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Falcon.  作者: 宝積 佐知
1.序章
6/20

6.既視感

 母親の胎内を満たす温かな羊水を漂っているような心地だった。

 くるりと周囲を見回しても目に映るのは一寸先も見通せぬ漆黒ばかりで、自分が今どの方向を向いているのかも解らない。だが、胸の中を満たす穏やかな心地良さは全ての思考を切り離し、永遠にこの場所にいたいとさえ思わせた。

 世界は今も目まぐるしく変わっている。犯罪の増加や低年齢化、治安は悪化し日々生命を脅かす。平和なんて言葉だけで、人々の生きる表の世界はじわじわと闇を司る裏の世界に侵食されているのだ。それでも、誰もが気付かぬ振りで今日も変わらず道化芝居を続けるのだろう。

 目を開ければ再び冷たくて残酷なあの世界に戻らなければならない。

 嫌だ。もう堪えられない。見る事も生きる事も恐い。このまま何にも関わらず、何も傷付けず、何も知らないで呼吸だけを続けられれば十分。

 たぷん。

 闇に染まった微温湯が揺れ、微かな水流を感じて身を強張らせる。目の前にある覚醒は世界の崩壊にも近い恐怖を感じさせた。世界が揺れ、恐怖が皮膚を通して侵入して来る。堪え難い恐怖に手を伸ばすけれど、掴むのは温い液体ばかりで体はどんどん闇の中に沈んで行くようだった。

 誰か、助けて。

 伸ばした手は何も掴まない。

 絶望を抱えながら諦め、もがいていた手を止める。体は鉛のように重くなり、耳元で気泡の浮ぶ音を聞きながら下って行った。このまま消えるのだろうか。そう思った時、何者かが腕を掴んだ。途端に闇が弾けて視界は白く濁り始める。腕を掴む手は沈んで行く体を強い引力で上へと運び出した。

 悪夢や絶望、深い恐怖の中でいつも手を差し伸べてくれるのはこの手だった。十二年前に見たガスマスクの男、名前をハヤブサと名乗った。

 ハヤブサの手は決して大きくもなければ太くもない。だが、がっしりと掴んで捨てる素振りさえ見せないのだ。そっと手を伸ばし、上へ引き上げてくれるハヤブサの手を握る。ハヤブサは闇に沈んだガスマスクの二つの窓の奥で少しだけ微笑んでいるような気がした。


 頭から落下するような錯覚と共にヒナの意識は急浮上した。重い瞼を開けた瞬間に見えたのは覚えの無い煤けた天井、白い蛍光灯の光が網膜を焼く。反射的に目を細めると、何処かからヒステリックな男の金切り声が聞こえた。



「そんな筈は無い!」



 首を回すと、壁一面に積め込まれた大掛かりなコンピュータを背景に研究員らしい白衣の背中が見える。隣りの黒いスーツの大柄な男と何か言い争っているようだった。



「Hadesは最強のウイルスだ! ワクチン等存在しないし、生身の人間が無傷で生存する事は不可能だ!」

「黙れ! なら、何故あのガキは感染しなかったんだ!」

「それが変なんだ……。検査したが何の異常も無い……」

「馬鹿な……」



 沈黙が流れる。項垂れるスーツの男の声に覚えがある。

 嫌な予感がして体を起こそうとしたが、寝かされていた台が軋むばかりで腕一本動かす事は出来ない。四肢を拘束しているのは頑丈な黒い革のベルトのようだった。その音に気付いて男が振り返る。頬の大きな傷痕が目に映った。



「丁度良いじゃねェか」



 目黒の口角が吊り上がり、一歩踏み出した途端に恐怖がじわじわと循環する血液のように体中を巡り始めた。踵が硬質な音を響かせ、距離が一歩ずつ縮まる。ヒナは拳を強く握った。目黒が真横に立つと大きな黒い影が落ちる。



「十二年前、何故お前だけが感染しなかった?」

「そんなの、知らないわよ!」



 目黒の目が鋭くなる。



「空気感染するHadesから少なくとも当時のお前が逃れられた筈は無い。抗体を持っている筈も無いんだ……」



 独白のように呟くと、目黒は徐にスーツの袖を下のシャツごと捲り上げた。始めは眩し過ぎる蛍光灯の光でよく見えなかったが、次第に目が慣れ、そこにあるものにヒナは息を呑んだ。

 赤黒く爛れた肌が荒地のように罅割れている。十二年前から幾度と無く見て来たHadesの感染症状だった。

 目黒は袖を下ろし、自嘲するように口角を吊り上げて言う。



「十二年前のウイルステロでHadesはばら撒かれた。だが、予定外の事が二つ起こった」

「予想外?」

「一つはHadesの突然変異だ。空気中の排気ガスだか何だかに反応して形を変え、事前に用意していたワクチンを無用の品にしやがった」

「……もう一つは」

「てめェも名前くらい聞いた事があるだろう。最速のヒットマン、ハヤブサの出現だ」



 ヒナは目を丸くした。



「何を思ったかウイルステロを阻止しようとハヤブサはあの町に現れた。馬鹿な事に単身で乗り込んで来やがったからな、俺と鉢合わせた時は感染し、血塗れの上に銃すら持っていなかった。俺はやつを仕留めたが……」

「あんたが、ハヤブサを……!」



 握り締めた拳がギリギリと音を立てる。近江の言葉は本当だったのだ。ヒナは目の前の男を睨んだが、目黒は意に介さず続ける。



「ハヤブサは最後の最後に俺のマスクを切り付けた。マスクが壊れた俺はHadesに感染した……」



 ヒナは呆然と話を聞いていた。記憶の中のハヤブサは確かに血塗れだったが、ガスマスクはしていた筈なのだ。



「それから幾つもの治療法を試したが、Hadesはその度に変異し治療は出来なかった。研究を重ね実験を続けた結果、Hadesは感染能力も失って俺の体内で蝕みながら棲むようになった」



 目黒は忌々しそうに頬の傷を撫でる。



「あの金目……。蜂の巣にしてやるだけじゃ足りなかったな」

「金目?」



 妙な単語に顔を上げると、目黒は眉を寄せた。



「知らねェのか? ハヤブサを示す二つの印を」

「何、それ」

「金色の眼、群青の鷹――」



 その時だった。

 何処か遠くで地を揺するような音が轟然と鳴り響いた。傍らにいた研究員が声を上げて尻餅を着く姿を尻目に、目黒は懐から銃を取り出して周囲を見回す。蛍光灯の光が瞬き、室内には薄い闇が下りて来た。

 天井から埃とコンクリートの欠片が降る。低く響く音が爆音だったのだと気付いたのは、新たな研究員らしき男が扉を破る勢いで部屋に転がり込んで来てからだった。



「何者かからの襲撃です! 場所は――」



 切り口上で告げる研究員の顔は見えない。肩で息をする様子は切羽詰ったようだったが、目黒は冷静に銃を取り出したまま低い声で「待て」と言った。

 研究員は動きを止め、目黒はその後頭部に銃を押し当てる。尻餅を着いていた研究員は息を呑み、目黒は目を細めて確信めいた言葉を向けた。



「見ない顔――いや、最近見た顔だな」

「……何の事でしょうか」

「惚けても無駄だ」



 銃を向けられ、観念したように背中を向けたまま両手を上げる。光沢のある黒い髪は分け目がくっきりするように七三に分けられていた。研究員はゆっくりと振り返る。白衣が翻る。黒縁の眼鏡、右目に大きな白い医療用の眼帯。左の切れ長なくっきりとした二重瞼の向こうで黒々とした瞳が目黒を捉えている。近江は、少しだけ笑った。

 ヒナは名を呼ぼうとした。だが、流れる緊迫した空気に息が詰まる。目黒は無表情のまま近江の眉間に銃口を突き付け、ゆっくりと撃鉄を起こした。近江は欠片も怯えるような素振りを見せない。

 目黒は忌々しそうに口角を吊り上げた。



「わざわざチキン・テツが来るとは思わなかったな」

「俺だって来たくて来たんじゃねーや」



 鼻を鳴らし、近江はヒナに目を向ける。



「面倒事は御免だったのに、本当に厄介な女だよ」

「殺し屋が人助けか?」

「いいや、残念な事にそいつは俺の依頼人なんだ」



 近江は眼鏡を掛け直すように黒縁のフレームに手を伸ばし、右手で何気無く金具部分に触れた。

 カチ。

 ヒナの耳に微かなスイッチを押すような音が届く。次の瞬間、下から突き破るような衝撃が起こった。轟音はついさっき聞いたばかりの爆発音。天井が音を立てて崩壊し、尻餅を着いていた研究員が悲鳴と共に瓦礫の中に呑み込まれて行った。近江は向けられていた目黒の銃を蹴り上げる。乾いた銃声と共に銃弾は天井を突き破った。そのまま一目散にヒナの傍に駆け寄り、酷い埃の舞う中で動きを封じる革のベルトをそれぞれ一秒と掛からずに外す。そして、僅かに痕の残った手首を掴んで走り出す。近江は叫ぶように言った。



「逃げるぞ!」



 ヒナにはその意味が理解出来ない。

 近江は殺し屋の筈だ。ヒナを依頼人と呼ぶならば、今が目黒を殺す絶好のチャンスだろう。

 手を引いても動かないヒナに苛立った近江は振り返り、何か言おうとした。だが、砂埃の舞う視界の端で黒い銃口の姿を捉える。体は既に動き出していた。

 目黒の銃が火を吹いた。短い銃声は轟音に掻き消されたが、放たれた銃弾はヒナを庇うように踊り出た近江に命中したようだった。ヒナは倒れ込んで来る近江の背中をスローモーションのように呆然と見ている。近江は亀裂の入ったタイルの上に倒れ込んだが、既に銃を取り出してすぐさま立ち上がった。床には罅割れた眼鏡と血が落ちている。そして、零れ落ちる血液と共に白い眼帯が木の葉のように落下した。ヒナは俄に赤を写した眼帯を見た後、顔を上げて近江の背中越しに銃を構える目黒に目を向ける。目黒は目を大きく開き、驚愕を映していた。

 正面にある何かを見て言葉を失っているが、まるで信じられないとでも言うようだった。そこにいるのは当然、他ならぬ近江哲哉だ。



「お前、まさか」



 ヒナに近江の横顔が見えた。

 黒い短髪、くっきりした輪郭、切れ長な目。頬にある一本線の傷からは今も血が滴り落ちている。始めはそれが何か解らなかった。

 眼帯の消えた右半分は当然、左と対称になっている筈だ。それなのに、左の黒曜石を嵌め込んだような瞳に対して右には青空に輝く日輪のような金色の瞳があった。更に、その太陽を狙うかのように目の端には群青の鷹が翼を広げている。ヒナの脳裏には目黒の言っていたハヤブサの二つの印が思い出された。金色の眼、群青の鷹。最速のヒットマン、ハヤブサ。

 目黒は幽霊でも見るようだった。



「ハヤブサなのか……!?」



 近江は何も言わない。



「馬鹿な、十二年前に俺が殺した筈だ……」

「確かに、十二年前にハヤブサは死んだ。だけど、別にハヤブサってのは一人の人間を指す名前じゃねーよ」



 獰猛な肉食獣のような金色の眼が正面の目黒を真っ直ぐ捉えている。近江は群青の鷹を指差した。



「これはハヤブサの名を受け継ぐ者の証。逆に言えば、こいつが無ければハヤブサじゃない」

「じゃあ、眼帯をしてる時はハヤブサじゃないって事?」

「そう」



 近江は笑った。

 そんなのは屁理屈だ。ヒナが言おうとした時、先に目黒が口を開いた。



「何故、今まで隠れていた」

「名乗り出る理由が無い。それによく言うだろ? 脳ある鷹は爪を隠すってさ」



 じりじりと距離を離して行く近江に目黒は気付いていない。だが、ヒナにはやはり近江の行動が理解出来なかった。

 『ハヤブサ』がどうして逃げるのだ。最速と言われる殺し屋ならば、死神の異名を持つ目黒と戦っても負けるとは思えない。死神は口角を吊り上げる。



「だが、爪も晒しちまったな」

「……ハヤブサが何故『最速』と呼ばれたのか、知ってるか?」



 近江は銃を向け、無表情だった。

 轟音の中で流れる緊迫した空気。二人の間に大きな瓦礫が落下した瞬間、近江はヒナの手を引いて一目散に走り出した。部屋を飛び出した後も中からは暴発のように何度も銃声が聞こえる。彼方此方に響く不協和音を遠くに聞きながら近江に手を引かれて走った。

 ヒナは、その手を知っているような気がした。


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