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方舟の街

作者: 若木士
掲載日:2016/03/31

 先端にカラビナのついた二本のロープを、車の牽引ロープ用のフックに引っ掛け、異常がないかを点検する。文字通り命綱になるものだ、チェックを怠るわけにはいかない。問題がないことが確認できると、そのままロープの反対側に目を移す。すると一本のロープの向こう側の先端は、既に同僚のデニスに繋がれていた。

「こっちは大丈夫だ」

「よし、じゃあ降りるからちゃんと支えてろよ」

 そう言うと、デニスはもう一本のロープを持って崖を降り始めた。

 崖際では女性が膝をついて下を覗き込んでいて、視線の先にいる人物に必死に話しかけている。

「すぐ助かるから、そこから動いちゃだめよ」

 崖の下にいるのは女性の子供だ。誤って転落してしまったが、幸運にも落ちた先に突き出した岩があったことで、その下に広がる真っ白な海に飲み込まれることは免れたという状況である。デニスが崖を降りたのはその子供を助けるためだ。

 当然、崖から落ちれば命はない。落ちれば行き着く先は何千メートルも下の遥か彼方にあるといわれる地面だ。そこに体を叩きつけられて無事でいられる人間はいない。そうならないための命綱があるとはいえ、命がけの作業であることに変わりはない。

「ノア、子供を確保した。持ち上げてくれ」

 崖の下からデニスの声が聞こえた。

 俺は「了解」と返事をすると、デニスに繋がれている方のロープを引っ張り上げた。歩道の縁石に足を引っ掛け、全身の力を使って綱引きの要領でロープを手繰り寄せる。

 しばらくして、最初に顔を出したのは子供の方だった。腰にロープを巻き付けられた子供が、母親とデニスに支えられながら這い上がる。それに続いて、デニスも最後は自分の手足を使って崖を登りきった。

「ありがとうございました」

「いえ」

 デニスは、頭を下げて何度も礼を言う女性を手で制すと、今しがた自分たちが上ってきた崖に目をやった。そこには転落防止用のフェンスが設けられているが、一ヵ所だけフェンス一つ分の隙間が空いている。デニスと子供が上ってくるときに通ったところだ。元々は隙間など空いていなかったが、子供がフェンスに寄り掛かった際に、外側に倒れてそのまま落ちていってしまったらしい。子供が落ちたのもそのタイミングだという。そしてたまたま通りかかった俺たちが助けに入ったというわけだ。

「次からは気を付けてください。街のいたるところで老朽化が進んでますから。さっさと補修してくれればいいんですけど、なかなか進んでいないみたいで。なのでなるべく街の端には近づかないようにしてください。特にこういった人通りの少ない場所では」

 デニスは話しながらロープを体から外す。俺はそれを受け取り、母親にしがみついている子供から解いたロープと一緒に車のトランクに片づける。

「では、我々はこれで」

 適当なところで話を切り上げ、俺たちは車に戻った。




 俺とデニスが車で向かったのは、街の端に店を構える廃品業者だ。付近で物を市外に違法投棄している人物がいるという通報があり、それに関する聞き込みが目的だ。今のところこの店の店主が怪しいと目をつけているが、確固たる証拠はない。

 店の前に止めた車から降りる。この辺りにある建物はこの廃品回収屋と、数棟の倉庫くらいだ。どれも年季が入っていて、寂れた様相を呈している。

 店の天井には、アークシティ(この街)の建造物の大半がそうであるように、ソーラーパネルが取り付けられている。表面を青い空に向け、日中は常に降り注いでいる太陽光を受け止めて電力に変えている。

「ここか。行くぞ」

 デニスはジャケットの襟を直すと店の中に入った。俺もそのあとに続く。

 店内は手狭だった。壁には染みができていて、手入れが行き届いているとは言い難い。そして売り物であろうガラクタ――少なくとも俺には価値が見いだせない――が、所狭しと並べてある。天井の照明が放つ光は弱く、外からの光が届かない店の奥は薄暗かった。

 店内に客の姿はない。立地条件もあって、めったに客が立ち寄るような店には思えない。しかし、こうして店を続けているからには生計を立てられる程度には繁盛しているのだろう。違法なことをしていなければの話ではあるが。

 店の一番奥に行くとカウンターがあった。そこでは中年くらいの男が、椅子の背もたれに体重を預け、市の広報誌を広げてくつろいでいた。男は俺たちに気が付くと、広報誌を閉じてカウンターの上に置いた。

「いらっしゃいませ。何をお探しで。それとも買取ですか」

「アークシティ警察のデニス・ヴィルケ警部補です。店主の方ですか」

 デニスは身分証を提示して訊ねる。話すのはデニスの役割だ。俺は二人の会話が終るか呼ばれるまで、後ろの方で待機することにする。

 男はデニスの身分証を両手で支え、じっくりと目を通してから顔をあげた。

「ええ、そうですが。警察が一体どのような用件で」

「少し訊きたいことがありまして。お時間はよろしいですか」

「客がいない間でしたら」

「この近辺で物を街の外に捨てている人物がいるという通報がありました。その聞き込みに来たのですが、何かご存じありませんか」

「街の外に物を捨てている人ですか。いいえ。何しろ普段はずっとここにいるものでして。見ての通り、ここからじゃ外の様子はほとんど見えないですから、大きな音がしたりでもしない限りなにかあっても分からないですね」

 動揺する様子もなく、男の態度は自然体のままだ。

「外に出たりはしないんですか」

「倉庫に行く時と、たまに買い物に行く時くらいですかね。自宅はこの上なので」

 男は右後ろと天井を順番に指差す。

「その時に怪しい人物を見たりは」

「していないですね」

「一昨日の夜はどちらにいました」

「十時くらいから倉庫の整理をしていましたね。終わったのは日付が変わった頃だったと思います」

「ずいぶんと遅い時間にやられていたんですね」

「昼間は時間が取れなかったので。もしかして、犯人が目撃されたのがその時間帯なんですか」

「通報によればそうです。倉庫の整理は一人でやられていたんですか」

「バイトを雇えるほど繁盛はしていませんから」

「一人暮らしですか」

「ええ」

「そうですか。ちなみにこの店が扱っているのはどんなものですか」

「基本的には何でもです。まあ、さすがにゴミみたいなものはありませんが。木片から精密機械まで、使い道があるものは何でも扱っています」

「使い道がなさそうなものも結構見当たりますが」

 デニスは店内の陳列物を見回しながら言う。

 俺は近くにあったガラクタを手に取ってみる。何かのパーツだろうか。

「物は使いようですよ。後で話を聞いたりするんですが、皆さんはいろいろな方法で活用されているみたいです。この街では無駄にするような資源はありませんからね」

「捨てるような物はないと」

「だってそうでしょう。地上にいた百年前と違って、そこら辺は進化していると言えるんじゃないですかね」

 男は同意を求めるように言う。

 実際その通りだ。アークシティには鉱山も油田もない。どんな物も再利用し、何度も使い回すことで街が成り立っている。街の外に物を捨てることが法で規制されているのは、何も地上の環境をささやかな汚染から保護するためでも、落下地点にいるかもしれない動物に配慮してのことでもない。

「倉庫の方にはもっと大きいようなものもありますけど、ご覧になりますか」

「結構です。買い物に来たわけではないので」

「では今度は客として来てください」

「機会があれば。それで話を戻しますが、物を捨てている犯人に心当たりはないと」

「力になれずに申し訳ありませんが」

「いいえ。ご協力ありがとうございました。もし何か思い出すことがあれば、警察署の方に連絡してください」

 デニスは連絡先が書かれたカードを手渡す。

 男はそれを左手で受け取り、

「きっとそうします」




「怪しいところはなかったな」

 俺は車の運転席に体を収め、車のエンジンをかける。

「話した限りではな」

「店は胡散臭い感じだったが」

「どっちにしろ、シロともクロとも断定できない」

 デニスがシートベルトを締めるのを待って、車を発進させる。

「これからどうする」

「とりあえず様子見だな。しばらくしたら尻尾を見せるかもしれない」

「まったく、面倒だな」

 捨てたものを調べられれば何かわかるかも知れないし、それで操作が楽になるかもしれないが、それは無理な相談だった。

「あとは目撃情報をもう一度洗ってみるか。とりあえず署に戻るぞ」




「で、結局お前だったわけか」

 デニスは組み伏せた廃品屋の店主に、手錠をかけながら言葉を浴びせる。

 何のことはない。犯人は最初の見立て通り、この男だったのだ。

 一週間後の深夜十一時、見張られていることに気付かなかったこの男は、間抜けなことにおれとデニスの目の前で犯行に及び、現行犯逮捕されたのだ。

 男が確保されると、俺は離れた場所に停めてあった覆面パトカーを取りに行った。

「もうちょっと賢いと思ったんだがな」

 デニスは男を覆面パトカーの後部座席に押し込み、ドアを閉める。一度捕まった後は抵抗する素振りは見せずおとなしくしてくれているので、特に苦労することはない。

「このゴミはどうする」

 デニスと入れ替わるような形で、俺は車を離れて軽トラックに向かった。そこの荷台には、男が捨てようとしていたものが積み上げられている。倉庫から持ち出してきたのだろう。ゴミというかガラクタというか、そういったものだ。俺はそれをライトで照らしだす。

「夜勤の連中を呼んだ。そいつらが来たら、あとはそいつらに任せよう」

「そうだな」

 とりあえずトラックとその周辺を簡単にチェックしたが、すぐに対処しなければならないような物はなさそうだ。ガラクタの山を崩してその一つ一つを検めてはいないが、さすがに爆弾のような物があったりはしないだろう。

 俺は車のところに戻ると、車体に背中を預けて夜空を見上げた。

 遮るものは何もなく、満天の星空が広がっている。街の中心部では場所によっては建物が視界に入ったりするが、街の端であるここではそんなことはない。

 肉眼で見える星――一等星から六等星までの星の数は八六〇〇だという。もちろん、そのすべてがこの場所から見えるわけではない。地球の陰に隠れてしまうものもある。それでもすごい数だ。それに当然のことではあるが、肉眼で捉えることのできない星だってある。というか、見えない星の数の方が圧倒的に多い。銀河系にある星は二〇〇〇億にも上るという。さらに、宇宙には一〇〇〇億以上の銀河があるという。もちろんこれは恒星に限った話で、その回りを周る惑星や、さらにその惑星を周回する衛星は含まれない。それらすべてを含めると、その数はまさに天文学的な数字だ。この目に映る星空の向こうには、無限の世界が広がっていると言っても過言ではない。

 アークシティやそこに住む自分が、とてもちっぽけでとるに足らない存在だと思えてくる。同時に、世界の広さに圧倒される。

 そんな感覚に身を委ねていると、デニスに肩を小突かれた。

「いくぞ」

 気付けば、他の警察が到着していた。パトカーの赤い回転灯が暗闇を引き裂いている。その情緒のなさに、俺は顔をしかめる。

 しかしデニスはお構いなしばかりに肩を叩いてくる。

「ほら、さっさと運転しろ」

「了解、警部補殿」

 俺は命じられたままに、二人を乗せた車を警察署まで運転していった。



***



 警察署は、街の中心部から少し外れた位置に建っている。周囲にはマンションが立ち並び、所々に小さな商店や飲食店がある。

 昼下がり、パソコンに向き合うのに飽きて睡魔への抵抗力が落ちてきた俺は、目立たないようにオフィスを抜け出した。さらに警察署の建物からも出て、二ブロック先に路地にある売店に足を運ぶ。この時、店に到着するまで普通の倍の時間がかかったが、それはわざと遠回りしたからだ。

 そこでホットコーヒーを購入した俺は、眩しい陽射を避けるために近くの日陰で建物の壁にもたれた。

 コーヒーを買うだけなら、警察署の一階に売店がある。品ぞろえもそっちの方が多い。なのにあえて距離のあるここまで来たのは、単純に仕事から逃げたかったからだ。警察署の中にいては、仕事から離れたという気分には全然ならない。取り繕わない言い方をすればサボりだ。デニスは真面目なのでいい顔をしないが、俺的には遅くなりすぎなければ許容範囲だ。まあ、模範的な警察官とは言えないという自覚はある。そんなことだから同期のデニスとキャリアに差が付いているのだが、元よりバリバリに出世しようとは思っていないので気にはならない。むしろ下手に責任が重くなるよりもいい。

 コーヒーを口に含み、外気で冷えた体を温める。

 視線を持ち上げると、建物の隙間から空の青色が見える。いつ見ても変わり映えしない景色だが、今日はそこに月の姿がうっすらと浮かんでいる。

 顔を戻し、コーヒーカップを口元に運ぶ。

 その時、地面が揺れ出した。

 揺れ自体はさほど激しいものではない。そのままでも立っていることに支障のない程度だ。だから揺れ自体が何か大きな被害をもたらすということはないだろう。問題なのは、地面が揺れているということだ。無論、工事などでドリルを使って地面に穴を空けでもすれば、地面が振動することはある。けれども今回のはそういった局地的なものではなく、街全体が震えているようだった。

 壁に片手をついて通りの方に目を向けてみると、通行人たちはそのほとんどが歩みを止めていた。落ち着きなく周囲に視線を巡らせている者もいる。俺はそのまま揺れの原因と思われるものがないかざっくりと探してみたが、少なくとも目に見える範囲には見当たらない。

 そうしている間に揺れは弱くなっていき、次第に収まった。

 それからしばらくは不穏な雰囲気が漂っていた。俺も体勢を維持したまま、揺れの次に襲ってくるかもしれない何かを警戒した。

 だがいくら待っても何も起きなかった。もしかしたら時間を空けてから何かあるかもしれないが、直近では二回目の揺れや異常はない。

 それでひとまずは安心となったのか、通行人たちは一人また一人と元の行動を再開していき、通りは元の様相を取り戻していった。といっても、それは見た目だけの話だろう。

 いつまでもここでダラダラしているわけにはいかない。

 そんなような気がして、俺は残りのコーヒーをなるべく早く飲み干した。




 オフィスに入ろうとドアノブに手を伸ばす。すると、ドアが内側から開けられ、飛び出てきた二つ下の同僚と肩をぶつけた。

「すいません」

「ああ、悪い」

 どうにも慌てているようで、俺が謝る言葉を発した時には、すでに駆け足で去っていた。

 俺は扉が完全に閉まらないように片手で押さえながら、その背中を見送る。

 なかなかない場面に遭遇し、なにがあったのかと首をかしげる。しかし訊こうにも相手はもう離れていってしまったし、急いでいるところを呼び止めるほど重要なわけでも関心があるわけでもない。なので俺は、そのままオフィスの中に入った。

 室内は、いつもよりも騒がしかった。

 自分の席に向かいながらデニスの姿を探すと、すぐに見つかった。ちょうどこっちに歩み寄ってきているところだ。

「どこ行ってたんだ」

「ちょっとな」

 自分の椅子に腰を下ろしながらはぐらかす。デニスが本気で問い詰めているわけではないというのは普段の付き合いから分かっているし、俺の行き先にも当たりをつけているだろうから隠す意味はないが、正直に答えるのも気乗りしなかった。

 現にデニスも、

「まあそれはいいとして」

 と言って話題を切り替える。

「ボウ区のことは聞いたか」

「いや、何も。何かあったのか」

「ボウ区が落ちた」

「落ちたってどういうことだ」

「そのままの意味だ。ボウ区がまるまる地上に落ちたんだ」

「ボウ区が……」

 反芻しながら、デニスの言葉を咀嚼する。

 言葉の意味はわかる。難しいことは言っていない。けれども、それは到底信じられないことだった。

「さっき揺れがあったのは気づいたか」

「気づいたけど、もしかして関係あるのか」

「多分な。テレビのニュースでもやってる。見てみろ」

 デニスは部屋の壁に掛けられているテレビを指さした。

 テレビは高めの位置に設置されているので、角度的にはここからでも見える。しかし距離があるので、画面は見づらく、音声も聞き取りにくい。なので俺は立ち上がってテレビの近くまで移動した。

 テレビの前では、既に何人かが集まって画面を見上げている。その内の二人は俺が来たことに気が付くとこちらに顔を向けたが、すぐに視線をテレビに戻した。

 テレビでは公共放送のニュースが報じられていた。

 画面の下部には『ボウ区崩落』テロップが表示されている。そしてよく目にする女性アナウンサーが手元の原稿を読み上げていた。

「崩落したのはボウ区のほぼ全域とみられています。これによる被害と影響は今のところ分かってはいません。繰り返します――」



***



 かつて人類は雲の下で暮らしていた。この地球上に人間という存在が誕生してから何千年もの間ずっと。どんなに優れた科学技術を手にしても、石器時代の頃と同じように。空やその先の宇宙を目指すことはあっても、その基盤は常に地上にあり続けた。

 それが終わりを迎えたのが、今から百年ほど前。環境変化や環境汚染によって、地上に住むことができなくなったのだという。アーカイブされている文献を漁れば、当時の出来事に関して詳細に知ることができるだろうが、俺はそこまで興味がないので、せいぜい学校の授業で習うくらいの知識しか持ち合わせていない。

 とにかく、様々な事象が重なり合った結果、地上は人間の生存に適さない環境となったのだ。

 そこで当時の人類は、生き残るために方舟(The Ark)を空に浮かべた。それが俺たちが暮らすアークシティ(Ark City)だ。




「ノア。お前、アークナイトを使ったことってあるか」

 崖際にしゃがみ込んで眼下に広がる雲を覗き込んでいたデニスが、不意に訊いてきた。

 今は現場見聞の最中で、崩落した街との境目付近に来ている。デニス共々、ボウ区崩落事件の捜査チームのメンバーになったからだ。

 現場に着てみれば、ボウ区は綺麗さっぱりなくなっていた。ボウ区へと続く道は途切れ、あとには断崖だけが残っている。断裂した時の衝撃でできたのだろうか、辺りの地面には所々で亀裂が走っているが、安全上の問題はないとのことだ。

「あるわけないだろ」

「見たことは」

「写真でなら。実物は見たことない。お前はあるのか」

「見たことなら一度だけ」

「どこで」

「ボウ区の管理施設だ。そこに行った時にサンプルを見たことがある」

「へぇ」

 街が空に浮かんでいられるのは、アークナイトと呼ばれる鉱石の働きによるものだ。学術的な正式名称は別にあるらしいが、大抵の人間にはアークナイトという呼称で知られている。

 アークナイトは、特定の条件下で浮力を発揮するという特性を持っていて、それが街が浮かぶための動力として利用されているのだ。アークシティは大きく五つの区画に分けられていて、各区域ごとにその中心部にアークナイトを管理する施設が設けられている。崩落したボウ区は、その五つの区画の内のひとつだ。つまり、大雑把に計算すれば街の五分の一が消えたということになる。

「しかしこうして街が無くなっているのを実際に見るとなかなかショックだな」

 デニスは立ち上がると、俺のところに戻ってきた。

「俺はむしろ、丸々無くなってるせいか実感が湧かないな」

 初めからボウ区などなかった、と言ってもあまり違和感は感じない。こっちの方にはほとんど来たことがない、というのもあるだろうが。

「アークナイトに何かがあったのは間違いないとして、問題は何があったかだな。お前は事件と事故、どっちだと思う」

「事件じゃないのか。誰かがアークナイトに工作したんだろ」

「俺もその可能性が高いと思うが、断定するには早い」

「事故なんて起こりえるのか」

「可能性はゼロじゃない。こうしてる間にも、ブリッジ区だって落ちるかもしれない」

「それは困るな」

 まだ死にたくはないし、巻き込まれなかったとしても社会的リソースへのダメージはすさまじいことになる。ただでさえボウ区を失っているというのに、そこに追い打ちをかける形になる。そうなればもはや今まで通りの生活を望むことは難しくなるだろう。しかしだからといって、逃げられる場所はアークシティには存在しない。この街に住む人間は、街と運命を共にするより他はないのだ。

「事件、つまり誰かが意図的に引き起こしたことだとすると動機は何だ」

 考え込むように、デニスはボウ区のあった方に目を向ける。

「もしテロの類なら犯行声明があるはずだな」

 だが事件から何日も経過した今となっても、そのようなものはない。

「やるとしたら、〝オリーブの葉〟の連中か」

「奴らの信条に沿っているようには思えないが」

 俺が思いつきで口にした推測を、デニスが即座に否定する。

 〝オリーブの葉〟はこの街に存在する政治団体だ。その主な主張は地上への帰還。人類は大地の上で生きるべき、だから街を降ろして地上での生活に戻るべきだ、というような内容だ。勢力はそれほど大きくないが、メンバーが過激な行動に走ることがたびたびあるため、いろいろと目をつけられている団体ではある。

 俺がこの組織の名前を出したのは、そういった過激な行動の実績があるからというだけだ。特に根拠があるわけでもないので、否定されて当然といったところではある。

「ボウ区をまとめて地上に戻しました、とかか」

「無事にたどり着けてればいんだが、まあ無理だろう」

「死んででも、とかいう奴もいるんじゃないか。迷惑極まりない奴だが」

「どっちにしろ、最大の手がかりは全部雲の下に行っちまった」

 デニスは右の人差し指で地面を指し、

「こっからじゃ見ることもできない」

 街の下に広がる雲には切れ目がない。だから、街から雲の下がどうなっているのかは分からないのだ。大地があり、海があるというのも知識として知っていて映像で見たことがあっても、この目で実際に見たことは一度もない。

「捜索隊は出せるとしてもすぐには無理か」

「だろうな。昔はちょくちょくやってたらしいが、今はもうそんなことしてないし」

 俺の言葉にデニスが同意を示す。

 かつては地上の状況を調査するために定期的に調査チームを派遣していたそうだ。だが二十年前に事故で全員が未帰還となって以降は行っていない。

「派遣することになったら志願するか」

「するわけないだろ」

 俺は即座に否定する。

「俺が行かなくたって行きたがる奴はいくらでもいるだろ」

 〝オリーブの葉〟でなくとも、地上への憧れを持つ人は意外と多いらしい。俺からすれば雲の下の世界など未知の領域で、憧れや帰属意識など微塵もない。だが、この世の中はそういう人間ばかりではないのだ。

 と、デニスの携帯端末が着信音を発した。端末のデフォルトとして設定されている音だ。

「ヴィルケです」

 デニスが即座に応答する。

「はい……分かりました」

 通話はすぐに終わった。デニスは端末をポケットに仕舞いながら俺に向き直り、

「署に戻るぞ」

「どうした。誰からだ」

「警部だ。どうやら容疑者を捕まえたらしい」




 警察署に戻った俺たちは、警部に指示された取調室に向かった。デニスが扉をノックをして部屋に入り、俺もそれに続く。

 その部屋では、警部の他に数名の警察官が詰めていた。

「来たか」

「すいません、遅くなりました」

 部屋の右側の壁は、その一部がマジックミラーとなっている。そしてその向こう側では、一人の男が椅子に座っていて俯いてた。

「彼が容疑者ですか」

 デニスもその男に視線を向ける。

「そうだ。名前はマルク・ベック」

 答える形で警部が容疑者の情報を語る。

「三十二歳。ボウ区のアークナイト管理施設の職員、いや元職員だ」

「生き残りですか」

「職員だったころの仕事内容は、アークナイトの管理と整備。事件当日は休暇を取っていてスターン区にいたらしい。それで事件を免れた」

 事件が起きたのは平日の午後で、つまり施設の職員は殆どが出勤していた。そしてあの時施設にいた人間は、一人の例外もなく街と共に落ちた。だから施設の職員が生き残っているというのはレアなケースだ。

「目立った政治活動の実績はなし。交友関係等については今調べてる」

「なぜ彼が容疑者だと」

「監視カメラの映像だ。ボウ区アークナイト管理施設の稼働区画の、事件前日の映像にベックが映っていた。ほら、これだ」

 警部は手元の端末を操作し、それをデニスに手渡した。横から端末の画面を覗き見ると、停止状態の動画がフルスクリーンで開かれている。デニスは俺をちらりと見ると、俺が見やすくなるように端末を二人の間に持って行き、それから画面上のボタンを人差し指でタップして動画を再生した。

 動画には、ベックの姿が映っていた。右手に黒いアタッシュケースをぶら下げて歩いている。ベックが画面の外に移動すると、別の視点に切り替わってまたベックの姿を捉えた。こいつの姿を追いかけるように、複数の監視カメラの映像を繋げたのだろう。

 稼働区画は、柱がまばらに立っているだけで、他には何もない空間だった。壁には窓代わりとして、小さな穴を円上に密集させた箇所が等間隔に設けられていて、そこから外の青い空が望めるようになっている。空が見えるということは、高い場所にあるのだろうか。

「稼働区画ってのはどんな場所なんだ」

 映像の中のベックを目で追いながら、デニスに訊く。その名前から何となくのイメージは浮かべていたが、やはりそれだけでは限界がある。

「稼働してるアークナイトの下にあるエリアだ。アークナイトのメンテナンスや調査をする時に使うところで、普段人が出入りするような場所じゃない」

「ってことは、天井の側にアークナイトがあるのか」

「そのはずだ」

 カメラは上から部屋を見下ろすような形になっているため、映像からでは天井側がどうなっているのかは見えない。

 そうしている間に、ベックはある柱の前で足を止めた。足元に下ろしたアタッシュケースを開けて、その中身を手で弄りはじめる。アタッシュケースに何が入っていて何をしているのかは、ベックの体に隠されていて分からない。

 十秒もしないうちに、ベックはアタッシュケースを閉じて立ち上がる。そしてケースを置き去りにしたまま立ち去ったところで、動画が終了した。

「ケースの中身は何なんですか」

 デニスは端末を返しながら警部に訊く。

「分からん。本人に訊いてみたがだんまりだ。そもそも、あの日は稼働区画には入っていないと言っている」

「動画の男が彼だってことは間違いないですよね」

「ああ、それはあいつも認めている。だがあくまでも自分は入っていないと主張し続けている」

 警部は端末を机に置くと両腕を組み、

「稼働区画の入退記録も調べたが、あいつが入った記録がしっかりと残っていた。用件は管理計画を立てるために必要なデータの収集で、申請者はベック自身だ。けどこいつを突きつけても答えは変わらない」

「他にあの区画に入った人はいなんですか」

「事件前日にはベックの他に、二人が調査目的で入っている。もちろん期間を広げればもっと増えるが、ひと月以内に稼働区画に入った記録がある人間は、あいつ以外は全員行方不明だ」

「事件に巻き込まれたと」

「そういうことだ。アークナイトに細工できる機会があって、かつ事件の免れたのはあいつだけだ。怪しい行動をしていたのもあいつだけだ」

「ちょっといいですか」

 気になることがあり、俺は二人の会話に割り込んだ。すると警部が振り返る。

「なんだ」

「監視カメラの映像は人がリアルタイムにチェックしてはいないんですか」

「物によるが稼働区画のカメラは施設の警備室で警備員が常にチェックしていた」

「なら、その警備員はベックの行動を不審に思わなかったんでしょうか」

 直前まで触っていたアタッシュケースを置いたままにするというのは見るからに不自然だ。うっかり置き忘れた、なんていうような話には思えない。

「この映像が撮影された時間帯に担当してた警備員は行方不明者にリスト入っている。確認しようがない」

「そうですか」

 それはそうか、と納得する。

「それで警部、私たちを呼んだのは」

「あいつから話を聞きだしてくれ」

「もう一通り聞いて駄目だったのでは」

「だからお前からも試して貰いたい」

「分かりました」

 視線で合図を送ってきたデニスに、俺は小さく頷く。

 一緒に来てくれという意味だ。拒む理由はない。

 資料が収められた端末を持って隣の部屋に入ると、ベックがこちらに顔を向けた。

「どうも、デニス・ヴィルケ警部補です。こっちは部下のノア・アイスリー巡査部長」

「何度も言ってるだろ。俺は何もやっていない」

「そうは言ってもだな」

 ベックからの非難を受けながら、デニスはテーブルを挟んで彼と向かいの椅子に腰を下ろす。

「監視カメラの映像にはあんたの姿が映っている。あれがあんたであるということは、自分自身で認めたらしいが」

「確かにあれは俺だ。それは間違いない。だけど俺は稼動区画になんて入っていない」

「映像だけでなく、出入りの記録も残っている」

「何度も言わせないでくれ。そんなものを申請した覚えはない」

 その言動から、デックの苛立ちが伝わってくる。

「ではこれらはでっち上げだと」

「だからそう言っている」

「じゃあ話を変えよう。あの映像に移っていたお前は、アタッシュケースを持っていたな。あれの中身は何だと思う」

「知る訳ない」

「爆弾か」

「だから俺じゃない」

「例えばの話だ。もしお前が犯人で、ボウ区を落とそうとするならあそこに何を持って行って何をする」

「そんなこと、考えたことも無い」

「なら今考えろ」

「無理を言わないでくれ」

 勘弁してくれと、ベックは首を横に振る。

 デニスは意見を求めるように俺を見やってきた。俺は頭を小さく左右に動かして答える。ベックの様子に不審な点は見られないし、俺から言うことも特に無い。

 それからデニスは少しの間を空けて、尋問を再開した。

「この時間帯、どこで何をしていた」

「オフィスで仕事をしていた」

「証明できる人は」

「あの時は同僚と一緒だった。けど――」

 そこでベックは言葉を詰まらせた。デニスはそれを引き継ぐように、

「みな死んだ、と」

 と言い放つ。

 崩落に巻き込まれた人々は、遺体が見つかっていないので公には行方不明ということになっている。だがそんなものは建前でしかない。死んでいると、誰もが認識している。もちろん建前は重要だが、ここでそんなものは意味を成さない。

「そうだ。みんな、あの事件で死んだ」

 憤りとか悔しさとか、そんなものが言葉から滲み出ている。しかしデニスはそんなものお構いなしとばかりに話を続ける。

「つまりあんたがオフィスにいたことは証明できない」

「そうだ」

「ではあんたがあの時間オフィスにいたとして、そうすると誰かが映像や記録を書き換えたということになる。誰が、何のためにそんなことを」

「真犯人に決まってる」

「あの事件に犯人がいると思ってるのか」

「どういうことだ」

「何らかの事故、という可能性もあるということだ」

「ならどうしてあんな映像がある。誰かが俺に罪を擦り付けようとしたに違いない」

「その誰か、に心当たりはあるか」

 デニスは身を乗り出して、顔をベックに近づける。

「そんなのはない。――いや」

「何かあるのか」

「政府、政府の連中だ」

 両手をテーブルに叩きつけ、ベックは勢いよく言い立てた。

 その主張に、俺とデニスは顔を見合わせる。

「陰謀論か」

「違う」

「なら証拠はあるのか」

「証拠は、ない」

 ベックは一瞬だけ消沈した様子を見せ、

「でも、根拠ならある」

「言ってみろ」

「去年から、ボウ区の倉庫から物が運び出されているのを知っているか」

 ベックは声を潜めるようにして言う。録音されているだろうから意味はないだろうが。

「いや、初めて聞いたな。それで」

「運び出された物はスターン区の倉庫に移されている。ボウ区の反対側だ。そして荷物の輸送は先月の内に終わっている。だからボウ区の倉庫はすっからかんになっていた。もちろんまったくの空っぽってわけじゃないが、貴重なものは何も残っていないし、代わりの物が運び込まれてくる気配もない。これは政府公式の都市計画から分かることだ」

「つまり、どういうことだ」

「分からないか。政府はボウ区が落ちることを知っていた。だからあらかじめボウ区の倉庫から物を運び出したんだ」

「推測の域を出ていないな。そこらの陰謀論と大差ない」

「それだけじゃない」

「あとは何だ」

「街のアークナイト、あれがあとどれくらいもつか知っているか」

「少なくとも二百年以上だろ」

 デニスは即座に答える。政府が公式に発表している数字だ。

 この世の多くのものがそうであるように、アークナイトも無限にその性能を発揮し続けるわけではない。使い続ければ劣化し、劣化すれば性能は低下する。つまり、この街が浮かんでいられなくなる日がいつかは来るのだが、それはまだ等分先の話だ。耐用期限にについては諸説あって正確なところは不明であるが、あと二百年以上は問題ないというのはどの説でも共通している。ボウ区が崩落した後でも、その見解は変わっていない。もちろん政府は来るべき時に備えて、地上への帰還を含めて対処法を検討してるらしいが、まだ明確な方針は打ち出していない。どうせその頃には俺は生きていないので、大して関心はないが。

「確かに政府はそう言っている」

 ベックは一度肯定してから、

「けどそいつは嘘っぱちかもしれない」

「どういうことだ」

「本当はもっと短いかもしれないということだ。例えば、もうすぐ限界を迎えるとか」

「そんな話は聞いたことがない」

「だろうな。けど俺は、それは間違いだと思っている」

「何を根拠に」

「まだ仮設の段階だ。だから提示できる根拠はない」

「それなら何とでも言える。話にならん」

 そんな信憑性に乏しい言い分を、デニスはそう言い捨てる。

 それでも、ベックは自説を崩さなかった。

「もしかしたら、ボウ区が落ちたのも、アークナイトの劣化が原因かもしれない」

 と、部屋の扉がノックされた。

 見ると、警部が扉を半開きにして手招きしている。

「ちょっと待ってろ」

 デニスは席を立って警部の元へ向かった。その姿をベックはすがるように目で追いかける。

 俺は空いた席に座り、両肘をテーブルに乗せて両手を顔の前で組んだ。そしてベックの瞳を覗き込むようにして訊く。

「アークナイトの話、お前は正しいと本当に思ってるのか」

「可能性は高いと思っている」

「ということは違うこともありえるってことか」

「それを確かめるために調べてたんだ。本当のことを言うと、この前まではそんなことはまずないだろうと思いながら調べてた。けどここに連れてこられて考えが変わった。きっとそうに違いない」

「なるほど」

「ノア」

 デニスに呼ばれて振り返る。

「こっち来い」

 言われて、俺は隣の部屋に戻った。扉をくぐる直前にベックを見やると、訴えるようにこっちを見ていた。

「どうした」

「ベックから押収したパソコンから今回のテロに関する計画が出てきた

 口を開いたのは警部だった。

「これからマルク・ベックの身柄を検察に移送する」



***



 夜の闇の中で、星が煌めいている。

 仰向けに寝転がったまま右腕を持ち上げ、人差し指で星をなぞっていく。はくちょう座を構成する九つの星だ。これらの星だけで白鳥に見えるかと言えば厳しいが、要は想像力や発想力の問題なのだろう。自分で星空に絵を描いてみようとしたこともあるが、意味不明な図形が出来上がるだけだった。星座を考案するには、きっと絵心も必要なのかもしれない。自慢にはならないが、生まれてこの方、自分に画力があると感じたことは一度もない。

 俺が横になっている場所は、自宅のあるマンションの屋上だ。今日に限らず、暇な時はこうやって夜空を眺めていることが多い。これといって楽しい事が有るわけでもないのだが、今のように無為な時間を過ごしていると落ち着くのだ。このマンションを選んだのも、それなりに高さがあって屋上が使えるというのが大きい。大抵のマンションの屋上は、ソーラーパネルを置くだけのスペースになっている。ここの屋上にもソーラーパネル自体は設置してあるが、南側に小さなスペースが設けられているのだ。

 事件の犯人を追いかけているよりも、星が散らばる空を相手にしている方が性に合っている。できるならば、何時までもこうしていたいくらいだ。

 仕事なんてものは、生活に困らない程度にやっておけばいい。だから元より、警察官などという公に奉仕することが求められるような職業は俺には向いていないのだ。ならどうしてそんな職業を選んだのかという話になるのだが、それは単純にその場の流れに身を任せていたら不幸にもそうなってしまったというだけだ。

 不意に、光の筋が視界を横切った。流れ星だ。

 目を閉じても、その軌跡は瞼の裏に焼き付いている。

 そうしていると、心地よい睡魔が首をもたげてきた。

 そろそろ寝ようか。

 そんな気分になり、俺は屋上を後にした。




 部屋に戻ると、携帯端末がライトを発行させて、着信があったことを主張していた。

 端末の時計で現在時刻を確認する。とっくに二十三時を過ぎているものと思っていたが、実際にはまだ二十二時三十二分だ。時間の流れが体感よりも遅い。

 着信があったのは今から十分ほど前。こんな時間に電話がかかってくるとは、猛烈に嫌な予感がする。

 相手を確認すると、デニスだった。警察学校の頃から付き合いがある仲とはいえ、あいつがプライベートな用事で連絡を寄越してくることはほとんどない。俺から連絡することもないので、要するにプライベートな付き合いが無いということだ。なので連絡内容は十中八九仕事絡みだろう。

 留守番電話にメッセージは残されていなかった。

 ということは急ぎの用事ではないのだろうか。だがもしそうなら明日直接会ったときに話せば良いわけで、わざわざ電話をかけてくる必要は無い。

 だから無視して寝てしまってもよかったのだが、折り返したほうが良いと直感が告げていたので、それに従うことにした。

 三コール目でデニスが出た。

「さっき電話したみたいだけど何の用だ」

「ああ、ノアか。それほど急を要する訳じゃないんだが」

 どうやら俺の直感は外れたらしい。

「なら明日でいいか」

「それで構わないが、とりあえず用件だけで伝えとく」

 デニスはそこで一旦言葉を切り、

「マルク・ベックが脱走した」



***



 翌朝、出勤するとデニスが疲れた顔をして待っていた。昨日の夜からずっと警察署に詰めたいたのだろうか。そう思うとさすがに気が咎めてくる。

 デニスに誘われて談話室に向かい、コーヒー片手に空いている席に着く。そこで、昨夜の出来事について聞かされた。検察への移送準備を進めている最中に、拘束状態にあったベックが脱走したということ。そしてそれは警備にあたっていた警察官の助力によるものだったということ。おおまかなハイライトは電話で聞いた通りだ。

「ベックの逃亡を手助けした警官は今どうしてる」

「イロナの尋問を受けてるよ」

 デニスはコーヒーを啜り、

「その警官、〝オリーブの葉〟のシンパだったみたいだ」

「そんな奴が警察になれるのか」

「お前でもなれるくらいだからな」

 冗談めかしてデニスが言う。

「まあ実際、どんな思想を持とうと個人の自由だ。〝オリーブの葉〟自体はテロリストじゃなくて真っ当な団体だしな。それに、警察になってから思想が変わることもある」

「〝オリーブの葉〟が逃亡に加担したってことは、ベックもその一員だったのか」

「いや、ベック自身が〝オリーブの葉〟と関わった記録は無い。だが、あいつの叔父が〝オリーブの葉〟の主要メンバーみたいだ」

「じゃあその辺が絡んでるのか」

「どうだろうな。詳しいことはもっと調べないと。とりあえず俺たちの当面の仕事はベックの捜索だ」

 脱走を受け、警察はベックを指名手配した。さっきもニュースで名前と顔写真、身体特徴が報じられていた。それと同時に、容疑者の監視体制に問題が無かったのかなどと騒いでいる。特に警官が手引きしたということもあって嬉しくない注目を集めているようだ。この休憩室でも、それを話題にする声がついさっき聞こえた。が、それはひとまず俺たちにとっては他人事だ。

 俺は残ったコーヒーを飲み干して、

「なあ、ベックが言ってたこと、どう思う」

「言ってたこと」

「政府がどうこうっていう話だ」

「ああ、あの陰謀論のことか」

 デニスは得心がいったというように、相槌を打つ。

「どう思うって言うのは」

「本当だと思うか」

「信じるには根拠が薄すぎる」

「でも調べてみる価値はあると思う」

「ああ、それは俺も同意見だ。言ってる事は突拍子も無いが、全くの出鱈目を言っているようには見えなかった」

「なら調べてみないか」

 と、俺は今後の方針について提案する。

「それは駄目だ。今はベックを見つけるのが先だ。そんなことしてる暇は無い」

 だがデニスは乗り気ではないようで、かぶりを振った。

 なので俺は説き伏せようと試みる。

「あいつを見つけるためにもだ。あいつが調べていたことを追っていけば、何処かであいつの尻尾を掴めるかもしれない」

 デニスはしばしば俺の顔を見つめた後、黙りこくったまま手の中のカップに視線を向け、考えを廻らせるようにそれを揺らす。

「たぶんあいつは、逃げたからといって何処かでじっと隠れてたりはしない。きっと自分の主張を裏付けようとするはずだ」

 カタン、とデニスはカップをテーブルに置いた。

「お前がそんなに言うのも珍しいな」

「そうか」

「そうだよ」

 デニスは肩の力を抜く。

「まあそうだな。どっちにしろ、今の時点では目ぼしい手掛かりも無いし、ただ追っかけるだけなら他の連中もやるだろうから、俺たちは別の方向から捜してみるのもいいかもしれないな」

 それに、と続ける。

「今回の事件の全容を知る上でも無駄にはならないだろう」

 どうやら、俺の説得は成功したようだ。



***



「しばらく前からボウ区の倉庫から荷物が移されてたのは本当みたいだ」

 警察署の屋上で、調べた内容をデニスに報告する。屋上にはソーラーパネルが立ち並んでいるが、二人で話をするくらいなら隙間の空間で事足りる。

「行き先は、荷物の大半はスターン区だが、他に地区にも運び込まれてる。スターン区の比率が多いのは、単に空いてる倉庫が多かったからだな、多分。全体的に、ボウ区以外の四ヵ所で均等になるように配分されている」

「ということは、政府はとにかくボウ区から荷物を運び出したかったって訳か」

「そういうことになるな。輸送作業の書類上の名目は、倉庫の整理と事故の際のリスク分散。まあ定期的にやってることだな。そこに紛れ込ませたみたいだ。わざわざそんなことをしたのは、あまり目立たせたくなかっただろう。どうしてかについては、すまないが分からなかった」

 これらは政府の公開アーカイブから得られた情報だ。だから誰でも知ることができることではあるが、それには膨大なデータから必要なものをピックアップして精査するという作業ステップを挟む必要があった。誰でも知ることができるが、誰もが知っているわけではない。

「ボウ区の物を全部受け入れるほどのスペースなんてあったのか」

「倉庫は元々余裕を持たせて作られたみたいだし、百年の間に物も減ったかからな」

 再利用するのが基本だとしてもその技術は完璧ではないし、風や太陽光に晒されて消耗していく物資もある。そうでなくとも、街から落としてしまい丸々損失することもある。だから遠い将来のことではあるが、いずれ物資の面でも終わりは訪れるのだ。

「で、事件の前までにはボウ区の倉庫は空になってたのか」

「概ねな。当面の間に使う予定がある物は残したままだったが、それ以外は全部運び出されてた。実際にどうだったのかは、今となっては確かめようがないが、記録の上ではそうなっている。ベックの言っていた通りだな」

「そんなことになってて誰も不審がらなかったのか」

 デニスは訝しそうな顔をした。

「わざわざ調べないと出てこない情報だしな。事実、俺らも言われるまで知らなかった。それにあいつは見落としてたみたいだが、一応今後の計画が立ててあった」

「どんなだ」

「まあ計画っつっても大したもんじゃない。更地にして公共スペースを作ろうってだけだ」

「それだけか」

「それだけだ」

 拍子抜けだと言わんばかりのデニスに、俺は頷き返した。

「それにしても、タイミングは良かったというわけか」

 事件の前に物資の大半が運び出されていたため、被害は幾分か抑えられたということになる。それが偶然なのか、そうでないのかはまだ分からない。だが後者だとするならば、政府はボウ区が消えることを知っていたということになる。つまりベックが主張した陰謀論の通りだ。

「他にはあるか」

「いや、これだけだ。実際に輸送業務を担当した人間に話を聞こうと思ったんだけどな、そこまで辿り着けなかった。令状があればいけるんだが」

 もし仮に政府が陰謀のようなものを企てているのだとすれば、俺たちはそれを暴こうとしている立場になる。政府からしてみれば邪魔な存在だ。目立つ様なことをして下手に目を付けられることは避けたいので、令状を請求して正面から堂々という捜査手法は取り辛い。必然的に、令状なしの私的な捜査みたいなことになってしまう。こんな人気の無いところで密談めいたことをしているのもそのためだ。

「ま、それだけ分かれば今のところは十分だ」

「それで、そっちはどうだったんだ」

 俺がボウ区の倉庫に関連することを調べている間に、デニスはアークナイトについて調べていた。その進捗状況を訊ねる。

「何か知ってそうな人物を見つけた。ジャマル・ストリークって名前だ。これから会いに行く」

「誰だそいつは」

 するとデニスは屋上の出入り口の様子を伺ってから答えた。

「市役所の施設課で働いてる職員だ。ベックの大学時代の先輩で、ここ数ヶ月頻繁に会っていたみたいだ。会って何をしていたのかは不明だが、俺はアークナイトに関する情報交換をしていたんじゃないかと睨んでる。施設課の業務にはアークナイトの管理も含まれてるからな」

「俺も一緒に行っていいか」

 やることがないわけではないが、俺の調べ物は行き詰まり状態だった。なら成果を得られる見込みの薄い作業を続けるより、デニスに同伴した方が生産的だろう。

 というのは半分以上建前で、アークナイトの話に興味があったというのが実際のところだ。他に優先すべき作業があるなら仕方がないが、できるならついて行きたかった。

 そんな俺の要望を、デニスは「ああ」と了承してくれた。




 市役所の正門から、人がぽつぽつと道路に出てくる。そのほとんどがスーツを着こなしていて、如何にも役人といったいでたちだ。出てくる人数と比べれば少ないが、市役所の敷地に入っていく人もちらほらいる。

 そんな人の流れを、俺は頬杖をついて眺めていた。

 空が暗みを増しつつある夕刻、俺とデニスは市役所正門の斜向かいにあるカフェに座り込んでいた。帰宅の途に就いたストリークが出てくるのを待つためだ。

 市役所の前に落ち着ける場所があったのは幸運と言える。でなければ、外に突っ立って待ち続ける羽目になっていた。そんなことをしていれば不審の目を買いやすいし、何より疲れる。もっとも、時間を潰せる場所があったからここを張り込み場所として選んだという側面もあるのだが。

 ストリークを待っているといっても、俺は彼の顔を知らない。デニスが写真データをコピーしてこれなかったからだ。だから出てくる人の顔を見極めるのはもっぱらデニスに任せきりで、俺はそれを横目に何をするでもなくぼんやりとしていた。

「出てきたぞ」

 と、デニスが立ち上がった。

 それに釣られて窓の外を見てみる。だが候補となりうる通行人は何人もいて、その中の誰が待ち人なのかは分からなかった。




「ジャマル・ストリークさんですね」

 デニスは、対象の男の進路を塞ぐように立ちはだかると、開口一番に訊ねた。

「誰ですか」

 足を止めた男は驚いたように目を見開き、デニスと俺の顔を交互に見る。警戒しているのがもろに伝わってくる挙動だ。帰ろうとしたところを見知らぬ男二人に捕まったのだ、無理のない反応だろう。

「警察です」

 身分証を差し出して名乗ると、デニスは次いで俺のことを紹介した。

「またですか」

「またと言うと、以前他の警察が伺いましたか」

「ええ、そうです。身内で情報共有してないんですか」

 身分証を確認し終えた男は、それをデニスに返す。こちらの素性が判明して警戒心は薄らいだようだが、代わりに不満が言葉に表れている。

「申し訳ない。それで、ジャマル・ストリークさんで間違いないですね」

「そうです。今度はどんな用件ですか」

「最近、マルク・ベックと頻繁に会っていたようですが。何をされていたんですか」

「そのことならもう話しました」

「なんと」

「ただの世間話です」

「そんな頻繁にですか」

「詳しくはあなたの同僚から聞いて下さい。用件が彼についてならもう話すことはありません。失礼します」

 そう言うと、ストリークはデニスの横をすり抜けて立ち去ろうとした。

「待ってください」

 俺はその肩を掴んで立ち止まらせる。せっかく捕まえたのだ、これで終わりにするわけにはいかない。

「何ですか」

「アークナイトに関する話をしていたんじゃないですか」

「何の話です」

 ストリークは声では平静を保っているが、その顔はかすかに強張ったように思えた。

 肩に手を置いたまま、俺ストリークの正面に回り込んで顔を寄せる。

「ベックは、街のアークナイトは限界が近いと言っていました。私たちはそれについて調べています」

「知りませんよそんなこと」

 鬱陶しそうに胸を押し返されて、俺はされるがままに後ろに下がる。

「彼は、先日の事件はアークナイトが限界を迎えて効力を発揮しなくなったからではないかと言っていました。それが本当に起こり得るのか、実際にどうだったのか知りたいのです。何か知っていて、それでもし彼を庇っているのなら協力してください」

 ストリークの瞳を見据えて頼み込む。

 今のところ唯一の手掛かりだ。本当に知らないならどうしようもないが、そうでないなら簡単に引き下がるわけにはいかない。

「ストリークさん」

 とデニスが話しかける。

「確かに私たちはベック氏を逮捕しようとしています。逮捕状が出ている以上、それは仕方ありません。ですが、真相を解き明かしたいとも思っています。彼が無実にしろそうでないにしろ、それを明らかにするにはあなたの協力が必要だと考えています」

 ぐるりを周囲を見回してから、ストリークは逡巡するように目を伏せる。

 やがて、口を開いて出てきたのはお詫びの言葉だった。

「すいません。私から話せることはありません」

「分かりました。ではもし気が変わったらご連絡ください」

 そう言ってデニスが懐から取り出したカードを受け取ると、ストリークは会釈して去っていった。

 ここでストリークを行かせてしまうことに、俺は内心不服であった。だがそれ口にしてストリークの目前でデニスと言い合いになってしまっても、相手に良い印象を与えることはないだろう。それは間違いなくマイナスだ。だから今は、デニスの決定に従うことにする。

「あいつ、何か知ってるぞ。行かせてよかったのか」

 ストリークの背中が小さくなるのを待ってから、俺は不平をぶつける。

「ここで無理やり引き留めても意味がない。それでかえって口を堅くされちゃたまんないだろ」

「でも」

「それに、こんなところじゃ話しにくいこともあるかもしれない。連絡先は教えたし、もし話す気があるなら向こうから言ってくるさ」

「だと良いけどな」

 嫌味っぽく言いながら、ストリークの向かった方にもう一度視線を向ける。

 だが、すでに彼の姿は見えなくなっていた。




 結果として、三日後にストリークからデニスにコンタクトがあった。デニスの読みが当たったということだ。内容は、今夜にでも直接会って話をしたいというもの。俺たちとしては拒否する理由はない。

 会合の場所として指定されたのは、ポート区の外れにある工業地区だ。街のインフラを支える工場や施設が密集して、昼間はそれなりに賑やかなのだろうが、営業時間を終えた今はひっそりと静まり返っている。

 時間ぎりぎりに待ち合わせポイントに行くと、先に来ていたストリークが待っていた。落ち着きなく動き回り、辺りを見回している。

「遅かったじゃないですか」

「時間どおりですよ。何をそんなにそわそわしているんですか」

「誰かに聞かれていないかちょっと不安で」

「人に聞かれたらまずい話でも」

「ものによっては」

 言いながらも、ストリークは露骨に周りを気にしている。

「場所を変えますか」

「いえ、ここで大丈夫です」

 ストリークが遠慮気味に断ると、代わりにデニスは俺に周囲を警戒するように指示してきた。

 俺は了解して二人から少し距離をとる。ストリークの話をじっくりと聞きたくはあるが、この場を台無しにされては意味がない。異常がないかと周辺へ気を配りながら、二人の会話に極力耳を傾ける。

「なら手早く済ませましょう。ベックは、アークナイトの耐用期限が一般に知られているよりも短いかもしれないと言っていましたが、それは本当ですか」

「実を言うと、詳しくは私も分からないんです。前に仕事でアークナイトの状態に関する生データを見て違和感を感じたことはあるんですが、専門家でない私にはそれが正しいのかどうかを判断することはできなかったので」

 アークナイトの耐用期限があと二百年というのは、当たり前だがアークナイトに直接書かれていたり、整備員に囁きかけて教えてくれるわけではない。直接調べて得られるアークナイトそのものの状態から算出しなければならないが、それには知識や技術が必要になてくる。

「違和感というのは」

「数字の変化が少し不規則になっていたように感じたんです。それまでは結構規則的な値をとっていたんですが、それがちょっと乱れ始めたんです。でもはっきりとしたものではありませんでしたし、上の人間も特に問題視していなかったので、マルク――ベックに声をかけられるまでは忘れてました」

「彼の方から声をかけてきたんですか」

「そうです。向こうもアークナイトについて少し不審に思うところがあったらしくて。随分と久しぶりだったんで驚きましたけど」

「彼はアークナイトについて詳しいんですか」

「人並み以上には。結構勉強していたみたいです」

 アークナイトはこの街の根幹であるが、プロレベルの能力を持っている技術者や研究者は数えるほどしかいない。そしてそれらの人材はほぼ例外なく、公的な組織でそのスキルを発揮するべく働いているため、フリーな人間というのはかなり珍しい。ベックはそこまではいかないにしても、話を聞く限りではそれなりの知識や技術を持っているのだろう。

「彼とはどんな話をしたんですか」

「私が知っていることを教えただけです。仕事がら、アークナイトのデータに触れることが多いので。あとはあいつから調査の進捗状況を聞いたりしました。」

「あなたがベックに教えたデータというのは、公開情報ではないのですか」

 公開情報であればわざわざストリークに頼る必要はないだろう、という指摘だ。そして非公開の秘密情報であれば、それは違法行為だということになる。

 そんなデニスの追及に、ストリークは言葉を詰まらせるも白状した。

「正直に言いますと、非公開の機密情報も含まれています」

「本来であれば逮捕するところですが、今回は聞かなかったことにしましょう」

 その判断はきっと、今この場で取り上げても手に負いきれないからで、温情からではないだろう。そのことをストリークが理解できているのかは知りようがないが。

「ありがとうございます。それで実は、昨日あいつに会って話を聞いたんです。その時、仮説が正しいという確証がもうじき得られる、と言っていました」

「彼が今何処いるかご存知ですか」

「ブリッジ区とボウ区の境界付近の建物に身を潜めていると言っていました。住所はこれです。あなた方が信頼できるなら教えていいと。詳しい話は、あいつに直接聞いてください」

「そうすることにしましょう。ですがその前にひとつ。彼と〝オリーブの葉〟の関係について何か知っていますか」

「〝オリーブの葉〟、ですか。ニュースではいろいろ言われていますが、本人からそういった話を聞いたことはありません」

 そこで二人の話は切り上げられた。

 デニスが、こっちに歩み寄りながら俺の名前を呼ぶ。その時にはストリークはすでに、俺たちが来たのとは別の方向に向かって歩いていた。その後ろ姿に、どことなく不安を覚える。

「問題はなかったか」

「ああ」

 と答えてはみたものの、自信のほどはない。プロに覗き見されていたら、俺なんぞでは太刀打ちできない。

「一応信用しておくか」

「これからベックに会いに行くのか」

「早いに越したことはない」

 寝てたら叩き起こすだけだ、と言ってデニスは車に向かいだす。

 俺はふと空を見上げる。

 星と夜空。

 普段と変わらない景気がそこにはあった。



***



 俺たちは街の外周を通って、ストリークのメモに書かれている住所に向かった。

 目的の建物は、オフィス街のはずれに立地している。六階建ての高さを持ち、それなりの敷地面積を有している。周辺にある他の建物と比べて、特段変わっている箇所は見受けられない。背は低めであるが、それ以外はこの街の建造物として平均的だ。

 ここに来るまでの間に調べた情報によれば、この建物はイラリ・アホライネンという人物によって管理されていて、各部屋がオフィスや会議室等として貸し出されている。一応個人向けの部屋もあるが、マルク・ベックの名義で馬鹿正直に借りているなんてことはないだろう。そんなことをしていれば、警察がとっくに押さえている。

「居るといいな」

「居なかったらストリークを締め上げるまでだ」

 俺たちは正面玄関に向かう。

 正面の出入り口はガラス扉になっていて、向こう側には無人の玄関ホールが見える。

 デニスが取っ手に手をかけると、鍵はかかっておらず、扉は僅かに軋みながら手前側に開いた。施錠されていたら別の進入口を探すか、もしくは他の手段――例えば扉をぶち破るとか――を講じなければならなかったが、その必要はないらしい。

 先にデニスが建物内に踏み込み、次いで俺も中に入った。扉は、なるべく音を立てないように静かに閉める。目立つ真似は避けたいというのと、この静けさを破壊したくなかったからだ。歩く時も、意図せずとも忍び足になってしまう。

 すぐ目の前には階段があり、左手に伸びている廊下の両脇に部屋が並んでいる。

「歓迎されてるみたいだな」

「なら出迎えて欲しいもんだ」

 デニスは玄関ホールを進みながらベックの名前を叫んだ。俺はやめてくれという気分になるが、口には出さない。太い声が壁に反響し、静寂を貫いて響き渡っていく。だが、しばらく待っても応えは返ってこなかった。

 この建物の何階のどの部屋にベックがいるのかということについては、ストリークからもたらされた情報に含まれていなかった。おそらく彼も知らなかったのだろう。つまり、部屋を一つ一つ虱潰しに見て行かなければならないということだ。親切に案内書きでもあれば助かるのだが、あるのはフロアマップ程度だ。ベックの位置を教えてはくれない。

 それでも、建物内部の全体像を把握するには役立つ。マグライトの明かりでフロアマップを照らすと、各階の部屋の配置と大きさ、そして何に使わているかが記されていた。

「よし、俺は一階から見て行く。お前は四階から行け。見つからなかったら三階で合流しよう」

 デニスはそう言うと、廊下へ向かって歩き出した。

 俺は階段を使って四階までのぼる。エレベーターは設置されているが、使うまでもない。

 階段近くの部屋から順番に確認していくが、どの部屋の扉も硬く閉ざされていた。中にベックがいる可能性は否定できないが、扉を破るには手間もかかるし後でいろいろと面倒なことになるので、それはひとまず後回しにする。そんなことをして結局開いている部屋で見つけたということになったら馬鹿みたいだ。トイレの中も男性用女性用の両方とも調べてみるが、ベックの姿はない。

 四階の捜索を終了して、五階、六階と捜索を進めていく。

 そしてついに、最上階の一番奥に達した。ここも駄目なら一時撤退だ。

 ドアノブに手をかけて静かに回す。

 鍵は開いていた。

 そのままゆっくりと扉を開けると、室内から光が漏れ出てきた。

 こじんまりとした部屋だった。マンションのワンルームくらいの広さで、いろいろな荷物が壁際の棚に押し込まれている。

「ああ、あんたか」

 そして、パソコンが置かれた机の前で、ベックが椅子に座ってこちらに振り向いていた。

「アイスリー巡査部長だったか。ちょうどいいところだ」

 ベックは立ち上がり、歓迎するかのように両手を広げる。

「探したぞ」

「ジャマルから聞いたよ」

 ジャマルと言われてピンと来なかったが、すぐにストリークのことだと理解する。

「俺たちもあいつから聞いた」

「もう一人の方も来てるのか」

「あいつもそのうち来る」

 デニスとは三階に集合という話だったが、俺が現れなければあいつの方から様子を見に来るだろう。連絡すればすぐにでも来るだろうが、それは面倒だった。それに、デニスが来てしまったらゆっくり話を聞いていられるかどうかも分からない。

「俺たちにこの場所を教えたのは何故だ」

「これを見せるためだ」

 ベックは体を横に避けて、パソコンのディスプレイが俺から見えるようにする。

 画面上には、数式や表がいくつも書き連ねられていた。何かの論文だろうが、それが何を意味しているのかはさっぱり分からない。

「何だそれは」

「アークナイトの解析結果だ。俺の仮説が正しかったことを証明している」

 と言われても、それで理解できるようになる分けではない。キーボードを操作して画面を上下にスクロールしてみるが、依然として意味不明なままだ。星座の方がよっぽど意味するところを汲み取れる。もっとも、これがアークナイトに関する論文であるとするなら、俺のようなど素人に理解などできるはずもない。

「ストリークからもらったデータを使ったのか」

「そうだ。あいつのデータが間違いでなければ、アークナイトは性能は限界レベルまで低下している」

「つまり、ボウ区のあれはそれが原因の事故だと」

「おそらく、な」

 断定はしなかった。実際、今の段階では断定できないし、それはつまりベックの無実を証明するには至らないということだ。

「それでこんなのを俺に見せてどうする」

「いや、別に見せること自体は目的じゃない」

 デニスはパソコンの本体からメモリカードを抜き取り、

「これを渡したかった。この論文が保存されている」

「これを俺にどうしろと」

 メモリカードを受け取った俺は、それをかざして表面を眺める。製造元の名称と、保存可能な容量が書かれている。

「しかるべき場所でそれを公開してもらいたい。そうすれば、政府が隠し続けていた真実が白昼の元に晒される」

「それだけか」

「それだけだ」

「なら自分でやればいい」

 例えば、ネット上に流せばそれだけで情報は街中に拡散される。この部屋がネットワークに繋がっているのかは知らないが、繋がっていなかったとしても外に出ればネットにアクセスすることは難しいことではない。ベック自身の身動きが制限されているとしても、ストリークという協力者がいる。俺たちを呼び寄せるのに十分な理由だとは思えない。

「ただ公開しても、政府にデマとして葬り去られたら意味がない。市民にこれが真実だと受け入れてもらうには、誰が何処で公開するかが需要だ」

「俺らがやったところで変わるわけじゃない」

「いや、あんたらは警察だ。しかも例の事件を捜査している。そのあんたらが出せば、信憑性が高い情報として見てもらえる」

「どうかな。警察は嫌われてる」

 半分冗談半分本気で言う。

 そういう人間ばかりではないというのは承知しているが、やはり友好的な相手より敵対的な相手の方が強く印象に残る。だから俺の感覚的な総評は、警察は嫌われている、だ。

「俺は世間じゃテロリストだ。それと比べれば神様みたいなもんだろ」

「神なら俺の部屋の本棚にいるよ」

「例えが悪かったな。けどまあ、そういうことだ」

「まあいい」

 茶化してはみたが、ベックの言うことはもっともだ。なんだかんだ言われても、警察というのはそれなりに社会的地位がある。最適解であるかどうかは分からないが、適役ではあるだろう。それに、俺がここで否定的な言葉を並べ続けても意味がない。そんなことをしにきたわけではないし、最終的に決めるのは今回もデニスだ。

「ここにいたか」

 不意に、背後から声がした。振り向くと、部屋の入り口にデニスが立っていた。

「見つけたならどうして連絡しなかった」

「悪い」

 思ってもいないことだがとりあえず口にする。

 デニスはベックに顔を向け、

「久しぶりだな」

「ヴィルケ警部、待っていたよ」

「そいつは嬉しいね。そいつは何だ」

 デニスが指差したのは、俺が親指と人差し指で挟んでいたメモリカードだった。

「アークナイトの解析結果の論文、だそうだ」

「確認したのか」

「これの中身は見てない」

「中身はこれだ」

 ベックが、パソコンを見るようにデニスを促した。

 言われたままに、デニスは両手をデスクについてディスプレイを覗き込む。

「これは何を表してるんだ」

「アークナイトの限界が近いということだ」

 ベックが説明すると、デニスは論文を頭から読み始めた。

「分かるのか」

「ほんとの大枠くらいはな」

 俺の問いに応じる間も、デニスは画面から目を離さない。二人に背中を見つめられる中、淡々と論文を読み流していく。最後のページに到達すると、俺からメモリカードを受け取り、それに収められているデータも確認した。

 確認作業が全て終わると、デニスはメモリカードを手に取り、ベックに向き合った。

「これは証拠品として預かろう。お前は逮捕、連行する」

「やはりそうなるか」

「抵抗するなら力ずくでも連れて行く」

 言いながら、デニスは俺に目配せしてきた。荒事になった場合に備えておけ、という意味だろう。俺はそうはならないだろうと思いながらも、とりあえず小さく頷き返し、心の中で構えるポーズだけとった。

「仕方がないな」

 案の定、ベックは両手を広げて肩の高さまで上げる。

「抵抗する気はない。しても無駄だろう。その代わり、しっかりとそいつを公表してくれ」

「約束しよう。お前もそれでいいな」

「ああ」

 デニスが視線と共に問いかけてきたが、俺としては口を挟むつもりはない。

 デニスは手錠を取り出し、ベックの両手を背中側に回す。ベックは先程の言葉を実践し、大人しく拘束されるがままになっていた。

 部屋の中は、これ以上は弄らないようにする。明日辺りにでも、俺らの報告を受けて捜査員が検分にやって来るだろう。そのためにも、状態はできるだけ保存しておいた方がいい。

「さ、行くぞ」

 デニスはベックをせっついて出口に向かわせた。




 建物を出ると、外は来た時よりも暗さを増していた。雲が出てきたのだろう、星が見えなくなっている。星は月明りに比べれば心もとないが、それでも夜の街並みに光をもたらしてくれる存在だ。あるのとないのとでは違う。

 駐車場の隅に停めてある車に戻り、ベックを後部座席のドアの前に立たせる。

 デニスはドアノブに手をかけると、ふと動きを止めて振り返った。

 何かあるのかと、俺も首を動かす。

「伏せろ」

 デニスは叫ぶと、ベックを押し倒すようにして倒れ込んだ。俺も考えるより先に、デニスの声に反応してその場で突っ伏す。

 直後、静かな夜を銃声が引き裂いた。銃弾は俺たちの頭上を飛び越え、車のボディに穴を空ける。

「走れ」

 声を出すと同時に、デニスは伏せたまま銃を抜いて応戦した。銃弾が飛んできた方に向けて発砲し、相手を牽制する。

 俺はその隙に立ち上がると、腕を掴んでベックを引っ張り起こし、出て来たばかりの建物と塀の間に逃げ込んだ。走っている間に離れた場所から銃声が聞こえたが、運が良かったのかデニスの援護のおかげか、何とか被弾せずに済んだ。俺たちに遅れてデニスも、銃を撃ちながら駆け込んでくる。

「くそ、何なんだ急に」

 壁にもたれて毒づく。デニスが気付かなければ今頃三人とも死んでいた、かどうかは相手の狙いが不明なので定かではないが、最悪な状況になっていたのは間違いない。

「よく気付いたな。助かったよ」

「たまたまだ。次はない」

「相手は何人だ」

「暗くてよく見えなかったが、撃ってきた感覚からすると一人だ。狙いはベックか、それとも俺たちか」

 銃の弾倉を入れ替えながらデニスが言う。するとベックがそれに応じた。

「きっと俺だ。アークナイトのことを葬りに来たんだ」

「政府の殺し屋ってことか。だとしてもどうやってこの場所を」

「ここを知ってるのは俺たち以外にはストリークか、叔父とその周辺の何人かだ」

「叔父だと。やっぱり〝オリーブの葉〟がお前を匿ってたのか」

「否定はしない。だが言っとくが、俺はあいつらの仲間じゃない」

「まあいい。詳しい話はあとで聞いてやる」

「それで、どうする」

 俺は拳銃を手にしてデニスに指示を仰ぐ。

 後でベックを根掘り葉掘り追及するには、この危機的状況を脱するための手を打たなければならない。

「いったん追っ手をまこう。後ろを頼む」

「オーケー」

 先程から銃撃は止んでいるが、それは敵が居なくなってくれたことを約束してくれるわけではない。狙われているかもしれない以上、この建物の陰から飛び出すのは賢くない選択だ。となれば奥に進むしかない。奥は敷地を区切る塀で行き止まりになっているが、高さは二メートルほどだ。越えられない高さではない。

 デニスとベックが先に進む間、俺が建物の向こう側を警戒する。

 相変わらず、相手からのアクションはない。さっきの襲撃が嘘だったかのようだ。しかし、それが却って嫌な緊張感を駆り立ててくる。

 こうしている間にも、襲撃者は俺たちを始末する算段をつけているのかもしれない。

 全く最悪だ。すぐにでも逃げ出したい。それができないというのがさらに最悪だ。

「ノア」

 聞こえる程度の小声でデニスが呼んできた。

 俺は周囲に異常がないことをもう一度確認してからその場を離れる。デニスが塀の上から手を伸ばしてきた。俺はデニスの助けを借りてよじ上り、隣の敷地に下り立つ。

 反対側はちょうど建物の裏手になっていた。もともと人が溜まるような場所ではないので非常に狭い。一列に並ぶのがやっとだ。

 すぐ横のベックを見ると、いつの間にか両手が自由になっていた。逃げるに際して邪魔なので、手錠を外してもらったのだろう。体の前で両手を組んでいる。

 デニスが塀から下りてくると、俺たちは移動を再開した。デニスを先頭として建物の端まで進み、そこから建物の横沿いを通って表に出る。

 そして道路にまで出たところで、視界に人影が映った。

 俺はとっさに銃を向ける。

 だが、それは遅すぎた。

 俺が引き金を引くより早く、二つの銃声が響いた。

 襲撃者と、デニス。

 二人は同時に発砲し、そして倒れた。

 デニスの体が、ドサッと力のない音を立てる。俺の位置からでは、怪我の具合も何処を撃たれたのかも暗くて分からない。だがすぐに起き上がってくる気配はなかった。

 すぐにでもデニスに駆け寄りたい衝動に駆られたが、今はそれを抑え込む。

 俺は銃を構え直し、倒れた襲撃者に近づいた。襲撃者の手から落ちた拳銃を蹴り飛ばし、その姿を見下ろす。

 俺たちを襲ってきたのは、スーツを着た男だった。デニスの放った弾丸に胸を撃ち抜かれ、すで絶命していた。首筋に手を当ててみるも、脈は一切感じられない。

 目の前の脅威は去った。相手が一人とは限らないが、それを言ってしまうとキリがない。ひとまず当面の安全を確保できたと判断して、俺はデニスのもとに急いだ。

 俺は滑り込むような勢いで、デニスの横にしゃがみ込む。

 あいつとと同じく、デニスも胸を撃たれていた。ベックが止血しようと傷口を両手で押さえている。声をかけても返事はなかったが、まだ意識は残っていているようで、喘ぎながらも顔をわずかに動かして俺に向けてきた。

「救急車だ」

 ベックに言われて、俺は携帯端末を取り出す。

 その腕を、デニスの左手が掴んだ。そして普段からは想像できないような弱々しい声で言う。

「止めろ、それは目立つ。それよりも、お前らはすぐにここを離れろ」

 それはある面では正しいかった。襲撃者が他にもいるとすれば、さっきの銃声を聞きつけて来るのは時間の問題だ。しかしだからといって、すんなりと受け入れられることではない。

 デニスは手を下ろすと、右手をジャケットの内側に差し込んだ。俺はそのジャケットをめくり、内ポケットに手を突っ込む。すると、指先に何かが触れた。取り出すと、それはベックから預かったメモリカードだった。そういえば、部屋を出るときにそこに仕舞っていたのだと思い出す。

「それを……早く……持ってけ。それが最優先」

「少し黙ってろ。あんたは早く救急車を」

「ああ」

 俺は頷いだ。

 だが、行動に移す必要はなかった。

 なぜなら、デニスは死んだからだ。目を開けたまま動かなくなり、苦しそうだった呼吸音もどこかへ消えてしまった。

 ベックはデニスを生き返らそうと無駄な努力を続ける。しかしやがて諦めると、悼むようにその目を閉じてやった。たったそれだけのことで、ただの骸から尊厳ある死者になったように思えてくる。けれども、デニスが死んだという事実は変わらない。

 最悪だ。今日は何度も繰り返しているが、最適な言葉が他にない。今回ばかりは本当に最悪だ。

 俺は立ち上がると、メモリカードに目を向けた。目立つような傷は見当たらない。デニスの血に塗れているが、中のデータは無事であろう。

「早く行こう。彼の言った通り、いつまでもここにいるのは得策じゃない」

 俺はベックを無視して、襲撃者の死体を見やった。そしてデニスに視線を戻す。

 ここから先は、誰も指示を与えてくれない。どうするかは自分で決めなければならない。

 順当に考えるのであれば、ベックを警察署まで連れて行き、証拠となるメモリカードを公開するべきだ。デニスはそうしろと言っていたし、警察官としてもそれが正しいだろう。

 だがそうすれば、確実に面倒なことになる。俺の手の中にあるこれは、ある意味で爆弾だ。しかも、途方もない威力を秘めている。

 俺は周囲の様子を伺う。銃声が鳴ってからそれなりに時間が経過したが、新手の敵が現れる気配はない。

「おい巡査部」

 俺はデニスの銃を拾い上げると、それをベックに突きつけた。

「何を」

「悪い」

 人差し指に力を入れて引き金を押し込む。

 生まれて初めて、人に向けて銃を撃った。

 手応えは、的を撃つ時と同じだった。



***



 ボウ区崩落事件は、容疑者死亡で幕を閉じた。

 デニス・ヴィルケ警部補は容疑者マルク・ベックの確保に向かったが、そこで銃撃戦に発展。容疑者とその仲間を射殺するも、自身も凶弾に命を落とした。というのが、警察が公式に発表したプロットだ。それが間違いであることを俺は知っているが、訂正してやろうという気にはならない。

 襲撃者の正体は、分からずじまいだ。政府の手先だったのだろうとは思うが、所詮は想像の域は出ない。

 ストリークは、最後に会った翌日から行方不明になっている。おそらく、真相を知っていたがゆえに消されたのだろう。この街では死体を隠す手段には事欠かない。街から投げ捨てれば、それだけで発見はほぼ不可能になる。

 隠蔽を目論む連中からすれば、俺も消し去りたい存在なのだろう。しかし、暗殺者の足音はまだ聞こえてこない。俺が知っているということを知らないのか、それとも害がないと見なされているのか。はたまたこれらの予想が的外れなのか。ただいずれにせよ重要なのは、俺に日常が戻ってきたということだ。

 だから俺は、今日も星空を見上げる。

 いつもと違うのは、かつてボウ区のあった場所に来ているということだ。

 立ち入り禁止の黄色いテープが張られているが、無視してそれを跨ぎ、街の端に立つ。思い返せば、事件の後にデニスと訪れたところだ。懐かしいような気もするが、それ以上の感情は湧いてこない。デニスの死というのは、俺にとっては思った以上に軽い事柄だったようだ。

 下には厚い雲。上には無限の星。

 背中を押す風が強くなってきたので、俺は一歩下がった。風にあおられて落ちて死ぬ気はさらさらない。事件で家族や大切な人を失た人間が、後追い自殺のように飛び降りた事例もあるようだが、俺にはそんなことをする理由はなかった。

 ポケットから、赤黒く汚れたメモリカードを取り出す。デニスから公表するように託された代物だ。けれども俺はそうしていない。

 ベックを撃った後、俺はあいつが隠れ家としていた部屋に戻り、端末のデータをすべて消去した。だからこれが、残された唯一のものだ。

 一度だけ、家でこの論文をじっくりと読み返したことがある。けれども、やはり内容はさっぱりだった。だから俺は、ベックの主張をほぼ信じてはいるものの、その証拠となるものをまだ目にしていない。ベックが嘘を言っている、もしくは間違っているという可能性は、完全に排除しきれていないのだ。それが非常に心残りではあるが、この期に及んでは無いものねだりにしかならない。

 俺は振りかぶって、メモリカードを放り投げる。

 ベックの論文を収めたそれは、闇の中に沈んでいった。


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