4.夢
ヒナは白い靄の中を歩いていた。
何処まで行っても人の気配は無く、視界は依然として悪いまま音の死んだ世界は十二年前のウイルステロを彷彿とさせた。K市を思い出すと本当に血液の鉄臭さが辺りに充満し、彼方此方から崩壊の狂想曲が聞こえて来るような気がする。
だが、白い靄は晴れない。前に伸ばした腕の先は既に白に呑み込まれようとしていた。ヒナはもう片方の腕も同じように伸ばそうとして、その右手が何かを握っている事に気付いた。血の気が失せて生白いが、かっちりとした男の掌があった。男はヒナの小さな手をぐいぐい引いて前に進んで行く。ヒナは強い引力と共に息苦しさを感じ、口に手を当てようとして何か固い物に触れた。仮面のようなガスマスクが装着されている。
これは、あの日の再現なのだ。ヒナが気付いた時、男は足を止めた。正面にガスマスクを装着した学ランの少年が靄の中で浮き上がるように立っている。少年は傍に駆け寄ってヒナと目を合わせるように片膝を着いて言った。
「とんでもない事に、巻き込まれちまったな」
憐れみを含んだ口調だった。
それまで手を引いていた男の湿った掌がゆっくりと解かれる。解放された右手は外気に触れて冷たくなった。ヒナは自分の手が赤く染まっている事に気付いた。滲んでいるのは汗ではなく、夥しい量の血液だったのだ。
少年は血塗れのヒナの右手を握る。大人に成り掛けている掌はまだ幼さを残し、指一本一本が少女のように細かった。ヒナは少し離れて見ている男に目を移す。男は少年に目を向け、くぐもった声で言った。
「そんな顔をするな。ハヤブサは最速のヒットマンなんだぜ?」
「解ってる」
男は震える声で言う少年の頭を撫でた。
「じゃあな、頑張れよ」
男は背中を向けた。黒い背広は汚れ、コンクリートには足跡代わりに血液がぽつぽつと残っている。少年は小さくなる背中を見詰めながら、消え入りそうな声で呟いた。
「……親父……」
声は届かず、男は振り返らない。黒い背中が靄の中に溶けるまで見届けると少年はヒナの手を引いて歩き出した。
少年の手は震えていたが、その時のヒナは自分の事さえ解らなかった。だから、マスクの下に響く声で訊く。
「お母さん、どうしたのかなぁ」
ヒナの脳裏には母親の最後が思い出されている。幼稚園の帰り道、霧の出始めた市中で小走りに手を引く母親は突然喉を押さえ、口から赤黒い血液を吐き出した。ヒナがうつ伏せに倒れた母親の死体の傍で泣いていると、突然後ろから顔に大きなマスクを当てられたのだ。それから、あの男は泣きじゃくるヒナの手を引きながら力強く励まし続けた。そして、駅前の大通りに差し掛かった瞬間頭上から何か弾ける音が響いた。男は咄嗟にヒナを腕の中に入れ、眉を寄せた。ヒナを庇った右腕からは血が滴り落ちている。男はヒナを抱え上げると走り出したが、あの音は何処までも追って来た。入り組んだ路地裏を駆け回って追跡者を撒くとヒナを下ろし、再び手を引いて歩き出したのだ。
少年は足を止めてしゃがみ込み、真っ直ぐにヒナを見詰めた。ガスマスクの丸い二つの窓の奥は暗く見えない。少年は言った。
「君は生き残ったんだ。お母さんの分まで、生きるんだよ」
「お兄ちゃん、だぁれ?」
「俺は――……」
少年は項垂れて暫しの間黙った。遠く聞こえる崩壊とあの弾ける音。ヒナの体は無意識に強張り、足からは力が抜けて座り込んでしまった。少年はそんなヒナを抱えて言う。
「俺は、ハヤブサ」
少年は走り出した。だんだんと薄れて行く意識と景色の中で少年の声はやはり震えているようだった。
「君は俺が守る。何処に居ても必ず、守るから」
その時、弾ける音が断末魔のように遠く尾を引いて聞こえた。頭上から微かに漏れる嗚咽を聞きながら、ヒナはゆっくりと瞼を下ろした。




