41 逃避編02
ドアが勢いよく開いた途端、多数無勢の敵が目の前に現れた。
何十発もの銃弾を、柘榴の日本刀が切り裂き、希の風が軌道をずらす。数分間の交戦、銃弾のせいで荒れた部屋の真ん中で、柘榴と希は立ち尽くす。
侵入者の中心で銃を構え、一人仮面を付けていない女性。
いつもの優しげな面影はなく、悔しそうに顔を歪めた人物は小さく呟く。
「化け物め」
その言葉は柘榴と希に届き、驚きを隠せない。
「どうして?」
柘榴の一歩後ろにいた希の掠れた声が部屋に響く。日本刀を構えたまま柘榴は唇を噛みしめ、それからキッと睨んだ。
「そんな銃じゃ、殺せませんよ…香代子先生!」
名前を呼ばれた女性、香代子が銃を下げた。微笑んで、言う。
「そうみたいね。数撃てば当たる、なんて甘い考えだったみたい」
「本当だよ…目的は、何?」
冷や汗が背中を伝う。
医務室への入口は侵入者の男達によって塞がれ、逃げ場がない。戦って逃げてもいいが、追い込まれた状況で手加減できる気がしない。
柘榴の質問に考えるような素振りを見せてから、香代子は口を開く。
「貴方達を、殺すこと以外に考えられる?」
「殺しても、何も残りませんよ」
声が震えないように希は柘榴の横に並び、負けじと香代子を見つめて言った。希の震えていた手が、柘榴の左手に触れた。
怖いのは希だけじゃない。
香代子は不気味に笑う。
「そうかしら?原石を持つ貴方達がいれば、死んだ後に残るのは原石のはずでしょう?」
「原石を手に入れて、どうするつもり?」
強気で言った柘榴は、そっと希の右手を握る。
希を守る、その気持ちが強くなる。
「いずれは壊すわ。まだ、色々利用させてもらうけれどね」
そうそう、と言って香代子は思い出したように言葉を続ける。
「今まで色々な宝石の実験をさせてもらったのだけれど、柘榴ちゃんの叔父さんにもお世話になったわ。私がちょっとたぶらかしたら、本契約の実験までしてくれて、感謝しているの。ありがとう」
クスクス笑う香代子は、まるで今日初めて会った人のような気がする。
柘榴と希の質問に律儀に答えてくれて、機嫌のいい香代子。柘榴は馬鹿にするような笑みを浮かべた。
「それで?もう戦いは終わり?そっちは打つ手なし?」
「そんなわけがないじゃない。飛行船の中には私の仲間が沢山いて、爆弾も仕掛けたの。貴方達のお仲間は、皆人質。これから全員、死ぬの」
「…そんなこと、させない」
段々と怒りが込み上げてきた。
香代子は勝手だ。そんな勝手、許せるはずがない。
「じゃあ、どうする?貴方達はここで大人しく、殺される?仲間を見殺しにして、逃げる?それとも紅茶に盛った毒で、自ら死を選ぶ?」
紅茶、と言う単語で希がバッと口を押さえた。俯いた希の行動に、香代子がほくそ笑み。
柘榴も紅茶を飲んだが、身体に変化もないしそれどころではない。
「殺させないし、逃げもしない」
「…柘榴さん、そのまま気を引いていて下さい」
ボソッと希が俯いたまま呟いた。握りしめていた手を軽く握り返せば、希も握り返す。
深く息を吸った希が集中しているので、柘榴は声を張り上げる。
「あんたみたいな奴、絶対に許さない!皆を巻き込んで、危険な目に遭わせて…ずっとずっと信じていた人を、裏切った。それを私は、許さない!!!」
日本刀を香代子に向ける。
香代子は逃げも隠れもしない。面白そうなおもちゃを見るような顔で、ただただ微笑んでいる。
希が左手を、前に出す。
希の瞳が、一瞬だけキラリと宝石のように煌めいた。
「退きなさい――」
凛とした声が響いた。その途端、希の左手から突風が生まれ香代子と男達を壁に吹き飛ばそうとする。その一瞬を見逃すまいと、希は柘榴の手を引いて駆け出す。
「行きましょう!」
「了解!」
走り出した柘榴と希の背中を、風が後押ししてくれる。
香代子と男達が身動きが取れずにジタバタするが、相手にしている余裕はない。もう飛行船の中にはいられない、と悟った柘榴と希は逃げるように医務室を飛び出した。
柘榴と希は力を使って医務室から逃げた。希が部屋からいなくなれば徐々に風は収まり、自由に動けるようになった香代子は自身の身体の無事を確認する。
あの二人が他人に怪我を負わせることは、極力避けるだろう。
逃げることは想定内。
食堂の連中と連絡が取れなくなったが、それも想定内だ。本部の連中、特に柊達は侮れない。そのための爆弾。柘榴と希を捕まえるため時間稼ぎのための爆弾。
爆弾と人質、その二つがあれば、柘榴と希が飛行船からすぐに逃げるなんてことはしない。
ずっと待っていた。
宝石の原石が全て、飛行船に集まる瞬間を。
終冶は戦うことを渋っていたが、最後は言う通りに働いて、柘榴と希のラティランスを呼び出す手助けをしてくれた。おかげでガーネットとエメラルドのラティランンスを確認することが出来た。
後は、柘榴と希を殺して原石を手に入れる。
そのために、今日までずっと生きていた。
偽っていた日々は今日でお終い。香代子は笑顔で、傍にいた男達に言う。
「それじゃあ、空中庭園に行くわよ。あんた達も行くんでしょう?」
「ああ」
侵入者の男の一人が頷いた。
男達は組織の支部の人間で、仲間にするのは容易かった。宝石の力に、憑りつかれていたのは香代子だけじゃなかったのだから。
ドタバタと足音が医務室に近づいてくる。
銃弾と聞き慣れた声。
「退きなさい!」
少女の必死な声。
「チビ!前に出過ぎるな!」
「浅葱もだよっ!」
蘭と浅葱、それから鴇の声は医務室の奥の部屋にまで響いた。
医務室の前に控えさせていた男達と戦っている。香代子は医務室に戻り、他の男達に命令する。
「あの三人の相手は私がするわ。貴方達は少しここで待ちなさい」
「ですが――」
「いいから!」
苛立つように叫んで、睨む。香代子の気迫に押されて、男は引き下がった。
さあ、挨拶をしよう。と、香代子は医務室のドアをゆっくりと開けた。
医務室の外で、蘭と浅葱、鴇は男二人との銃弾戦を終えた。
蘭が侵入者の男の右腕を、浅葱がもう一人の男の銃を撃ち、動きを止めた。その隙に鴇が接近して、木刀で気絶させた。男達は戦いが上手い方ではない。
医務室に向かう途中で手に入れた武器は、拳銃三丁と木刀一本。それだけで十分戦える。
医務室に来る途中にも侵入者はいたが、他の部署の連中の手助けもあって医務室に着くのは容易かった。
それもここまでだ。
医務室のドアまで数メートルなのに、その距離が遠い。柘榴と希がいるはずだから行かなければいけないのに、足が重い。
医務室の中にも、侵入者がいる。
柊の情報が真実ならば、裏切った人物が医務室の中にいる。
銃を構え、じりじりと医務室に近づく。
ドアまで二メートルほどの距離にいた時、医務室のドアは開いた。
「香代子…」
「どうしたの?蘭ちゃん、そんな怖い顔――」
して、と言い終わる前に、驚いた顔の香代子に向けて、蘭はゆっくりと銃口を向けた。
廊下へ出ようとした香代子の足が止まる。
驚いた顔で、蘭と浅葱と鴇の様子を見ている。浅葱も鴇も、蘭と同じように香代子に向けて銃口を向けて動かない。
信じたくなかった。
柊からの通信で、香代子が黒幕であると信じたくなかった。
手が、震える。
前の前にいる香代子を、撃ちたくない。
苦しそうに顔を歪めているのは蘭だけで、浅葱も鴇も隙を見せまい、と真剣な顔で標的を見つめる。
「…ふふ、ふはは!あはははは」
狂ったように腹を抱えて笑い出した香代子。次に顔を上げた瞬間に、その表情が変わっていた。
「なーんだ。ばれていたのか、残念」
バンッと銃声が響く。
香代子の右手にある銃は煙を上げ、鴇が脇腹を押さえて蹲る。
「「鴇!!!」」
「――っぃたい、けど。平気、平気」
弱々しく鴇が呟くが、腹を押さえている右手が血で真っ赤に染まる。隠れる場所なんてない。だから、蘭と浅葱は戦うしかない。
浅葱の銃弾は香代子の銃を弾いた。
舌打ちした香代子は身を翻し、医務室の中に隠れる。
蘭は引き金に手を添えていたのに、撃てなかった。
「ねえ、蘭ちゃん。聞こえている?」
「ええ、一応ね」
浅葱は撃たれた鴇を壁の方へ、移動させる。警戒を怠らない蘭は二人と一緒に下がりつつ、医務室のドアに銃を向け、ドアを睨みながら答えた。
ドアから出てきたらその瞬間を狙う、そのために銃を構える。
香代子が問う。
「…どうしてあの二人を守ろうとするの?」
「友達だからよ」
親友、仲間、大切な人。二人がいたから、今の蘭がいる。そんなことを香代子に熱弁しても、きっとその想いが届くことはない。香代子の声だけ聞いていれば、いつもの香代子のような気がする。
でも、もう違う。今はもう、蘭が知っている香代子ではない。
敵、だ。
「化け物なのに?」
「柘榴と希は、化け物じゃないわ」
「化け物よ。銃でも殺せない。毒を盛っても死なない。もう十分、人間ではない」
「違う!!!」
噛みつくように言い返す。ドアがほんの少し開いた。
「…もう、あの二人はここにはいないわ。他を探しなさい」
優しい声だった。
医務室のドアから、小さな何かが転がって来た。煙が出ている。爆弾ではない。前にどこかで見たことがある、その小さな物体が何か悟るか否か、蘭は浅葱と鴇を振り返って叫ぶ。
「口を塞いで!睡眠ガスよ!!!」
言うと同時に口を押さえて息を止めたが、少し遅かった。ガスの近くにいた蘭は身体から力が抜けて、膝をついて座りこむ。浅葱も鴇も口を押さえるが、辺りは瞬く間に真っ白な煙で覆われる。
周りがよく見えない。
香代子と侵入者達が医務室から蘭達のいる場所と逆の方向へ、悠々と歩いていく。
追いかけなきゃ、と思うのに身体は動かなかった。
気を失いそうになって、浅葱の呼び声で意識が戻る。
「チビ!おい!」
「…大丈夫、よ」
そんなにガスは吸っていない。それより心配なのは、鴇の方だ。顔色が青白く、出血多量でこのままでは命が危なくなってしまう。
応急処置なら、蘭でも出来る。医務室の中に駆け込んで、道具を片っ端から探して鴇の元に戻る。サッと奥の部屋を確認したが、香代子の言う通り柘榴と希の姿はなかった。
銃弾の跡が部屋の至るところにあった、それだけだ。
すでに奥の部屋を確認していた浅葱は、通信機で柊に問う。
「怪我人は、どこに運べばよろしいですか?」
『食堂だ。誰が怪我した?』
「鴇です。それから医務室に、二人はいません」
『敵は?』
「すみません、見失いました」
『…そうか』
素っ気ないが、悔しそうな声だった。
『鴇くんを食堂まで運べるかい?無理なら別の人間を――』
「えー、俺。まだ戦えますよー?」
「無理すんな。すみません、近くに担架があるなら、担架と人を」
『分かった。すぐに向かわせる』
柊の通信は切れた。鴇は明るく振る舞っているが、無茶をしているのは見れば分かる。包帯を巻くたびに痛がる鴇に、蘭は申し訳なさそうに言う。
「ごめんなさい、鴇。私が香代子を撃っていれば…」
「蘭ちゃんが謝るなんて、珍し。気にしないで、むしろ俺が撃たれてよかったぐらいなんだから」
「何を言っているのよ」
「だって蘭ちゃんが撃たれたら、柘榴ちゃんと希ちゃんを守れない。浅葱が撃たれたら、蘭ちゃんを守る人がいなくなる」
「何よ、それ」
こんな時でも冗談を言う鴇は、正直羨ましい。
足音が近づいて来る。廊下の端から、誰かが駆け寄って来る姿が見えた。本部の人間の数人と、担架が一つ。侵入者ではないのを確認した蘭はホッとするが、鴇は、ねえ、と声を掛ける。
「二人とも、行って。三人一組じゃなくなるけど、今すぐ追いかけなきゃ、きっと追いつけない」
「鴇、お前…」
「そんなこと…」
動こうとしない蘭と浅葱を見て、鴇は笑う。
「早く、早く。時間は待ってくれないんだから」
早く、と繰り返す。
追いかければ、また香代子と戦うことになる。でも、香代子を止めなければ柘榴と希を助けることは出来ない。顔を上げられず、しゃがみ込んでいた蘭の腕を浅葱が引っ張る。
鴇の元には本部の人間が駆け寄る、その前に。
「死ぬなよ」
「もち」
真剣な声で言った浅葱の言葉に、鴇は笑顔で返した。その顔を見て、浅葱も微笑む。
迷っていた蘭を、浅葱が無理やり立たせて走り出す。走りながら振り返った鴇は手を振り、浅葱と蘭を見送っていた。
鴇の倒れる音と本部の人間の必死な呼びかけは、それからすぐに聞こえた。
飛び交う通信。
船長室に向かって走っていた蘇芳は鴇が怪我をしたと聞いて、一瞬だけ足が止まりそうになった。廊下の曲がり角から、船長室まではあと少し。
鴇が怪我をした。大丈夫だ、と信じて今は戦うしかない。
船長室のドアを盾にして、銃を構えていた侵入者達の姿が見えた結紀。先頭にいた結紀が急に立ち止まったので、友樹も蘇芳も飛び出さずに立ち止まる。
曲がり角での銃撃戦はすぐに始まった。
結紀と友樹が銃を撃つ。その後ろで弾を交換する蘇芳。
『柊だ。結紀くん、そっちはどうなっている?』
「頑張っているんですけど、っね!敵さんのお出迎えが意外とド派手で」
『援護のチームも向かわせているから、頑張ってくれよ』
「分かって、ますよ!」
口はよく回るが、状況は良くはない。
船長室の前で銃を構えているのは二人。人数的には優勢だが、侵入者は殺す気でいるのに、蘇芳達には殺すつもりは全くない。ここまで辿り着くまでに、侵入者は何人が倒してここまで来た。怪我をさせ、無理やり武器も奪ったりしたが、命を奪ってはいない。
今回もそれは同じだけれど、ドアを盾にされて弾が当たらない。
「さーて、どうするよ友樹。援護来るまで、待つか?」
「時間が惜しい」
「だよな」
隙を見て銃を撃つ結紀と友樹は、お互いのことを見向きもしないで会話をする。元々蘇芳は喋る方ではないので、二人の会話を聞きつつ何か出来ないか考える。
駄目だ、何も思い浮かばない。
役に立てない、と落ち込んでいた蘇芳の方を、結紀が笑顔で振り返る。
「俺、いいこと思い付いた」
「何だよ」
ドアから目を離さない友樹は、素っ気なく言った。銃弾戦は一時中断していて、お互い相手の出方を調べるように静かな空間になっていく。
結紀は通信機で柊に問う。
「柊さん、船長室の中の侵入者の数は?」
『…二人だけ、だな』
「了解」
その問いが聞けて満足とばかりの顔をして、結紀は小声で話し出す。
「船長室のドアの奥、廊下の突き当たりにある非常口を開けちまおうぜ」
「開けてどうするんだよ」
「その直後に柘榴の名前を呼ぶ」
「は?」
「はったりだよ、はったり。柘榴達が来たと思えば、誰だってそっちを振り返る。その隙に俺と友樹は強制突破だ」
「そんな上手く行くとは思わないけどな」
「駄目元上等。蘇芳、非常ボタンのスイッチを一発で撃ち抜けるよな?」
結紀はニヤリと笑っている。友樹は呆れているが、それでも無理だ、とは言わない。
出来ない、とは言わせない結紀の瞳で見つめられて、蘇芳は考える間もなく頷く。
「出来ます」
「よし。足音が聞こえれば、あいつらはすぐに銃を撃つ。けど、足音が聞こえなければ現状維持。援護が来る前に、終わらせるからな」
友樹も蘇芳も、しっかりと首を縦に振った。
蘇芳が前に出てそっと顔を覗かせれば、侵入者の姿は見えない。隠れている侵入者達のいるドアの奥、非常口のボタンをすぐに確認する。
ボタン一つは小さくて、十円玉ぐらいの大きさ。
外すことは許されない。
しゃがんで、的を狙う。無意識に緊張していく蘇芳の背中を、友樹が軽く叩いた。驚いて振り返った蘇芳の顔を見ず、友樹は非常口の方に顔を向けて言う。
「失敗してもいいからな。失敗しても、次の作戦を考える」
「…大丈夫、ですよ」
失敗はしない。少しでも早く、友樹を希のいる場所に向かわせたい。
焦点を、合わせる。そして、引き金を引いた。
非常口のドアが開く。
「柘榴!今だ!!!」
蘇芳の銃弾が鳴った直後、結紀が叫んだ。
まさに柘榴がいるかのような声で、侵入者達は驚いて銃を発砲した。発砲した銃弾は勢いよく開いた非常口の外へ、何もない空間に消えた。
蘇芳の仕事はまだ終わっていない。
結紀と友樹が駆け出したので援護するために、侵入者の持っている銃を狙う。
慌てて結紀と友樹を狙う侵入者達の標準は、すぐには定まらない。その隙に蘇芳は迷わず二発、発砲した。銃が地面に落ちる、その前に。
結紀は侵入者の男の一人の腹目掛けて思いっきり足を回し、壁の方へ蹴り飛ばした。友樹はもう一人が銃を拾おうとする前に、その頭に銃を当てる。
一人は壁際で気絶し、もう一人は銃を突きつけられて動きが止まる。
「終わりだ」
友樹の声が響いた。
お見事、と言わんばかりに口笛を鳴らした結紀は、颯爽と船長室の中に入る。蘇芳は立ち上がり、男の手足を縛り上げる友樹の元に駆け寄った。
「友樹先輩、怪我はないですか?」
「ああ。蘇芳、ありがとな」
一瞬だけ蘇芳を振り返った友樹が微笑んで、お礼を述べた。
「いえ」
役に立てたこと、それから今まで頑張ってきてよかった、と素直に喜ぶ蘇芳とは対称的に、真顔になった友樹は喚く男の口をガムテープで塞ぐ。男が五月蠅すぎたからか、問答無用で口を塞いだ友樹は満足そうな顔になり、蘇芳に言う。
「もう一人の方、頼んでいい?」
「はい」
張り切った顔で返事をした蘇芳を見て、友樹は安心したように船長室の中に消えた。
侵入者二人の手足を動けないようにして、最後に船長室に入った蘇芳。
手足を縛られていた船長は結紀によって助け出され、手足を動かしながら蘇芳の顔を見て笑いかけた。
「柊さん、船長は無事ですよ。他の現状は?」
『蘭ちゃんと浅葱くんは、二人で空中庭園を目指している。敵が…香代子が空中庭園に向かっているようだから、それを追っている』
「爆弾の方は?」
『一つは解除済み、もう一つはまだ捜索中』
事務的に、結紀と柊は話す。
「あの」
「「ん?」」
蘇芳が声を上げたので、結紀と友樹が振り返った。注目をされると話しにくいが、蘇芳は一度船長の様子を見て、それからはっきりと言う。
「俺、ここで船長と他の人が来るのを待ちます。お二人は先に空中庭園に進んでください」
「いや、でも。俺ら三人で船長を護衛しないとだか――」
「爆弾を仕掛けた本人が、爆弾を持っているかもしれません」
結紀の言葉を遮って言った蘇芳の真剣な様子に、結紀も友樹も口をつぐんだ。蘭の意志を尊重して医務室に行かなかっただけで、二人だって追いかけたい気持ちはあったはずだ。
船長は助けた。
蘭と浅葱を追って、柘榴と希を助けに行って欲しい。
それが蘇芳の願いだ。
無言になった空気を、破ったのは落ち着いた船長の静かな声。
「行きなさい、二人とも」
船長の指す二人は、結紀と友樹。船長に言われて、友樹が戸惑った顔になる。けれども結紀は違う。しっかりと頷く。
「はい、そうさせていただきます」
「いいのか?」
友樹の質問に、結紀は軽く頷く。
「蘇芳、後は任せたからな!」
「はい!」
力強く頷いた。鴇と一緒で途中でリタイアになるが、それでもよかった。振り返らずに駆け出す結紀と友樹の背中を、蘇芳は黙って見送るのだった。
「――っ!」
突然速度を落とした希が、立ち止まって右手で口元を押さえていた。
「っう」
苦しそうな顔になって、咳き込んだ希。右手の隙間から零れ落ちたのは、赤い血。
「希ちゃん!?」
「だい、じょうぶです」
大丈夫な顔じゃない。医務室を飛び出してからは人目を避け、上へと駆け上がっていた。無我夢中だったから、途中から柘榴が希を引っ張る形で走っていた。
毒が効いている、のだと思う。
もう少しで空中庭園に辿り着く。その前に、と柘榴は希の肩に腕を回し、近くの空いていた部屋に入った。そこは誰でも使える休憩室で、少し狭い部屋。入口にあった灯りを点けるのは止め、そのまま部屋のソファに希を運ぶ。廊下が明るいから、部屋の中は薄暗い。
ソファに座った希は深く座りこみ、申し訳なさそうに呟く。
「すみません、柘榴さん。こんなところで休んでいる場合ではないのに」
「そんなことないから。私も、ちょっと疲れちゃったし」
そう言いながら、柘榴も希の隣に座った。座ると、疲れがドッと押し寄せた。休めるなら、ずっとこのまま休んでいたい。
それは無理だ、と考えて柘榴は静かに言う。
「どうする?原石を破壊した後、逃げ続けるなんて…無理だよ」
「そうですね。空中庭園に行って、原石だけは絶対に破壊します。その後は…その時考えます」
弱っているはずなのに、真っ直ぐに前を見据えて希は強気で言った。
原石の破壊。
それしか希は考えていないので、柘榴は空中庭園を思い浮かべる。
庭園の中心には、小さな丸テーブルの上にアンティークなランプが一つ。その周りに色とりどりの花が咲き乱れていた。
十二の花、十二の宝石。十二と言う数字が、偶然のはずがない。
空中庭園に、宝石の原石がある。それは、確信。
爆弾は、と言おうとして止めた。
爆弾は柘榴と希の力でどうにかできるものじゃない、とお互い分かっている。破壊して、そのまま爆発するかもしれない。そんな危険を、冒すことは出来ない。
よし、と気合を入れて立ち上がる。
今の柘榴が出来ることは、宝石を破壊すること。希を守ること。
それだけだ。
左手を希に差しだし、柘榴は笑う。
「希ちゃんの身体が心配だから、敵がいたら私が倒すね」
「本当に、ごめ――」
「ごめん、じゃなくて。お礼がいいな」
遮った言葉に少し驚いた希は、すぐに嬉しそうに微笑んだ。希の右手が柘榴の左手と重なる。
「本当に、ありがとうございます」
「いえいえ」
重ねた手、お互いの存在を確かめるように握った。
食堂で爆弾処理係に任命された陽太は、血まみれの鴇が担架で運ばれてきたのを見てギョッとした。
「おいおい、大丈夫かよ」
「…うわ、陽太さん」
陽太の声に反応して目を開けた鴇は、心底残念そうな声で言った。
食堂はいつの間にか、三分の一が怪我人のスペースとなっていた。治療の道具はほとんど食堂に運ばれてきていて、手術並みのことを平気で食堂で行う。
食堂に怪我人として運ばれてきたのは鴇だけではない。何人かは重傷で、さっきから治療を受けている。鴇の方にも医療担当の人間が付いて、怪我を治療し始める。
親方は見つけた一つ目の爆弾を解除しに行って帰って来てないので、もう一つの爆弾が見つかるまで陽太は食堂で待機するしかない。
鴇の怪我は大怪我のはずなのに、意識ははっきりしているので陽太は付き添うことにした。
「お前、結構重傷?」
「話しかけないで下さいよ、病人に」
そう言われても、怪我の様子が気になる。一応怪我の容体を医療担当者に訊ねると、後で病院で精密検査はしてもらうことになる、と言っていた。幸い、弾は貫通。腹に当たった銃弾は、腹ど真ん中ではなく端の方。蘭がすぐに応急処置もしているし、命の危険はない。
治療中の鴇にも聞こえていたはずだが、もう一度言う。
「病院、だってさ」
「まじ、勘弁なんですけど」
段々と小さくなった声。同時に両腕で顔を隠すようにした鴇に、陽太は不思議そうに問う。
「鴇、どうかしたのか?」
訊ねた後に気が付いた。
鴇は、泣いていた。悔しそうに、涙を隠しながらも話し出す。
「さっきまで、俺。ここで陽太さんや親方さんに囲まれて、楽しかったんですよ。それで、思い出しちゃったじゃないですか。さっきまで、ここで話していたこと」
ほんの数十分前までは、食堂で陽太と親方が鴇の告白について根掘り葉掘り聞こうとしていた。案外口が堅い鴇は喋ろうとせず、そうこうしているうちに侵入者が乱入した。
「お前、さっきは話そうとしなかったじゃねーかよ」
「今だから、聞いて下さいよ」
一息入れて、鴇はゆっくり語り出す。
「俺、きっぱり振られました。『好きな人がいるから付き合えません』って。その言葉を聞いて、悲しかったけど、同時に思ったんですよ。幸せになって欲しい、って」
うん、と相槌を打つ。
「俺、もっと強くなりたかった、です。振られても、好きになった子を守れるくらい、強くなりたい、て。今更遅いけど、遅すぎるけど、そう思ったんですよ」
情けないっすね、と言って鴇はそれっきり黙った。唇を噛みしめて、泣くのを止めようとする鴇。
無力を突きつけられて、悔しいのは鴇だけじゃない。
「頑張ったな、お前」
優しく言った言葉に、鴇は微かに頷いた。
頷いて、声を上げないように泣き始めた。
そっと鴇の傍を離れた陽太は、ただただ祈る。どうか柘榴と希が無事でありますように、と。
空中庭園の入口には、数人の侵入者達が銃を構えて待っていた。希の手を引き走る柘榴の姿を確認した侵入者達が、一斉に銃を発砲する。
「効くか、っての!」
言い終わる前に、右手に出現させた日本刀を横に一振りする。
退け、と思ったくらいで他には何も考えていなかったが、日本刀に纏っていた焔は意志を持つかのように侵入者に襲い掛かった。
「便利になったなー」
ボソッと呟きながら、焔を消そうとする侵入者を無視して進む。
焔に襲われたまま柘榴と希に近寄ろうとした侵入者。その腹目掛けて、思いっきり蹴る。鈍い音が、廊下の奥まで響いた。
「…案外、飛んだね」
「ですね」
驚いたのは柘榴だけでなく、希も同じだった。力は入れたつもりだが、加減を知らなかった。廊下の奥まで吹き飛ばされ、倒れた侵入者は僅かに手足が動いているので死んではいない。
侵入者の多くは、柘榴達より焔をどうにかする方で忙しい。
空中庭園のドアの前まで辿り着くと、柘榴は力任せにドアを蹴飛ばした。
「――っ!」
空中庭園に足を踏み入れた瞬間に、バンッ、と銃声が鳴った。
目の前に銃弾が迫ると悟るや否や、冷静な柘榴は低い声で言う。
「消えて」
ほんの数センチ、目の前まで迫った銃弾は焔で燃やされ、灰となって消えた。
空中庭園の真ん中で、香代子は銃を向けて悔しそうな顔をしていた。一歩一歩、前へと進み、数メートル手前で柘榴と希は立ち止まる。
空中庭園の中には、香代子しかいない。
「本当に、どうやったら死ぬのかしら?」
「さぁね?」
「でも、希ちゃんには毒が効いているみたいね」
嬉しそうに香代子が言った。
柘榴の横に並ぶ希は、額から冷や汗を流している。繋いだ手が冷たくなってきて、段々と息も浅くなっている。
時間が、ない。
後ろに気配を感じた柘榴は心の中で、ドアの前に焔の壁が出来るように念じた。言葉なんて要らない。必要なのは柘榴の意志で、侵入者はそう簡単に空中庭園に足を踏み入れることは出来なくなる。
落ち着け、と自分に言い聞かせながら柘榴は話し出す。
「香代ちゃん先生、目的は私達を殺すことで間違っていない?」
「ええ、そうね」
銃では柘榴と希を殺せない、と悟った香代子は構えていた銃を静かに下ろし、でも、と言って笑う。
「希ちゃんはもう間もなく死ぬわ。毒によって、ね」
「…まだ、死にませんよ」
大丈夫だ、と言わんばかりに作り笑いをして希は言った。
「でも安心して。柘榴ちゃんも、この爆弾で一緒に死ぬの」
言いながら、香代子はそっと後ろのテーブルを指す。テーブルの上に、銀色の小さくて四角い箱。
一瞬で何かを悟り、柘榴の苛立ちは頂点に達して叫ぶ。
「そんな爆弾で死ぬのは貴方だけでしょ!巻き込まないで!!!」
「いいえ、この爆弾は飛行船ごと破壊するわ。それも、あと十五分もしないうちに。それが嫌なら、素直に死んで?」
持っていた銃を柘榴に投げつけた。柘榴は足元に落ちた銃を拾う気にはなれず、そのまま放置する。
「嫌」
「可愛くないわね、本当に。それで、これからどうするの?一緒に爆弾に巻き込まれて、死ぬ?」
ううん、と首を横に振る。
「そんなことしない。宝石の原石を破壊する」
柘榴の軽く言った一言に、香代子は声を上げて笑い出す。
「無理よ。宝石の原石は、ここにあるけど隠されているみたいだもの」
「そう、かな?」
柘榴は呼ばれてここに来た。だから、無理だなんて思わない。
瞳を閉じれば、感じるのは宝石の力。十の宝石は地面の底に、飛行船の至るところから感じるのはアクアマリンの宝石、それから柘榴と希の中のガーネットとエメラルド。
前兆はあった。
医務室の中で、確かに呼ばれた。
「『助けに、来た』」
柘榴が呟く。
それは柘榴が、アントラクスが柘榴を通して言った言葉。無意識に発した柘榴の声に反応して、地面が沢山の光に包まれる。
「う、嘘よ!」
香代子が焦って、周りを見渡す。
何が起こっているのかは、柘榴以外分かっていない。柘榴にだって、詳しい原理なんて知らない。けど、出来る。赤く光った瞳を、ゆっくりと開ける。
信じて、柘榴は叫ぶ。
「『私はここにいる!だから、来い!私の元に!!!』」
地面が揺れた。
ぐらりと身体が傾いた希が柘榴にしがみつくが、柘榴は一歩も動かない。
宝石の原石は望んでいた。
破壊されることを。
解放されることを。
柘榴の声に導かれるように、地面から十の宝石の塊が姿を現す。アクアマリンの光が、香代子の真上に集まり出す。それぞれが光を放ち、お互いの光を消すことがない、その光。
「希ちゃん、ここは私に任せてもらえる?」
「…はい」
弱々しく頷いた希は、そのまま地面に座りこんだ。胸元を押さえて、苦しそうに息をする希にこれ以上無茶はさせられない。
柘榴が一歩踏み出せば、香代子はたじろいで一歩下がる。
その香代子の脇を風のようにすり抜け、まずは一番奥にある宝石。
紫の光を目掛けて、柘榴は真っ直ぐに駆け出した。
通信機は、相変わらず慌ただしい。柊が現状報告を逐一してくれるおかげで、柘榴と希が香代子のいる空中庭園にいることは分かったが、その前に倒すべき相手がいて蘭は戦うしかない。
蘭は浅葱と一緒に走りながら、通信機に耳を傾ける。
『蘭ちゃん、今どこ?』
「結紀?そっちこそ、どこにいるのよ?」
『柊さんに聞いて、同じ場所に向かっているところ。武器の調達をしていたから、もうちょっとで合流――おおっと』
おおっと、と言う声は曲がり角でぶつかりそうになった相手からも聞こえた。
「なんだ。ここで合流かよ」
「どうでもいいわよ。そんなこと」
足が止まった。疲れている結紀の後ろにいたのは息切れ一つない、友樹の姿。浅葱は二人の姿を見てホッとした表情を浮かべ、蘭はムスッとした顔になって浅葱を肘で突いた。
「行くわよ」
「はいはい、この場合。リーダーは蘭ちゃんに交代?」
無駄口を叩く結紀の言葉には答えないで、蘭は走り出した。蘭の横に結紀が並び、その後ろを浅葱と友樹が走る。
「待っていて、柘榴、希」
まだ終わっていない。後悔していても遅いのだから、前に進むしかない。
祈るように、蘭は小さく呟いていた。
空中庭園のドアから数十メートル離れた場所で、気絶している男が一人。所々服が焦げている。
「こいつだけ、なんでこんな場所にいるんだよ」
「それより、あっちだろ」
友樹が言っているのは焔を消し終えたばかりの侵入者達、数人。蘭達の姿を見つけ、それぞれ銃を構え始める。隣にいた結紀が、小さな声で数え始める。
「……四、五…八?」
「六、七、抜けてる」
ボソッと友樹が呟いたが、結紀は気にしない。
「一人、二人ずつですね」
「浅葱、俺の分をやるよ」
「要りませんが」
喋りながら一歩後ろに下がった結紀と浅葱のくだらない会話を、無視して蘭は言う。
「行くわよ」
「うわ、出たよ。問答無用で突っ走る作戦」
結紀の言葉を最後まで聞き終わる前に、蘭は一目散に駆け出していた。
立ち止まるわけにはいかない。
助けに行かなければならない。
侵入者の標準が蘭になる、その前に。柘榴と希を助ける、そのためだけに蘭は銃を連射した。
どうして、こんなことになった。
何が起こっている。
香代子の思考は追いつかない。爆弾で吹き飛ばしてでも手に入れようとした宝石が、勝手に宙へと浮いている。この事態を予想出来るはずがない。
ゆっくりと宝石の一つに手を伸ばす。
「やっと、手に入れられる。やっと…」
手を伸ばした途端、見えない力に弾かれた。触れようとしても、触れない。拒まれて、ただ中に浮くだけの宝石の原石を目の前にしても手に入れられない。
「くそ!」
柘榴が日本刀を振り回し、舞うように宝石を破壊していく。
全て計画通りに進まない。腹立たしい。
無意識に噛んだ唇から血が流れて、ふと気が付いた。他と違う宝石の原石が、一つだけある。振り返ってテーブルの真上にある、青い光が瞳に映った。
オリジナルでも、正常な状態ではないアクアマリン。
柘榴に呼ばれて現れたはいいが、他の宝石と違い青く光っている宝石の欠片。欠片は集まりつつあるが、今なら触れられるかもしれない。
アクアマリンなら、と一目散に駆け出して手を伸ばす。
「『駄目だよ』」
凛とした声が、耳元で聞こえた。
驚いて、勢いよく振り返れば誰もいない。もう一度、アクアマリンに目を向ける。
アクアマリンの青い光が集まっていた場所より少し上に、箒に乗った少女がいる。少女の、希の瞳はエメラルドの宝石のように輝き、青い光を右掌に乗せて微笑む。
「『これは、駄目』」
クスクスと笑う少女は、いつもの希ではない。誰も近寄らせないオーラを放っている。
異変を感じて振り返った柘榴が、ため息交じりに言う。
「ちょっと、スマラグドスでしょ。その喋り方」
「『そうだよ。よく気が付いたね』」
「だって、希ちゃんの雰囲気が一気に変わったし。大体、なんで希ちゃんの身体を使っているわけ?」
「『これは仕方がないんだよ。こうでもしないと、希の身体が動かなくてさ。限界が、そろそろ近いみたいなんだ。だから君も、早めに宝石を破壊してくれないかな?』」
はいはい、と言わんばかりに柘榴は宝石を次々に破壊していく。砕かれて、小さな色とりどりの光が辺りに増えていく。
希は香代子に向かって微笑んだ。それから持っていた青い澄んだ宝石を見つめ、空いていた左手で真っ二つに切るような仕草をした。
青い光が辺りに弾け、もう一度集まり出す。
「『これで、もう大丈夫かな』」
愛しい者を見つめるように呟いた。光だったはずなのに、いつの間にかアクアマリンの原石がそこには存在していた。
アクアマリンの原石を、希は上へと掲げる。
「『ほら、最後はこっちだよ』」
「ったく、人使いが荒いんだからっ――!」
飛び跳ねた柘榴が、アクアマリン目掛けて日本刀を振り落す。
それが最後の宝石だった。
柘榴の目の前でキラキラ輝く光の粒。
青い澄んだ光が砕けて空高く舞い上がるように、他の宝石の原石もそれぞれの場所で砕けて小さな光となって、空高く舞っては消えて行く。一つとして同じ光はない。
輝く空間の真ん中で箒に乗っていた少女は、柘榴の近くにふわりと着地して笑いかける。
エメラルドの瞳のまま、笑っているのは希ではなくスマラグドス。
「時間が、ないんだよね?」
「『別の意味で、それは君も同じだけれどね』」
希の姿のスマラグドスに言われて、柘榴は首を傾げる。
「『もう少しで、君は結晶化して消えるところだった』」
「…え、嘘?」
「『まあ、ギリギリってところかな。それよりも、アントラクスに呼びかけてくれないかい?出来れば、急いで』」
「呼びかける、て言われても」
どうすればいいんだ、と頭を悩ました柘榴に、スマラグドスは優しく言う。
「『望めば、答えてくれるよ』」
望む、の意味を考えつつ、心の中で名前を呼ぶ。
【何だ?】
確かに聞こえた声はアントラクスの声だった。
「あ、本当に聞こえたんだ」
【疑うとは失礼な主だ】
聞こえていてホッとするが、心を読まれているようで変な気分もする。こんなに簡単ならもっと前から話しておけばよかったな、と思った。
【聞こえているのだが?】
「ごめんごめん、それで…?」
どうすればいいの、と希の方を見る。
「『これから二人とも、飛行船から飛び降りてもらおうかな?外の方が、空間が広そうだし』」
【分かった】
間を置かずに、アントラクスが言った。
腰を抜かし、傍で一部始終を聞いていた香代子が、訳が分からないと言う顔で呟く。
「どこに行くつもり…貴方達の居場所はないのよ?今も、これからも…」
「香代ちゃん先生は、ずっとそうして見ていればいいよ」
馬鹿にしたように、柘榴は言った。
突然ガクッと身体の力が抜けた希を、柘榴は慌てて支える。瞳の色がいつもの色に戻った希は、下を向いたまま小さな声で言う。
「スマラグドス、お願いします」
【了解】
スマラグドスの声も、柘榴には届いた。
希はまるで今までの会話を全て聞いていたかのように、香代子に向き直る。
「香代子先生、宝石はもうありません。残念でしたね」
残念でしたね、と言った台詞は棒読みで、感情なんて入っていない。
それ以上は話すことがない、と言わんばかりに希は香代子に背を向けた。行きましょう、と言って希が歩き出す。その身体がふらついているので、柘榴が隣に立って支えながら言う。
「希ちゃん、もう少し頑張ってね」
「はい…柘榴さん、今日まで本当に、ありが、とう、ございました」
今にも消えそうな声で、希が言った。
「それは私の方こそ、ありがとうだから」
柘榴の言葉を聞いて、希は無理に笑みを見せようとする。希の身体を支えながら空中庭園の奥の柵の前まで進む。柵から真下を見下ろせば、赤い光と緑の光が二つ輝いているのが見える。
飛び降りる恐怖はない。
ないのは、時間。
希の命が、少しずつ削られている。
「最後まで私が傍にいるからね」
柘榴の声で希は微かに頷いた。柵は腰辺りまでの高さがあるので、柘榴は一瞬でそれを斬った。二人が通れるくらいの幅で、足を踏み出せば真下に落ちる。
もし誰かに会ったら、きっと立ち止まってしまう。柵を越えて、考える。
蘭は泣くだろうか、何も言わないでいなくなって。
浅葱達は泣かないだろうが、蘭を支えてくれたら嬉しい。
柊には最後まで迷惑を掛けてしまった。
キャッシーの作った服は、今思い出せば凄く可愛い服だった。
キャサリンの作ったご飯をもっと食べておけばよかった。
希がいなくなったら、友樹は一番悲しむのかもしれない。
親方と陽太なんて、声を上げて泣くかもしれない。
結紀との約束は。
「年越し蕎麦は、また今度だ」
食べたかったけど、仕方がない。もう時間がない。
「行くよ」
「…はい」
合図をして同時に足を踏み出した。身体がぐらりと前に倒れそうになって、柘榴と希の身体が宙に浮いた一瞬。最後の最後に、香代子の悔しそうな顔でも拝んでやろうと思った。
香代子の顔を見ようと思ったのに、その奥にいた人達に目が釘付けになってしまう。
遠くからでも分かる。
大好きな人達だから、数十メートル先でもそこにいれば分かった。さっき別れたはずなのに、懐かしいと感じてしまったのはこの短時間で色々あり過ぎたせいに違いない。
ドアの前に呆然としている蘭に浅葱、結紀と友樹は駆け寄ろうする。
ここからの距離で声が届くとは思えない。それでも、柘榴は言わずにはいられなかった。心から、感謝している。そして、伝えたいことがある。
「またね」
どうしてだろう。その声だけは、届く気がした。
次にいつ会えるかなんて分からないのに。
もう、戻れないのに。
最後に会えたのが嬉しくて、柘榴は笑って真っ逆さまに落ちた。
空中庭園のドアの前、ほんの数分前のこと。
「こんなに手ごたえないなら、追加の武器いらなかったんじゃね?」
「それより、この先だろ」
結紀の言葉に冷たく言い返したのは友樹。さっさと縛り上げた侵入者を廊下の端に投げ捨て、結紀と友樹はその先の空中庭園のドアに目を向ける。焔の壁のせいで、入ることが出来ない。
先に焔を観察するように眺めていた蘭に、浅葱が言う。
「どうするんだよ、これから」
「どうにかして、入るしかないわね」
「十時まで、あと十分もないからな」
爆弾は、もう一つある。解除された様子はないし、今も本部総出で必死に探している。
爆弾に構っている余裕はない。柘榴と希がこの中にいるのは確実で、問題は入り方だ、と考えているうちに焔が徐々に弱まっていく。
「柘榴の身に、何かあった?」
「行くぞ」
不安な呟きを忘れさせるように、結紀は蘭の肩を叩いた。いつでも銃を撃てるように、結紀だけじゃなく友樹も浅葱も銃を構える。
焔が弱まった瞬間、それを狙って蘭は思い切って空中庭園に飛び込んだ。
「動くな!」
結紀の叫んだ声が、空中庭園に響いた。
残りは一人、香代子だけだと言うのに、香代子よりも蘭が目を奪われたのは空中庭園の空間そのもの。
次々と空に輝く光の粒。
幻想的な景色であるにもかかわらず、まるで天の川のように。数えきれない光の粒は空へ上がって、消えていく。
柘榴と希と出会った時、最初に手に入れたアメジストとムーンストーンの紫と乳白色の光。柘榴と希で倒した狐、ルビーのやや青みがかった深紅。
蘭との和解のきっかけになった巨大イカの、ラピスラズリの夜空のような色。希が無理をして倒した窮奇、オパールの虹色の輝き。
それから浅葱達と一緒に協力して戦った亀、ダイヤモンドの無色透明な宝石の光。柘榴が一人で倒してしまった大百足、サファイアの深い青。飛行船を襲った大量の蜘蛛、トパーズの透き通った水色の光。希が倒した鷹、ペリドットのオリーブグリーンの光。
そして、蘭のアクアマリンの淡い青。
全ての光が空へと還っていく。誰もそれを止められない。
「柘榴、希…?」
何をしたのか分からなくて、銃を構えていた蘭の腕は自然と下がる。
「柘榴!」
「希!」
立ち止まった蘭を押しのけて、結紀と友樹は奥へと駆け出した。
ほんの一瞬、見えた二つの影。空中庭園から飛び降りた二つの影に向かって蘭も駆け出す。
消えないで、行かないで。
お願い、連れていかないで。
届かないと分かっていても、手を伸ばす。
【またね】
確かに柘榴の声が聞こえた気がした。それもすぐ傍で声がした気がして、蘭の走る速度が落ちる。
呆然としている香代子の脇を通り過ぎ、柵まで一目散に駆け出した結紀と友樹。身を乗り出す勢いで下を覗き込み、柘榴と希の消えた場所を見下ろして名前を叫んでいるのに、蘭はゆっくりとしか前に進めない。
柘榴と希がいない。
信じたくない。
壊された柵、結紀と友樹の間から身を乗り出そうとした瞬間。物凄い突風が、下から上へと吹いた。柘榴と希が落ちたと思われる場所から、アントラクスとスマラグドスが飛び上がる。赤い輝きを持つアントラクスと、緑の輝きを持つスマラグドス。
綺麗で、幻想的に見えた、赤と緑の光。
まるで、寄り添うように。仲良く、空高く舞い上がる。
「いやぁ…いやぁあああ!!!」
空に向かって、叫ぶことしか出来なかった。
空高く舞い上がった光が弱まったように見えたのは、柘榴と希のラティランスがあまりにも遠くまで行ってしまったからだ。
二つの光は、あっという間に見えなくなって消えた。
信じられない、信じたくない。それは隣にいた友樹も、同じだったのかもしれない。ただ茫然と空を見上げていた。両手を固く握りしめて、柘榴と希のいなくなったと思われる空を見上げる。
同じように、空を見上げていた結紀は突然振り返って空中庭園の真ん中、座り込んでいた香代子の元まで戻る。
香代子の目の前にしゃがみ込むとすぐに、その胸元を掴んだ。
「柘榴と希ちゃん、どこ行った!」
「最期は、見たでしょ?」
結紀と目を合わせないで、身体から力が抜けていた香代子は言った。
「お前のせいで――!!!」
「止めろ!」
殴りそうになった結紀を、寸止めで友樹が止めに入る。
「浅葱、手伝え!」
「は、はい!」
暴走している結紀を香代子から放した友樹と、香代子を結紀から離しつつ、抵抗しないように手をすぐに紐で縛った浅葱。
蘭は香代子に歩み寄って、持っていた銃をそっと向ける。
「貴女が――」
「チビ、駄目だ!」
浅葱が必死に訴える。
駄目だ、香代子に銃を向けても仕方がない。それなのに、身体は勝手に動く。唇を噛みしめてから、蘭は泣きそうな気持ちを押さえて言う。
「貴女がいなければ、そうすれば。柘榴と希は…柘榴と希は!」
静かに頬を流れた涙が、地面に落ちた。
手が震える。
引き金を引けない。
蘭の瞳に映るのは、無力の香代子の姿。抵抗する気も逃げる気もない、その姿。
柘榴と希は、いない。宝石の原石は、この場所にない。
二人がいなくなった原因が目の前にいる人物だとしても、組織がいずれ二人を殺したかもしれない。それでも、と蘭は悔やむ。
悔しくて、悲しくて仕方がない。
けど、本当に恨む相手は香代子じゃない。
ガクッと足の力が抜けて、座り込む。銃を下ろし、下を向きながら蘭は呟く。
「…復讐なんて、出来るわけないじゃない。柘榴と希なら、そんなことしない。絶対に、しないんだからっ――」
思っていることと違う言葉が、口から零れた。握りしめる両手に爪が食いこんでも、痛くない。
本当は助けられなかった自分自身が一番憎い。巻き込むだけ巻き込んで、何も出来なかった自分自身が、許せない。
そう、泣き叫びたかった。




