3,Pandora's box.
「出やがったな、ハヤブサ」
無表情だったペリドットの面に、深い笑みが浮かび上がる。近江の背後で那生は、その名に耳を疑う。
殺し屋でありながら、同職者にさえ恐れられる神出鬼没のダーティ・ヒーロー。金色の眼、群青の鷹。最速のヒットマン、ハヤブサ。伝説とさえ囁かれるその男が、此処にいる。
那生の目に映るのは、笑みを浮かべたペリドットと、至近距離の射撃を何の予備動作も無く躱した近江の背中だけだ。
皺の寄ったスーツを伸ばそうともしない近江の背を凝視する。まさか、この男。
「悪いな。こいつは譲れねぇ」
背中に回した左手が微かに引かれる。繋がれた鎖が微かに音を立てた。
近江は何かを伝えようとしている。人差し指、中指、薬指が背を伸ばす。3……?
意味不明のサインに首を傾げそうになりながら、那生はその指先をじっと見詰めた。
「なら、此処で死ぬか? ハヤブサ」
ペリドットの言葉と共に、近江はピースサインを出した。否、これは、2?
ならば、もしかするとカウントダウン。近江は何かを待っている。
人差し指が残された。
「遅過ぎるぜ、ペリドット」
ゼロ。
突然、視界は白煙に埋め尽くされた。どちらが前かも解らないその中で、何の迷いも無い強い力で引っ張られる。鎖が微かに音を立て、耳元で銃声が数発響いた。
「こっちだ」
銃声に紛れた近江の声と同時に、那生の体は突如落下した。悲鳴すら喉の奥に消え失せる。
内蔵が引っ繰り返るような強烈な浮遊感の中、力強い腕が那生の体を抱え込んだ。そして、同時に乾いた足音が湿った空間に反響した。鼻を突く異臭に顔を顰める。だが、右手を何者かが強く掴んでいた。
「付いて来い!」
暗闇の中で、見覚えの無い金色の瞳が浮かび上がる。緩く歪められたその目は笑っているようだ。
この状況で? 命を狙われて、銃口を向けられる中で?
猛禽類を思わせる金色の瞳の傍で、黒ずんだ何かが頬に張り付いている。血だろうか。ペリドットの銃弾が頬を掠めたのかも知れない。
周囲に反響する足音と異臭、水音。闇の中、此処が下水道だと判った。一寸先も見えないというのに、漆黒に塗り潰された視界で近江の手が何の迷いも無く前へと導いていく。
「あんた、まさか」
近江の足取りが緩まり、漸く足を止める。肩で息をする那生に比べ、近江は息一つ乱さず振り返った。
ゆったりとした動作で、懐から煙草を取り出す。コンビニで売っているような安っぽいライターに火が灯される。オレンジ色の光に照らされた近江の顔が浮かび上がった。
金色の眼。そして、その右目の傍に今にも翔こうとする黒ずんだ鳥の刺青。解りづらいが、これは、群青?
「ハヤブサなの……?」
神出鬼没、最強最速の、伝説のヒットマン、ハヤブサ。臆病者と罵られるこの男が、そのハヤブサだというのか。
俄には信じ難い目の前の光景に、那生は言葉を失った。近江は紫煙を燻らせながらライターの炎を消し去る。周囲は再び闇に包まれた。
「あんたが、あの伝説の殺し屋?」
やっとの思いで吐き出した言葉に、近江は微かな灯りの中で不敵に笑った。それはそれまで見せて来た近江とは明らかに異なる、冷笑にも似ていた。
「お褒めに預かり光栄です」
わざとらしい程に恭しく頭を下げ、近江は言った。
「伝説になった覚えは無いが、ハヤブサってのは俺のことだ。尤も、随分と美化してくれているみたいだけどな」
皮肉っぽく笑い、近江は那生を見た。
周囲は水音に満ちている。ペリドットが追いつく気配は無い。完全に撒いたのだろうか。あの、国家公認という殺し屋を。
「データを渡してもらおうか」
無表情のまま、近江が掌を差し出す。那生は言った。
「持っていないのよ」
「何?」
「確かに拾ったんだけど、返してしまったわ。それより、どうしてそんなものを探しているの?」
あの若過ぎる天才科学者が持ち歩いていたというデータが一体何だというのだ。中に何が記録されているというのだろう。煙を吐き出す近江は、差し伸ばした掌を引っ込めた。
「中に、大切なデータが入っているのさ」
「大切なデータって?」
「答える義務は無ぇな、刑事さん?」
近江は挑発的に笑みを浮かべた。だが、那生は殆ど反射的に懐から拳銃を取り出し、その眉間に突き付けていた。
「あるわ。私は刑事で、あなたは犯罪者。これは尋問よ」
「殺し屋に法律を語る気か?」
先程から思っていたことだが、この男はどうして恐れないのだろう。眉間に突き付けられている銃は本物で、指先を引くだけで命は消え失せる。死ぬのが怖く無いのか、引く筈がないと確信しているのか。それとも、避けられる自信があるのか。この至近距離の銃弾を。
近江はきっと、那生の問いには答えないだろう。獰猛さを隠す金色の瞳は、目の前の那生を拒絶している。
真実は闇の中。けれど、脳裏に浮かぶのはフランス人形のように美しいあの少女だ。感情を押し殺したあの子は、一体何を思っただろう。短い人生で、未来を理不尽に奪われて、何の為に生きたのだろう。
「……知りたいのよ」
ぽつりと零した那生の言葉に、近江は眉を顰めた。
「どうして、あの子は殺されたの?」
重い沈黙が流れた。呼吸すら消え失せてしまいそうな静寂に、水音が虚しく反響している。短くなった煙草を壁に押し付けて、近江は腰を下ろした。釣られるように那生がしゃがみ込む。長く酷使した両膝が悲鳴を上げていた。
再び取り出されたライターが、近江の顔を照らし出す。群青の鳥の刺青が踊っているようだ。噂の通りなら、これは鷹。
肺一杯に煙を吸い込み、吐き出す。ライターが消された闇の中で金色の瞳が煌々と輝いていた。
「……人の領域を侵したのさ」
近江に表情は無かった。
「あの子は優秀過ぎた。覚えているか、嘗てのウイルステロを。殺人ウイルスHadesは、既に開発されたワクチンによって終息宣言が出されているが、あの子はHadesを進化させた殺人ウイルスを、作り出してしまった」
Hades、冥府の王と名付けられた史上最悪の殺人ウイルス。十年程前に起きた未曾有のウイルステロで猛威を振るったそのウイルスを、あろうことか更なる殺人ウイルスへと進化させたというのか。
どうして。何の為に。
「研究者ってのは、純粋な生き物だからな。目の前の成果に囚われて、人としての倫理を忘れてしまったんだ。ましてや、それは十歳にも満たない幼い少女。いかに簡単に、残酷に、より多くの人の命を奪えるのか。それを追究した結果が、ペリドットの探すマイクロチップだ」
「それが、バンシーなの?」
「そうだ」
「どうして、ペリドットはそんなものを……?」
国家公認の殺し屋がどうしてそんな恐ろしい殺人ウイルスを探し求めるというのか。自問すると同時に、答えは那生の中で恐ろしい考えに行き着く。この国が、殺人ウイルスを手に入れようとしている。どうして。
「理由は解らねぇし、知りたいとも思わねぇ。だが、あのデータは開いてはならないパンドラの箱。中には凡ゆる災いが封じ込められているんだぜ」
The Dirty Hero!
3,Pandora's box.
近江は不敵な笑みを浮かべている。けれど、その目は欠片も笑ってはいない。
那生は目を閉ざした。一度は手にした恐ろしいあのデータはもう此処には無い。あの爆破テロで破壊されたのだろうか。それならばいいけれど――と、思ったところで、違和感に気付く。あの爆破テロは、何故起こったのだ。
ペリドットの仕業と思っていたけれど、その目的がデータならば不可解だ。あのような大規模の爆破をすればデータが破損する恐れもあるし、紛失の可能性も大きい。那生が持っているという確信があったのだろうか。あのコインを拾った瞬間を見ていたなら、返した瞬間も見ている筈。
そして、あの少女を殺したのはどうして。殺人ウイルスを掌握したいのなら、同時にその対抗手段であるワクチンも手に入れなければならない筈だ。その全てがマイクロチップに入っているかも確認していないのに、どうして安易に射殺できる?
ペリドットではない。那生の中の疑惑が確信に変わる。だが、それならば誰が。
あの劇場で出会った不審者は。
那生は、右手に繋がった手錠の先を見詰めた。
「近江。いいえ、ハヤブサ」
近江は闇を見つめたまま、黙って煙草を銜えている。那生は言った。
「あの子を殺したのは、あなたね?」
確信めいたその問いを、近江は無表情で肯定した。
「そうだ」
那生の右手に繋がれた手錠が微かに鳴る。近江は白煙を吐き出した。
「劇場を爆破したのも、あなた?」
「……半分正解で、半分不正解だ」
二本目の煙草をアスファルトに押し付け、新たな一本に火を灯す。近江はやはり、無表情を崩さないままに言葉を続けた。
「あの爆破は俺の仲間がやったことさ。俺達を助ける為にな」
「助けるって、一体誰から」
「決まってんだろ、ペリドットだよ」
漸く、近江は表情を崩した。腫れ物が落ちたかのような、何か諦めたような力ない笑みだった。
「依頼人のことを話すのはルール違反だが、そいつも、もう死んじまったしな」
「死んだ……?」
死んだというのは、あの爆破のことか。それとも、三階席で殺された仲間のことか。それとも。
「あんたの依頼人って、まさか」
近江は答えない。けれど、それが肯定を示している。
那生の頭に浮かんだのは、フランス人形のようなあの少女だ。まさか、あの子が。
「どうして……」
「さあな」
素っ気なく吐き捨てた近江には、恐らくその理由も解っているのだろう。
那生は言葉を失っていた。それならば、幾ら近江が射殺したと言ってもこれはあの少女の自殺ではないか。那生には自殺する人間の心理など解らない。十年も生きていないというのに、自らを殺すよう依頼する気持ちなど、解りたくもない。
信じられない。信じたくない。拮抗する二つの思考が、拳銃を構えた那生の腕を下ろさせていた。
「こんなの、間違ってる!」
自らのエゴの為に、他人の手を汚させるなんて、酷過ぎる。
「あんたもあんたよ! 死んだら、何もかも終わりなのよ! 自分の間違いも後悔も、何一つ解らないまま終わらせるなんて……、無責任もいいとこだわ。この世にはねぇ……!」
那生が絞り出すように叫ぼうとした瞬間、無表情に近江が言った。
「生きたくても生きられない命があるのだから、生きなさい?」
那生が続けようとした言葉を、近江は小馬鹿にするように広角を釣り上げて笑った。寒気がするような笑みに那生は言葉を失った。
「そんな屁理屈は通用しない。この世には、死にたくても死ねない命もある」
「死にたくても、死ねない……?」
「なあ、おかしいだろ?」
近江は言った。
「死は平等な筈なのに、おかしいだろ。あの子は自ら死ぬことすら出来なかったんだぜ?」
「だからって……!」
否定の言葉を繋ごうとする那生に、近江は目を鋭くさせた。
「これ以上、死者を否定するのは許さねぇぜ。生きているお前と違って、あの子はもう、弁解すら出来ないんだ」
「それでも、それは許されないことだわ……!」
溜息を零し、煙を吐き出す。近江は煙草を銜えたまま懐から銃を取り出す。漆黒の銃身に金色の鷹。その銃口は再び、二人を繋ぐ鎖に狙いを定めている。
何の予備動作も無く、近江はその引き金を引いた。銃声が尾を引いて響いた。
長い間、二人を繋いでいた鎖は断ち切られた。
「殺し屋に正義を語るなんざ、馬鹿げてるぜ」
鎖を断ち切った銃を、近江は静かに懐に戻した。自由になった左手が煙草を足元に落下させる。
那生の手には未だ拳銃が握られたままだというのに、警戒すらしない。近江に表情は無かった。
「正義が何たるかなんて語りたくもないけどな」
那生の目に、金色の瞳が光ったように見えた。
「てめぇは簡単にその言葉を口にしやがるが……。人の事情も都合も無視して押し付ける、てめぇの何処に正義がある?」
その言葉が、今は亡きあの少女の為の言葉と気付いたとき、那生に返す言葉などありはしなかった。
近江の声が闇に響いていく。再び静寂に包まれた中、壁に背を預けて近江は息を吐き出した。
「――ったく、やってらんねぇぜ」
足元の煙草を踏み消しながら、苦々しげに近江は言った。
「マイクロチップは見つからねぇし、ペリドットは勘違いして襲って来るし」
わざとらしいくらい、盛大に溜息を零した近江は髪を掻き混ぜる。
「こっちは飯も食ってねぇのによ……。さっさと風呂入って寝たいぜ。なあ、お前、何か食いもん持ってねぇ?」
朝から何も食べてないんだ、と苦笑いする近江に先程までの剣幕は欠片も見えない。毒気を抜かれたように那生は肩を落とした。そんな都合良く食べ物を持っている筈など無いと言おうとしてポケットに手を伸ばす。指先が微かに膨らんだ稜線を撫でる。
「マカロンなら、持ってるわよ」
「マカロン? 何だそれ」
「お菓子よ」
ポケットから取り出したピンク色の丸っこいお菓子を手渡すと、近江は怪訝そうに眉を顰めた。漆黒のスーツの男がまじまじとマカロンを見詰めるその姿は余りにも不釣合いで、那生は少しだけ笑った。思えば、随分と久しぶりに笑ったような気がした。
「食べていいわよ。……ああ、そういえば。そのお菓子、あの子に貰ったんだった」
那生がそう言った瞬間、マカロンをまじまじと見詰めていた近江が不敵に笑った。
「……ああ、ありがとよ。大事に、食べさせてもらう」
じゃあな、と背中を向けて手を振った近江が闇の中に溶けていく。そして、その姿が完全に消え失せた瞬間、頭上より一筋の光が差し込んだ。
何かが動く重低音に目を向けると、白い光の中で声がした。
「誰か、いるのか?」
眩しさに目を細めると、光の中に見覚えのある制服の男達がいた。救急隊員だ。
壁に据え付けられた取っ手を登り、顔を出す。其処は、あの劇場の傍のマンホールだった。生存者の報告をする救急隊員は恐らく、未だ瓦礫に埋まる生存者を探していたのだろう。
近江は全てを見越して、この場所まで導いたのだろうか。不敵に笑う近江の顔を思い出し、苦笑する。自らを正義とは決して口にしないあの男は、今頃、見たこともないお菓子を口に運んでいるのだろうか。
そんな姿を想像し、救急車に搬送されながら那生は笑った。




