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Falcon.  作者: 宝積 佐知
1.序章
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7.ハヤブサ


 右も左も解らない入り組んだ道を走り続け、空気の悪さからかヒナは息を切らし始める。近江は脇目も振らずに前だけを見て走り続けていた筈だったが、だんだんとヒナの走るペースが遅くなっている事に気付いて足を止めた。途端にヒナは辛うじてまだ崩壊していない廊下に座り込んでしまう。

 近江は壁に寄り掛かると煙草に火を灯す。紫煙が傍まで近付き、ヒナは掌を振るが微かな違和感を覚えた。その奇妙な感覚が一体何なのかはすぐに気付いた。臭いが無いのだ。

 だが、ヒナがその疑問を投げ掛ける事は無かった。酸素が不足して視界が白く霞む。肩で息を整えながら近江を睨んだ。



「どうして、目黒を殺さないの……」



 近江は呆れたように煙を吐き出す。



「恐いもん」



 自嘲の笑みを浮かべ、埃を被ったせいで老人のように白くなった髪を掻き揚げる。

 ヒナが何か言いたそうにまだ睨み付けるので、近江は鼻を鳴らして唐突に言った。



「近江邦孝」



 ヒナが眉を寄せると、近江は無表情に続ける。



「俺の親父だよ。十二年前のウイルステロで目黒に殺された」

「目黒が憎くないの?」



 近江は目を伏せた。



「憎いさ。でも、最悪の結末は想定してたし、こんな仕事してる俺達がまともな死に方出来るなんて思っちゃいない。世の中には堪えなきゃならねェ不条理があるんだよ」

「何で堪えるの? 殺せば良かったじゃない!」

「言っただろ、復讐は虚しいよ」



 ふうっと輪になった白い煙が浮ぶ。顔を上げた近江に表情は無く、金色の眼が砂埃の舞う天井を見上げていた。

 今度、近江はヒナに目を向ける。黒々としたその双眸には歪んだ光が満ちているようだった。



「……憎むなとは、言わねェよ。でも」



 短くなった煙草を足元に落として踏み躙る。



「過去に囚われりゃ動けなくなって今を見失う。憎しみなんぞにくれてやる程今は安くもなければ軽くもないぜ」



踏み潰した吸い殻を見落としていた近江が、つい、と顔を上げた。



「どんなに願おうが縋ろうが、元より過去は及ばず未来は知れず。俺達に出来るのは目の前にある今この一瞬だけだ。余所見してりゃ、その今すら届かなくなるぞ」



 ヒナは目を伏せ、自分の小さな手の指先を見詰めている。近江は言った。



「後ろに伸びた影ばかり見てないで、前にある光に目を向けろ。いつまでそうしてる気だ」



 そう言い捨てると、ヒナは引き攣り歪んだ笑顔のまま言う。



「テツは、臆病なだけでしょ。殺し屋が綺麗事並べないで」

「……ああ、そうだ。俺は恐いのさ。臆病で薄汚い殺人者だよ。でもな、戦う事だけが強さじゃねェ」



 近江は否定もせずに乱れた服を整える。黒いスーツもすっかり草臥れて灰色になっているが、その懐からシルバーボディの光沢のある携帯を取り出すと雛に投げて寄越した。



「俺がお前の傍を離れちまうような事があるかも知れない。その時は、その携帯で『神藤京治』って男に電話しろ。ここに向かっているらしいからすぐに来てくれる筈だ」

「どういう事?」

「何が起こるか解らないって事だ。そろそろ行くぞ」



 ヒナはその言葉の意味を更に追求しようと慌てて先を歩き出した近江の背中を追い掛ける。

 今も彼方此方で聞こえる爆発と崩壊の音は狭い回廊に反響していた。所々蛍光灯の壊れた薄暗い廊下は何処まで続いているのかわからず、ヒナは言いようの無い不安を感じながらも無言で振り返らない近江の背中を追った。

 無言でどれ程歩いたのか。角を曲がり、階段を上がり、ホールを抜ける。無人の建物があのGODLESSのアジトなのかと言われても信じられない。見る限りは何処かの工場のようだった。

 歩いていると次第に足は重くなり、遠くに聞こえていた筈の崩壊の音が近付いている。近江の歩調は早くなったが、ヒナはそのペースについて行けず膝に手を突く。息を切らしていると近江は漸く振り返り、小さな子供にするように手を差し出した。ヒナは少しだけ笑い、その手を取る。やはり、デジャビュを感じさせる掌だった。

 いや、覚えていない筈が無い。十二年前に会った男が死んだ近江邦孝ならば、それを受け継ぎヒナを自衛官のところまで連れて行ってくれたのは、ハヤブサと名乗ったあの中学生は息子の近江哲哉の筈。

 ヒナが立ち止まると、怪訝そうに眉を寄せた近江の顔が振り返る。

 まだ、感謝も謝罪も告げていない。それどころか勝手な罵声を浴びせてばかりだ。

 言葉にしようとした時、近江は目を鋭くさせてヒナの口を塞いだ。そのまま静かに周囲を探ると声を潜めて言う。



「このままじゃ追い付かれるな」



 近江にはどうやら敵の足音が聞こえているようだった。暫く耳を澄まして様子を探っていたかと思えば手を引いて走り出す。暫く無言で走り、二つの分れ道に辿り着いた。

 そこで近江は手を離して右の道を指差す。



「お前はこっちの道を行け。真っ直ぐ進めばホールがあるけど、エレベーターは壊れてるだろうし危ないから非常階段で地上を目指すんだ。ここは地下二階だし、すぐに着くよ」



 目を白黒させるヒナもお構い無しに近江は続けた。



「一階に着いたら神藤に電話しろ。下手に動くなよ」

「テツは?」

「俺は……」



 近江は困ったように笑った。そのまま質問には答えずにヒナの背中を軽く押す。掌はゆっくりと離れ、振り返ろうとしたヒナの耳に近江の声が届いた。



「行け」



 振り返る事は出来なかった。

 地響きのような酷い音が其処此処から響いている。ヒナは携帯を握り締め、足元にごろごろ転がっている瓦礫を飛び越えながら懸命に走った。

 廊下を走り続けると、近江の言う通りホールに差し掛かった。蛍光灯は全て消え、観葉植物自動販売機は横倒しになってプラスチックが割れている。彼方此方に動いてしまっている椅子を避け、エレベーターの前を素通りして薄暗い非常階段の前に立つ。その時、背後から銃声が響いた。

 振り返るが、当然近江の姿は無い。続けて二発、遠くに響いた。

 嫌な予感が心を掻き乱す。嫌な汗を拭い、何度も大丈夫だと言い聞かせてヒナは階段に足を踏み入れた。

 階段は崩壊していないようだった。蛍光灯が落ちて割れているものの壁にも地面にも罅一つ無い。ただ、階段を上っている間も遠く銃声は響いている。ヒナは疲れた体に鞭打って階段を駆け上った。

 変わらない景色だが階数表示はB2からB1、そして、一階に変わった。ヒナはすぐに携帯を開く。シルバーボディはよく見れば傷だらけだった。開いて見ると初期設定のままの待ち受け画像が表示される。携帯電話を操作し、リダイヤルを見ると非通知の羅列の中で白木彩子と先程聞いた『神藤京治』の名前はあった。ヒナは迷わず通話ボタンを押す。

 数回の呼び出し音、繋がらない。

 だが、ヒナは取り憑かれたように電話を掛け続けた。頭の中で近江の声が反響する。



――行け



 電話が繋がったのは、それからおよそ十回目のコールの後だった。

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