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宝石少女奇譚  作者: 香山 結月
第6章
38/59

34 覚悟編02

 大丈夫、失敗しない。絶対に助け出してみせる。

 整備室から真上にある非常口を目指して、脇目もふらずに希は走っていた。

 非常口から外に出て、ロープを頼りに整備室まで行く。それは無謀とも言える行動で、一歩間違えれば飛行船から落ちてしまう。それでも、希にはそれしか出来ないと思った。

 風を操れる希なら、きっと無事に辿り着ける。

「――あった!」

 一番近くの階段から上がって、非常口のある廊下に辿り着く。曲がり角のせいで転びそうになったが、何とか非常口に辿り着くことが出来た。

 幸い近くに誰もいない。急いで周りを見渡し、ロープを引っかけられる場所を探す。

「希ちゃん!」

 廊下の奥から誰かに名前を呼ばれて、動きが止まる。

「…鴇、さん?」

「ちょっと、ちょっと!何するの?友樹先輩たちは無事だったの!?」

「説明している暇はありません!手伝って下さい!」

 近くにロープが巻ける場所、何もない。仕方がないから戻って鴇の横を通り過ぎ、廊下を曲がる前の一番近くのドアにロープを巻き付ける。細いが、長さのあるロープでよかった。ロープを持ったまま、希はもう一度非常口へ戻る。

 何をしているのか、鴇には全く理解出来ないが希の後を追う。

 説明もせず、希は非常口のドアを開けるボタンを力任せに押す。

「――っ!」

「ちょ、風!」

 慌てたように鴇が言った。強風で髪や服が乱れた。数秒耐えれば、風は徐々に収まり希は開いたドアから、飛行船の外に顔を出す。

「…行けます」

 小さな声で呟いた希の声は、風の音で掻き消された。

「希ちゃん?」

 不安そうな声で呼ばれて、希は振り返る。希の後ろに立って、外に飛ばされないように壁に掴まっている鴇。戸惑っている鴇に、少し落ち着きを取り戻した希は早口で言う。

「これから私がロープを使って外から整備室に行きます」

「え?なんで?」

「友樹さんと陽太さんを助けるためです」

 言いながら、真剣な表情で持っていたロープを右手に巻く。左手は余ったロープを持つ。これで万が一足を滑らしても、落ちなくて済むはずだ。

 怖くないわけじゃない。けど、それ以上に決意は揺るがない。

 呆然としていた鴇は、咄嗟に希の左腕を掴む。

「待って!どう考えたって危険だよ!意味がよく分からないし、こんなことしなくても――」

「時間がないんです!」

 叫んだ声は廊下に響いた。

「お願いします。鴇さん、信じてください!」

 真っ直ぐに見据えて、たじろぐ鴇に言い寄る。掴んでいた力が弱まった瞬間を希は見逃さず、そのまま鴇を突き放す。

「…あ」

「スマラクト。お願い、力を貸して」

 驚いている鴇の方など見向きもせずに、希は飛行船の外へと飛び出した。


 バンッと言う大きな音を立て、希の身体は飛行船の外壁の傍で止まった。足に衝動が走って痛いが、ロープのおかげで希の身体は落ちるはことない。

 細いロープが掌にくい込む。血で滲んだ左手のロープを少しずつ離しつつ、徐々に下へと降りる。

「希ちゃん!」

「大丈夫です!鴇さんはそこにいてください!」

 顔を上げる時間も惜しいので叫ぶだけ叫び、希は目的の整備室の外壁に到着する。

 外から見た外壁は一部が剥げ、大きな穴となっていた。倒れた棚とそのせいで開かなくなっているドアが見え、ぶら下がったままの希は勢いを付ける。

「スマラクト!」

 希の祈りが届いたのか。風が希の背中を押し、部屋へと滑り込む。

「――っ!…友樹さん!陽太さん!」

 倒れた棚の上に到着して、立ち上がらずにその隙間に近づく。

 目が合った。

 驚く友樹が掠れた声で言う。

「…なんでここに」

「助けに来たに、決まっているじゃないですか…」

 泣きたくなる衝動を抑えて、希は笑おうとする。けれども無理だった。一粒の涙が流れて、慌てて拭う。

 隙間は人一人が通れる空間ではない。棚をどかさないと、友樹と陽太は助けられない。

「ちょっと待っていて下さい。今棚をどかします」

「どかすって――」

 戸惑う友樹の言葉の途中で、棚に手を掛ける。

「せぇーのっ!」

 力任せに棚を外へとどかす。

 ただ、助けたい。その想いに反応して、希の身体が僅かに緑に輝く。希本人はその異変に気付かず、棚が少し動く。

「――っ!!!」

 無我夢中で動かした棚が、飛行船の外へと落ちて行ったのはすぐのこと。

「…ふぅ」

 息を整えつつ、希はその場に座り込んだ。

「嘘、だろ?」

 気を失っている陽太を引っ張って、友樹がゆっくりと立ち上がる。

 疲れ果てた希は肩の力を抜いて、へらりと笑う。

「もう、これで大丈夫ですよね?」

「大丈夫、だけど」

 友樹が答えつつ、その視線が希に向けられる。

 両手は血まみれで、血はまだ止まらない。それが痛々しくて、友樹の顔が曇った。その視線に気付いて慌てて両手を隠そうとするが、もう遅い。

 震える両手を胸の前で握りしめ、希は言う。

「友樹さん、陽太さんを連れて先に上に行けますか?」

「行ける」

「じゃあ、先に行ってもらえますか?私は後から行きますから」

 両手が痛くてロープを握れない、とは言えなかった。

 眉間に皺を寄せた友樹が、希の傍にしゃがみ込む。

「ここにいろ。俺が助けに来るから」

「え?」

「その手じゃ上に行けないだろ。陽太を上に置いてきたら、また来る」

 そっと希の手の上に友樹の右手が重なった。

 その温かさはすぐに離れ、友樹は陽太を背負い直す。希の持っていたロープを受け取り、友樹が軽々と外へ飛び出した。慣れた様子で飛行船の外壁を登る様子を、黙って見守る。

「…助かり、ました」

 誰もいなくなって、本音が漏れた。こんなに無茶をしたと知ったら、柘榴にも蘭にも皆に怒られるに違いない。怒られるようなことはしたくないのに、どうしても身体が勝手に動いてしまう。

 疲れ果てた身体を引きずって、開かないドアまで進む。背を預け座り、ホッと一息をついた。

 外で友樹と鴇が何か言い合っている声が聞こえる。はっきりとは聞こえないが、無事に非常口に着いた様子。本当によかった、と思った。

 これから友樹が戻るまでは、座って待っていればいい。

 けど、その後はどうすればいいのだろうか。両手が血まみれのままでは戦えない。

「…ちょっと、疲れました」

 戦わなくてはいけないのに、そう思いつつもぼんやりと外を眺める。

 空が青い。

 風が気持ちよくて、ぼんやりとしてしまう。

 ゆっくりと立ちあがったのは気まぐれで、上の様子が気になって飛行船の外壁の方へ向かう。


 全ては一瞬。


「え?」

 飛行船が大きく揺れた。身の危険を感じた時にはもう遅い。

 突然の揺れで、ふらついて転びそうになった。咄嗟に壁に右手を伸ばすが、痛さで強く掴まる事も出来ずに反射的に放してしまった。

 バランスを崩した身体はそのまま重心がずれ、飛行船の外へと引っ張られる。

 背中から落ちるように、少しだけ上の様子が目の隅に映る。ロープで降りて来る途中だった友樹と目が合って、その顔が驚きに変わっていく。

 驚いているのは希自身も同じで、その身体が宙を舞う。

 友樹との距離がまだ遠い。それなのに、右手を伸ばしたまま希は無意識に笑みを浮かべた。

「…ごめんなさい」

 何故か謝罪の言葉が口から出た。

 友樹が息を飲んで、必死に手を伸ばそうとする。絶対に届かないと分かっているのに手を伸ばす。

 逆らえない力、希の身体が下へ、下へと落ちていく。



「――っくそ!」

 希の身体が飛行船の外へと放り出された瞬間、友樹は握っていたロープを迷うことなく手放した。

 どうせすぐに希を連れて上に上がらなければいけないから、最低限手首に巻いてすぐに取れるようにしてあったロープを放せば友樹の身体も落ちていく。

「希ちゃん!友樹先輩!」

 非常口で鴇が叫ぶ。

 死ぬかもしれない。それでも意識を失って落ちていく希を、何もせずに見失うことだけは出来なかった。

 だから手を伸ばす。

 落ちていく速度は少しだけ友樹の方が早く、追いついて希の右手を引っ張った。そのまま頭を抱き抱え、一緒に落ちていく。

 もう二度と、自分だけ助かって大切な人を失わないように。

 離さないとばかりに、力強く希を抱きしめた。



 ふと、自分はどこにいるのだろう。そんな錯覚になった。

 飛行船から落ち、地上に向けて真っ逆さま。下が海なら、死ぬことはないかもしれない。そんな呑気な気持ちを抱くことが不思議で、いつの間にか閉じていた瞳を開く。

 真っ黒な空間に一人ポツンと立ち尽くすのは、希一人だけ。

 さっきまで飛行船にいたのは確かなのに、今はしっかりと足が地面に着いている。

 ほんの少し、下を向いていた視線が上がれば、小さな緑の光が集まり出す。温かな、小さな光。綺麗な深い緑の光が辺りを照らし、目の前に浮いていた。

 光をまじまじと見つめる。

 怖いわけではなく、懐かしい気持ちになる光。そっと手を伸ばし、光に触れるか、触れないか。

 一気に辺りが眩しく光り、浮いていた光が形を変える。

 見上げなければ全体像が見えないほど巨大な生き物。初めてその姿を見るはずなのに、久しぶりのような気がして、自然と笑みが零れる。

「こんにちは」

 言葉が通じるかは分からないが、まずは挨拶だと思った。

 目の前にそびえ立つ龍は神秘的で美しい生き物。龍がいるだけで空気が澄んでいる。

【…うむ】

 龍の声が、心に直接声が響く。その声が誰の声か、今ならはっきりと分かる。

 大好きだった兄、歩望の声。

「どうかしましたか?私、死んでしまいましたか?」

【違う。我が意識を呼びだした。ここでは時間の流れが異なるのでな】

 よく意味が分からないので首を傾げれば、龍が首を下げまた優しく言う。

【本来なら最初の時に出逢うはずだったが、勝手に言葉だけ受け取ってしまったから。順序が変わってしまったのだ】

 よく喋るな、と呑気なことを思い浮かべると龍が憐みの声で言う。

【よく喋るなど失礼な。我をなんだと思っておるのだ】

 心を読まれた。そう理解するのは、容易かった。

「…えっと、貴方はどういう存在なのでしょう?」

【力の根源】

「え?」

 よく聞こえなかった。聞きなおす前に、龍が言う。

【そんなことより時間がない。今優先すべきは新しき力…】

 ぐらりと身体が倒れそうな錯覚を覚える。身体から力が抜け、声だけが頭の中に響く。

【イメージしろ。そして言葉を紡げ――】

 希の目の前にいたはずの龍の姿が、霞む。消えて行く。

 頭の中で響く声は続くのに、希の瞼が閉じていく。



 友樹に抱きしめられたまま、希は真っ直ぐに落ちていた。

 飛行船から落ちた記憶はある。誰に抱きしめられているのか分からないまま、希の意識がぼんやりと戻り、無意識に声が口から漏れる。

「我が身に宿りし力、緑の風となりし我が身体」

 龍から教えてもらった言葉を紡ぎ始めた途端、どこからともなく緑の光が集まり、眩い光が希と友樹を包み込む。落下の速度が、減速していく。

 友樹がそっと目を開ければ、希は定まらない視線を空の上に向けた。

「我を運びたまえ…」

 龍はイメージしろ、と言った。

 新しい力。今、希が必要だと思う力。

 自由に空を飛びたい。

 瞬間移動して、別の場所に行く力はいらない。希の居場所は、大切な人達がいる、この場所。それより、鳥のように自由に空を飛んで、今も戦っている柘榴や蘭の力になりたい。

「スマラクト」

 祈るような希の声を、風が運ぶ。友樹と希を包んでいた緑の光が、右手を伸ばした希の傍に集まった。

 眩しい光を、掴む。その光は形を変え、希の望む武器へと変わる。

 それは、一本の箒だった。

 柄は一メートルくらいの木材、尾の部分は小枝を集めて緑の紐で固く結んである。その緑の紐の結目に、緑の宝石が括り付けられている。

 箒を手にした途端に、落下は完全に止まった。

 ぶら下がるような格好で、希と友樹は同時に上を見上げた。

「…何、これ」

「空飛ぶ、箒でしょうか?」

 呆然と呟いた友樹に、希は自信なさげに答えた。

 箒に跨るのが正解だと思うが、今の状態ではそれが出来ない。おおよそ一キロ程落下した模様。宙で浮いているわけだから、上に行こうと思えば行ける気がする。

 問題は、どの体勢で飛行船まで戻るか。友樹に抱きしめられたままでは、箒に乗ることすら出来ない。

「どうやって、帰りま――」

 しょうか、と問う前に、突然箒が斜めに傾いた。傾いたと気付いた途端に、箒が飛行船に向かって飛ぶ。そのあまりにも早い速度に、希も友樹も悲鳴が上がる。

「――っひぃ!!!」

「――っ!!!」

 箒に主導権を握られたまま、希と友樹の身体は飛行船へと戻されることになるのだった。


 大きな音を立てて、希と友樹は箒から落ちた。正確には非常口に入った途端に、希が箒を手放した。箒は希の手から離れた途端に、そのまま廊下の奥の壁にぶつかる寸前で止まった。

 箒に振り落とされないように必死だった希は友樹にしがみついたまま、床へと滑り込んだ。友樹を下敷きにしてしまった希に怪我はなく、友樹にも大きな怪我はない。

「…どいて」

「きゃー!ごめんなさい!ごめんなさい!」

 素っ気ない友樹の一言に、慌ててどいて謝る。起き上がった友樹すぐ隣で希は頭を深く下げ、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。そんな二人に近寄って来た二つの影。

「希ちゃん!」

「友樹!」

 名前を呼ばれて、少し通り越してしまった非常口の方へ顔を向ける。

 ずっと心配をしていた鴇と目を覚ました陽太の姿があった。鴇は希の傍に駆け寄り、その肩を掴む。

「希ちゃん、怪我はない?」

「はい。大丈夫ですよ」

「…よかったー」

 鴇は力が抜けたのか。安心して深く息を吐き、顔を下げた。鴇には随分と心配をかけてしまった、と思いながらも希の視線は友樹と陽太の方に移る。

 陽太が抱き付いて、嫌そうな顔で友樹が離れようとしていた。

「離れろ」

「うるせ!心配かけやがって!」

 少し泣き声混じりの声に、友樹の方が心底うんざりした表情を浮かべる。それ以上引き離すのは諦め、肩の力を抜いた。

 もう大丈夫だ、そう思った希はそっと下げてあった通信機の音量を元に戻す。一気に柘榴や蘭の声が飛び交って、まだ空中庭園で戦っているのだと理解すると同時にゆっくりと立ち上がる。

「希ちゃん?」

「鴇さん、後のことお願いしますね」

 騒いでいる陽太の声で友樹には聞こえないように、小さな声で鴇に言った。

「私は行かないといけませんから」

 微笑んだ希に、何か言おうとした鴇。結局何も言わず、視線を逸らして口を閉ざす。その顔は少し悲しそうな表情だったが、立ち上がって一言。

「こっちは任せて」

「はい」

 サッと身を翻し、希は廊下の奥に駆け出す。

 陽太が希の名前を呼んだが、鴇に医務室に行くよう促される声が後ろで聞こえた。振り返る間もなく、今は空中庭園に行かなければいけない衝動で足が動く。

 廊下の奥で宙に浮いて、まるで希を待っているように存在していた箒。

 それを掴んで、希は一気に駆け出した。



 空中庭園に戻り、希は入口の一番近くにいた柘榴の隣に向かった。鷹はまだ、上空を飛行している。

 戦いはまだ、終わっていない。

「柘榴さん!」

「あ、希ちゃん。おかえりー」

 呑気な柘榴は一応日本刀を握って、希に微笑んだ。柘榴の声が通信機からも聞こえたせいか、間を置かずに通信機から聞こえたのは蘭の怒声。

『希!遅いわよ!!!』

『チビ、うるせ―よ』

 呆れた浅葱の声に、蘭が振り返って浅葱を睨んだ。あまりにも響いた蘭の声に、柘榴は通信機を耳から離していた。

「状況は…変化なしみたいですね」

『見れば分かるでしょ!あーもー、イライラしてくるわね!」

 短気な蘭が銃を構えて空を見上げていた。その傍に、蘇芳もいる。

 位置は変わっていないようで、入口付近に柘榴。中心に蘭と蘇芳。もっとその奥で浅葱がいたわけだが、ふと浅葱が希と柘榴の方を向いて問う。

『てか、緑の持っているの何だよ。箒?』

「え、箒?なんでそんなの持っているの?」

 浅葱の言葉に振り返った柘榴の視線が、希の箒へと注がれる。けれども不思議そうだった顔は、箒に括り付けてあった宝石を見つけて納得した。

「武器だ」

「そうみたいです。これ、空を飛べるのですよ?」

「マジで!うっわー、乗りたい!乗りたい!」

 一気にテンションが上がった柘榴が希の持っていた箒に触ろうとして、その直前で手を止めた。

「…て、触ったら吹き飛ばされるんだよね。きっと」

「試しますか?」

「今は止めとく」

 真顔で断る辺り、本当に吹き飛ばされるのを恐れている様子。そんな柘榴を見て、思わず笑みが零れた。

『柘榴、希。五月蝿いわよ。喋ってないで、何か作戦考えなさいよ』

 視線を外せない蘭の容赦ない声に、柘榴は黙った。その代わりに、興味本位で浅葱が問う。

『空を飛ぶ、て。本当に出来るわけ?』

「出来ますよ?あ、今から飛びましょうか」

『…冗談でしょ?』

 信じられない、と言わんばかりの蘭の声。いつ攻撃が来るか分からないので、決して上空から目を離さない蘭とは対称的に、柘榴は無言で、飛べ、と言わんばかりのジェスチャーをした。

『だいたい、箒だからって空を飛ぶなんて出来るわけがないじゃない。もっと現実的な作戦を考えなさいよ――』

 蘭の小言の間に、希は箒に跨った。

 さっき飛んだ時は友樹も一緒で上手く飛べなかったが、しっかりと跨って箒を握りしめた途端にどうすればいいのか瞬時に理解する。

 地面を蹴れば宙に浮く。かがめばスピードが出るし、希が望めばいつだって方向転換出来る。

「行けそうですね」

「行っちゃえ、行っちゃえ」

『ちょっと!私の話聞いてないでしょ!』

 目が合った柘榴は楽しそうに笑っていた。

『チビは無視して。さっさと終わらせようぜ』

『浅葱の言う通り』

 蘭の怒りなど相手にしない浅葱が言い、黙って話を聞いていた蘇芳が同意した。

 では、と一呼吸置いて、トンッと箒を蹴った。目指すは上空の鳥。迷うことなく、希の身体は真っ青な空へと舞い上がったのだった。



 飛行船の空中庭園で、柘榴は希が舞い上がった姿を見上げた。

「綺麗だね…」

『何、言っているのよ』

 蘭の声にも、驚きと感動が入り混じる。柘榴はゆっくりと右手を掲げて、空を仰ぐ。

「綺麗な、緑」

 ボソッと呟いた声は誰に聞こえるわけでもなく、静かに消えた。

 急上昇して空を箒で駆ける希の姿、まるで物語の魔女のように見える。希が箒で空高く舞い上がる瞬間、見えた横顔は少し楽しそうで、笑っていた。

 だから不思議と、大丈夫、と言う感情が柘榴の中に生まれた。

 それなら柘榴は空中庭園で帰って来るのを待つ。それが柘榴の役目だと、そう思った。

 どこまでもどこまでも鳥を追いかけ、空高く舞い上がった希の姿。その姿を目に焼き付けようと、じっと見つめながら柘榴は微笑んだ。



 箒で一気にラティランスに、鳥に近づいた。

 希の身体は上昇する。高く、そして速く。

 鳥に近づくにつれて、分かった。鳥は、真っ白な鷹。それも普通の鷹ではない。頭が二つ、そのうちの一つが希の存在に気が付いて、目が合った。

 逃げられる、と思ったらかがんでいた。

 箒のスピードが増す、逃がさないとばかりに希は鷹を追う。

 待って、待って。

「話を聞いて!」

 咄嗟に口から出た言葉に、希自身が驚いた。

 何を話そうとしているのか、話が通じるのか、分からない。分からないのに箒を握りしめる力が無意識に強くなって、希はもう一度叫ぶ。

「お願い!話を聞いて!」

 空高く逃げていた鷹が、急に方向転換して希の目の前に舞い戻る。

 雲のせいで飛行船の姿は見えない。空高い上空で、鷹の視線は希に注がれた。四つの瞳に希の姿が映る。

「…あ、あの」

 真っ直ぐに見つめられて言葉に詰まる。

『――て…』

「え?」

 微かに何か聞こえた気がした。風の音で、声のように聞こえただけかもしれない。

 空耳かもしれない声を最期に、鷹の全身がオリーブグリーンの光に包まれる。鷹の姿が光の粒となって徐々に消えて行く姿を、ただ見ていることしか出来ない。

 結晶化。

 その単語が頭の中に浮かんで、消えた。

 力の使い過ぎによる、結晶化。

 結晶化が、こんなにもあっさり行われてしまう。

 結晶化が、今希の目の前で起こっている。 

 キラキラと輝く光の粒が地上へと、飛行船へと降り注ぐ。その身体の中心で、オリーブグリーンの宝石の塊が宙に浮いて存在している。

 淡く光る宝石の塊、その光が完全に消える前に宝石に手を伸ばした。

「…っ!」

 抱きしめた宝石は温かく、綺麗。それなのに、心が苦しくて仕方がなかった。

 何も出来なかった。希は戦っていない。ただ、結晶化してしまったラティランスを見守っただけ。それだけしか出来なくて、終わってしまった。

 鷹はいない。

 宝石の塊以外に、何も残らない。

 奥歯を噛みしめて、微かに震えた身体。最期の光景が希の身にも降りかかるかもしれないのだと、ようやく理解した。 

『希ちゃん、さっき光が降り注いでいたけど。終わった?無事?』

『希、聞こえているの?』

 明るい柘榴の声と不機嫌そうな蘭の声。

 唾を飲みこみ、はい、と呟く。

「終わりました。もうすぐ、帰ります」

『早く帰って来てね。待ってるよ!』

 はい、と出来るだけ明るい声で返した。

 さっきの鷹が消えて行く光景が、しばらく頭から離れそうもない。美来も、あんな風に消えてしまった。もしかしたら希だって、突然消えてしまう日が来るのかもしれない。

 ゆっくりと飛行船へと向かいながらも、怖くて堪らなかった。



 空中庭園の中心で、柘榴が手を振り、蘭が腕を組んで希を待っている。浅葱と蘇芳はどちらも笑みを浮かべつつ、空を見上げていた。

 希を待っていてくれる人達の傍に降り立った希は、ふわりと地面に着地する。

「おかえり!」

 傍にいた柘榴が突進する勢いで希に抱き付く。手放した箒は緑の光となって瞬く間に消えた。後ろに倒れそうになった希は驚いて、それから微笑んだ。

「ただいまです」

「もう、心配したよ」

 安心した柘榴がそっと希から離れれば、入れ替わるように傍に来た蘭が不安そうな顔で問う。

「希、怪我はない?」

「はい。大丈夫ですよ」

「にしても、さっきの飛びっぷりは凄かったな」

「確かに」

 浅葱と蘇芳に褒められて、嬉しくて恥ずかしい。少し頬が赤くなった希を見て、蘭が微笑んだのはほんの数秒。

「で、ちゃんと説明してくれるのよね?」

 蘭の低い一声に、騒がしい空気が一変する。

「いやー、蘭ちゃん。希ちゃんも疲れているだろし、ちょっと休憩しながらでも…」

「何言っているのよ、柘榴!こういうのは早めに聞くべきでしょ!さっきの箒は何よ!どうやって倒したの!それよりも勝手に一人で行かなくてもよかったじゃない!」

 次々と口から飛び出す質問と文句に、希が答える暇もない。どこから説明すればいいのか、と考えながらも目の前で繰り広げられるいつもの日常が嬉しくて、思わす笑みが零れる。

 箒が消えた後、希の首元にひっそりとネックレスが存在していた、と気が付くのはそれからもう少し後のこと。金のチェーンに繋がれた、雫の形の緑の宝石。エメラルドのネックレスは違和感なく、希の喜びに反応したように、首元でキラリと光ったのだった。



 皆で医務室に行き、全く怪我がなかった希は自室に戻るために、一人で廊下を歩いていた。

 柘榴は、食堂へ。蘭と浅葱は柊の所に宝石の塊を持って行く、と言って医務室を出た。頭に包帯を巻いた陽太に付き添っていた親方は香代子のいる医務室に残り、鴇と蘇芳は整備室を見て来ると言って、途中までは希と一緒に歩いていたが、今はいない。

 自室に戻る前に医務室で親方から預かった紙袋を別の場所に隠そう、とキャッシーの部屋を目指す。

 あのまま整備室に置いておくのは止めた方がいい、と言う親方の判断で持ち出してくれた紙袋。その中には蘭への誕生日プレゼントのアルバムや写真などが入っていた。

 正直、アルバムのことはすっかり忘れていた。

 友樹と陽太を助けることで頭が一杯で、それどころじゃなかった。

 こっそりと紙袋を受け取った時、親方と少しだけ話をした。

「親方さん、紙袋ありがとうございます」

「お礼を言うのはこっちの方だ。陽太と友樹を助けてくれて、ありがとな」

 そう言った親方の視線の先は、楽しそうに笑っている陽太の姿。その元気な姿を見ていると希も嬉しくて、それで、と小さな声で問う。

「こちらに友樹さんはいらっしゃらないのですか?」

「あー、友樹な。一人でどこかに行ったから、整備室じゃないか?」

 疑問形の回答に、そうですか、と小さく返した。

 それがほんの数分前の会話。


「…友樹さんは、どちらに行かれたのでしょうか」

 廊下を歩きながら、呟いた希。それでも無事なのは確実だし、医務室にもいなかったのだから怪我も大丈夫なのだろう。

「あ、友樹さん!」

 廊下の奥に見つけた背中に、思わず声を掛けた。立ち止まった友樹が振り返る。その表情が不機嫌ではなく、怒っているように見えた。

「何?」

 希がやって来るのを待っていてくれた友樹は、やっぱり怒っている。それも今まで見たことがないくらい、睨まれて怖い。

「その…元気そうでなによりです?」

 疑問形で言って、そのまま視線を下げた。友樹の視線は希の袖口に付いたままの乾いた血で止まり、ますます眉間に皺が寄る。

「他に、言うことは?」

「えっと…親方さんも陽太さんも無事でよかったです」

 希が懸命に言葉を探すが、何を言っても機嫌を直してくれない。友樹に迷惑を掛けることは、沢山あったが、ここまで怒った顔はなかった。

 何を言えばいいのか、考えている希の言葉を待っている友樹もその場から動かない。

「その…なんで、怒ってらっしゃるのですか?」

 数分、無言が続いた後に、耐えきれなくなった希は問いかけた。

「本当に分かってないわけ?」

「えっと…すみません。私、何かしましたか?」

 一生懸命考えても、思い浮かばなかった。

「なんで、あんな場所にいたんだよ」

「え?」

「なんで、飛行船から落ちるような場所にいたんだよ!」

 バンと近くの壁を叩いた音が、希のすぐ傍で響いた。驚いて、呆然と見上げている希の瞳に映る友樹は、苦しそうな顔をしている。希の顔が近くて頬が赤くなるよりも、驚きの方が隠せない。

 友樹が言葉を続ける。

「助けに行く、て言ったよな。なんで寛人みたいに勝手なことをするんだよ。俺を助けて、自分は危険な目に遭っているんだよ…」

 段々と小さくなっていく友樹の声。

 随分と前に聞いた話。友樹を庇って、大怪我をした友樹の親友の名前。

 心配をかけてしまった。無茶をしていた自覚はあったが、怒られるとは思っていなかった。

 大切な人だから失いたくなくて、身体は勝手に動いていた。

 歩望を失った希には、残される気持ちだって分かる。

 分かるけど、それでも。

「それでも、友樹さんと陽太さんの二人を助けたかったのです。どうしても、二人を助けたくて…」

 自分の命を軽く見ているわけじゃない。そんなつもりはない。

 その気持ちが伝わらない。

「…友樹さん、右手が」

 痛そうですよ、と言いながら希が手を伸ばせば拒絶された。軽く叩かれるように、触るなと拒否された。

 これ以上、何も言えない。

 言ってはいけない気がした。

「…俺は、いつだって足手まといなんだな」

 自嘲するように言った友樹の言葉。それを否定しようと、希は叫ぶ。

「そんなことありません!友樹さんがいたから私は今日まで戦って来れました。だって私は――」

 私は、と言う言葉をもう一度弱々しく呟いて、言いたかったことが言えなくなった。

 好きだから、と言う想いを口走ろとしていた。

 いつの間にか好きになっていた。傍にいると落ち着いて、嬉しくて、友樹の言葉で一喜一憂して。友樹の傍にいることが幸せで、だから失いそうになった時に居ても立っても居られなかった。

 言えない。

 言えるはずがない。

 いつ結晶化してしまうかもしれない希が言っていい言葉じゃない。

 唇を震わせながら、希は小さな声で呟く。

「…友樹さんは、足手まといじゃないのです。それだけは、本当だと――」

 思います、と最後まで言えなかった。

 床を見つめていた希の瞳から涙が零れ、唇を噛みしめて耐えようと思うのに止まらない。今日は泣いてばかりなのに、まだ涙は枯れない。もうどうしていいのか分からなくて、希は踵を返して駆け出す。

 友樹は追ってこない。

 きっとそれが正しい。これ以上、友樹を好きにならずに済む。けど本当は、追いかけて欲しい。

 伝えられるはずのない想いに、気が付かなきゃよかった。そう、心の底から思った。



 希のいなくなった廊下で、立ち尽くしていた友樹の後ろから近寄る影が一つ。

 希と友樹の間に流れていた異様な空気のせいで、出るに出られなかったキャッシーが足音を立てながら近づいた。

「いいの?追いかけなくて」

「…いつからいたんですか?」

「ほぼ最初からよ」

 そう答えながら、横に立っている友樹の顔をまじまじと見た。希が泣きながら去って行ったが、友樹の方も後悔している顔で廊下の奥を見ている。見かけることがあっても、話をしたことがない相手にキャッシーから声をかけたのは、このままでは二人がすれ違ったままになってしまいそうだと思ったからだ。

 友樹と同じように廊下の奥を見つめて、言う。

「希ちゃんだけじゃないけど、あの子達はいつだって自分の身を顧みずに動いているのよね」

 髪を右耳にかけながら、呟いた言葉を友樹は黙って聞いている。

「貴方が危険な目に遭えば、確かに足手まといの存在になるかもしれない。貴方がいれば希ちゃんはきっと、どんな危険な場所にも行って助けるはずだから」

 誰だって、心配はする。大切な人ほど、無事でいて欲しいと願う。

 落ち込む友樹に、でもね、とはっきりと言う。

「それ以上に希ちゃんにとって、貴方は心の支えなの。貴方がいるから、希ちゃんいつも笑っていられるのよ」

 ずっと傍で三人の少女を見ていたキャッシーだからこそ、確信して言える。

 柘榴が食堂で笑顔になるように、蘭が笑う回数が増えたように、希が一番幸せそうな笑顔を浮かべる瞬間は間違いなく友樹の傍にいる時だった。

 友樹は信じられないかもしれない。それでも真実を伝えたかった。

 ふと、視線を下げていた友樹が問う。

「俺、本当に必要ですか?」

「馬鹿ね。そう言っているじゃない。だから早く仲直りしなさいよ」

 希ちゃんは笑った顔が可愛いんだから、と付け加えるのは止めた。友樹が真面目な顔を上げたから、それ以上言わなくていいような気がした。

 失礼します、と軽く頭を下げて、友樹は廊下の奥に消えて行く。その背中を見送って、キャッシーはため息を零した。

「まあ、希ちゃんよりも問題は柘榴ちゃんの方だけど」

 肩から力を抜いて、呟く。

 戦いに参加しない友樹がいれば、希は帰って来るはずだ。けれども誰よりも希を守ることを優先している柘榴が戦いの途中に希を失えばどうなるのか。

 一度そうなりかけたことがあるからこそ、不安は消えない。

 柘榴は自分を見失う。その、危険性。

「…早く戦いなんてなくなればいいのに」

 誰も居なくなった廊下で、キャッシーはそっと呟く。その声は誰にも聞こえることなく、踏み出した足音で掻き消されたのだった。


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