を流れる天安河の辺に建てられたこのどでかい宮が満員になるのだ。祭司系から戦士系まで、様々な職能を持つ神々が相当数いることだけは確かだろう。
そして、彼ら八百万の頂点に立つ神は、ただ一人。
日神・天照大御神--。
四角い廻廊に取り囲まれた内拝殿の広大な斎庭には、浄められた白砂が敷きつめられていた。その上で今、神族に仕える祝達が、大御神に捧げる神聖な舞を踊っている。
「段取りがなげえんだよなあ、まったく……」
緩やかに流れる雅楽の退屈さに、天之稚彦はつい愚痴を零した。
「--静かにしないか」
すかさず、隣に座していた父神の天津国玉から叱責が下る。
「だってよう、親父。御大のお出ましまで、何個儀式がいるんだあ?」
あけすけに話す天之稚彦の物言いに、父は更に眉を顰めた。
「簡単にお会いできる方ではないのだ、大御神は……」
「オレには、一の事を十ややこしくしてるだけにしか思えねえけど? 皆、何が楽しいんだよ」
「……」
これ以上息子と話しても無駄と思ったか、天津国玉は
渋面のまま正面に向き直った。
(まあ、この人も、儀式お大事なくちだからな……)
父の横顔を見ながら、天之稚彦はため息をついた。
父の天津国玉は「国土の魂」の神格である。天之稚彦は、自分を含めた父の系統を「抽象系」と考えていた。
日神や月神のように、具体的に何かを司るわけではない。無論、呪術系や武神系とも違う。
神格の序列は上の中くらいに位置していたが、天之稚彦は自分の属する系統を、納まりどころの悪い中途半端な物に感じていた。
それは、父の天津国玉も同様だったらしい。しかし、父のとる道は天之稚彦とはまったく違っていた。彼は、常に主権者である天照大御神におもねるので忙しい。
天津国玉と天之稚彦の父子は、一見似かよった見た目をしていたが、それぞれから受ける印象はまるで異なっていた。
天之稚彦は、中背で均整のとれた体つきの、明るい容姿の青年である。綺麗に造作の整った派手な顔立ちをしていたが、その中でも黒目がちの大きな瞳がひときわ印象的で、常に華やいだ雰囲気を纏っていた。
人でいえば十八歳くらいの姿をした天之稚彦は、いつも鮮やかな橙色の神御衣を好んで身につけていた。艶やかな黒髪は解き角髪に結い、毛先が膝に届くほど長く垂らしている。
その手首には翡翠の手纏を、また足首には同じく翡翠で出来た足結い(あゆい)の飾りをつけ、首には玻璃の勾玉を連ねた御統をかけていた。ちなみにこれらは全て、高天原一の職人神・天明玉に頼み込んで作ってもらった貴重な一点物である。
父の天津国玉は、いつも息子の姿を見ては「派手好きの馬鹿め」と顔を顰めていた。
息子とは対照的に、天津国玉は白い浄衣しか纏っていない。厳格な天津国玉は常に深刻な表情を浮かべており、それが彼を随分と年老いた神のように見せていた。
斎庭では祝の舞が終わり、次に扇を持った巫女達の舞が披露された。やがてそれも済むと、ようやく高天原の重鎮・思兼が立ち上がり、巻物を持った男神の太玉と、神饌の台を掲げた女神の豊受を従えて弊殿に上がった。
三人の神は弊殿の上でひざまずき、そこから見える本殿に向かって深く礼をする。そうして、まず豊受が本殿の大御神に向かって神饌を捧げると、続いて太玉が大御神に対して言秀ぎ(ことほぎ)の祝詞をのり上げた。
長く仰々しい祝詞が終わると、三人は再び本殿に向かって一礼し、その後、中央にいた思兼が本殿の扉に向かって重々しく呼びかけた。
「--大御神。お出ましください」
その言葉を聞くと、廻廊にいた八百万の神々は一斉に本殿に向かって平伏した。
退屈さにぼーっとしていた天之稚彦は一瞬出遅れ、神々の中で一人だけ頭を突き出している羽目になった。しかしすぐに、慌てた父神によって強引に頭を押さえつけられる。
(……相変わらず、すげえなあ。しかし、いつからやってんだ、このばかばかしい『ごっこ』は……)
平伏して面を伏せた格好のまま、天之稚彦は器用に瞳を動かして周囲の様子を見回した。
八百万の神々が、一点の乱れもなく、ただ一人の最高神に対して忠誠を誓う形を『とっている』。
天之稚彦はまだ若い神だった。故に、既に整然と統治が完了した今の高天原の姿しか知らない。
だが、始めからこんなに支配機構が確立していたわけではないだろう。今のように、天照大御神を頂点とした祭司系の神々が主権を握るまでは、色々とごたごたもあったと聞く。
そう、あの「月読事件」のように……。
(……そうか、だからこんなに拘わるのかもな)
そこまで考えて、天之稚彦はやっと納得した。
確かに、今の高天原を支配しているのは、祭司系の神族だ。彼らにとっては、事あるごとに儀式や祭司を行なうのは最も重要な事だろう。それが彼らの存在理由であり、至上命題なのだから。
(それを怠れば……最悪、他の系譜にとって代わられる)ってことも、ありか……?)
稚彦が思い至ったのは、現在の高天原における最大の禁忌だった。もしそれを口に出せば、即刻危険思想の持ち主として隔離されてしまうだろう。
--だけど、その位の刺激があった方が面白いじゃないか。
この永遠に恒常を保たれた世界は、退屈すぎる。
変化があったっていい。
どうして誰も、自分以外の誰も、それを望まないのか……。
その時、天之稚彦の視線の彼方で、ゆっくりと本殿の扉が開いた。
まず最初に、扉の内から光が溢れ出す。放たれた白い清浄な光は、内拝殿いっぱいに満ちた。そして八百万全ての神が首を垂れるその前で、天界の支配者が姿を現わす。
丈高い痩躯に、金の日文様の入った白絹の神御衣を纏った天照大御神は、優雅に己の歩を進めた。
長い黒髪は幾本もの金の簪で高く結い上げられ、その端につけられた金鈴が、動きに合わせて涼やかな音色をたてる。
造化三神の一柱・高御産巣日を背後に従えた天照大御神は、幣殿を通り抜けて内拝殿にその姿を現わし、用意された高御座に泰然と腰を下ろした。
それに続いて高御産巣日が大御神の傍らに座し、更に思兼が脇に控える。
太玉と豊受が御前から下がると、天照大御神は昂然とその玉顔を上げ、平伏する神々に向かって告げた。
「--よく神集った。我に従う八百万の天津の神族よ。これより、『神議り(かんばかり)』を始める」
最高神がそう宣言すると、廻廊にひしめいていた神々は、一斉に屈めていた姿勢を元に戻した。
「……(はあーっ)……」
息苦しくて窒息しそうだった天之稚彦は、大きく深呼吸すると肩をこきこきと動かした。
「--やめないか、みっともない……」
途端に小声で父の注意が飛ぶ。
「大丈夫だよ。『あの御方』が、こんなとこまで気にするもんか……」
平然と言い返して、天之稚彦は遠くにいる大御神の姿を伺った。
怜悧な切れ長の双眸は、まっすぐ前方に向けられている。けれどもその黒瞳は、何も映していないように天之稚彦には思われた。
瑕瑾なく整った、日の君の比類のない麗貌。
現在の支配体制に辟易している天之稚彦でも、これだけは確かに認めざるを得ない。
本当に美しい--美しい、男神だ。
自分も含めて、神族には容姿の整った者が多い。しかしその中でも天照以上に麗しい存在を、天之稚彦は見た事がなかった。
彼は、至高の英知を持つ至上の高貴。--並ぶ者なき天の王。
(これが、神格の違いってやつか……)
最高神の麗姿を見せつけられる度、天之稚彦はいつも打ちのめされたような気分になった。
頂点に立つ者は、始めから全てを備えて生まれてくる。
下位に誕生した者の、ちっぽけな努力など到底適わぬ程の高みに。
ここでは、生まれついた神格の序列で全てが決まる。最初から定められた壁は、打ち破ろうとすることさえ許されない。
(……だけどあんたは、嬉しそうでも幸せそうでもないように見えるんだ)
天照を見つめながら、天之稚彦は心の中で呟いた。
見た目だけなら、天照は天之稚彦よりも少し上--人でいえば二十歳くらいの青年の姿をしていた。けれど実際には、彼は天之稚彦より遙かに多くの年月を生きているはずである。
多くの天津神族は、天照の望みはこの高天原を支配し続ける事だと信じていた。確かに、そうかも知れない。
だけど、それだけではない気もする。天照の中には、はかり知れない何かがある。それが何なのかは、けしてわからないけれど……。
「……あめつちの初めの時、高天の原には三柱の独神が成りませた。次に国わかく、海月のごとくただよいし時、地の国に葦かびの如き芽が成りませた。やがて諸々の国生みの果てに、澄みきよらかなものはのぼりたなびいて高天原となり、重く濁ったものは、覆い滞って豊葦原となった」
天照の傍らに控えていた思兼が、神々に向かって世界の創世を朗々と詠じた。さすがに毎回この前振りを努めているだけあって、その読み上げ方も慣れたものである。……もっとも、彼は知恵の神であるから、こんなところでつまづいていてはその職能が疑われるが。
「浄き高天の原は、我の知らしめす国である。……いかに?」
天照は一同を睥睨して問いかけた。
「かしこし」
廻廊に居並んだ神々は、一斉に声を上げた。
天照大御神の高天原統治を称える、いつものやりとりである。無論、この段階で異を唱える者など、一人もなかった。
内拝殿いっぱいに響き渡った声が収まるのを待って、天照は更に言を続けた。
「豊葦原の中つ国は、我と我が御裔の知らすべき国である……いかに?」
天照は、地上の国「豊葦原」をも自らとその眷属が支配すべきであると主張した。
「かしこし」
神々は、再び大声で唱和して賛同した。
「……かしこーし」
天之稚彦の声は、少し遅れたせいで間延びしたものになった。父は彼を横目で睨んだが、他にはさして気にした者もなかった。
(……しかし、最近だよな。こっちのやりとりが加わったのは)
天之稚彦はふと考えた。
天照大御神が地上まで欲しいと言い出したのは、ここ数年のことだ。
初めてそれを聞いた時、天之稚彦は随分驚いた覚えがある。
高天原の事は、まあ分かる。この美しい清浄な世界を掌握しておきたいというのは、誰が考えても素直に納得できる事だ。
しかし、地上の国「豊葦原」をも治めたいとは。
天之稚彦は、一度も地上へ行ったことがなかった。もっとも、天津神の大部分はそうだ。基本的に、行こうという考えさえおこらない。
あくまで、噂だが。
地上は、未開で、野蛮で、恐ろしい所らしい。
豊葦原は、暗黒の世界だ。大地には粗暴な国津神と無知な人間が入り混じり、秩序なく暮らしている。動物や草木でさえのべつなく喋り続け、夜は蛍火のような妖しいものが揺らめいているという事だった。
地域別の小さな人間の集落くらいはあるらしいが、主権者たる「大王」さえ未だ現れぬあの国を手に入れて、一体どうしようというのか。
何か行動を起こす時、天照は天津神々に対してその理由の説明を必要とはしない。天照大御神が「決めた」ことに、皆はただ「賛同」すればいいのだ。
天之稚彦は始め、天照大御神が権力欲にかられたあまり、遂におかしくなったのだと思った。
大体、最初から天津神のものであった高天原とは違い、豊葦原は大地から発生した国津神や人間達が領有している。そこへ支配権を宣言する為には、彼らからまず国土を奪わなければならない。
当然、国津神達は激しく抵抗するだろう。支配は言うほど簡単ではないはずだ。
しかも、それだけの労力を払って地上から得られる何があるというのだ?
我々は、もう充分満たされているというのに……。
地上行きの「第一の使者」を選定する前に、とりあえず先遣として呪術系神族の長・天忍穂耳が国見に使わされた。
天忍穂耳は、天の浮橋からちらりと地上を覗き見しただけでとんぼ帰りしてきた。戻ってきた彼は、恐ろしげに報告した。
『空見つの国は、いたく騒がしい』
空見つの国--即ち、天空から見下ろした国である地上の豊葦原は、ひどく物騒だと言ったのだ。
それを聞いた天津神々は皆心の中で、地上への干渉を止めたほうがいいのでは……と思った。
しかし、天照大御神は本気だった。
天照は幾度か神集いを招集し、使者を選定して地上へ送った。豊葦原へ行かされた使者は、既に二人目になっていた。
「……かれ豊葦原には、ちはやぶる荒ぶる国津神ども多き。故に、我ことむけの為、武御雷を遣わせし」
天照は冷厳な口調でそう告げた。
控えていた思兼が、一歩進み出る。手に持った榊の枝を左の回廊に向けると、厳かに命じた。
「先刻、地上平定のため豊葦原に遣わされていた武御雷が高天原に帰還した。……雷将よ、進みでて大御神に復奏せよ」
神々の視線が集中する中で、一人の青年神が斎庭の白砂の上に進み出た。
天照大御神の御前に立った武御雷は、深く一礼し、その場に片膝をつく。
「……雷の司、御前に」
面を伏せたまま、武御雷は大御神に申し上げた。
「さて、尾羽張の子、武御雷よ。我は、汝にその武威をもって地上の国を平定せよと申した。--汝は、我が命を成しえたか?」
天照は泰然と下問した。
剣と雷を司る武御雷は、武神系神族の中でも抜きんでてその戦闘能力が高い。物理的な破壊力だけを比べれば、高天原最強といっても過言ではなかった。
「答えよ、武御雷」
思兼が榊で指し示しながら促した。
「……地上には、仮初の王がおりました」
下を向いたまま、武御雷は口を開いた。
「--王?」
怪訝そうに思兼が眉根を寄せる。
「『大王』ではありません。しかし、地上でもっとも人の栄えたる所『出雲』には既に王がおり、わたくしはその王に地上の禅譲を交渉しました」
廻廊の神々の中に、小さなざわめきが起こった。
天津神の中で、実際の地上の様子を知る者は少ない。それだけに、武御雷の語った事は最先端の貴重な情報だった。
「--王は、荒ぶる国津の神をも従えておりました。わたくしは国津神をことむけやわせ、王に国譲りを求めました」
ざわめく神々の間から、感嘆の声が上がった。
武御雷は今回、高い戦士の能力を買われて地上への使者に選ばれた男である。その彼が、期待通り国津神を討伐したというのだ。
「よかろう。……して、結果は!?」
自らもやや興奮したような面持ちで、思兼が訊いた。
「……豊葦原の、半分の領を得ました」
武御雷は身動き一つせず、きっぱりとそう答えた。
愕然としたのは、思兼の方である。
「は、半分? --汝、今、半分と申したか!?」
「はい。陸奥から、甲斐……ちょうど、豊葦原の東半分にあたる土地を、高天原の領として出雲王より大御神に献上せしめました」
「--む、むつ? かい? そのような国など知らぬわ! 豊葦原は、日向から信濃までしかないはずじゃっ!! 汝、大御神の御前でいい加減なことを申すと……っ」
「陸奥から甲斐は、出雲王が『国引き』して豊葦原に加えた領でございます」
「『国引き』!? そ、そんなことができる者が、地上になどいるはずが……」
「--確かに、豊葦原の国土は倍に増えておる」
狼狽する思兼の後ろで、天照が冷静に言った。
「しかしそれは、昨年の師走のことであったはずだ。それより半年以上、汝は何をしておった?」
天照は厳しく武御雷を詰責した。
大御神にこんな問われ方をすれば、大抵の神は振るえ上がってしまうものだが、武御雷は畏懼することもなく毅然と答えた。
「東の領を調べておりました」
「……どのような州であったか」
「土蜘蛛のみ棲まう、更なる闇の州、と」
「そのような州を、汝は我に献上すると?」
「--は」
武御雷がそう答えた瞬間、内拝殿は水を打ったように静まり返った。
集まった神々は誰も、このような成り行きなど予想していなかった。--まさか、武御雷がこのような復奏をするとは。
つまり、彼は--失敗したのだ。
「……では汝は、我が命を果たせなかった責を認めるのだな?」
皆が息を飲んで見つめる前で、天照は厳然と訊いた。
「……はい」
落ち着いてそう答え、初めて武御雷は顔を上げた。
天照には遠く及ばぬが、若い天神である彼は、かなり秀麗なすっきりとした眉目を備えている。もっとも武神ゆえ、華やかさや艶やかさとは縁遠かったが、剣神の名にふさわしく、磨ぎ澄まされた鋭い刃を思わせる強い瞳を持っていた。
武御雷の双眸を見据えた天照は、その瞳の中に覚悟を見た。彼は、言い訳も言い逃れもするつもりはない。それが分かった天照は、長い指で高御座の端を叩いた。
「よかろう。では武御雷、汝への処罰を申し述べる」
どこか諦めたような声音で、天照は淡々と言った。
結局この雷神もまた、天照の命を果たすことはできなかったのだ。
「--待てよ、おかしいじゃねえか!!」
だがその時、突如廻廊の中で抗議の大声を上げた男神がいた。
天照は表情を変えぬまま、異音の上がった方へその一瞥をくれる。
その若い男神は、右廻廊の後方の列にいた。周囲の者が呆気にとられて見上げる中で、一人立ち上がって拳を振り回している。
「武御雷は、今まで誰一人として出来なかった事をやったんだぜ!? どうして、その功績を認めないんだよ! なんであんた達は、責めるばっかりなんだ!」
興奮して捲し立てているのは、他でもない天之稚彦だった。
天之稚彦は始め、なんだか今日の神集いはおかしな雲行きだなと思って見ていた。しかし、武御雷が理不尽に責められているのを見るうち、黙っていられなくなった。そして『処罰』という一言を聞いた瞬間、我慢出来ずに立ち上がったのだ。
「おかしいよ--こんなの、変じゃねえか! どうして、誰も何も言わないんだ!」
「やめないか、稚彦!!」
天津国玉が、これまで見た事もないような険しい顔で息子の腕を引っ張る。しかし完全に頭に血が上っていた稚彦は、乱暴に父の手を振り払った。
稚彦は廻廊の中にいた神々を蹴散らしながら、斎庭の中に進み出た。そしてひざまずいたまま唖然としている武御雷の横に立つと、更に大声で皆に訴える。
「お前ら声を上げろよ! 違うって言えよ!」
稚彦は、憤然としながら廻廊中を見渡した。しかし居並んだ神々は、みな恐ろしい物を見たような顔で、次々と稚彦から目を反らした。
神族達の反応は、稚彦の怒りの炎に油を注いだ。苛立ちが頂点に達した稚彦は、遂に禁句を口走った。
「--お前ら、大御神がそんなに怖いかよっ!!」
天照の傍らにいた思兼が、「ひっ……!」と小声を上げて腰を抜かした。背後に座していた高御産巣日の口元に、微苦笑が浮かぶ。
内拝殿は、恐ろしい沈黙に包まれた。
最高神の目の前で、けして言ってはならぬ事を言ってしまった馬鹿がいる。
一体大御神は、どんな恐ろしい罰を下すのか……。
「--天之稚彦」
緊迫感に包まれた沈黙を破ったのは、天照大御神自身だった。
名を呼ばれた稚彦は高御座の方を振り返り、そこに坐す天照の姿を見つめる。
稚彦は、大御神と直接言葉を交わした事はない。しかし最高神は、天之稚彦の名を知っていた。
初めて近くで目の当りにした日の神の玉顔は、瞳に痛みを感じるほどの凄艶な麗しさだった。
この美しさは、強い。だから大抵の者はその強さを畏れるのだ。畏れて、口を噤む。
「……天の若子、か。ああ、若い。確かに……」
天照は双眸を細め、己の記憶を探るように呟いた。その音曲のように玲瓏な声もまた、聞く者全てを無条件に従わせる力を持っている。
(だけど、俺は間違っていない……!)
大御神を見返しながら、稚彦は必死に己を鼓舞した。
間違っていないから、口を噤む必要はない。おかしいのは、高天原の方だ。
「……武御雷の功績を認めよと申したか? 天津国玉の子、天之稚彦よ」
「……そうさ。そうさ、だって!」
天照の威厳に気圧されながらも、稚彦は必死に抗弁した。
「あんたは今、半分しか持って帰れなかったって武御雷を責めたけど。--それなら、邇芸速日はどうなるんだよ!」
稚彦がそう大声で怒鳴った瞬間--廻廊の一番よい席を占めていたある神族の父子が、同時に顔色を変えた。
「『第一の使者』だった邇芸速日は、『十種の神宝』まで授けられておきながら、帰ってこずにとんずらしたんだぜ!? 武御雷は、自分の力だけで半分も手に入れてちゃんと戻ってきたじゃないか! なのに、逃げちまった邇芸速日はおとがめなしで、復奏した武御雷は処罰かよ! --あんた、頭おかしいんじゃねえか!?」
天照の背後にいた高御産巣日が、遂にククッと笑い声を漏らした。彼には、この見世物が愉快でたまらないらしい。
「……咎めがない訳ではない。天の務めを疎かにし、地上に媚びへつらった邇芸速日は、既に高天原の裏切り者である。……そうだな、天忍穂耳? 邇芸速日の父よ」
そう呟くと天照は、顔色を変えたままの父子に向かって一瞥をくれた。
「仰るとおりでございます!!」
父親の方--天忍穂耳は、更に真っ青になって即座に平伏した。
「違いないか、邇邇芸? ……邇芸速日の弟よ」
「間違いございません!」
続けて天照に問われた息子の方もそう叫び、震えながら頭を深く深く下げた。
「……さて、天之稚彦よ」
稚彦の方に視線を戻すと、天照は悠然と呼びかけた。
「汝の言葉にも理はある。確かに、邇芸速日には未だ罰がない。与えねばならぬ。--ゆえに」
そこで言葉を切ると、天照は長い神御衣の裾を引きながら高御座から立ち上がった。
「--汝、叛神の邇芸速日を捕えてまいれ」
「……は?」
稚彦は、愕然として口を開いた。
一瞬、何を言われたのかよく分からなかった。
「叛神を我の前に引き連れよ。そうして、武御雷と並べてその罪を比べよう。--それまで、武御雷の裁きは止めおく」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ、じゃあ俺に、地上へ行けって……!?」
「汝は、多くの言霊を吐いた。それは、汝自身を縛るものと知れ。汝は、己の言葉によって己の道を定めたのだ」
そう言うと天照は、優雅に裾を捌いて稚彦に背を向けた。
多くの神族にその美々しい後ろ姿を見せながら、大御神は弊殿の奥へと去っていく。可笑しそうに成り行きを見守っていた高御産巣日も立ち上がり、天照の後に連なった。
最高神の立ち去る姿を眺めながら、稚彦は惚けたようにその場に佇立していた。なんだか、とんでもない事になってしまったような気がする。
……しかし、全てはもう後の祭りだった。
※※※※
高天原を流れる天安河は、上流に行くに従ってその流れが細く激しくなってくる。
河辺をぼとぼと歩いていた天之稚彦は、激しく逆巻く水流の前に立って、足を止めた。
それまでかろうじて続いていた川縁の細道を、水の流れが完全に塞いでしまっている。
どうも、ここから先へは行けない仕組みになっているらしい。稚彦はしばしどうした物かと思案にくれたが、さしていい知恵も浮かばぬまま、足元の小石を拾って投げつけた。
無力な小石は、そのまま流れの中に吸い込まれる。苦笑する稚彦の背に、突然声がかけられた。
「……そんな事で、破れる結界ではないぞ」
稚彦は振り返る。案の定、彼の後ろに立っていたのは武御雷だった。
「んな事は、子供だって知ってるさ」
稚彦は、武御雷に向かって肩をすくめて見せた。
「ならば、何故やるのだ」
「無駄なことの中に意味があるのさ。……実際、こうしてお前と会えたじゃないか」
「ただの偶然だ」
武御雷はにべもなく言い放った。
「相変わらず、つまんない男だなあ」
言いながら、稚彦は手近にあった岩の上に腰を下ろした。
「……いつ来ても、寂しいとこだな、この辺りは」
稚彦は、河原の周囲を見回して呟いた。
高天原は美しい世界だが、この領域はその定義からも外れているらしい。見渡す限り、見えるのは石や岩山ばかりで、河を流れる水音以外ろくに聞こえるものもなかった。
「でももしかして、意外と住み心地はよかったりするのか?」
武御雷を見上げて、稚彦は訊いた。
人でいえば二十代後半位の青年の姿をした武御雷は、稚彦よりも軽く頭一つ分は丈が高い。
戦士として鍛えられた身体に簡素な黒の神御衣を纏った美丈夫だったが、いつも髪を短くざん切りにしているあたりが、稚彦には理解できない趣味だった。
「……ここにいれば、余計な雑音が聞こえぬ」
「ああ、そりゃいいことだ。俺なんか、いつも雑音だらけの中にいたからなあ」
そう言って、稚彦は足元の石を蹴飛ばした。
僻地である天安河上流は、戦士系神族の住まう領域だった。行けないから見たことはないが、彼らはこの水の逆巻きの向こうに、岩屋を作って暮らしているらしい。
ここに来ると、稚彦はやはり自分たちが恵まれている側の者だと痛感する。
上級神族のはしくれに位置する稚彦たちの宮は、高天原の一等地の中にあった。そこは常に賑やかで、父神などはいつも仲間の神々の宴めぐりに忙しい。
武御雷の言う通り、ここではそんな宴の楽が聞こえることもないだろう。
「……隔離だよ。差別だって、思わねえの?」
稚彦は、大きな黒瞳で武御雷を見据えた。
「……我々は、望んでこの岩屋にいる」
「嘘だね」
稚彦は、一方的に決めつけた。
「お前らだって、怖いんだ。痛くもない腹を探られるのが。……違う?」
「……」
武御雷は、困ったように嘆息した。
この陽気で華やかで、それでいて妙に一本気で融通のきかない青年神と自分は、何もかもが違う。
そのおかれた立場も、神格も職能も性格も。
放っておくのは簡単なはずなのに、何故か武御雷にはこの奇矯な神を無視することができなかった。
互いに長寿の神族だ。相手の存在を知ってからは、もう随分と長い。
神族の中には、武御雷と稚彦を『友』だと思っている者もいたようだ。
しかし、自分たちの間柄は、そんな楽しげなものではない。
強いていえば――稚彦は、いつも自分の居場所に心地の悪さを感じていることから、己とかけ離れたものへの興味を抱いているし、武御雷は稚彦の中に己には決して持ち得ぬものを見出している。
かかわりなど、その程度のものでしかない……。
「お前の物言いは率直すぎる。それが禍を招くというのに、まだわからないのか」
「思ったことを黙ってるなんて、できないんだよ。俺には、さ」
稚彦は、先日のことでさえ、まるで気にかけていないかのように、朗らかに答えた。
「我々武神は、破壊力のみをもつ神格だ。それが高天原にとって脅威であることは、我々自身にも理解できる。だからわたし達は、出来る限り身を謹んでいるべきなのだ」
「でも、勝手な時には、出できて戦えって命令するじゃないか? お偉方はさ」
「……統治者が求めるのは、限定された必要なだけの武力だ」
武御雷は、自らを戒めるように呟いた。
「だから、わたしは命令によってのみ戦う。……高天原の為に」
「そして、お前が認められる為に、だろ」
「……」
武御雷は、思わず言葉に詰まって稚彦を見つめた。
稚彦は、試すような笑いを浮かべて武御雷を見返している。
「ほら、やっぱそうだ。いっそお前ら武神で団結して、大御神に叛旗を翻してみたらどうだ?」
「愚かな事を言うな。こんな寂れた場所でも、聞いている者がいないとは限らないのだぞ」
武御雷は険しい表情で稚彦を戒めた。
「どうかなあ……」
稚彦は、呑気な顔で天を仰ぐ。澄んだ空には、雀が一匹舞っているだけだった。
「……それで、結局お前は何をしにこんな所まできたのだ」
「ああ、いや、しばしの別れを告げにね」
そう言うと、稚彦は岩の上から立ち上がった。
「何しろ、叛神を捉えに地上へ行くことになったからな。お前も、まあ……一応、関係者だし? ――なあ、ちょっと、これ見ろよ」
稚彦は、肩に担いだ袋の中から、一対の弓矢を取り出した。
「それは……っ」
武御雷は、驚いて声を上げる。
稚彦が誇らしげに掲げたのは、まばゆいばかりに光を放つ、黄金の弓矢だった。
「いいだろう。『迦古弓』と『羽々矢』だぜ。うちの系統に伝えられた、天の至宝のひとつさ。親父がさ、『馬鹿息子め、せめてこれでも持って行け』って、ぶつぶつ言いながら出してくれたんだ」
おどけて父神の口調を真似ると、稚彦は大事そうに弓矢を袋の中に戻した。
「今まで、いくら頼んでもくれなかったのにさ。急に気前よくなりやがってんの」
「それは、お前の父君が……」
武御雷は言いかけて、途中でためらった。
高天原には、至宝と呼ばれる呪具がいくつかある。
かつて、邇芸速日が授けられた『十種の神宝』もその中の一つだが、この『迦古弓と羽々矢』も相当に貴重な品であるはずだった。
自分たちとは違う系統に伝えられる宝であるから、武御雷はこの弓矢にどのような力があるのかは知らない。
しかし、恐ろしいほどの霊威を秘めているのは確かだった。
無論、通常ならば、目にすることさえなかなか許されない。
それを授けられたという事は……彼の父神は、息子と二度と会えないかも知れないことを覚悟しているのだ。
「……難しい使命だと、思われたのだろう」
言葉を選びながら、武御雷はゆっくりと言った。
「まあ、そうだろうな」
稚彦は、呑気そうに答える。
そんな彼の姿を見ていると、武御雷はだんだん不安になってきた。
稚彦は、己に与えられた父神の悲壮な愛情の重さが理解出来ていないのではないか。
もしかしたら彼は、ちょっとおつかいに行くぐらいの感覚でいるのではないか。
地上は、それほど甘い所ではない。ましてや、武力を持たぬ稚彦にとっては。
彼が地上へいくはめになった責任の一端は、多少武御雷にもある。
基本的には、稚彦の暴挙による自業自得だったが、突然の事に驚いた武御雷も、あの時彼を止める事が出来なかった。
「……稚彦」
武御雷は真剣な面持ちで、目の前にいる気の毒な神の名を呼んだ。
「なんだよ」
「わたしは、大御神にも告げていないことがある」
「へえ、何さ?」
「……邇芸速日の行方は、出雲王が知っている」
「……っ」
稚彦は、息を呑んだ。目を丸くしながら、武御雷に詰め寄る。
「お前、あの時それ言わなかったじゃないかっ」
「だから、今、そう言っただろう」
「なんでっ」
「……考えあっての事だ」
武御雷は、重々しく告げる。
その途端、稚彦は、笑顔を浮かべて武御雷の肩を突き飛ばした。
「やっぱ、お前気骨あるじゃんっ。やるなあ……そういうとこ、いいぜ」
「何故、それでわたしを押すのだ」
「嬉しいからさ。うしっ、なーんか、面白くなってきたな」
弓矢を入れた袋を担ぎ直すと、稚彦は武御雷に向かって右手を上げた。
「んじゃ、ちょっくら行ってくるわ。あの新世界――豊葦原の中つ国へ」
そう言うと、稚彦は踵を返した。天安河の下流へ向かって歩き出そうとする。
「……稚彦」
去ろうとする稚彦の背を、武御雷は思わず呼び止めた。
「なんだよ」
稚彦は足を止め、振り返る。
「無事を、祈る」
「ああ、祈っててくれよ……ああ、そうだ」
ひらひらと手を振っていた稚彦は、不意に思い出したように両手を合わせた。
「そういや、ここに来た一番の目的聞くの忘れてた。なあ武御雷、教えてくれよ。地上には、一体何があるんだ?」
稚彦は、好奇心に満ちた目で武御雷を見つめた。
「……地上か。地上には……」
言いかけた武御雷は、かつて自分が豊葦原で見た物と、そこで出会った人を思い出した。
「地上には、ここにはない物がある」
「……へえ、ここにはない物か。そりゃますます楽しみだな。帰ってきたら、また一緒に話そうぜ」
目を輝かせて鮮やかに笑うと、稚彦は再び武御雷に背を向けた。
そして彼は、ゆっくりと歩を進みながら、そのまま河原を下っていった。
『第一章終わり 第二章へ続く 』