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Falcon.  作者: 宝積 佐知
2.Dear friend.
14/20

4,Has the person been hated?

 ビルを飛び出した時には既に日が落ちていた。あのエレベーターの中で気絶していた時間は予想以上に長かったらしい。ブルードラゴンはあの爆発で死んだと思ったのか、それとも何か理由があって攻撃の手を休めたのか。

 理由は恐らく、春一が隠し持っていた違法ドラッグの全データが入ったマイクロチップだろう。あのままエレベーターを落とせば、探すのは困難を極める。それならばここで一度生かし、目的のものを手に入れてから始末しようと考えたのだろうか。

 それとも、何か別の思惑があるのだろうか?

 ふとそう考えた時、自嘲のような笑みが零れた。自分を生かす理由など存在しない。死んで欲しいと思う事はあっても、死なないで欲しいと思う事はないだろう。それだけの罪を犯して来たし、背負っていくつもりだった。相手がどんな人間だろうとも、必ず殺す。後悔もしないし、する必要も無い。

 外灯の灯り始めた街路を、人込みに紛れて疾走する。ブルードラゴンがあのビルから動いていないとは思わない。既に場所を移動し、近江の動きをしかとその目に映しているだろう。上空から見下ろすのは、さぞや気分がいいだろう。

 生ゴミの溢れる横道を抜け、人気の無い裏町へ溶け込む。夜になるほどに人の増えるこの地域は眠らぬ夜の街だ。水商売や酒場、怪しい露天商に、いかにも売人というような黒い外国の男。閉じられたシャッターは陳腐な落書きで飾られ、香水と煙草と生ゴミの混じる不快な臭いとよくマッチしている。

 政府さえ目を背ける無法地帯。だが、それこそが近江のような溢れ者の棲家だった。誰もが嫌悪するようなこの悪臭こそが、故郷の臭いだった。ここは近江の庭のようなものだ。海底に揺れるワカメのように蠢く人込みを避けながら、脚は一瞬たりとも止まらずに突き進む。



(降りて来い、Mr.ホークアイ)



 誘い込む先は誰も近付かぬ廃工場だ。遠距離に慣れた殺し屋相手に、上空を取られたままでは分が悪い。戦場を変えなければならない。

 廃工場はやはり明かり一つ無く、煤と随分古いオイルの臭いが充満していた。足を踏み入れると埃が割れた天井から差し込む月光を浴びて舞う。くっきりと地面に残る足跡。柱や壁が彼方此方崩れ落ちている。

 張り詰めるような奇妙な空気。更に進もうと脚を上げた瞬間、近江の胸ポケットから羽虫のような低い音がした。

 携帯電話のバイブレーションだった。覚えの無い番号だった。一瞬、悩んだが。



「……はい」



 掠れるような声が静かに響いた。

 電話の向こうから、くつくつと喉を鳴らすような笑い声が聞こえる。



「ブルードラゴン、か?」



 殆ど確信めいた口調で、近江は問い掛けた。電話の向こうからは止む事のない微笑、そして、声がした。



『そうだよ、ハヤブサ』



 若い声だ。大人と呼ぶには若く、まだ少年の域を脱し切れていないかのような青年の声。変声機を使う事も無く、電話を掛けて来たその意図とは何だろうか。



「氏家博士が開発した麻薬のデータは、俺が持っている」

『ああ、そうだろうと思っていた。そのマイクロチップは特別な金属で出来ていてな、此方が発する特殊な超音波に反応して共鳴する。だが、お前を刺したあの日、マイクロチップの反応は何処にも無かった』



 ふうん、と近江はマイクロチップを掌に転がした。何の変哲も無い機械だが、これがある限り近江の居場所も立ちどころに解ってしまうのだろう。



「一つ、答えろ」



 低く、近江は問い掛けた。



「氏家博士を殺したのは、お前か?」



 一瞬の沈黙、そして、再び乾いた笑いが零れた。



『そうだよ?』



 まるで、何が可笑しいと言わんばかりの口調に近江は奥歯を噛み締めた。心に浮かぶ一瞬の陰り。けれど、その度に父の声がする。

 復讐は虚しい。



「そうか。……解った」

『復讐でも、するか?』

「いいや、俺は復讐には加担しない。復讐は虚しいからよ」

『……ハヤブサ、此方からも一つ、答えろ』



 電話の向こうで、微かな息遣いが聞こえた。



『人を憎んだことはあるか?』



 どういう意味だと問い返そうとした。だが、体中を駆け抜けた危険信号に、反射的に地面を蹴った。長い年月に積もった埃が闇に舞う。そして、その次の瞬間、地を揺らす轟音と共に天井に亀裂が入る。



(やべぇっ!)



 着地と同時に足は既にコンクリートを蹴っている。天井から降り注ぐのは埃ばかりではなく、視界を覆うような巨大な天井の瓦礫だ。

 デジャヴだなと思った。脳は意外にも冷静なまま、安全地帯を瞬時に察知し、信号を運動神経に伝えていく。

 巨大な瓦礫と化した天井が、数瞬前まで近江がいた場所を埋め尽くしている。飛び退いた足先のほんの数十cm先に落ちたコンクリートにぞっとする。



(爆薬なんて、使いやがって)



 こんなものは嫌いだ。アルフレッド・ノーベルが平和の為に発明した筈のダイナマイトを戦争のような破壊と殺戮に使われた皮肉さが、近江には痛い程解った。

 そして、その右足に熱が走った。



「な、」



 脹脛に穴が開いている。血液の鉄の臭いと、硝煙の臭い。狙撃されたと気付くのに数秒かかった。埃の溜まった汚いコンクリートに血液が染み込んで行く。



「……ちっ」



 舌打ちをして、近江は立ち上がった。すぐに音も無く発砲された銃弾がコンクリートに突き刺さる。

 足が動かない。狙撃されたのは初めてだと思った。転がるようにコンクリートの柱に隠れるが、ブルードラゴンが何処にいるのかも解らないのでは隠れようがなかった。

 嫌な緊張感に冷や汗が頬を伝うほう、と熱い空気の塊を吐き出した瞬間、胸に鈍い痛みが広がった。それもまた、ブルードラゴンによって負った傷だ。服の下に広がる湿りは汗だと願いたい。

 不意に、先程のブルードラゴンの声が過ぎった。



(人を憎んだ事があるかって?)



 無性に笑い出したくなった。それは自分でも虚しくなるような自嘲だ。

 取り出した黒い銃は父の形見だ。刻まれた群青の鷹、純金が嵌め込まれた金色の眼。大した道楽だとは思うけれど。

 背筋を走った殺気に素早く腰を浮かせた。柱に撃ち込まれた銃弾に、寒気がした。こんなにも不利な状況は初めてだ。

 敵が何処にいるのかも解らず、右足は動かず、胸の傷口は開いて血が滲む。大して動いていないのに、体中にしっとりと汗が滲んだ。

 ブルードラゴンのあの質問、一体どうやって答えろというのだろうか。携帯も何処に行ったのか解らない、本人も何処にいるのか解らない。

 静かに目を閉じた。音の消えた空間で、体中全てを神経にして自分に向けられる視線と殺気を静かに拾い上げる。プロの殺し屋は気配だけでなく、鼓動すら消すことができるという。ブルードラゴンのそれが果たして近江に拾えるかと、視覚も聴覚も全て削ぎ落として、神経を集中した。その、背後で。


 撃鉄を起こす音が、した。






Dear friends.

4,Has the person been hated?







「御機嫌よう、ハヤブサ」



 携帯の奥で聞いたあの声がした。背後に向けられた銃口の気配に、近江は動くことができなかった。

 何時の間に背後を取られたのだ。そんな気配は無かった。ブルードラゴンはもっと遠くから狙撃していると、思っていたのに。



「遠距離専門の殺し屋じゃ、ないか」



 初めて会った時、大胆にも町の人込みの中で刺殺しようとしたのだ。其処で気付くべきだった。遠距離だけだという先入観。ブルードラゴンは、こんなにも近くで息を潜めていたのだ。



「お前がハヤブサとは、笑わせるな」



 近江は何も答えなかった。



「最速のヒットマン? 何処が。こんなにも愚鈍だというのに」

「余計なお世話だ」



 そう悪態吐き、近江は振り返った。

 巨大な満月を背景に、廃墟の中に佇む金髪の男。中世的な顔立ち、体の線は細く、殺し屋には見えない。高校生くらいの、非行少年。近江にはそう見えた。



「お前がホークアイ。通称、ブルードラゴンか」



 鋭過ぎる眼光に鳥肌が立つ。腕に走った青い龍の刺青。無表情の表はマネキンのように整っているけれど、嫌な寒気ばかりを感じる。



「なあ、近江哲哉」



 ブルードラゴンが、昏い笑みを浮かべた。近江は眉を寄せ、その顔を見詰める。一体何処で自分がハヤブサだと気付いたのかは解らない。けれど、このブルードラゴンという男はどうしてかハヤブサではなく、近江哲哉に会いたかったかのように感じるのだ。



「俺を覚えていないか?」

「……俺は、人の顔を覚えない」



 依頼人も、殺した相手も。必要が無いから、その機能は意図的に削除した。近江は既に冷静を取り戻し、ブルードラゴンを見ている。



「そうか……。俺は、あの日からお前の事を忘れた事が無かったのにな」

「誰だ?」



 近江にこんな男の記憶は無い。けれど、目を見開いて口元に弧を描いたその男に、近江は呼吸を止めた。壊れた人形のように、感情の無い恐ろしい顔だ。寒気が、震えが止まらない。



「中学時代、お前が殺戮した学生の内の一人だよ」



 その瞬間、砂嵐のような音と共に視界が揺らいだ。

 初めて人を殺したのは、中学生の頃だ。手加減できず、正当防衛とは言え五人の少年をナイフで切り殺したその惨劇は未だに語り継がれている。

 けれど、あそこにいた少年は皆死んだ筈だ。ただ一人、神山比呂を除いては。



「まさか、お前、ヒロ、か?」



 心臓の音がやけに大きい。けれど、ブルードラゴンは首を振った。



「いや、俺は神山じゃねぇよ。俺は、お前が殺した五人の仲間の一人だ」



 安堵をしたのは、何故だろうか。神山比呂じゃなかったから、何だ?

 相手が誰であろうと構わない、殺さなければ、殺される。酷く利己的で醜く歪んだ価値観。それでも、死にたくない。

 胸の傷が、右足の傷が、心臓がじくじくと痛んだ。彼がどんな気持ちで此処にいるのか、此処まで来るのに一体何があったのか。近江には解らない。知る術も無い。けれど、そんな事はどうでもよかった。



「お前のせいで、俺がどんな目に遭ったと思う? お前さえいなければ、お前さえ死んでいれば!」



 予想通りの叫びを、近江はただただ聞き流す。



「だから?」



 金色の眼が、ブルードラゴンをじっと見詰めた。



「だから、何だ? 自分が苦しかったから、自分が辛い思いをしたから、自分が可哀想だから、何をしても許されると思うのか?」



 金色が白い満月の光を反射している。それは、自ら光っているかに思わせる月とは逆の、光源である巨大な日輪のような輝きだった。

 近江の脳裏に過ぎるのは氏家博士の横顔だ。美しく聡明な女性だった。決して優しくはなかったけれど、温かい人だった。その記憶が蘇る度に。近江は頭を振って誤魔化し続ける。私情を挟んではいけない。自分は殺し屋だ。復讐者でもなく、快楽殺人者でもなく、ただ、生きる為に命を搾取し続ける。



「不幸な自分に酔っているだけだろう、お前は。よくも殺し屋だなんて名乗れたもんだな、お前は惨めで薄汚い殺人鬼だ」

「黙れ! 皆同じだろう!」

「同じ、だと? 勘違いするな!」



 こんな愚かで惨めで虚しい殺人者と、同列にされるのは酷く不愉快だ。

 薄汚い殺人者でも、根っこが違う。根が違えばそれは別の生き物だ。自分の誇りを貫いた父と、こんな男を比べたくない。



「自分ばかりを可愛がって、人から奪ってばかりで、世の中を恨んで、その癖自分でその泥濘から抜け出そうともせずに、人のせいにばかりする! そんなガキと、俺達を一緒にするな!」



 ここで怒鳴る必要も、感情的になる理由も近江にはない。けれど、理解している脳と感情を発する心は別の器官だから。



「自分の罪も背負えず、偉そうな顔するんじゃねぇっ!」



 そう言い放った瞬間、ブルードラゴンの指先に力が込められた。撃たれると解った瞬間にも、近江は目を見開いたままブルードラゴンを見ていた。目は逸らさない。真っ直ぐ前を向いていたいから。

 その視界に黒い影が過ぎったと同時に、銃声が尾を引いて静かに響いた。

 一瞬、何が起こったのか解らなかった。月明かりに舞った見慣れた赤。それはまるでスローモーションのように、一コマ一コマ近江の脳裏に焼き付けられた。

 鈍い音がして、黒い塊が紅い液体を零しながら落下した。それが何か気付いた瞬間、近江は動けなくなった。



「……春一……?」



 黒猫だった。何処にでもいそうな、漆黒を背負った猫。けれど、近江にはそれが何故か春一だとすぐに解った。

 銃口を向けるブルードラゴンの存在さえ忘れて、近江は膝を突き春一の体を抱き上げた。嗅ぎ慣れた鉄の臭いに、眩暈がする。

 春一は動かない。流れる血液が眉間に開いた穴からだと気付き、近江は静かに肩を落とした。



「馬鹿、だな」



 お前が死ぬ必要なんて、無かっただろう。お前が俺を庇う理由なんて、無かっただろう。

 近江は薄く開かれた春一の目を、そっと閉じさせた。だんだんと失われて行く体温を愛おしむようにその小さな体を抱き締める。スーツにこびり付く血液など、もはや気付かない。

 死んでしまえば、喋るも喋らないも解らない。もう誰も、春一を嫌悪や好奇の目で見る事は無いだろう。



「俺は、お前に生きて欲しかったのによ……」



 あのエレベーターで、そう言っていれば春一は此処に来なかっただろうか。いや、答えはNOだ。きっと、春一は此処に来た。



(何だ、俺は結局、何一つ救えず、何一つ守れないままか)



 初めて人を殺した中学生の頃のまま、死にに行く父の背中を見送ることしかできなかったあの頃のままか。無力で愚鈍なままなのか。



「馬鹿な猫だな。わざわざ死ぬ必要なんて無いだろう」



 ブルードラゴンが皮肉そうに口角を吊り上げた。近江もまた、自嘲の笑みを浮かべる。



「本当に、な」



 薄い笑みを浮かべたまま、近江は銃を向けた。それは酷く緩慢で、自然な動きだった。驚いたのはブルードラゴンだ。



「なっ……!」

「お前、俺に聞いたよな」



 顔を伏せた近江の表情は窺えない。けれど、銃口はブルードラゴンの心臓を捕らえたまま動かない。



「人を憎んだことがあるかって」



 ゆるりと、近江は顔を上げた。



「あるよ」



 穏やかな笑顔が、次の瞬間には能面のような無表情に変わる。近江はブルードラゴンを睨み付けた。



「罵倒された時、傷付けられた時、親父が殺された時。そして――、今」



 限界まで見開かれた目。ブルードラゴンは震えていることにすら気付かなかった。



「これでも、仕事に私怨を挟んだことはないんだ。それが、ハヤブサだから。……でも、そんなことはどうでもいい」



 近江の体から立ち上る湯気のようなものが、殺気にも似た怒気であるとブルードラゴンは漸く気付いた。それは平静の近江を知る者なら誰もが目を疑うような変貌だった。



「俺はお前を殺す。ハヤブサとしてではなく、ただの、近江哲哉として」



 そして、と近江は春一を見た。



「春一の、友達として」


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