「電光石火でキスして」
「電光石火でキスして」
壁にもたれて座り、足を伸ばすと、つま先が向こうの壁に触れた。はめ殺しの小さな窓には、まだカーテンもない。隣りに座ったサキの左肩から右脇腹にかけて、街灯の光が貫いている。陰になってその表情ははっきりしないが、少し伏せられた眼は、いつもの光を湛えている。口元はわずかに開いて、笑い出す瞬間のようにも見える。肩先で軽く跳ねた髪が、闇の中でわずかな光に照らされて、グレーの流れとなって落ちている。
テンは視線を上に向ける。斜めの低い天井は、鉄骨がむき出しになっている。それにつられるように、サキも視線をあげる。そこに映ったテンの影を見て言う。
「つの。出てるよ」
テンの髪は、風もないのに、立って、ふわふわと揺れる。その額の生え際から、上方へ弓のように湾曲した突起の影が、天井を突き刺している。テンは反射的に額へ手をやるが、そこには何も触れない。光の影にだけ映る、「かげつの」と呼ばれるものを持つ者は、月鞘に住む者の中に少なからずいる。テンもその1人だ。
「ここ、よく借りられたな」
「ライの店の天井裏だからね。この店には、離兎の人しか来ないから。「攫い」にも見つからない」
自分に言い聞かすようにサキは言って、体育座りのように足を縮める。膝の間に顎を埋めたその横顔に髪がかかる。その隙間から、ぼおっと小さな青い光が漏れている。
「それにしても…ここ、冷蔵庫もねぇの?」
「攫い達が手なづけてる、烏来の群に夜襲を受けて、何も持ち出せなかったからね。もう少ししたら夜警が終わるから外に出よう。担々麺がうまい中華屋がある」
テンは手を伸ばし、指先でそっとサキの髪を払う。頬には、ミミズのようなかさぶたが盛り上がっている。烏来にやられた傷だろうか。サキはテンの指を掴んだ。
「あんまり見ないで」
下へ降りていくと、ライと常連が何人か残っていた。ラガーの乳で作った濁り酒のビンが何本も床に転がっている。客は、だいぶ酔っているようだ。
「ソギ、今日はその辺にしときな。あまり酔うと、「眼」も効かなくなる」
ライが常連の1人に声をかける。
「ふざけちゃいけねぇよ。だいたいな、俺のお爺と婆のそのまた前の時代まで、ここは1つの国だったんだぞ。それがどうして俺らだけがこんな扱いを受けなきゃいけねぇ。この「眼」だってそんなもの、俺が望んだわけじゃない」
「またその話か。四裂が起きる前の時代の話は、俺らにとっちゃ、無意味だ」
「そんな事は分かってる。俺が言いたいのは、つまりそう、そう…忘れんなって事さ」
ソギは呻くように言って、カウンターに突っ伏してしまう。ぼんやり青く光っていた眼から光が消える。さっき、サキの横顔から見えたのと、同じ光だ。ここ、離兎に住む者の中には、特殊な眼を持つ者がいる。
離兎の「闇おとしの眼」、月鞘の「かげつの」。四裂が起きて、人体にそうした異常が出た者が一定数いた。それは、地域によって特色があった。しかし、何の影響も受けなかった者が圧倒的多数であり、以後、特殊な人体を持つ者は、不当な迫害を受け続けている。攫いの襲撃は、その最たるものだ。
「サキ、あまり出歩くなよ。お前はまだ攫いにマークされてる」
ライがサキに声をかける。
「テンにあの店の担々麺を食べさせてやりたくてさ」
サキの言葉にライがテンを一睨みして言う。
「おめぇ、俺の言ったことを覚えてるな」
「さて何だったか…」
テンは笑ってとぼける。
「サキの前で、かげつのは使うな」
「分かってますよ。そんな睨まないで。そんな睨んだところで、つので刺し貫かれて、内臓をぶちまけられた、あんたの両親が戻ってくるわけでもない」
サキがテンの腕を引っ張る。
長く続いた四裂後の土地の奪い合い。
特殊な力を持つ者は、暗殺者として土地の統治者に利用された。また、そうすることが、彼らが生き延びる手段でもあった。
そうして、異能の者同士を憎しみ合わせることで、団結しての反乱を抑える狙いもあったのだろう。
その暗い時代の恨みは、それぞれの土地の者の血の中に今も流れており、月鞘と離兎も、その例外ではない。
「あんた、いつかライを殺す気でしょ」
テンは、割り箸で掴んだ麺を顔の上まで引き上げては降ろしている。
「辛すぎでしょ、これ」
そう言って、屈託なく笑う。何となくサキも気勢をそがれてしまう。
「つの消えたね」
「辛いとね」
「辛い物食べると消えるの?」
「いんや、好きな人といると消える。だから、サキといると消える」
「さっき、バリバリ出てたよね」
「そうでしたかね」
棚の上のテレビでは、ガストで客同士の諍いがあり、店のメロンソーダの機械が破壊されたというニュースが流れている。
そのテレビの音にかき消されるように、2人が座る、カウンターの背後にある、店のドアが軋む音がした。
ヒョゴォ!
角笛のようなこもった音がし、半円状に空気が切り裂かれた。一瞬だけ可視化されたそれは、テンの額から後ろへ大きく反りながら伸びた、光の粒子で出来たつのだった。扉をすり抜け、店の入口に立っていた攫いが身につけた、対異能者用の、黒い防光ベストをつのは突き抜けた。サキが振り返った時にはもう、そこには何もなく、光の粒だけが舞い落ちていた。
「平和だね」
テンが笑う。
「あんただけでしょ」
「キスしていい?」
「口臭いからイヤ」
舗装路を逸れて、桜並木の砂利道を歩く。
月の光が大きく落ちて、2人の影が足元から前へ伸びている。
「テン、もうわたしに会いに来ないで」
「何故?」
「あんた、そのうち殺されるよ」
テンは笑うと、サキの手を握った。サキはそれを振りほどこうと手を振る。2つ並んで結ばれた影が、大きく揺れる。
「そんなこと、知ってる」
「じゃあもう来ないでよ!手握ったりしないでよ!」
サキが叫んで、テンは苦笑すると手を離した。
「参ったな。知らなかったよ。そんな嫌われてたなんて」
「違うよ…違うけど、だってわたしは…テンと一緒になんて、いられるわけない」
呟くように言うと、サキは走り出す。
その背中めがけて、テンがかげつのを飛ばす。
一瞬でサキを追い越して、触手のようにくるりとサキを取り囲んだ。後ろから見ると、光に囲まれて立ち止まったサキの身体が僅かに、沈み込んだ気がした。月の光がふっと翳る。
その瞬間、天空より漆黒の鉄柱が雨のように降り注ぎ、轟音と共に、かげつのを叩き潰す。そして、地を割りながら闇を纏った鉄柱は、テンへと襲いかかってきた。闇おとし。サキの眼の力だ。
テンは、かげつのを細く鋭く伸ばし、向かってくる闇の塊へ突き刺すと、横っ飛びしながら、頭を振る。闇の中で光が一閃し、塊が崩れるが、さらにそこへ大きな闇が空から落ちてきて、かげつのの光を飲み込む。
地面へ突き刺さり、異様なオブジェのようにそそり立った黒い柱は、周囲へドオッと倒れた。
テンは身構えるが、逃げ場がない。
地面に叩きつけられた衝撃で、黒い柱は土石流となって地面を走り、覆い、やがて、凝固していく。テンの姿は、跡形もない。
10分後、地面が光の刃で丸く切り取られた。
「やることが派手だね」
テンは地中から何とか這い出ると、桜並木の先へ視線をやるが、とうにサキの姿はない。
扉に掛かった、「CLOSE」の札をテンは指で弾く。
「だからこれは、真っ当なデートの誘いだよ。ほらちゃんと、チケットだって持ってる」
そんなテンをサキはさっきから睨んでる。
「こんな真昼間に2人で歩けるわけない」
「何故?俺が月鞘で、サキが離兎の人間だから?それとも俺らが、「普通」じゃないから?それとも…」
「もう来ないでって言ったよね?」
「月鞘と離兎の人間はずっと憎しみ合って、殺し合ってきたね。サキ、君も僕が憎い?」
弾かれた札が扉にぶつかって、乾いた金属音を響かせる。サキとテンは扉を挟んで、しばらく見つめ合った。短く息をつくとサキは言った。
「そうだよ。あの夜、あんたのことも殺すつもりだった。これで満足?」
「そう…じゃあ、ちゃんと殺しなよ」
俯いたサキにテンが一歩近づく。
「もう帰ってよ」
「こっち向いてよ」
「本気なら、こっち向いて、もう一回言ってよ。殺すつもりだったって」
サキは唇を噛み締めている。
「お願いだから、帰って」
嗚咽のようにサキの唇から声が漏れて、眼が青みがかる。
それが合図だったように、ヌルッと、一枚、黒い板が屋根を割って落ちてきて、2人を隔てた。そしてそれは、生き物のように一瞬で厚みを増し、テンを店の外へ押し出すと、同時に、扉が閉まった。
サキがラガーの酒瓶を持っていくと、ソギは、それをテーブルの向かいに置いた。
「そいつはお前の分だ。まぁ座んなよ」
有無を言わせない口調にサキは渋々従う。
「あの男はどうした?」
サキは苦笑する。
「どうって、元から何もないよ」
「なら、殺せるかよ?」
ギロリとソギの眼が光る。グラスに酒を注ぐとサキへ強引に押し付けた。それを目を瞑ってサキは飲み干す。苦くて、頭がカァッと熱くなる。
「サキ、あの男を殺すか、出来ないなら、2人で離兎から出て行け」
視界がブレて、ソギがダブって見える。
サキは何とか立ち上がった。
「分かったよ、ソギ」
後ろから、ソギの声が追いかけてくる。
「選択を、間違えるなよ。俺はお前に、提案したんじゃない。これは、命令だと思え」
サキは手を挙げる。自慢ではないが、割と命令違反は得意な方だ。
土地の者でない人間が集まる場所はだいたい決まっている。
街の外れまで来ると、先の争いで半壊した建物や、寸断された道路がそのままになっている。
道路の割れ目からは、汚染物質を含んだ黄色い水が染み出している。顔全体を覆うガスマスクのおかげで影響はないが、周囲には目が潰れる有毒ガスが漂っているはずだ。
汗でズレてきたマスクを直そうと手を添えて、視界が遮られた一瞬、背後から衝撃を受けて、サキは前方へ吹っ飛ばされた。何とか受け身は取ったが地面を転がり、汚染水に突っ込み飛沫があがる。
手をついて、立ち上がろうとするが、地面がぬめっていて、力が入らない。
突っ張った腕を蹴り飛ばされる。
新素材の軽金属で出来た、人の関節に合わせて襞のついた甲冑のようなとブーツが視界に入る。それで、分かった。
攫いか。
囲まれていた。
「眼」の力がここでは使えない事を、奴らは知っているのだろう。それでも慎重に包囲網を狭めてくる。
けしかけられた、烏来が超低空飛行で滑空するように翼を畳んだまま突っ込んでくる。右へ転がって、顔面への嘴の一撃を何とか躱すが、中空で反転し、急降下してくる。
何か、何か、ないか。
必死で地面を探り、地面に半ばめり込んだ石に左手の指がかかる。満身の力で引き上げる。二撃目がくる。右腕でガードするが、嘴が千枚通しのように、腕の肉に突き刺さる。激痛に、声が出ない。石を引きずり出すと、凶器のように腕に刺さったままの烏来の頭へ叩きつける。風船に入った墨汁が弾けるように黒い汁が飛び散って、烏来の身体はぐずぐずと崩れていく。烏来は、四裂以前、ここが一つの陸地だった時代にいたという、大型の鳥のDNAを基に、人工的に作った生き物だ。名前もその鳥から取ったらしいが、むしろ、兵器に近い。
腕を押さえて立ち上がる。右斜めと背後から、烏来が来る。右斜め前方から突っ込んできた烏来を引き付けて、サキは、石を振り落とす。それを難なく躱し、烏来は急上昇すると反転して背後へ回り込んだ。振り向く間もなく、ドスドスと連続して、背中に衝撃をうける。痛みはない。代わりに視界が赤く曇ったと思ったら、口から噴き出た血だった。平衡感覚がなくなっていく。足に力が入らない。
くそ。何でこんなことになったのか。
そうか。あいつか、テンか。
あいつを探しに来て、こうなったのか。
そう思っても、不思議と腹は立たなかった。
むしろ、間抜け過ぎて、笑えてくる。
やっぱりあいつは、あの時殺しておくべきだったな。いやもう、ここに至っては、そんな強がりも無意味か。
膝をついて、何とか倒れるのは阻止する。
正面からさらに無数の烏来が飛んでくる。
どうせここで死ぬなら、目はくれてやる。ガスマスクを外せば、目が潰れるまで…数秒か。でも、それだけあれば、奴らを叩き潰すだけの闇は落とせる。そうすれば、こいつらにテンが襲われる事もない。相討ちも、悪くない。
マスクに手をかけた時、迫っていた烏来の群れが、糸が切れたおもちゃの鳥のように、バサバサと落ちた。首が刎ね飛ばされている。空気を切り裂く不穏な音が周囲にこだます。ここ、離兎ではめったに聞かれない音。でも、サキにとっては、聞き慣れた音。
馬鹿。一世一代の人の見せ場を邪魔しやがって。そう思ったのを最後に、サキの意識は薄れていった。
死ななかったのは奇跡だろう。
あの日、テンによって店まで運ばれて、意識が戻るまで10日かかったらしい。
サキは天井裏の窓から下を眺めると、ゆっくり階段へと向かう。まだ急ぐと、胸が痛む。背中の傷は、肺まで達していた。
店の入り口から声が聞こえる。ライだ。
「達者でな」
今日は、テンが旅立つ日だ。月鞘へ戻るのか、また別の土地へ移動するのか、知らない。
いずれにしても、もうここへは来ないだろう。
テンが何か答えて、ライの笑い声がする。ライがあんなに笑うなんて、珍しい。
テンは不思議だ。不躾で礼儀知らずなのに、連綿と続く憎しみの鎖から、ひとり浮遊している。
わたしが動けない間もこの店に通い、ライとも仲良くなってしまったのだろう。
テンは店の外にいるのか、何を言ってるのかよく聞こえない。階段を駆け下りたいのに、もどかしい。
ようやく店の入り口が見えた。テンの声が聞こえた。
「じゃあ、行きます。サキによろしく」
(よろしくって何だよ!)
思わず、走っていた。残りの階段を駆け下りたら、あまりの痛さに転びそうになる。息をつく。早く、言わなきゃ、行ってしまう。脂汗で髪が額に張り付いたまま、顔を上げたら、ライとテンがこっちを見ていた。
ライはニヤニヤしている。
テンはビックリして固まってる。
恥ずかしくて、怒鳴った。
「さよならくらい、直接言ってけよ!」
テンはジッとサキを見てくる。
「何だよ」
「良かった。いつものサキだ」
そう言う、テンの顔があんまり嬉しそうだから、返事に詰まった。
その間に、テンはサキに近づくと肩を掴んで、そっと頬の傷へ口づけをした。
「さよならは言わない。また来るよ。その時は、一緒に来てくれる?」
耳元で囁いて、一度手を振ると、テンは振り返らずに歩いて行った。
「馬鹿。誰があんたなんかと」
呟いたら、口づけのあとを一筋、涙が落ちていった。(終)
読んで頂き、ありがとうございます。
普段は、日常を舞台にした短編を書いていますが、たまにこうしたお話を書きたくなります。
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