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Falcon.  作者: 宝積 佐知
1.序章
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1.プロローグ

 数時間前までは澄み渡っていた筈の青空は、一切の光を通さない鉛色の分厚い雲に覆われてしまっている。

まだ真夏の太陽が燦燦と輝いている時刻だというのに時折凍えるような寒風が吹き付け、濃霧に包まれた町は死んだように静まり返っていた。

 K市を取り囲むようにサイレンは不吉に鳴り響き、昼間の町中をガスマスクを装着した男達が闊歩している。死の色に染まった彼方此方の道路では車が衝突して黒煙を立ち昇らせ、横たわる人々は赤黒い血液を吐き出していた。

 ガスマスクを装着した男はこの国の自衛隊である。呼吸の度に空気の抜けるような不気味な音を発しながら生存者の有無を数時間に渡り、最早機械的に繰り返している。町は死の臭いに包まれ、音といえば瓦礫と化した建物の崩壊する轟音くらいのものだった。

 世界規模にまで広がる国際犯罪組織『GODLESS』による人類史上類を見ない最悪のウイルステロが発生したのは昨日、まだ太陽が頂上に昇り切らない昼前の事だった。蒸し暑い空気を裂くような音と共に神の名を持つ細菌兵器『Hades』は粉雪のように風に乗って降り注ぎ、平和な日常を営む町をあっという間に地獄絵図へと変えた。

 細菌兵器の詳細については現在のところ気道粘膜から感染し、激しい眩暈・嘔吐感と共に融解した内臓を吐き出して死に至る事が解っている。感染者の肌は荒地のように乾き罅割れ、有効な手立ても無いまま、既に百万人以上の罪無き住民達が同一の症状を起こして死亡している。生存者は未だ見つかってはいない。

 細菌の勢力は衰える事を知らず、周囲の町にも被害は広まり何千万という人々が遠くまで避難していた。この地域にいるのは国から派遣された完全防備の仲間だけである。

 自衛隊員は心身共に酷く疲れていた。救う筈だった市民の遺体を無言で運び続け、返事の無い呼び掛けを繰り返し、一種の催眠のような無線からの絶望的な報告を黙って聞いている。遣り切れない思いは背中に圧し掛かり更なる疲れを促進させた。風呂上りのビールではとても癒す事は出来ないだろう。

 何度も呼び掛け続けているせいで声が嗄れ始めて喉を押さえながら軽く咳き込んだ時、横並びになっていた仲間が一様に「あっ」と声を上げた。男は釣られて顔を上げた。白く濁った視界の中にぼんやりと薄い人影が浮んでいる。

 人影はだんだんと濃くなり、やがて自衛隊員達の前に姿を現した。若い、恐らくは中学生程の少年である。完全防備の自衛隊員達に比べ、少年は何処で拾ったのか深緑のガスマスクを装着しているのみだった。着崩した黒い学ランは煤か何かで白っぽく汚れ、肩には傷だらけの鞄が掛けられている。

 少年は自衛隊員達を前にしても特別な行動を取る事も無く冷静に一歩ずつ距離を縮め、あと数メートルというところで足を止めた。ガスマスクの下で何か言っているようだが、くぐもっていて男には聞き取れない。だが、男は少年が抱えているものに目を奪われていた。

 灰色の帽子と水色の汚れたスモッグを身に着けた幼稚園児らしきお下げの少女だった。顔には不釣合いなガスマスクが宛がわれている。少年の腕には幼稚園児のものらしき菜の花色の鞄がぶら下がっていた。

 男が駆け寄ると、少年は抱えていた少女を黄色い鞄と共に押し付けた。驚きつつも咄嗟に受け取り、見れば少女は穏やかに胸を上下させ眠っているようだった。

 仲間の荒げた声で顔を上げると、濃霧の向こうに消えて行こうとする少年の背中が見える。男は叫んだ。



「待ってくれ!」



 ガスマスクを通しているが、声はどうにか形となって届いたらしい。少年は学ランを翻すようにして振り返ると人差し指を向けた。どうやら男を指差しているのではなく、少女の事を指しているらしい。少年は後ろ向きに歩きながら言う。



「その子はまだ感染していない筈だからさ、守ってやってよ」

「君の名前は……」



 僅かな沈黙の後、少年は静かに答えた。



「――サ」

「えっ」



 声は掠れるようで届かない。だが、大声に気付いて目を覚ましたのか少女が薄く目を開ける。そして、霧の向こうに消えようとする少年の代わりにその名を言った。



「ハヤブサ」



 再び目を戻した男の視界に少年は既にいなかった。雲の中に迷い込んだような濃霧は晴れず、慌てて仲間が後を追ったが結局少年を見つける事は出来なかった。

 その後帰還した男達を待っていたのは疲労を加速させるだけの数字の情報。上官の告げる『生存者無し』という感情の篭らない報告。しかし、男は言った。



「生存者なら、います」



 男は腕の中で再び眠りについた少女を示す。精密検査は必要だろうが、穏やかな呼吸を見る限り少年の言っていた通り感染していないのだろう。

 後日、このテロは国境を越えて大々的に報道される事になる。死者は既に百五十万人を越える未曾有の大惨事となり、中心部のK市を含む無数の町が死滅した。ICUで死を待つだけの感染者が数千。だが、その中で僅か一人が奇跡と称えられ生き残った。



 結局、『ハヤブサ』と名乗った少年は生死不明のまま依然として見つかっていない。


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