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Falcon.  作者: 宝積 佐知
1.序章
3/20

3.チキン・テツ

 近江は少女を連れ、終電を乗り継いで首都圏から離れた一軒の小さな喫茶店の扉を押し開けた。薄暗い店内には静かで甘いメロディが流れ、同時に珈琲の香りが鼻腔を突く。点在する客達は新たな存在の侵入を確認し、すぐに興味も無さげにそれぞれ目を戻してしまう。

 居辛い空気が深い珈琲の香りと共に充満している。近江は立ち往生している少女には気も留めずカウンター席中央の背凭れに上着を掛けて座る。すぐにカウンターの奥から店員らしきバンダナを巻いた眼鏡の若い女性が現れ、荒々しく音を立てて近江の前に色褪せたマグカップを置いた。



「随分と遅かったね」



 白木彩子は煙草に火を灯し、白い煙を近江に吹き付けながら言った。顔には悪童のような笑顔が浮び、声を立てて笑う度に後ろで一つに纏めた薄茶のパーマ掛かった髪が揺れる。

 近江は眉を寄せて掌で煙を散らし、珈琲を口に運んだ。長時間放置されていたらしく目が覚めるような苦味が口一杯に広がり、仕方なくマグカップを下ろす。彩子はその反応を待っていたかのように笑い、今度は扉の前で立ち尽くす少女に目を向けた。



「あの子は?」



 近江は不機嫌そうに視線を横へ投げ出し、舌打ち混じりに「その原因だよ」と答える。だが、彩子はどうでも良さそうに「へぇ」と気の抜けた声を返して煙草の煙を近江に向かって吐き出す。咽返る近江も無視し、彩子は声を掛けた。



「こっちに来て座ったら? 珈琲くらいなら出すよ」



 少女は少し戸惑っていたが、遠慮がちに足を踏み出し、一歩ずつ近付いてカウンター席の椅子を引いた。椅子の脚が床と擦れて耳障りな音を立て、近江は眉を寄せて珈琲を再び口に運んだ。当然苦いので眉間の皺は更に深くなった。

 近江から二つ離れた席に座った少女の前に彩子は清潔感のある白いカップを置く。漂う香りは自分に出されたものとは天と地程に違うが、近江は敢えて何も言わずに隻眼を細めて彩子を睨んだ。しかし、彩子は何の反応も見せずに話の続きを急かす。



「それで、どうしたの?」

「GODLESSの取引現場に出会しちまった」

「ドジ」



 彩子は煙草を指に挟みながらころころと笑った。近江は溜息を吐き、マグカップの中を覗く。夜の闇のように暗い茶の液体には疲れた自分の顔が映っている。眼帯は白いままだが、左頬には擦傷が出来ていた。近江は独り言のように言う。



「……目黒がいたんだ」



 言葉を発した瞬間、店内にいた客全員が一斉に近江の背中を見た。彼方此方でカップが乱雑に置かれ、中には珈琲を零した者もいる。少女はそれを見て怪訝そうに眉を寄せ、少し離れた先の眼帯に覆われた横顔に目を遣った。

 近江が顔を上げると、煙草から灰が落ちそうになっている事も気付かない彩子がいた。そして、溜息を零す。

 店内には奇妙な静寂が流れていた。状況に取り残された少女は黙り込んでしまったそれぞれに視線を泳がせ、一人悠々と煙草に火を点け始めた近江に訊く。



「その人が何なの?」



 近江は静かに煙草を吸い、ゆっくりと煙を吐き出した。暗い店内に揺れる紫煙は一筋の飛行機雲のようだった。彩子は一度咳き込み、灰が落ちそうになっていた煙草を灰皿に押し付ける。

 数秒前までは余裕綽々といった様子だったにも関わらず答える様子の無い彩子から目を戻し、少女が首を傾げると、それまでぷかぷかと煙草を吸っていた近江は言った。



「殺し屋稼業やってるやつで、目黒を知らないやつはいねェ。死神の異名を持つ男だ。……あー、畜生!」



 近江は癇癪を起こしたように頭を掻き毟る。脳裏には数刻前の逃亡劇が鮮明に思い出され、今度は額を押さえながらがっくりと項垂れた。

 店内の奇妙な空気は元に戻りつつあるが、やはりどの客も背中を丸めた近江を窺っている。少女は冷静だったが、小馬鹿にするように肩を竦めて言った。



「馬鹿みたい」

「何?」



 すぐに席を立った近江が食って掛かるが、少女は気に留めずに誰もいないカウンター奥の闇を睨み付けている。カウンター越しに彩子が馬か何かを相手にするように近江を押さえる。

 少女は目も向けずに言う。



「あんた、何ビビってんのよ。それでも殺し屋?」

「それが目上の人に対する言葉遣いか? お父さんやお母さんに敬語習わなかったのか?」

「こそこそ逃げ回ってさ。こんなチキン野郎だったなんて、ついてないわ」

「おい、無視か?」



 尽く無視され、近江は煙草を灰皿に押し付けて舌打ちする。



「大体、お前があの時に声を上げなかったら、俺は逃げる必要なんか無かったんだよ!」

「結局は隠れたままだったんでしょ。何で撃たなかったのよ」

「撃てるか!」

「まァまァ」



 彩子は近江を押さえつつ、拗ねるような少女の横顔に目を遣った。



「あたしは白木彩子。喫茶店のオーナーで情報屋もやってるから、何かあったら力になるわよ。今なら安くしとくわ。それで、あなたの名前は?」



 少女は少しだけ顔を向け、尖らせた口で呟くように答えた。


「ヒナ」



 近江は彩子の腕を振り払い、音を立てて座り直した。テーブルにぶつかったのでマグカップが揺れ、中の珈琲に波が立つ。近江はそっぽを向いてしまった。

 険悪な空気が流れるカウンター席に目を向ける物好きな人間は彩子を除いて他にはいない。その変わり者は近江が落ち付いたのを見計らってから再び煙草に火を点けた。

 煙草を再び咥え、吸い込んだ煙を吐き出す。彩子は仏頂面の近江を見て笑った。



「こいつは近江哲哉。あたし達はテツって呼んでる」



 その時、何処かのテーブルから声が飛んだ。


「『チキン・テツ』って言えば知らねェやつァいねーよ!」


 途端に皆が笑ったので空気がざわめくように揺れた。近江は舌打ちし、振り返って怒鳴るが何の効果も無い。ヒナが声を潜めて意味を問うと、彩子はやはり笑いながら言った。



「逃げ足ばかりが滅法早い小鳥ちゃんなの」

「彩子!」



 近江が身を乗り出して怒鳴る。ヒナは盛大に溜息を吐いた。



「その小鳥ちゃんが何で殺し屋なんかやってるのよ」

「決まってんだろ」



 表情を消し去った近江は席を立ち、背凭れに掛けていた上着を羽織る。そして、ヒナに冷ややかな目を向けながら吐き捨てるように言った。



「世の中、金さ」



 ヒナは背中を何か冷たいものが這うような感覚に襲われて硬直した。何も言わずにカウンターの奥に近江が消え、漸く解放されたようにヒナは息を吐く。喉の奥が縮まったのか窮屈そうな音が鳴った。

 他の客が消えた近江を嘲笑う声が現実離れして聞こえ、異質な温度差にヒナは底知れぬ恐怖を感じて身震いする。

 動きを止めてしまっているヒナを横目に彩子は腕時計を確認した。午前二時半。彩子は数回手を打ち鳴らしながら店中に届くよう声高に言った。



「今日はもう閉店だよ!」



 すると、彼方此方から不満げな声と共に椅子の動く音がした。客達はぞろぞろとカウンターに立ち寄って適当な金を置き、扉の向こうに広がる闇の中に消えて行く。出遅れたヒナも慌てて立ち上がった。彩子は人の良さそうな笑顔を浮かべた。



「今夜は何処に泊まるの?」

「えっと、これから……」

「良かったらうちに泊まって行く? こんな時間じゃあ殆ど空いてないでしょ」



 でも、とヒナが渋ると彩子は言った。



「部屋なら沢山あるし、テツも居候みたいなもんよ。気にしなくていいわ」

「じゃあ、一晩だけお願いします」



 ヒナは頭を下げた。

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