28 目覚編
飛行船が空へと旅立って、一週間が過ぎた。
未だ、希は目を覚まさない。それでも柘榴は一人、いつものように医務室を訪れる。二度ノックをすると、香代子の返事が返って来た。それから、ゆっくりとドアを開ける。
椅子に座っていた香代子は柘榴を見て、微笑んだ。笑みを浮かべて、柘榴は言う。
「希ちゃんのお見舞い来ました」
「静かにね」
医務室の奥。本部にいた時より狭くなった、部屋はベッドが二つしかない。飛行船の中に本部を縮小したようなものだから、それは仕方がない。
柘榴は毎朝朝食前と夕方に希のお見舞いに顔を出し、ベッドの脇に座りその顔を見る。
寝ているように見えるのに、目を覚ますことはない。
髪の毛を解いているので、少し大人っぽく見える希の寝顔。
「希ちゃん、早く目を覚ましてね。そうしたら、蘭ちゃんと一緒の三人部屋だよ」
飛行船に乗って、振り分けられた部屋は以前より狭い。三人分のベッドと机が用意されていた。お風呂とキッチンは共同になってしまったが、居心地は悪くない。
飛行船の乗員は、基本的に本部にいた時と変わらない。
「季節は、冬になりますよー」
特に話すこともないので、他愛のない話しか言えない。
「ハロウィンは過ぎちゃったから、希ちゃんが起きたら一緒に飛行船の中を仮装しよう。それから、クリスマスはパーティーしなきゃね。楽しみだな」
希が答えてくれることはないけれど、話さずにはいられない。
答えてくれないことは分かっているが、それでも柘榴は話す。届くと信じ、数分話し続けた後、だからさ、とお決まりの言葉を口に出す。
「早く目を覚ましてね」
結局いつも最後は同じ。それしか言えない。
その言葉を残し、柘榴は立ち上がった。
目を覚まさない希を振り返ってから、そっと部屋を後にした。
「あ、柘榴。柊さんが探していたぞ」
朝食を食べ終わり、午後の訓練中。食堂に向かう途中、結紀と出会い声を掛けられる。相変わらずのコック服、相変わらずの馴れ馴れしさ。
ぶらぶらと歩いていた柘榴は立ち止まって、あはは、と笑う。
「サボったの、ばれたかな?」
「サボるなよ」
呆れた視線はいつものことで、それを受け流す柘榴。結紀は、もしかしたら、と話題を変える。
「そろそろ、着陸するから。その話じゃないのか?」
「そうなの?」
「だって、俺。明日買い出し命令されているし」
誰に、とは聞かなくても分かる。キャサリンに命令されたのだろうと思うと、柘榴の方が結紀に憐みの視線を送る。
「結紀はいいようにこき使われ過ぎだよね。可哀想に」
「いやいや。キャサリンと始終一緒にいるより、買い出しに行った方が疲れないから」
「…確かに」
キャサリンと一緒にいたら、相当疲れる。柘榴と違って始終一緒にいるような結紀なら尚更疲れは溜まっているだろう。
大変だね、と言った柘榴の髪を、結紀がぐしゃぐしゃにする。
「な、何?」
「お前も気分転換に、外に出られるといいな」
じゃあな、と言って結紀はさっさといなくなってしまう。
どうやら気を遣ってくれたようで、思わず笑みが零れた。
希が目を覚ますまで飛行船から離れる気は全くないが、気分転換は必要だなと思った。ここ最近、訓練と希のお見舞いしかしていない。
残された柘榴は結紀を見送って、柊がいそうな場所を、とりあえず訓練室に向かって歩き出した。
訓練室の中から、聞こえて来たのは浅葱の声と鴇の声。
「で、夜中。飛行船の中で幽霊が眠る部屋って言うのがあるらしい」
「それ、ただの噂だろう」
鴇が凄く興味津々で話すのを、浅葱は全く信じていない。蘇芳に至っては机にうつ伏して、寝ている。
「物凄い美女だよ?見たくない?」
いかにも見に行く気満々な鴇には悪いが、その噂の真相を柘榴は知っている。いつの間にそんな噂が囁かれるようになったかは知らないが、このままにすると厄介なので柘榴は大きな音を立てながら訓練室のドアを開ける。
軽く挨拶をして、柘榴は自分の席に座ると同時に会話に加わることにした。
「さっきの話って、希ちゃんの病室だからね?」
「そうなの?」
驚いている鴇。浅葱も、首を傾げて問う。
「あの部屋って、夜は鍵掛けてあるんじゃないのか?」
「香代ちゃん先生が席を外した隙に入り込んだ輩がいて成敗した、て言っていたもん。夜中で、それも寝ぼけていた男性を」
「なんだそれ」
浅葱は呆れている。鴇はものすごくがっかりしている。
「美女の幽霊、拝みたかったのに」
「馬鹿だな、鴇」
はあ、とため息を漏らした浅葱。そう言えば、と見当たらない蘭の姿を探す。
「蘭ちゃんは訓練室にいないんだね?」
「ちょっと前に用事が出来た、て部屋から出て行ったよ」
「なんか顔色悪そうだったよな?」
「そうだったっけ?」
浅葱と鴇の会話に、蘭の苦手なものが幽霊かもしれない。という考えが頭の中に浮かんだ。当たっているかどうかは、今度聞いてみることにしよう。
蘭のことはさておき、柊の姿も訓練室にはない。
「柊さんは、ここにはいない?」
「ああ、それなら柊さんから柘榴ちゃんに伝言。明日街に行けるけど、行くかどうか決めて欲しいってさ」
結紀の言う通りだった。
どうしようかな、と考える柘榴。浅葱と鴇はどうするのか、目の前にいるので聞いてみる。
「浅葱達は?」
「蘇芳と俺はね、買い物に行くことにした。と言っても、蘇芳が友樹先輩に付いて行きたいから、俺はそのストッパー役」
浅葱の方を見れば、何故か言いたくなさそうに言う。
「訓練している」
ですよね、と言う言葉は飲み込んだ。きっと蘭も浅葱と同じ回答をするような気がする。さて、どうしようかな、と言いながら立ち上がって、柘榴は部屋を後にするのだった。
次の日の朝。
昨日飛行船が着陸したのに、街に出るかを決められなかった柘榴。まずは医務室に向かって歩く。希の顔を見てから買い物に行くか決めようと思い、大きな欠伸をした。
「ねっむー」
何故かいつもより早く目が覚めて、蘭が起きる前に柘榴はひっそりと部屋を出た。
医務室の部屋は開いていないと思いつつ、足は止まらない。
香代子が早めに仕事に来ていることを願って、柘榴はドアノブに手を掛けた。
「あれ?開いているし…」
香代子が鍵をし忘れたのだろうか。こんな風に鍵を掛け忘れると、鴇みたいな変な輩が夜中に入り込んだりしないか、凄く心配になる。
大丈夫、だと思うが早足になって奥の部屋に向かう。
「…希ちゃーん」
音を立てないように、朝だから静かにドアを開けた先。
いつも眠って動かない希の姿は、そこにはなかった。
上半身を起こし、首を窓の方へ向けてぼんやりと外の景色を眺める希の姿。マジマジと見つめていた柘榴の視線に気が付いた希が、振り返った。
希の瞳に、柘榴の驚いている姿が映る。
首を傾げながら微笑んで、問う。
「柘榴さん、どうかしましたか?」
「希ちゃん、目が覚めたんだよね?」
「はい、そうですが…私、そんなに寝ていたのですか?」
確かに朝になっているようですが、と呟いた希は窓の外に視線を向けた。
一歩踏み出した足は勢いよく前に進み、柘榴は問答無用で希に抱き付く。抱き付いて、希が目を覚ましたのだと徐々に実感する。
目を覚ましている。
生きている。
「よかった…本当によかったよ」
「柘榴さん?」
希の肩に顔を埋めるように、抱き付いたまま動けない柘榴の背中をさする希の手は優しい。そのまま希も柘榴の肩に顔を埋める。
数秒、お互い無言だった。
ふと聞こえた小さな泣き声に柘榴が顔を上げようとすれば、希はますます顔を押し付けた。
「…希、ちゃん?」
「ずっと…ずっと夢を見ていました」
静かに泣きながら、希は言う。
「夢?」
柘榴の問いに対し希は微かに頷くと、瞳を閉じて思い出すように語り出す。
「5年前に私は柚くんと出会っていました。兄の大学で一緒に遊んで、探検して。その時、沢山の宝石を見ました。柚くんがその宝石の一つに触った時も、私は傍にいたのです。その時の、夢です」
途中で口を挟んではいけない気がして、柘榴は黙ったまま言葉を待つ。
一呼吸置いて、希は口を開く。
「たまたま猫の引っ掻き傷を持っていた柚くんが宝石を手にしてしまったとしても、私があの部屋に、宝石のある研究室に入ってみたいと言わなければ、柚くんも柘榴さんもこんな風に巻き込まれたりはしなかったはすだったのです」
今にも泣き出しそうな声で希は言った。
違うよ、と否定しようとする前に希は顔を上げて、何か言いたそうな柘榴の顔を見た。
必死に笑みを浮かべようとする希は、えへへ、と笑う。
「私がいなければ、違う未来があったかもしれません。私が…」
明るく言おうとしていた言葉が悲しくて、自分ばかり責めてばかりの希を見ていられなくて、柘榴は思いきって両手を伸ばした。
小さな窓から朝日が差し込んで、少し驚いている希の顔を照らす。その顔の頬を両手で軽く覆うと、柘榴は微笑んで言う。
「ねえ、希ちゃん。希ちゃんは柚のこと好きだった?」
「え?」
この場で聞くには場違いな質問。それでも柘榴は言わなければいけない、と思ってはっきりと述べる。
「今の私は、希ちゃんの5年間のことを何となくだけど知っている。5年前、柚と出会って、お兄さんがもうこの世にいないことも、知っている」
諭すように話す柘榴の言葉に、希は顔を少し下げる。
「柚はね、希ちゃんのことが大好きで。その想いが、私を突き動かしていたんだ。柚の力を受け継いだ私は、きっと柚の想いも受け継いだ。希ちゃんを守りたい、今の私がいる理由って、それだと思うんだ」
それが言いたかったこと。
ずっと、ずっと希を守りたいと思った理由。
だから、と言った言葉で顔を少し上げた希と目があった。
「柚が巻き込まれたことも。私が戦うと決めたことも。希ちゃんのせいじゃない。皆、希ちゃんのことが大好きで守りたくて、戦っていたんだよ」
「私に、そんな価値ありますか?」
「なかったら、今私はここにいないし」
馬鹿だね、と言いながら凸ピンをした。
軽く当てただけ、だけれどそれが合図だったように希の瞳に涙が溢れて、零れる。
「う、うぁぁああ!なんで、なんで死んじゃったのですか!柚くんも、お兄ちゃんも!美来さんも!なんで、なんで!」
泣き叫ぶ希を柘榴は、もう一度ギュッと抱きしめた。
「ずっと、ずっと会いたかったのに。会ったら伝えたい言葉があったのに――」
柘榴に抱きしめられながら、希は感情を露わにして想いをぶつける。その想いを全て受け止めたくて、柘榴は希が落ち着くまでずっと傍にいた。
落ち着いた希に、可子と言う存在がいたこと。貰ったUSBから過去と真実を知ったこと。
それらを全て簡潔に話した。
「そうなのですか。そう、だったのですか」
随分と落ち着いた希は未だベッドに座ったままで、柘榴はその近くの椅子に座って説明した。うまく説明出来た気がしない。それでも最後まで黙って説明を聞いた希は、柘榴を見て微笑む。
ありがとうございました、と言った。
だから柘榴は、どういたしまして、と言って笑った。
それから数十分経ってから、香代子が医務室にやって来た。
目が覚めている希を見て、柘榴と同じように喜びを隠せずに抱きしめた。希はくすぐったかったようだけれど、幸せそうに笑った。
「希ちゃん、ご飯は食べられる?朝ご飯の時間だし、柘榴ちゃんと食べに行く?」
香代子に問われた希は、少し考えた。希に代わって、柘榴が反射的に言う。
「行こう、希ちゃん!ずっと、食べてないんだから」
「でも、食欲がないですし。身体も重たくて…」
「車椅子貸すわよ?」
手際よく組み立て式の車椅子を組み立てた香代子。希は慌てて首を横に振って、香代子の提案を拒否しようと試みる。
「車椅子は目立つので遠慮しますぅ!」
「そんなこと言って、ずっと寝たきりだったんだから。さあさあ、乗って」
「そうだよ。希ちゃん」
にっこりと意地悪な意味を浮かべ、香代子と一緒になって希を車椅子に乗せた。少し顔を赤くして、頬を膨らませた希は目の前に柘榴がいて立ち上がれない。
上目づかいで柘榴を見上げる希は、睨んでいても全然怖くない。
「さて、希ちゃん。一緒に食堂に行きますか?」
「…あ、あの、その。髪の毛だけでも結ってから行きたいのですが」
無言の訴えは届かないと悟った希は、顔を背けて不満そうに言った。ベッドの脇にずっと置いてあった白いリボン。それが目に入った柘榴は、じゃあ、と言う。
「私が結ぼうか?」
「え?大丈夫ですよ。自分で出来ますから…香代子先生、鏡はありますか?」
少し目を開いて驚き、それから希は香代子の方を向いた。ちょっと待ってね、と言った香代子が鏡を取りに行く。
すぐに戻って来た香代子は手鏡を手渡すと、楽しそうな笑みを浮かべ言う。
「ねえ、やっぱり私が髪の毛を結んでいいかしら?」
「え…香代子先生が、ですか?」
「そうそう、一回希ちゃんの髪をいじってみたかったのよね。その間に柘榴ちゃんは蘭ちゃんを呼んで来たら?」
「そうしようかなー、と」
段々と小さくなった柘榴の言葉なんて、香代子は途中から聞いていない。希の意志など気にせず髪を結び始めるので、希に向かって一応声を掛けておく。
「んじゃ、私は蘭ちゃんを呼んで来るね」
「あ、柘榴さん!」
希が引き止める声も聞かずに、柘榴は部屋を飛び出した。蘭は柘榴の次にお見舞いの回数が多いし、目が覚めたと知れば瞬く間にやって来るだろう。
嬉しい気持ちを隠しきれない笑顔の柘榴は、飛行船の中を走り回るのだった。
「蘭ちゃん、蘭ちゃん、蘭ちゃん、蘭ちゃん、蘭ちゃん!」
途中で通信機の存在に気が付き、これでもかと言うほど叫べば、蘭の機嫌の悪い声が返って来る。
『何よ、柘榴。朝から五月蠅いわ』
「今どこ?」
蘭が答えてくれたので、柘榴は廊下の真ん中で急ブレーキをして立ち止まる。
『食堂よ、この時間なら皆で朝食でしょう』
「ああ、確かに。そうだった」
急ぎ過ぎてすっかり頭の中から忘れていた。それなら驚かせたい。
「うん、やっぱり何でもない!今から食堂行くから!私が行くまで食堂に居てね!」
『何なのよ!』
怒った声。それを無視して柘榴は医務室に急いで戻る。
息を切らせながら医務室のドアを力任せに開け、叫ぶ。
「希ちゃん!準備出来た?」
ドアを開けると、希は鏡で結ばれた髪を確認していた。
二つに結んでいた髪の毛に結ばれた真っ白なリボン。そのリボンの存在する意味を、今の柘榴には理解出来る。美来からの大切なプレゼントは、五年前から変わらないのだ。
いつもの希が、柘榴の目の前にいる。
「可愛いねえ」
「な、なんですか!突然」
にやにやしながら柘榴が言えば、顔を真っ赤にする希。そのまま、香代子の方に希の視線が移る。
「出来たら、服も着替えたいのですが…」
「それは何度も駄目って言ったでしょ。ご飯を食べ終えたら検査なんだから、検査服を着たまま行きなさい」
ビシッと言われると、希も頷くしかなかった様子。
「分かりました…」
「それじゃあ、希ちゃんを連れて行きますね」
話が落ち着いたようなので、柘榴は希の後ろに回り車椅子をまずはゆっくり押す。
「希ちゃんをよろしくね」
「はい!」
「香代子先生、本当にありがとうございます」
希が軽く頭を下げてから、柘榴は車椅子を押して部屋から出る。最初はゆっくりがいいかと思っていたが、蘭が待っていると思うと少しずつ早足になっていく。
「希ちゃん、少し急いでいい?」
「あ、はい」
希の許可が出たので、柘榴は車椅子をグッと握りしめた。
「じゃあ、本気出します?」
「…え?」
希がそれ以上何かを言う前に、柘榴は一気に駆け出した。
「きゃぁあああ!柘榴さん!速すぎて、怖いですぅううう!」
「大丈夫!落とさないから!」
車椅子を押すのは初めての柘榴は、加減を知らない。希の声が廊下に響くが気にしない。
「い、やぁああ――――!」
食堂に着くまで希が叫び続けることになっても、笑顔の柘榴は全く気にしない。
柘榴から意味不明な通信を受けた蘭は、食堂のカウンターではため息をついた。
「朝っぱらから、一体柘榴は何を考えているんだか」
「本当だよ」
うんざりしているのは蘭だけではない。蘭の隣でご飯を食べ終えた浅葱も、頭を押さえて、眉間に皺が寄っていた。
「朝から、ガンガン通信するな」
「私のせいじゃないわよ」
鴇は寝ぼけていたらしく、蘭と柘榴の会話は聞いていない。朝から規則正しく起きていた浅葱には、全部会話が筒抜けだったそうだ。
それから蘇芳は始終無表情で食事をするので、聞いていたのか聞いていないのか、どちらか全く分からない。
四人とも食事は終えていて、ちらほら朝食を取る人が現れる。
「い、やぁああ――――!」
遠くなら近づいて来る声。
久しぶりに聞いた、希の声。だけど、悲鳴。
何事かと、一気に騒がしくなった食堂に駆けこんで来た柘榴と希の姿。嬉しいはずなのに、すぐに喜べなかったのは希が泣きそうになって、車椅子にしがみついていたからだ。
急ブレーキで蘭の目の前に止まった二人の姿に、蘭は一瞬言葉を失う。
「こ、こわかっ…た」
「…希、よかった。目が覚めたのね」
希の無事を確認して、微笑んだ。希が目を覚ましたことは嬉しい。
微笑んだまま駆け寄り、希を抱きしめた。それからそのままの笑みを浮かべ、柘榴の方に身体を向ける。無意識に上がった右手は、流れるような動きで柘榴の右腕を捕らえた。捻り上げれば、今度は柘榴の悲痛な声が辺りに響く。
「ったぁあいぃいいい!」
「柘榴!!!病人に何やっているのよ!!!」
ぎゃあぎゃあ騒ぐ柘榴と蘭を慌てて希が止めようとするが、意味がない。蘭の怒りは収まらず、一層右手に力が入った。
「ギブ!蘭ちゃん、ギブ!!!」
「ギブ、なし!」
反射的に言い返した蘭に、顔の引きつった柘榴は言葉を失う。
「蘭さん、それくらいで…」
車椅子に座った希の方が恐る恐る言った。少し冷静になって周りを見渡せば、食堂にいる人の視線は全部柘榴と蘭に集まっている。
落ち着こう、と握っている力を弱める。
「そう、ね。少し怒り過ぎたわ」
「だったら、手を離して貰えないでしょうか…」
キッと睨めば、柘榴はビクッと身体を震わせた。逃げる可能性があるだけに、力は緩めても離す気はなかった。
けれども希が、離してあげてと言わんばかりに蘭をジッと見つめる。
深いため息を漏らした後、蘭はそっと腕を離して希の車椅子の後ろに回った。
「とりあえず、希は私が運ぶわよ。いいわね、柘榴?」
「はい」
蘭の威圧感に押されて、柘榴は素直に頷くのだった。
希が起きたことに皆が喜ぶ、それはいい。
それはいいのだろうが、と蘭は空いていたテーブルに移動してカウンターの様子を眺めていた。
カウンターにいるのは希と柘榴と蘇芳と鴇。それから結紀とキャサリンこと大輔。
そして、そこに並べられているのは何故か沢山の料理やお菓子。
真ん中で座っている希は、どう頑張っても逃げられないので困った顔を浮かべるのみ。人に囲まれて動けない希は、ぎこちない笑みのままから笑い。
「ほら、希ちゃん。これも美味しいよ」
「何言っているのよ。もうずっとまともなご飯食べてないでしょう。身体に優しいものから食べなさい」
「あ、これは俺のお勧め」
希の横の席をしっかり座っている柘榴。カウンターの奥からも、大輔と結紀が食べ物を薦める。
「えー、こっちの方が希ちゃんは好きじゃないの?」
「俺はこれがいい」
柘榴の反対側では鴇が座り、そのまた横に蘇芳が座って一人食事をしている。
誰も彼も自由に過ごし、希は必死に声を上げる。
「そんなに食べられません!」
「大丈夫、大丈夫」
にこにこ笑う柘榴の大丈夫は、何が大丈夫なのか全く分からない。
希が元気になって食事を取って欲しいのは蘭もだが、これは流石にやり過ぎと言うものではないだろうか。無理やり食べさせようとしている風にしか、思えない。
「あれは、やり過ぎだろ」
蘭の心情を弁解するように、目の前に座っていた浅葱が呟いた。
カウンターから少し離れたテーブル。今の時間は、食堂で朝食を取る人はほとんどいない。人がいないので騒いでも迷惑にならないが、希には迷惑極まりない行為になりつつある。
誰かが止めないと、と思うが蘭はもう少しだけ様子を見守ることにする。
「そう言えば、浅葱。ダガーどうなったの?」
飛行船が旅立つ前に、蘇芳によって壊されたダガー。柊に見せに行くと言ったきり、その結果を聞いていない。
何てことないだろうと思って聞いた質問だが、浅葱の顔は一気に暗くなる。
「俺の武器はもう駄目だと宣告されて。昨日、これをチビに渡すように言われた」
差し出された手紙。
浅葱はすでに中身を知っているようで、蘭と視線を合わせないように顔を下げた。
蘭ちゃんへ、と書かれた手紙というより、そこらへんにあった紙きれ。
嫌な予感しかしない。そもそも、柊からの手紙で思い出すのは、最初の頃に必要以上に送り付けられた手紙の数々なのだが。
ここで躊躇っても仕方がないので、蘭は潔く手紙を開けた。
『蘭ちゃんへ 浅葱くんの武器壊れたみたいだから、剣の方でも貸してあげてね。柊より命令』
何度読み返しても、内容は変わらない。
どうしよう、無性に腹が経つ。
今目の前に柊がいたら、迷わず殴るくらいに腹が立つ。
手紙をグシャグシャにして、舌打ちをしながら浅葱に投げつけた。
「なんで俺に投げつけるんだよ!」
「ムカついたから」
冷たく言い返して、顔を背けた。
浅葱に当たっても仕方がない。感情が抑えられずに苛立つ蘭に、浅葱は言いたくなさそうに小さな声で言う。
「…なんか、悪いな」
珍しく浅葱が素直に謝った。
瞬きを繰り返し、驚いて怒りが段々と収まっていく。思わず顔を上げれば、蘭を見ていた浅葱と目が合った。何故か浅葱の方が早く視線を逸らす。
少し顔の赤くなった浅葱を気にせず、蘭はため息交じりに言う。
「…まあ、仕方ないわよね。浅葱が武器なしじゃ戦えないし、私の武器ぐらいしか今は貸せないもの」
「そうなのか?緑の方はまあ、武器が一つだからってのも分かるんだけど。赤い方は、日本刀二本あるだろ?そっちでも良くないか?」
不思議そうに首を傾げた浅葱に、蘭は仕方がないと思いながらテーブルに肘を付いて説明する。
「柘榴と希の武器は、使えないのよ」
「どういう意味だ?」
興味が湧いた浅葱が、真剣な眼差しを蘭に向けた。声は淡々となっていく。
「他人に渡るのを拒む。私の武器は浅葱でも使えるし、蘇芳や鴇が手にしても使えるでしょうね。けど、柘榴と希の武器は違う。持ち主を選ぶのよ」
結果、と蘭は話をまとめる。
「柘榴と希の武器を手にした者は、焔または風によってダメージを負うこととなる」
「…嘘だろ?」
どうやら、浅葱は信じていない。疑っているので、これは見せた方が早いとカウンターの方に目を向けた。未だ困ったままの希、囲まれて動けないでいるのを助ける意味も込めて名前を呼ぶ。
「希、ちょっといい?」
「はい!何ですか?」
蘭の呼びかけに物凄く嬉しそうに振り返った希の顔。他の面々から逃げられる口実が出来た、と嬉しそうな笑顔。
「蘭ちゃん、希ちゃんは渡さないよ」
その横で何故か柘榴が敵意を剥き出しにしているが、相手にするつもりは全くない。
「武器交換が不可能であることの証明をしたいから、武器を出してくれない?」
「それなら、私の武器でもよくない?」
「柘榴だと、燃えるじゃない」
物騒な言葉が飛び交うので、大輔と結紀が不安そうな顔になる。
「…食堂壊さないでよ」
小さく聞こえた大輔の声は聞こえなかったことにした。それは希も同じようで、素直に頷いて両手を広げる。
「スマラクト」
希の呼びかけに、緑の光が生まれ武器と化す。希の弓を見て、驚くような顔をしたのは大輔だけ。
大輔以外は、驚くような現象ではない。
光が収まった弓を握った希は少し辺りを見渡すと、目が合った蘭に言う。
「どうぞ。どなたで証明するのですか?」
「柘榴でいいんじゃない?」
「やだよ。何回吹っ飛ばされたと思っているの!」
バンッとカウンタ―を叩いて、柘榴は勢いよく立ち上がった。
柘榴が何度希の武器を使おうとして吹っ飛ばされたか、これでもかという程繰り返したのだから蘭も希もよく知っている。
ちなみに、柘榴の日本刀では一回しか実験していない。あまりにも焔の威力が強く、蘭が大火傷をするところだったからだ。
蘭の言う証明に、誰も動こうとはしなかった。
希の持っている弓を誰も触ろうとしない。
「じゃあ、誰で実験するのよ?浅葱行く?」
「いや、遠慮しておく」
ここまで話されて、触りたがる人はいないだろう。が、ここは証明してみせたいので、誰かに触ってもらうしかない。
もちろん、蘭が触る気はない。
そうなると、蘭の視線はただ一人に注がれる。
「柘榴、行って。もう何回も吹っ飛ばされたんだから、慣れたでしょ」
「いや、慣れとかないよ!」
「すみません。柘榴さん、お願いします」
「そんなぁ…」
希もそれしかないと思ったのか、弓を柘榴に差し出す。柘榴が思わず一歩下がる。
「いやいや、私じゃなくても」
「大丈夫ですよ。壁に激突する前に風で守ります。それにもしかしたら今度こそ、成功するかもしれません」
「そう思って、何度も吹き飛ばされたのは私だからね!ついでに言うと、吹き飛ばされるのを前提で話しているよね、希ちゃん?」
「そんなことありませんよ」
「そうよ、柘榴。だからさっさと希の弓を持ちなさい」
「命令形!?」
柘榴に全員の視線が集まっている。後に引けない、逃げられないと悟った柘榴は決心がつかないようで、一歩も動かない。
仕方ないわね、と言いながら蘭は柘榴の立つ位置から斜め後ろ、天井付近に大きな水の塊を出現させる。そこに柘榴が収まると予想して現れた水の塊に、柘榴の口角が引きつる。
「ほら、希の風と合わせて私の水も用意したわ」
「これで安心ですね、柘榴さん」
にっこりと笑顔を浮かべている希に、悪気は一切ない。
「…用意周到なことで」
柘榴は諦めたかのように、大きく溜め息一つ。
肩から力を抜き、息を吸い込んで気合いを入れる。
「…よし、行くよ」
緊張した雰囲気を醸し出す柘榴が弓に手を伸ばした瞬間、誰もが息を飲んでその様子を伺う。
蘭と希からすると、何度も見た光景になる。
これからどうなるのか、目を瞑っても分かる。
柘榴がゆっくりと弓に手を伸ばす。触れたか触れないか、その瞬間に、風が、突風が柘榴を吹き飛ばす。
弓は希が持ったまま、動くことはない。
柘榴の身体が宙に、というか斜め後ろの天井に激突しようとする寸前で、風でスピードを緩め、蘭の作った水によって衝撃が吸収される。
柘榴の身体は水の中に収まって、ガボガボと音がする。
「つまり、こうなるのよ」
「あ、ああ…」
驚いている浅葱を見て、分かったでしょと言う顔をした蘭。希は柘榴を見ながらぼそりと呟く。
「蘭さん、水解かないと柘榴さん溺れますよ」
「…そう、ね」
柘榴が天井にぶつからないようにするので、頭がいっぱいだった。と言うわけではなく、水の中で慌てふためく柘榴も中々に面白かった。
これでさっきの希に対することはチャラにしよう、と水の塊を一瞬で消す。
「げほ、今。マジで、死ぬかと思ったんだけど…」
びしょ濡れになった柘榴。
床に見事に着地をしたものの、服も髪も濡れてしまった。蘭のせいではあるが、謝る気はない。
「柘榴、まだ最長記録は更新してないわよ?」
「蘭ちゃん、そんなの計ったことないでしょ!」
蘭と柘榴が言い合っている横で、希は静かに弓を消した。
柘榴の震えは間違いなく寒いからで、それを見かねた希が小さな声で提案する。
「柘榴さん、ご自分の焔で乾かした方が早いかもしれませんよ?乾かせそうですか?」
「うーん…多分。希ちゃんも手伝って?」
「はい、端の方に行きましょうね」
「はーい」
希に言われて、柘榴は車椅子の希と共に食堂の端に行く。途中から茫然としていた大輔と結紀は、驚きすぎて言葉を失っていた。
蘇芳や鴇も驚いているのかもしれないが、二人ほどではない。浅葱もこれで納得するしかなかったのか、呆れた風に言う。
「チビ、赤いのがあの位置に吹っ飛ぶって知っていたみたいだけど、なんでだ?」
「毎回同じだったからよ。ここが屋内でよかったわ。外だと無制限に空高く吹っ飛ばされたから」
空高く吹き飛ばされた柘榴も、今なら面白かったな、と思い出す。
「懐かしいわ」
「…それはいい思い出なのか」
浅葱が呟いた声は、蘭以外には聞こえなかった。
それからすぐ、柘榴と希はカウンターに戻って来た。濡れていた床も、柘榴の服もあっという間に渇いていた。
「柘榴さん、落ち込んでないで下さい。私の分のご飯でも食べてください、ね?」
「うん。そうする」
希の弓に触れなくて落ち込んでいるのか、びしょ濡れになったことに落ち込んでいるのか。
それ以上に他の人達が驚いているのは、柘榴がさも当たり前のように席に戻ってきたからだ。
「柘榴、さっき焔に包まれてなかったか?」
「うん?周りに焔を出して、希ちゃんに風で火力を調節してもらったからね」
もぐもぐと食べながら、結紀の質問に答えた柘榴の手は止まらない。
「…あれだよね。三人揃うと本当に何でもありだなって思う」
鴇がぽつりと漏らした言葉。柘榴と希、それから蘭を除いた全員の中にまさしく浮かんだ言葉であった。
結局、元気になった柘榴は午後から街に行くことにした。
「海が綺麗!」
「はいはい、よかったな」
海辺に着陸した飛行船。降りたらすぐ目の前が海で、嬉しくなって海に向かった柘榴。一緒に降りた結紀が、適当に返事を返した。
柘榴の傍には、結紀以外いない。
皆海など見向きもせず、各自街に向かう。
「お前、街に行って何するわけ?」
「そうだねえ、美味しいものでも食べて。希ちゃんと蘭ちゃんに、お土産を買って帰ろうかな」
「いいんじゃないか」
後でまた海を見ようと、柘榴歩き出す。結紀も何故か一緒に歩き出す。
「だよね、だから結紀。道案内よろしく!」
「…それ、初めて聞いたわ」
初めて言ったわ、とは言わなかった。呆れている結紀がため息をついたのを見て、柘榴はにっこりと無言で微笑むのだった。




