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宝石少女奇譚  作者: 香山 結月
最終章
47/59

43 待人編

 季節が巡る。

 凍えるように寒かった冬が過ぎ、あっという間に桜の咲く暖かい春に変わる。蒸し暑い夏が来て、紅葉の綺麗な秋が終わった。

 柘榴と希のいない季節が、繰り返す。


 あの日から、二度目の冬。

 雪が積もった、一月の始め。時刻は朝六時。

 寒さで目を覚ました蘭は布団から手を伸ばし、部屋の温度を上げるためにエアコンのリモコンに手を伸ばした。枕の隣にいつも置いてあるので、すぐにリモコンを見つけてボタンを押す。

「…寒い、わ」

 呟いて、もう一度布団に中に潜り込む。部屋が十分に暖かくなってから、ゆっくりとベッドから出た。目を擦りながら窓の方に行き、カーテンを引く。

 窓の外は雪が積もっているので、反射して明るい。

 蘭が目を覚ました部屋は、本部の寮の自室ではない。柘榴と希がいなくなった後、一年半以上お世話になっている部屋は六畳半ほどの広さの一人部屋。

 机とベッド、クローゼットなどの必要最低限しか物を置いていない。

 質素な、部屋。

 基本的に白で揃えられた部屋は、平日しか利用しない。仮部屋、みたいなものである。

 先日十八歳の誕生日を迎えたばかりの蘭は、ポットのお湯を沸かしながら手帳を開いて今日の確認をする。朝七時に浅葱とランニングをする予定で、その後は学校。放課後は本部まで行って、柊や洋子達と夕食をする。

 最近もよく本部には顔を出すし、大輔の夕食を食べにも行く。今日は直接食堂に顔を出すつもりだが、朝のうちに確認メールを送らないと柊はすっぽかす。

 お湯が沸くまでの時間に、蘭は携帯を開いてメールを送った。ついでに洋子にもメールを送らないと、子供みたいに拗ねる。最初は面倒だったが、慣れてしまった。

 二年が経っても、二人は変わらない。柊は相変わらずだらしない格好で、蘭には馴れ馴れしく接する。洋子は金髪の髪をバッサリ切って肩までの長さになったが、性格は全く変わらない。可愛いものが大好きだし、男は嫌いで結紀とよく喧嘩をしている。

 食堂にいた結紀は雑用係に変わり、日々忙しそうで疲れた顔をしていることが多い。柊や洋子から山のように仕事を任され、会うたびに嘆いている。

 結紀がいなくなった食堂にいる大輔は、相変わらず美味しいご飯を作っている。組織の人間の多くが、宝石がなくなり辞めていった。随分寂しくなってしまった食堂で働く大輔の最近の悩みは、化粧をやめるかどうか、なのだと風の噂で聞いた。

 蘭はと言うと、少し背が高くなって髪も伸びた。肩につくとすぐに切るようにしているが、それでも二年前よりは長い。よく洋子に、大人っぽくなった、と言われる。

 大人っぽく、と言うより成長したのは浅葱と蘇芳、鴇も同じ。

 特に身長が伸びたのは浅葱で、今では蘭より頭一つ分高い。それでも鴇と蘇芳の方が背が高いが、浅葱は蘭より背が高くなって嬉しそうだった。それはもう昔の記憶。

 過去を振り返っていると、お湯が沸いた。

 紅茶を飲みながら、蘭は部屋を見渡す。

 あと数か月でこの部屋ともお別れ。それを少しだけ寂しいと思いつつも、未練はない。この部屋に来るきっかけは、二年前。柘榴と希がいなくなって、三か月が経った頃。

 その当時のことを、思い出す。




 季節は春。三月の終わり。

 柘榴と希がいなくなって、三か月が過ぎた。

 乗っていた飛行船はボロボロで、組織の人間は本部へと戻ることになった。宝石の原石がなくなって、空を飛ぶ理由をなくした飛行船はあっという間に解体された。

 蘭は三か月間、必死に宝石の情報を集めた。

 支部を行ったり来たりして、ほとんど本部で過ごすことがなかった日々。柘榴と希の情報を、少しでもラティランスに関係しそうな情報を、探すために走り回った。

 目の回る勢いで日々は過ぎたのに、結果は何も得られない。

 本部に帰って来る度に、蘭は本部の一室に一人籠った。

 六つの机と椅子が置いてあった訓練室の、すぐ隣の空いていた部屋。誰も使っていなくて埃まみれだった部屋を掃除して、蘭の自由に使わせてもらっている。

 壁は今までラティランスが現れた場所の詳しい地図。ラティランスの特性や得た宝石の種類。ラティランスに関するあらゆる資料を貼り付け、蘭は部屋の真ん中に仰向けになった。

 何も手掛かりがない。

 何も見つけられない。

 腕で顔を隠し、悔しい気持ちでいっぱいになる。

「…どこに、いるのよ」

 呟いた声は誰にも届かない。それでも言わずにはいられない言葉。その言葉を何度口にしたかは、もう覚えていない。ギュッと瞳を閉じ、唇を噛みしめる。

 突然、ドアが開いた。

 閉じていた瞳を開け、起き上がってドアの方に目を向ける。

「…柊さん」

「休憩中かい?」

 持って来た自分用の缶コーヒーと蘭の為の缶ジュースをちらつかせ、柊は微笑む。一度だけ首を縦に振った蘭の姿を見て、部屋の中に入った。

 椅子がないので、柊は缶ジュースを蘭に手渡しながら隣に座って胡坐をかく。

「進展は?」

「ないわ」

 小さな声で言いながら、缶を開けてジュースを飲む。

 甘い、クリームソーダが口の中に広がった。前は紅茶ばかり飲んでいたのに、最近はめっきり飲む機会が減った。ジュースを飲みながら、蘭の視線は目の前に広がる大量の資料に移る。

 柊は資料を見回しながら、軽い口調で話し出す。

「蘭ちゃんさ、最近浅葱くん達には会ったのかい?」

「どうだったかしら?」

 疑問形で答えたのは、覚えていないからだ。

 数週間前に食堂で顔を合わせた気もするが、話をした記憶はない。挨拶は確実にしたと思うが、偶然会っただけでそれ以上の会話はしていないと思う。

「浅葱達が、どうかしたの?」

「四月から…まあ、あと数日後からなんだけど。本部から離れて、高校三年生として編入することになったんだ」

「へえ」

 蘭の素っ気ない返事に、柊は肩を落とした。

「へえ、じゃなくて。蘭ちゃんも高校二年生として一緒に編入してもらうからね」

 意味を理解するのに数秒。理解すると同時に、バッと柊の方を振り返る。

「な、なんでそんなことになったのよ!」

「結構前から決まってたんだけどね。蘭ちゃんが本部に帰って来る時間が少なすぎて、なかなか言い出せなかったんだ」

「冗談でしょう?」

 信じられなくて、声が小さくなった。蘭の方を見向きもしなかった柊が、ようやく振り返った。悲しそうな笑みを浮かべている柊から、目を逸らせない。

「編入手続きは、蘭ちゃんのお父さんがしてくれていた。浅葱くん達にも言ったんだけどね、もう戦う力も理由もない君達をこのまま本部に置いておくと言うのはどうか、と言う意見が多数あって。結果、十八歳未満の未成年は一度高校に、二十歳未満は希望制で大学に戻すことになったんだ」

 言葉が出ない。

「本当ならもっと早く、決まった直後に言うべきだった。それは悪いと思っている。けど、これは命令だと思って、素直に四月から学生として過ごしてもらえないかな?」

 うんともすんとも言えなかったのは、納得できないからだ。何か反論しようとしたが、止めた。代わりに、確認するように問う。

「それは覆せない命令、なのよね?」

「まあ、ね」

「そう…無理やり連れて来て、今度は無理やり引き離すのね」

 視線を下げ、膝を抱えながら、弱々しくぼやいた言葉は柊に届いたはずだ。けれども柊は何も言い返さない。口を開いたら、今度は弱音が零れる。

「全然見つけられないのよ。柘榴と希の手掛かりを、何一つ見つけられない。これだけ必死に探しているのに、ラティランスを見たと言う報告も、宝石も何もかもなくなって…八方塞がりで前に進めない」

「うん」

「柘榴と希は、本当にどこに行ってしまったの?どうして、私を置いて行ったのよ」

 泣きそうになった蘭の頭を、柊は優しく撫でた。今までなら嫌がる蘭も、されるがまま俯いて顔を上げない。

「きっと、大丈夫。そのうち帰って来るさ。それこそ、ひょっこりとさ」

「根拠は?」

「ない。けど、そう信じているのは蘭ちゃんだけじゃない。だから少しだけ、ここから離れて羽を伸ばしておいで。今の状態の蘭ちゃんだと、柘榴くんと希くんが悲しむよ?」

「…分かっている、わよ」

 今にも消えそうな声で言って、蘭はますます顔を下げた。

 本当は分かっている。柘榴と希だけじゃなくて、今の蘭を心配してくれる人がいることを。寝る間も惜しんで探し続けて、支部を駆け回って。柘榴と希以外の周りのことを気にせず探し続ける日が、ずっと続けられるわけがないことを。

 それでも探し続けたかった。

 一刻も早く、柘榴と希に会いたかった。

「早く、会いたい…会いたいのよ」

 祈るように呟いた蘭の傍で、柊は何も言わず付き添う。

 柘榴と希を諦めるつもりはないのに、前に進むことが出来ない。蘭に出来ることは精一杯したつもりなのに、成果が出ない。

 苦しい。そんな感情を抱えたまま、蘭は気持ちが落ち着くまで動くことが出来なかった。



 暫く経ってから、蘭は廊下を一人で歩いていた。奥の方から歩いて来た洋子が蘭の姿を見つけ、すぐに駆け寄る。書類を持っているので抱き付くことなく、それでも表情は嬉しそうに笑った。

「蘭ちゃん、久しぶりね」

「洋子も…ちょっと痩せた?」

「忙しかったから」

 自然な笑みだけれど、よくよく見ればやつれた顔で洋子は言葉を続ける。

「柊から話、聞いた?」

「高校のことなら」

「そう…資料とか色々持って来たから、確認と本人のサインだけしてもらおうと思って」

 持っていた資料の一部を蘭に渡し、それをまじまじと見つめる。興味ありげに資料を見つめる蘭の様子を見て、洋子はふと思いついたように声を上げる。

「ねえ、蘭ちゃん。今、暇?」

「まあ、少しは」

 資料から目を離して洋子を見れば、楽しそうな顔をしている。

「それじゃあ、ちょっと付き合って。一緒に来て欲しい場所があるの」

「いいけど、どこ?」

「着いてからのお楽しみ。行きましょう!」

 スキップをしそうな勢いで歩き出した洋子。その後ろを、蘭は黙ってついて行くことにした。


「屋上?」

 洋子が連れて来たのは、間違いなく屋上へと続くドアの前。

「そう。ね、蘭ちゃん、この鍵で先に入ってみてくれない?」

「どうして私が…」

「いいから、いいから」

 鍵を手渡して、洋子は後ろにそっと下がる。蘭がドアを開けないといけない雰囲気を疑問に思いつつ、鍵をさしてドアを開けた。

 開けた瞬間、花の匂いがした。

 懐かしい景色が、目の前に広がって言葉を失った。

 驚いている蘭を置いて、洋子が先に屋上に足を踏み入れる。数歩先で立ち止まって、笑顔で振り返る。

「どう?綺麗でしょう?」

 すぐに肯定出来なかった。

 洋子の後ろには、飛行船の空中庭園と似ている光景。

 四角い屋上。その中心には、小さな丸いテーブルとアンティークのランプ。それから三つの椅子。人が通れる道はあるが、それ以外は花と植物で埋め尽くされた、空間。

 蘭が分かるだけでも、水仙、菫、たんぽぽ。桃や梅、桜の木がある。

 ガラスで覆われた空間ではないから、まだ少し冷たい風が頬を撫でる。

「…綺麗」

「そう言ってもらえて、本当によかったわ。忙しくて、ここまでするのに三か月もかかっちゃったけど。でも、ある程度完成させてから、蘭ちゃんに見せたくて」

 歩き出した洋子に追いついて、蘭は辺りを見渡しながら歩く。

「いつ、完成したの?」

「つい最近かな。完成したら、絶対に屋上に蘭ちゃんを呼ぼうと思っていたの。ついでに、柘榴ちゃんと希ちゃん以外の報告をしようかな、て」

「あまり人に聞かれたくない?」

「そう、まあ座って」

 屋上の中心まで進み、椅子を勧められて素直に座る。屋上に誰か来たら分かる席に座った洋子。あのね、と椅子に深く座り、真面目な顔になって話し出す。

「香代子は引き続き、本部の監視下で過ごしてもらうことになったわ。まだ取り調べが終わらないから。けど、終冶は支部のある田舎の街に移動することになった。勿論、定期的に組織の誰かが様子を見に行くけど。素直に知っている情報を話してくれているし、彼もまた巻き込まれた犠牲者だったから」

「…そう」

 真っ直ぐに見つめられて、蘭は何となく視線を下げた。

 巻き込まれた犠牲者、それが終冶。

 終冶がどうして宝石を手に入れたのかは、本人が話した。

 希の兄である歩望と美来の二人が大学から姿を消した後、柘榴の叔父が接触してきたのだと言った。

 その頃の終冶の家は借金問題で苦労していて、それを誰にも言えずに過ごしていたそうだ。宝石の実験に協力する代わりに、借金を肩代わりしてもらっていた。一人で何もかも背負おうとしていた終冶の心の支えが、親友だった歩望と好きな人だった美来の二人。

 二人が何も言わずにいなくなって、終冶はその気持ちが反転した。

 好きな人を奪われたと思い、親友を恨み、美来を取り戻そうとした。

 それが終冶と言う男の、過ごした長い時間。長い、復讐の最初。

 終冶が奪った命を証明出来るものはなくて、警察になど連れて行けるはずもない。大きな罪が裁かれることはなく、終冶は一人で背負っていかなければいけない。

 命を奪った、その罪を。

 終冶のことを思い返した蘭は、そっと呟く。

「…終冶は少しの間でも可子と過ごし、昔の心を取り戻したのよね?」

「そう、本人は言っていたわね」

 希が深い眠りにつくきっかけになった、終冶との一件。

 可子と共に姿を消した終冶はそれから穏やかな日を過ごしたのだと、語っていた。美来ではないけど、可子は終冶のことを気づかい、戦いとは無縁な場所で日々を過ごした。

 けれども目を覚まさない希を目覚めさせるために、可子は終冶を振り払い、飛行船に姿を現した。可子を止めようとした終冶と戦い、ボロボロになっても蘭に真実を伝えに来た。

 終冶の前で可子は最期に微笑んで言ったらしい。

『もう、止めてね』

 その言葉があったから、終冶は蘭達と戦うことをしぶった。

 そう、聞いた。

 それが、可子と言う存在。

 思い出して、蘭は笑みが零れた。

「確かに、こんな話。廊下だと話せないわね」

「でしょ?終冶のことはあまり広められる話題じゃないし、実際知らない人もいるから。でも蘭ちゃんには伝えなきゃと思ったの」

「ありがとう、教えてくれて」

 素直にお礼の言葉が口から漏れた。それに、と蘭は洋子に微笑む。

「終冶の話を聞けて、よかったわ。私、この三か月で柘榴と希を見つけられなくて、何も前に進んでない気がしていたの。でも違った、て気が付けた」

 だからよかった、と繰り返す。

 蘭の様子を見て、嬉しそうな洋子が言う。

「ようやく、前の蘭ちゃんの顔になったわね」

「前の、て?」

「最近の蘭ちゃんは始終考え事をして、眉間に皺まで寄せて、誰も近づけさせないオーラを放っていたから。心配していたの。でも、今の顔は柘榴ちゃんと希ちゃんがいた時の顔。ちょっと余裕を持った、感情豊かな蘭ちゃん」

「私、そんなに酷かったの?」

「とても」

 しっかり頷かれると、反省する気持ちが湧いた。柊と話して、感じたことを素直に言う。

「私、いつの間にか精神的に自分を追いつめていたわ。柘榴と希を意地でも探し出すのにムキになって…柘榴と希を探し出せばそれで終わり、そんなことはないのにね」

 瞳を閉じ、柊の言葉を思い出す。

「『今の状態の蘭ちゃんだと、柘榴くんと希くんが悲しむよ』て柊に言われたの。悲しませていた原因は私自身。もし柘榴と希を見つけても、周りを悲しませていたって知ったら柘榴と希も悲しむ。そう、感じた」

「そうね。蘭ちゃん、周りが全く見えていなかったから」

「ええ、洋子にも心配をかけたわ。ごめんなさい」

 軽く頭を下げて謝罪した。でも、と話し出す。

「正直に話すと、高校の話は不安で仕方がないの。柘榴と希がいなくて…けれども、反対に興味も湧いているわ。柘榴と希が過ごしていた高校生活と同じとは思わないけど、同じような普通の日々を私も過ごしてみたいから」

 目を輝かせて言った蘭に、洋子は優しく頷く。

「それでいいのよ。確かに柘榴ちゃんと希ちゃんを見つけることは大事。でもね、蘭ちゃんにも蘭ちゃんの人生が続いていることを忘れないで」

 ゆっくりと、諭すように香代子は言う。

「この三か月で蘭ちゃんが必死に柘榴ちゃんと希ちゃんを探したことは無駄ではないし、これからも私達は二人を探すわ。大丈夫、きっと二人は帰って来る」

 うん、と頷くと泣きそうになる。

 その気持ちを堪えて、蘭は言う。

「私だって、高校に通うからと言って探すのを止めるわけじゃないわ。土日の度に本部に顔を出すつもりだし、長期休暇になったら色んな場所に行って二人を探し出して見せる」

「駄目よ。学生なんだから、勉強したり遊んだりしなきゃ」

「いいの。それが私だから」

 この話はお終い、と言わんばかりに蘭は立ち上がった。

「そろそろ帰りましょ。大輔の夕飯を食べなきゃ」

「そうね。久しぶりに一緒にカウンターで食べる?あ、でも柊達がいるかも」

「いいんじゃない?柘榴や希みたいに五月蠅く騒ぐわけでもないし」

 それもそうね、と笑う洋子と一緒に屋上を後にする。

 屋上のドアから出る前に、蘭はもう一度景色を目に焼き付けようと振り返った。

 もうすぐ夕暮れ、空は赤く染まり始める。日に日に太陽が出ている時間は長くなり、光の灯っていないランプしか明かりのない屋上は、すぐに真っ暗になるだろう。

 ねえ、と後ろにいる洋子を振り返らずに蘭は言う。

「私が次にこの場所に来るのは、柘榴と希が帰って来てからにするわ」

「そう…分かったわ。蘭ちゃんがそう望むなら」

 無言で頷いて、屋上を後にする。持っていた鍵でドアを閉め、鍵を洋子に返そうとすれば、洋子が首を横に振る。

「その鍵は蘭ちゃんのだから、持っていて。それより一つだけ、確認してもいい?」

「何?」

「蘭ちゃんは、柘榴ちゃんと希ちゃんと一緒に合宿をした、あの学園。あの高校に通うことなるって聞いた時…嫌じゃなかった?」

 少しだけ考えて、首を横に振った。

「嫌じゃなくて、あの場所で嬉しかったの。だって、あの場所なら絶対に柘榴と希を忘れない。忘れられないから」

 それが蘭の本心。そう言えたことが嬉しくて、鍵を握りしめた。




 四月から高校に通うことになり、学校の敷地内にある寮に移った。

 寮の鍵と一緒に、屋上の鍵と柘榴と希とお揃いのトンボ玉のストラップを付けて毎日持ち歩いている。屋上の鍵を使用したことは、二年前から一度もない。

 柘榴と希が帰って来るまで屋上には入らない。

 その誓いは破られることなく、続いている。あの日から洋子が屋上に誘うこともなければ、屋上のことが話題になることもない。

 高校三年生になった今の蘭は、あと数か月でこの部屋を出る。

 その後は本部に戻るだろが、絶対に屋上には行かない。

 本部に戻って柘榴と希を探すか、大学に行って勉強を続けるか。少し迷っている。高校に入って色々勉強しているうちに興味が湧いたこともあるが、柘榴と希を探すために旅をしたい気持ちもある。

「早く、決めなきゃね」

 独り言を呟きながら、浅葱とのランニングの約束があるのでジャージに着替える。支度をしている最中に、携帯のバイブが鳴った。

 一件のメール。

 差出人は、苺。柘榴の妹である少女と再会したのは、高校二年の梅雨だった。




 当時の季節は、夏間近。しとしと雨が降る、六月の半ば。

「ごめん、遅れたわ!」

 生徒の多いランチルームの人混みをかき分け、蘭を待っていてくれていた二人の顔を見て勢いよく謝る。

 いつも窓際の席で、長テーブルの一角。先に授業が終わった人が席を取る、と言うのが暗黙の了解で、先に座っていたのは浅葱と鴇だった。二人は同じクラスだけれど、蘇芳だけは違う。

 ランチルームで浅葱達と一緒にお昼を食べるのは、四月からの習慣。

 座っても、全員が揃うまで食べ始めない。それも習慣。

「チビ、今日は遅かったな」

「先生に課題を出してきたから。蘇芳は?」

 言いながら、空いていた浅葱の隣に座る。浅葱の向かいに座っていた鴇が、携帯を見ながら言う。

「蘇芳、すぐ来るってさ」

 鴇の言葉通り、間もなく蘇芳が現れた。いただきます、と手を合わせてご飯を食べ始める。

 食べながら、鴇が問う。

「そういえばさ、何で蘇芳は今日遅れたん?」

「友樹先輩に会って来た」

「…元気だった?」

 蘭は食べるのを止め、ご飯を食べていた蘇芳に訊ねた。一瞬だけ目が合って、蘇芳は頷きながら視線を下げて言う。

「…元気、だったと思う」

 心なしか悲しそうに言った。蘇芳の言葉で、友樹の現状は想像出来る。

 一気に蘭と蘇芳が暗くなったので、鴇が明るく言う。

「友樹先輩は、問題ない、て寛人先輩も言ってたじゃん。蘭ちゃん達は気にし過ぎだよ」

 そう言われても、気にしてしまうものは仕方がない。

 友樹は蘭達が高校に編入する四月に、大学一年生となった。

 本部にいるより気が紛れる、と言う理由で親方と陽太に追い出されて、真面目に通っていると言うのは蘇芳や鴇からよく話を聞く。

 友樹と同期だった訓練生時代の友人、寛人は入学に合わせて退院した。リハビリを一月からの三か月間、死に物狂いで頑張って、友樹と同じところに行くと騒いでいた、らしい。

 大学の図書館に行くことが数回あったので、蘭も寛人とは数回顔を合わせている。明るくて、無表情の友樹を何とか笑わせようとしている。そんな印象を受けた。

 過去を引きずってはいるものの、誰もが一歩ずつ前に進み始めた。

 それは蘭も同じだ。

 それよりさ、と鴇が話題を変える。

「蘇芳はテスト勉強してる?俺、全然してなくてさ」

「鴇、授業中いつも寝ているからだろ」

「浅葱は余裕だよね」

 ムカつく、と言えば、浅葱は余裕の笑みを浮かべる。

「チビだって余裕だろ?」

「そうね。別に浅葱達と同じテストでも構わないくらいよ。そんなことより、最近は誰かに見られている気がする方が気になるし」

 ボソッと呟いた言葉に、浅葱と鴇の動きが止まった。その様子に、蘭は全く気が付かない。

 蘇芳だけが気にせずご飯を食べて、一言。

「ストーカー?」

「違う、とは思うわよ。ストーカーは前に撃退したけど、そんな感じとは違うし」

「おい、それ初めて聞いたぞ」

 ブスッと不機嫌になった浅葱。報告するようなことでもなかったので、言ってなかったかもしれない。でも誰かに言った気もするので、蘭は首を傾げる。

「浅葱達じゃなくて…あ、洋子と柊さんには報告したのよ。そうしたら、洋子が護身術を教えてくれて、ほんの一週間ぐらい前かしら?」

「大したことじゃなかったのなら、いいけど。蘭ちゃん、高校に入ってからモテるもんねー」

 ニヤニヤしながら鴇に言われて、蘭は意味が分からない、と言い返す。

「モテない、わよ?」

「自覚がないんだよね。蘭ちゃん、可愛くなったよね。浅葱」

 突然名前を呼ばれた浅葱が、飲んでいたジュースを吹き出した。思いっきり吹き出したせいで、鴇にまで被害が及ぶ。浅葱の顔は、真っ赤になっていた。

「きったな!浅葱、汚いから!!」

「うるせーよ!!!」

 一気に騒がしくなった浅葱と鴇を気にせず、蘭と蘇芳は黙々とご飯を食べることにした。

 蘭が食べ終わる頃には、何故か浅葱達も食べ終わる。まだ昼休みは終わらないので、場所を移動せずに会話は続く。

 授業のこと、行事のこと。くだらない日々の日常を話している途中、そういえば、と蘭は言う。

「クラブ活動をするとか言う話はどうなったのよ。もう六月よ」

「だってさ、最低五人必要なのに。あと一人が決まらないじゃん」

 呆れたように、鴇が言った。

 クラブを結成しよう、と言い出したのは鴇だったはずだ。

 どうせ放課後は暇だし、いざと言う時に戦えるように。ランニングをしたり、組手をしたりしよう、と。提案されて蘭と浅葱は即座に頷いたが、クラブ申請には五人の署名が必要で、蘇芳を入れてもあと一人足りない。

 全く関係のない人には、来て欲しくない。

 誰もあと一人が思い浮かばず、黙ってしまったので鴇は言う。

「まあ、クラブじゃなくても。いつもみたいに放課後、走っていてもいいけどさ…女の子と言う癒しがないんだよ!どうせクラブ結成するなら、可愛い女の子誘おうよ!!!」

「俺らの体力に付いて来れる奴ならな」

「それか、頭のいい子がいいわね」

「鴇、そんな子いないと思う」

 きっぱりと蘇芳にとどめを刺されて、鴇は肩を落としてからさまに落ち込んだ。

「クラブ結成までに、卒業しそうだね。俺ら」

 小さく呟いた鴇。誰もが頷き、チャイムが鳴った。

「それじゃあ、私は教室に戻るわね」

「また放課後、玄関でな。チビ」

「また」

 蘭と同様に浅葱も蘇芳も立ち上がったのに、鴇だけ一人出遅れる。

「ちょ、ちょっと!俺を置いて行かないでよ!」

 慌ただしく立ち上がった鴇を待って、四人でランチルームを後にする。

 いつだって授業がない時は、浅葱達と過ごす日々。

 クラスに友達がいないわけじゃない。仲間外れにされているなんてこともない。ただ、柘榴と希が恋しくて昼休みと放課後は自然と浅葱達と過ごすようになった。

 そんな、梅雨の日。


 放課後になると、雨が上がった。

 多少の雨ならレインコートを着て外周をする予定なので、蘭は浅葱達が来るまで玄関で一人待つ。一人で待っていると、やっぱり視線を感じる。

 バッと振り返って、辺りを見渡す。

 すれ違った男子高校生の集団、違う。

 奥にいて携帯をいじっている女子高校生、違う。

 目が合ったのは、曲がり角から顔を覗かせていた一人の少女。小柄で、右目の下にほくろ。柘榴と似ている少女が、蘭と目が合って慌てて駆け出した。

 足音が遠ざかる、その前に蘭は走って叫ぶ。

「待って!」

 逃げる少女の後ろ姿が、柘榴と重なる。でも、さっき見えた顔は柘榴じゃなかった。

 廊下を走る途中で、浅葱と蘇芳、鴇が蘭の姿を見つけた。すれ違う間際に、浅葱が口を開く。

「おい、チ――」

「邪魔!」

 遮って、浅葱を押しのけた。驚く三人の脇を走り抜け、蘭は少女を追いかける。

 走る途中で、少女の名前を思い出した。迷うことなく、少女の名前を呼ぶ。

「待って!苺!!!」

 名前を呼ばれた少女が立ち止まりそうになって、蘭は追いつくことが出来た。逃がすまい、と少女の右腕を掴む。息切れをしているのは蘭だけじゃない。蘭より呼吸が荒く、少女は振り返らない。けれども捕まってしまったからか、逃げようともしない。

「――っはぁ。苺、でしょう?貴女は柘榴の妹、苺」

 確認するように言えば、観念した少女が、苺が振り返る。

 見た目だけなら姉妹と言うだけあって似ている、その容姿。身長は柘榴より、少し低い。決定的に違うのは、醸し出す雰囲気。どちらかと言えば、その雰囲気は希に似ている。それから柘榴より短い、髪の毛の長さかもしれない。

 蘭に見つめられて、気まずそうに視線を下げて言う。

「えっと…お久しぶりですね。その節はお姉ちゃんが、お世話になりました」

「なんで、貴女が?」

 驚いて、蘭と苺の周りに人が集まるのも気付かずに、蘭は尋ねた。蘭の質問に苺は驚いたように顔を上げて、瞬きを繰り返しながら言う。

「え?普通に入学しましたよ。お姉ちゃんと違って、真面目に勉強しましたし…」

 律儀に答える苺の声は段々と小さくなっていった。周りの視線を気にして、目を泳がせている。苺の回答に、それは当たり前のことだろう、とは言わずに蘭は肩の力を抜いた。

 落ち着こう、と言い聞かせて提案する。

「…今、少し時間大丈夫?」

「えっと…はい。大丈夫です」

「じゃあ、場所を移動しましょう」

 何を話せばいいのかも分からない。でも苺と二人で話がしたい。

 掴んだままだった腕を引っ張って、蘭は歩き出す。そんな蘭の背中を見ながら、苺は聞こえないように小さくため息を零したのだった。


「で、なんで浅葱達まで同席するのよ」

 ランチルームのいつもの一角で、紙パックのジュースを二本買って目の前の苺に差し出した。一人分の距離を置いて、浅葱と蘇芳、鴇が座る。

 昼ではないので人は少ないが、ぼちぼち人がいるランチルーム。

 近くに人はいないが、遠くから何人かの生徒は蘭達の様子を伺っている。浅葱が素っ気なく言い返す。

「別にいいだろ。こっちは気にするな」

「そう言う浅葱が気になっているだけでしょ。まあ、俺は面白そうだからいるだけなんだけど」

「邪魔なら、離れる」

 浅葱、鴇、蘇芳の順に言われて、蘭は口を閉ざす。

 蘭達の様子を見て、苺は始終楽しそうな笑みを浮かべていた。そして、ゆっくりと口を開く。

「本当に、お姉ちゃんの言う通り」

「…柘榴に会ったの?」

 まさか、と思いながら震えそうな声で尋ねた。

 ポカンとした苺は、慌てて首を横に振る。

「違います!姉は行方不明なんですよね?随分前に実家に帰って来た時に話してくれたり、行方不明になる前に電話で話している時に聞きました」

 内心動揺していた蘭は落ち着きを取り戻し、ホッと息を吐く。

「そう、よね。ごめんなさい」

「いえ…私、入学してからずっと、蘭さんを中心に皆さんのことを見ていたんです。お姉ちゃんや希さんの話を聞きたくて。でも私と話すと、お姉ちゃんを思い出すのかな。て、そう思うとなかなか話しかけられなくて」

 蘭が買ったジュースを開けずに持ったまま、思い出すように言う。

「何度か話しかけようかな、て思ったこともありました。でも、皆さん私の先輩で。話しかける勇気も持てなくて、結局いつも遠くから見ていることしか出来なかったんです」

 だから、と照れたように苺は笑う。

「今日、ようやく話せて嬉しいです。ちょっと、緊張はしているんですけど」

「そうだったの」

 知らなかった、と続けそうだった言葉は呑み込んだ。苺は、はい、と元気よく言い、あ、と声を上げた。

「そうだ!話せたらお姉ちゃんの手紙を見せよう、と思って持ち歩いていたんです。たった一文で、素っ気ないですけど」

 言いながら、苺は鞄の中を探る。取り出した手帳、挟んであった封筒を苺は笑顔で、蘭に差し出した。震える手で封筒を受け取り、手紙を開く。

 柘榴の文字で、たった一文。

「『ちょっと、旅に出ます』」

「家族宛に、これですよ。笑っちゃいますよね」

 クスクス苺は笑い出すのに、蘭は笑えない。

 手紙を凝視している蘭の後ろから、浅葱達が手紙を覗き込む。

「うわー、赤いのこれだけかよ」

「でも柘榴ちゃんらしい」

「確かに」

「チビもなんか言えよ」

 笑って浅葱が蘭の方を見た。蘭は泣くのを耐えるように、手紙で顔を隠し顔を下げる。泣き顔を見られまい、とする蘭を微笑ましげに見守る苺が静かに語り出す。

「『もしも蘭ちゃんが泣いていたら、大丈夫だよ。て、伝えて』…これ、その封筒の裏に小さく書いてある言葉ですよ」

「本当だ。柘榴ちゃん、そんな心配していたんだね」

 机の上に置いておいた封筒を裏返した鴇が言った。鴇は小さな文字で、確かに書いてある文字を、浅葱や蘇芳にも見せる。

 苺の、柘榴からの言葉で涙腺が緩んだ。

 ポタポタと落ちる涙を、慌てて拭う。

「ざ、柘榴のことは――」

 何を言っても言い訳にしか聞こえない。それを承知で蘭は何かを言おうとした。言おうとして、言葉が詰まった。

 蘭と出会っても、苺は怒りも泣きもしない。

 目の前にいる苺は、ただの女子高生だ。

 苺には柘榴と希が行方不明になった、と伝わっているはずだ。詳しいことは柊は話していないはずだが、苺は自身で納得出来る答えを出している。

 きっともう、蘭が言えることはない。

 蘭の肩を浅葱が優しく叩いてから、隣に座る。その隙に、鴇は苺の隣に座って、遠慮なく尋ねる。

「ねえ、苺ちゃん。苺ちゃんはどうしてこの高校に?」

「私ですか?私は少しでもお姉ちゃんの傍に行きたくて、この高校を受験したんです。寮がある高校で、お姉ちゃんがいる場所の付近だと限られていましたから」

 苺の相手を鴇がしている間に涙を止める。

 蘇芳は椅子ごと移動して、テーブルの端、蘭と苺の間に黙って座る。

「一年?」

「はい、一年です。体験入学の時も思ったんですけど、大きな学校ですよね?大きすぎてびっくりしました」

「分かる、分かる。俺も最初の頃迷子になりかけたし」

 苺は蘇芳と鴇相手でも、遠慮なく話す。そう言う性格は柘榴そっくりかもしれない。

 じゃあ、と突然嬉しそうに鴇が声を上げた。

「部活は?もう何か入っている?」

「部活、ですか?いえ、時々写真を撮るのが趣味なので、特には?」

 不思議そうな顔で苺は言った。

 鴇の意図を読み取ったのか、浅葱が聞く。

「よし、妹。お前、俺らが結成するクラブに入れ」

「浅葱、言い方変えたら?」

 命令形で言い切った浅葱に、ボソッと蘇芳は言った。名前を呼ばず、妹、と呼ばれても苺は気にしていない。首を傾げている苺に、浅葱が言葉を続ける。

「活動内容は、ランニングとか組手とか。妹だから出来るだろ?」

「無理です!無理です!お姉ちゃんと違って、私体力ないですから!」

 右手を必死に振る苺。

「でもさ、クラブ申請にはあと一人必要なんだよ。お願い出来ない?」

「嫌です!無理です!他の人を当たって下さい!」

「そこまではっきり言わなくても」

 鴇が両手まで合わせてお願いしても、苺は承諾しない。断固拒否する様子は、何となく柘榴に似ていて、蘭は小さく呟く。

「やっぱり、姉妹だから似ているわね」

「あ、本当ですか?ありがとうございます」

「お礼を言われることは言ってないんだけど…」

 呆れている蘭に、苺は嬉しそうに笑顔を向けた。じゃあ、と珍しく蘇芳が意見を述べる。

「記録係は?」

「何をするんですか?」

「俺らのタイムを計ってもらう、とか」

 蘇芳の提案に苺は悩み出す。体力に自信がないだけで、別に蘭達と一緒にクラブが嫌ではない様子に、ホッとしているのは蘭だけ。

 そうね、と蘭も言う。

「記録係がいてくれた方が、私達のやる気も上がるわ。無茶なことは頼まないし、それでも入ってもらえないかしら?」

 ジッと苺を見つめれば、気まずそうに視線を逸らされた。

 駄目か、と蘭も視線を下げれば、苺が本当に小さな声で言う。

「…先輩達、目立つじゃないですか?」

「え?」

「は?」

「どゆこと?」

 蘭、浅葱、鴇はほぼ同時に言い、蘇芳も黙ってはいるが、不思議そうな顔になる。視線が集まった苺は言いにくそうに、話す。

「皆さん、裏でファンクラブ出来ているんですよ。あんまり深く関わると、私が色んな人に目の敵にされそうで…それはちょっと遠慮したいな、と」

 ファンクラブ、と言う単語を初めて聞いた。

 鴇と蘇芳は知っていたようであまり驚きはしないが、蘭と浅葱はお互い視線を合わせ、どういうことか、目で会話する。

 蘭も浅葱も、何も知らない。会話は成り立たず、机を叩く勢いで立ち上がると同時に叫ぶ。

「「聞いてない!」」

「え、知らなかったんですか?有名ですよ?」

 蘭と浅葱の驚きにつられて、苺も驚く。仕方がない、と言わんばかりに鴇が話し出す。

「二人とも座りなよ。ちょっと写真を撮られたり、話しかけられたりするだけじゃん」

 蘇芳が頷くが、蘭も浅葱も全く話を聞いていない。立ったまま、蘭は言う。

「ファンクラブ、なんて希なら分かるけど。何で私なの!?」

「だよな。なんでチビを。それなら俺が――」

「俺が?」

「ち、ちがっ!!間違えたんだよ!!!」

 続きを言わずに、浅葱は真っ赤になった。聞き出そうと顔を近づければ、耳まで赤くして蘭から離れようとする。浅葱は続きを言おうとしない。

 その様子を、微笑ましげに鴇と苺は見守り、蘇芳はため息をつく。

 蘭の追求が始まったので、それで、と蘭と浅葱の方など見向きもしないで、蘇芳は苺に問う。

「どうする?一度関われば噂は広まるだろうし、クラブに入らなくても。目立つことは避けられないと思うけど?」

「それは、そうなんですけどね」

 廊下で蘭に見つかった時点で、その可能性を考えていた苺は素直に頷く。

「今日楽しくお話しして、はいお終い。なんてことにはなりませんよね?」

「少なくとも、今話を聞いていない三人は君に話しかけると思う」

「ですよね」

 と言った苺は、少し考える。

 考えたのち、ガタン、と音を立てて椅子から立ち上がった。

 言い合っていた蘭と浅葱、それを見て笑っていた鴇とさっきまで苺と話していた蘇芳の視線が苺に集まる。視線を受け、苺は決意をした顔で、あの、とはっきりと述べる。

 言い終わるや否や、深々と頭を下げた。

「私なんかでよければ、クラブに参加させてください。お願いします」

 苺の予想外の行動に、誰もが驚く。恐る恐る顔を上げた苺の瞳に、自然と笑みを浮かべた蘭の姿が映った。目が合った蘭は、嬉しくなって笑う。

「これからよろしくね」

「はい!」

 元気に返事をした苺の笑顔はやっぱり柘榴に似ていて、面影が重なった。


 結局、浅葱達が卒業してクラブ活動は呆気なく終わった。

 たった九ヶ月だけ存在したクラブ名は、訓練部。

 クラブがなくなってもランニングを続ける、と言った蘭に、浅葱は何故かいつも付き合ってくれる。蘇芳と鴇も誘ったが、あっさりと断られた。

 苺との交流はその後も続き、学校でも顔を合わせれば話すし、休日は時々一緒に買い物に行く。それが、今の蘭と苺の関係である。




 苺との出会いを思い出しながら、蘭はメールを開いた。

「『蘭ちゃんへ。今日の放課後に一緒に買い物に行きませんか?』」

 蘭ちゃん、と呼ばれて感じる違和感。

 基本的に、苺は蘭達を先輩と呼ぶ。間違っても、ちゃん付けで呼ぶことはない。学校の友人でもちゃん付けで呼ぶ人はいないし、最初に思い浮かぶのは柊ともう一人。

 もう二年も姿を見せない、柘榴。

「まさか、ね」

 寝ぼけていて、間違って送ったに違いない。でも、なんか変だ。いつもなら、行きませんか、ではなく、行きましょう。と、送って来ていたはず。

 それにこんな早朝にメールが来るのは初めてのこと。

 おかしいな、と思いつつも、浅葱との約束の時間が迫っているので手短く返信を返す。

 後で直接苺の教室に行って確認しよう、と思って蘭は部屋を出ることにした。

 鍵と鞄と、制服と。必要なものを持った後、机の前に行く。

 机の上に置いてあるのは、一つのアルバム。壁には高校での写真も何枚か貼ってあるが、一枚だけ。真っ白な写真立てに入った写真を見て、蘭は微笑む。

「行ってきます」

 柘榴と希と蘭の三人で撮った写真。

 合宿の時、森を背景にして撮った写真。引きつった顔の蘭と、両脇に笑顔の柘榴と希が写った写真は、高校に入ってから定位置に置いてある。

 変わったことも多いけれど、変わらないこともある。

 時間は止まることなく流れ続ける。そして一日たりとも、無駄な日などない。

 蘭は振り返ることなく、ドアに向かった。


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