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宝石少女奇譚  作者: 香山 結月
第5章
27/59

26 過去編03

『今までの映像は、美来様と歩望様の記憶です』

 画面が切り替わった途端、最初の時のように可子は真っ白な背景の場所で、淡々と言った。

『全てはあの夜から狂い始めました。そしてここからは、私の記憶』

 可子は真っ直ぐと前を見て、はっきりと言葉を紡ぐ。

『私の知っている、全てです――』

 画面が、切り替わった。



 可子が目覚めた時、名前なんてなかった。

 部屋には誰もいなくて、エメラルドと契約した少女の記憶だけが可子の中にあった。美来と言う名の少女、それから美来が心から大切にしている歩望と言う名の青年と希と言う名の少女。

 訳も分からないまま部屋を出て、少ししたら他のことも思い出した。

 宝石、エメラルドの欠片を誰かが可子の中に入れた。可子の中にあったエメラルドは、美来が仮契約したことによって覚醒した。

 だから、仮契約者となった美来がいる場所に可子は戻った。

 それが、目覚めた日のこと。


 ラティフィスとなった美来は、ふと可子に尋ねたことがある。

「仮契約ってことは、本契約もあるの?」

「はい。お持ちの宝石の、核であるエメラルドの原石を破壊すれば、本契約になります」

「仮契約と本契約の違い、て何?」

 その質問に少しだけ間を置いて、可子は言う。

「美来様は力をお使いになりませんが。エメラルドの場合は風を操る力が仮契約より本契約の方が強く、またいずれはラティランスと呼ばれる巨大な存在を呼び出すことが出来ます」

「巨大な、存在?」

 意味が分からないと首を傾げた美来に、可子は考える間もなく話し出す。

「本契約者だけが呼び出せる、聖なる存在です。本契約者自身は宝石の原石となり、核である存在。力の源そのものだから、ラティランスを呼び出せます。けれども、万が一にもその宝石が砕ければ光と共に、消えてなくなります。残るのは、宝石の塊だけです」

 心なしか重い空気になった部屋の中で、じゃあ、と美来は呟く。

「その核となるのは人でないといけないの?人以外は、なりえない?」

「それは…おそらく核となることは可能でも、ラティランスを呼び出すことが出来ないと思います。仮契約にしろ、本契約にしろ、言葉がなければ力は扱えませんから」

 区切りの付いた可子の言葉に、美来は、そう、と小さく呟く。

「…こんな力、どうして私に与えられたのかな?」

 独り言のようなその言葉だけには、何も言い返せなかった。


 それから美来は可子のことを人のように、まるで家族のように接してくれた。双子みたい、なんて笑っていた。可子が顔を合わせていいと許可されたのは歩望だけで、他の人には会わないと言う約束をしたのは最初の頃の話。



 月日が流れて、冬。

 バイトに行った美来が帰って来ない部屋で、一人ぼんやりしていた可子は誰かが部屋に入って来る気配で慌てて部屋の外に出た。

 美来が帰って来る時は、不思議なことにはっきりと分かる。可子は素早く窓から外へと飛び出した。

 それが、きっと最初の間違い。

 部屋に入って来た誰かを確認する間もなく駆け出した後、突然全身を駆け抜けた痛みに可子はしゃがみ込んだ。

 痛い、と言う感情を初めて知る。何が起こったのかすぐに悟ってしまった。

「…宝石、が」

 砕かれてしまった。美来の部屋の中にあったはずのエメラルドの原石がこんなにもあっさりと砕かれてしまった。

 あり得ない。こんなこと、想定外だ。

 何とか重い身体を動かして、部屋から出て行く後ろ姿を見た。見たことのない人間、可子の知らない人。部屋の中心に砕かれたエメラルドが、光となって消えて行く。

「美来、様…」

 意識が霞んでいく。何とか部屋まで戻り、エメラルドが埋め込まれている右胸にギュッと両手を押し当てた。

 それからほんの少しの間、可子の意識はなかった。


 目を覚ますと、すぐに美来の気配を探った。

 エメラルドの原石を砕かれた。それは、美来が本契約者となった証。

 居ても立っても居られないので、可子は部屋を飛び出した。走る途中、美来の記憶が重なる。美来のよく通った道。美来が大好きな道。

 向かった先は、歩望の家。

 美来の気配は可子が辿り着いた途端、消えた。

 エメラルドの原石を抱きしめ、声を押し殺して泣いている歩望しかいない。その背中に掛ける言葉を探して、掠れた声で呼ぶ。

「…歩望、様」

「美来、さん?」

「いえ、可子です」

 静かに振り返らずに問われた質問に、静かに言い返す。そっくりな声、間違えられても仕方がない。

 歩望は視線をエメラルドに向けたまま、小さな声で言う。

「美来さんは、どうなったんだ?これって、夢じゃないのか?」

 美来の記憶の中に、歩望の泣き顔はない。いつも笑っていた歩望は、目の前で泣いている。

「…お持ちの宝石を、お渡しください」

「なんでだ?」

「それは危険なのです」

 美来が殺された、それは間違いない。狙われた原因は、エメラルドしか思い付かない。これからの可子の戦いに、歩望を巻き込みたくはない。

 可子の願いは届かず、歩望は決してエメラルドを手放そうとせず顔を上げた。

「守って、と言われた。何なんだよ、この宝石は。お前は何を知っているんだよ!」

 歩望が声を荒げたのを、初めて聞いた。睨まれて動けない可子は、視線を逸らし小さな声で言う。

「歩望様が望むのなら、全てお話しします。そうしたら、そのエメラルドを渡してください」

 それしか、言えなかった。


 場所を移動して、可子と歩望は真夜中の公園へとやって来た。歩望と共にベンチに座った可子は、しばらく何も言わなかった。それでも話さなければ、と口をゆっくり開く。

「宝石は――」

 小さくも説明を始めた可子の言葉を、歩望は頭を下げたまま黙って聞いていた。美来に話した話を全て話し終わった後、歩望は唇を噛みしめてから問う。

「なんで、美来さんだったんだよ」

 その問いに、答えられない。立ち上がって、背を向けた可子ははっきりと述べる。

「私はこれから、美来様を殺した犯人を捜します。もう二度と、美来様のような犠牲を出さないためにも。宝石を私にお渡しください」

 振り返って、右手を出す。

「…そう、か。でも、ごめんな」

 ますます手放すまい、と歩望はエメラルドを握りしめたまま立ち上がった。可子から少し離れて、確認するように言う。

「エメラルドと契約すれば、俺も美来さんと同じになれるよな?」

「…はい」

 質問には律儀に返す。訊ねられた質問の意味を問う前に、歩望は迷うことなく落ちていた尖った石を拾った。その先の展開が読めなくて、見ていることしかしなかった可子を振り返って微笑んだ。

「じゃあ、俺が囮になるよ」

「どういう――」

 意味ですか、と尋ねる前にその石で左掌を傷つけた。赤い血がポタポタと地面に落ち、そのまま歩望はエメラルドに触れる。

 流れるような、それが自然であるような動きを止められなかった。

 緑の光が溢れ、どこからともなく風が吹く。

「スマラクト」

 小さく呟いた歩望の声を、可子は確かに聞いた。

 驚く間もなく、その声と共に歩望の右手に淡く緑の光が集まった。真剣な眼差しで、右手を見つめた歩望の手の中に一本の光の矢が出現する。

 その矢で、歩望は原石を自ら破壊した。

「っな、なんでそんなことを!?」

「こうすれば、狙われても俺自身が倒せるから」

「美来様はそんなこと望んでいなかったはずです!」

 段々と声が荒くなった。可子らしくない。心のどこかで、歩望は手を引いてくれると思っていたのに、裏切られた。そんな気分に、可子はらしくないことを叫ぶ。

「歩望様が契約することを!私と関わって巻き込まれることを!美来様は私に貴方と希様を守って欲しい、と――」

「可子」

 今までで一番優しく、名前を呼ばれた。穏やかな笑みを浮かべた歩望に遮られた声は、そこで止まる。

「俺もさ、守ってと言われた。エメラルドを。可子の話を聞いていたらさ、美来さんの意志を継ぐにはこれしかない気がしたんだよ」

 ごめんな、と悲しそうな顔で言われて、もうそれ以上のことを言えなかった。一人で勝手に決意を固めて、それ以上誰かを踏み込ませない横顔。

 美来同様に契約したからか、歩望の記憶が徐々に可子を支配する。そして、今の気持ちも何となく分かってしまった。

 歩望が恨んでいるのは、何も知らなかった自分自身。可子に向けられた怒りはなく、ただただ美来の気持ちを優先しようとする心。

 美来との、約束。

 歩望がエメラルドと本契約を交わした、それが五年前の出来事。 



 その次の日。歩望は希を連れて、ずっと住んでいた場所を離れた。

 バイトも止め、大学も止めて希を連れて二人で点々と色々な場所で暮らす生活に変わった。可子は二人から遠からずの場所で暮らし、見守った。

 歩望は少し変わった。前より希の傍を離れず、過保護になった。巻き込まないように、と可子は希に会っていない。

 美来の死は世間に知れ渡ることはなかった。行方不明者扱いで、それ以上にも以下にもならなかった。


 可子と言う機械人形の身体は、食事も休息も必要としない。

 犯人捜しと並行して、可子は宝石絡みの怪物を倒す。そんな、生活。

 可子の武器は、歩望から貰った小刀。エメラルドが埋め込まれた小刀は、小さいながらもラティランスを倒す力を持つ。可子は必要に応じて遠方まで行き、他の宝石の欠片を集めた。沢山の欠片が集まったが、それでもその中に他の原石は見つからない。

 美来を殺した人物も、見つからない。



 いつもように日中の午前中。

 希が学校に通っている時間に、歩望と希のアパートを訪れる。歩望はバイトを掛け持ちして生活を保っているので、基本的に休みがバラバラ。気配を探って家にいる時間に、インターホンを押す。

 返事がして、すぐにドアが開いた。

 歩望は少し痩せ、筋肉が付いた。可子を見ると、軽く微笑んで部屋の中に招く。

「さて、歩望様、結晶化と言う現象を知っていますか?」

「何それ?」

 座る前に話し出した可子。

 歩望は可子が食事を必要としないと分かっているはずだが、自分の分と一緒にコーヒーを入れる。それはいつものことで、いつだって人のように接してくれる。

 コーヒーを待ちながら、可子は言う。

「最近、ラティランスを追いかけていたのですが。時々、自爆するように力の使い過ぎで壊れてしまう例がありまして。勝手に宝石に戻るので、結晶化と呼んでいます」

「へえー」

 興味があるのか、ないのか。正座で座った可子とは対称的に、そっとテーブルに二人分のコーヒーを置いた歩望は寛いで座った。

「それって、本契約者も当てはまる?」

「力の使い過ぎですから…本契約者に力の上限はないと思いますが?」

「まあ、そうなるかもな」

 歩望はいつだって冷静だ。美来の話をしない限り、歩望が取り乱すことはない。それは可子が五年間で学んだこと。

 少し考えてから、歩望は軽く言う。

「全力で、加減しないで力を使ったら結晶化するかもしれないよな。一回試してみるかな?」

「それは!」

「冗談、冗談。そんなことしないよ。希の傍にいたいしさ」

 そう言って笑う歩望は、五年前からどこか悲しそうに見えて仕方がない。

 こんな風に悪い冗談を言う人じゃなかった。少なくとも美来の記憶の中での歩望は、絶対にこんな風には言わない。歩望を変えてしまったのは、美来の死。

 それは可子のせいでもある気がして、徐々に罪悪感が心を蝕み、一緒にいることが辛い。

「そう言えば、この五年近く優作さんとは連絡取れなかったな」

「…はい」

 一度だけ、歩望は逃げる前に優作に連絡を入れた。けれども、それ以降は歩望にその返事が来たことがなく、時間だけが過ぎてしまった。

 時間だけが、いつだって無常に流れてしまう。大したことなど、何も出来ない。



 可子は怪しませないように、時間のある時は希の護衛に徹底する。

 希を巻き込まない、それが歩望と交わした約束の一つ。

 約束を果たすために、可子は時間がある時や遠方に行った時以外は希を見守るようにしている。本当は美来のように話がしたい。

 機械人形でなかったら、普通に生活出来たのか。

 歩望や希と笑って暮らせたのではないか。

 そんなことを考えてしまう。考え事をしながら歩いていた可子は、数十メートル先の歩道橋を歩く希の姿を見つけた。笑って無事に過ごす姿を見る度に、ホッと安心する。

 五年間で随分成長した希。現在の年齢は十七歳。

 勉強を歩望に教わっているためか、かなりの学力を持ち、近くの公立高校に通っている。バイトをして生活費に当て、歩望の勤める病院に夜食を持って行くのが日課。

 今日は急いでいたのか、制服姿のまま歩望の勤める病院へ向かって歩く。お気に入りの桜色のカーディガンをその手に持って、笑顔の希は歩く。

 もともと歩望に似た可愛さはあったが、女として成長したというべきか。髪型だけは変わらない。

 美来から貰った誕生日プレゼントの白いリボンを付けている。

 歩道橋を歩いていた希はふと、すれ違った男性と話し始めた。

「あの方は…」

 美来の記憶の中、五年前の姿とあまり変わらない男性。

「終冶?」

 美来はそう呼んでいた。美来の記憶だけでなく、今では歩望の記憶を持つ可子は、歩望の記憶とも照合してみる。間違いなく、黒っぽい服を着て雰囲気が変わった終冶は優しげな笑みを浮かべ、希と話していいる。

 ここからでは何を話しているのか、全く分からない。

「移動、するのですね」

 どうしてだろうか、嫌な予感がする。先回りをするために可子は大急ぎで希と終冶が向かう場所へ、歩望の勤める病院へ駆け出した。


「歩望様!」

「…可子?なんで窓から?」

 物珍しい人が来たと言わんばかりの顔をされ、可子はそれどころでないと言う勢いで窓を叩いた。

 歩望の勤める病院、と言えども歩望に医師免許があるわけではない。その警備員をしている歩望は、一人休憩室でテーブルにうつ伏していた。

 驚いて、可子を見つめる。

「少しよろしいですか!」

「あぁ、ちょっと待て。今窓開けるから…」

 窓を開けるために立ち上がった歩望は窓を開けようとするが、滅多に開けない窓なのか鍵が開かない。急がないと、と可子は叫ぶ。

「今から、希様が来ます!」

「それは、いつものことだろ?」

「終冶も一緒でした!」

「…終冶?」

 窓越しに話し出した可子。歩望は窓を開けるのを諦めたようで、可子の言葉に首を傾げた。

「こんなことは言うべきではないと、分かっているのですが…嫌な予感がするのです」

 それは機械人形のただの直感。

 真剣な声で話す可子に、歩望の方も少しだけ顔を曇らせた。

「終冶は無関係じゃないのか?」

「そうだと、信じたいのですが…用心だけはしてください」

「分かった。じゃあ、窓の外で待機していてくれないか?何かあったら、叫べるしさ」

「そう、ですね」

 もうこれ以上は何も言えることがない。終冶の何が危険で、どうして嫌な予感がするのか。可子自体、よく分かっていないのだから仕方がない。

 それからすぐ、足音が近づいて来る。二人分の、おそらく希と終冶の足音に可子は身を翻して、姿が見えないように隠れた。休憩室が一階でよかった。

「ねえ、希ちゃん。柚くんとは連絡取れた?」

「柚くんですか?それが、五年前から一度も会えなくて…」

 微かに聞こえた希と、久しぶりに聞く終冶の声。可子が実際にその声を聞くのは初めてだ。

 二回ノック音が響く。返事を歩望がすると、笑顔の希が現れた。

「お兄ちゃん!夜食だよ」

「おう、いつもありがとな」

 いつものように、希が弁当を持って来た。その後ろでにこやかな笑みを浮かべていた終冶。木の影からその様子を見て、心配し過ぎだったのか、と思った。

 それならそれでいい。

「終冶さんと一緒に来てね。お兄ちゃんも会うのは久しぶりだよね」

「ああ、久しぶりだな。終冶」

 終冶に近づこうとする歩望が一歩足を踏み出す、直前。


 それはほんの一瞬だった。


「…え?」

「動かないでね。希ちゃん」

 希の耳元で、低く怖いくらいの終冶の声が聞こえた。それと同時に、金属の刃が首に当たる。左腕を強く、痛いくらいに掴まれる。

 何が起こったのか分からない希は、持っていた鞄を落とした。床に落ちた音が響く。

「終冶!」

 普段怒鳴ることのない歩望の声、部屋の空気が一変する。

 嫌な予感が、当たってしまった。歩望が動くより先に終冶が先制する。

「おっと、歩望。動くなよ。動いたら、希ちゃん…死ぬよ?」

 希の首に当たっていた金属の刃、微かに血が流れる。果物ナイフがゆっくりと移動して、希の右肩にゆっくりと突き刺さる。

 赤く染まる、血。セーラー服を染めていく。

「っ!」

「希!」

 声にならない悲鳴を上げた希。助けようと歩望が駆け寄ろうとすれば、その分だけ希を傷つける。

「だから動くなって。僕のお願いを聞いてくれれば、すぐにでも希ちゃんを解放するよ?」

「何が…目的なんだ?」

 唇を噛みしめて、必死に現状を耐えている歩望。泣くまいと、希は肩を震わせながらも痛さを我慢して声すら上げない。

 歩望の悲痛の表情に、終冶はにやりと笑った。

「簡単だよ。エメラルドの原石、僕にくれない?」

「なんで、お前がそれを…」

 希だけが何なのか分かっていない表情を浮かべていた。くれない、と言われて差し出せるものではない。それを終冶は分かっていないのか。

 何も答えない歩望に、それじゃあと質問を変える。

「どうして本契約しちゃったの?」

 少し悲しそうな顔で、終冶は問う。答えようとしない歩望に、あーあ、とため息をつく。

「本契約しなきゃ、死ななくてもよかったかもしれないのに」

 終冶が一歩前に出ても、歩望が動くことはなかった。ただ恨めしそうに睨む、距離が縮む。

 あと一歩と言う場所まで近づいた三人。希が歩望に手を伸ばそうとするのと、可子が飛び出そうとしたタイミングはほぼ同じだった。

「終冶!」

 歩望の悲痛そうな叫びに、足が止まった。

 希を離した終冶が、持っていたナイフを迷うことなく前に突き刺した。

「歩望。僕は凄く悲しいんだ…友を失くすことになって」

 歩望の身体は、静かに床に崩れ落ちた。

 まるで海の底の闇のような瞳で、肩膝を付いた歩望を見下ろして笑う。地面に叩きつけるように倒れた希は、目の前で起こった出来事に目が離せない。

「お兄ちゃん!」

 あっという間に、歩望のわき腹から赤い血が流れ始めて、服を真っ赤に染めていく。浅い息を繰り返し、終冶を睨む歩望に駆け寄った希は震える手で血を止めようと試みる。

 どれだけ傷口を塞ごうと、血が止まらない。

 静かに泣き出した希の手に、真っ赤に染まった歩望の手が重なった。歩望は希の方など見ないが、大丈夫だと言わんばかりに希の手を強く掴む。

「…お兄ちゃん?」

「エメラルドの原石で。何をする、つもりだよ」

 希ではなく、終冶に向かって発せられた言葉。終冶は一部始終を見ながら、馬鹿にしたように言う。

「美来に、会いたいんだ。エメラルドの原石があれば、それが出来る」

「死んだ人間に会えるわけがないだろう!」

 咄嗟に叫んだ歩望の言葉は、座り込んでいた希の心に突き刺さる。

「どういう、こと?」

 歩望がハッと振り返る。

「希、それは――」

「美来さんが死んだ、てどういうこと?」

 真実を求める希の瞳に、みるみる涙が溜まる。歩望に答えを求めるが、答えられない。唇を噛みしめて言葉を探す歩望に変わって、終冶は嬉しそうに笑う。

「そうだよ。美来は死んだんだ。でも、原石があれば会えるんだ。希ちゃんも、ガーネットを見つければ、きっと会えるよ」

 にっこりと笑顔を浮かべた終冶。違う、と小さく呟いた歩望の声を掻き消して、希の耳元に唇を寄せた終冶は囁く。

「死んだ柚くんにも、ガーネットがあれば会えるよ」

「え?」

 終冶が何を言っているのか、希は理解出来ない。

 クスクス笑いながら、希と目が合った終冶は続ける。

「歩望と希ちゃんは逃げ延びたから知らないだろうけど。五年前の災害で、多くの人が犠牲になったんだよ。その中に、ガーネットと契約した柚くんや、それを必死に隠そうとしていた優作さんも含まれるけど」

「う、そ…?」

「嘘じゃないよ。希ちゃんが柚くんを巻き込んだんでしょ?だから僕が二人を殺したんだから」

 終冶は淡々と言葉を並べて喋る。そこに悲しみはない。

「でも柚くんにはまた会えるよ。そうだ!希ちゃんは僕と一緒に行こうよ。大切な人を取り戻しにさ」

 希に差し出された右手、それを数秒だけ希は見つめた。希が口を開く前に、今まで黙っていた歩望がそっと小さく呟く。

「スマラクト」

 その声が希と終冶の間に、風を生み出す。最後の力を振り絞って希と向き合った歩望は、狼狽えている希を諭す。

「希、よく聞け」

 息絶え絶えに歩望が言う。

「お兄ちゃん?」

「嘘、ついていて。ごめん、な。何も言わないで連れ回して。本当に、ごめん…」

 歩望はまるで残りの命を使い切るように、手を伸ばし、全身で希を抱きしめる。歩望の血の付いた右手が、終冶に刺された怪我に触れた。

「怪我も、ごめんな。希には、生きて、欲しい…」

「お兄ちゃんも、一緒でしょ?」

 死なないで、と言う希の声は小さすぎて風の音で掻き消される。希が聞きたいことは沢山ある。意味が分からないことばかりで、どれが真実か分からなくて、混乱している。

 そんな希の心情なんて、きっと歩望には届いていない。

 そっと離れたかと思うと、歩望はゆっくりと傍にあった希の桜色のカーディガンを羽織らせた。それからもう一度、優しく抱き寄せる。

 その身体は段々と冷たくなって、それ以上動かない。

【呼べ、我が名を…】

 希の頭の中で誰かの声が聞こえる。心に直接響く声は、どこか歩望に似ているような気がした。心に響く声が必死に、希に言うのだ。呼べと、その名を呼べと。

「…スマラクト?」

 声に促されて呟いた言葉で、突然部屋の中は風が吹き荒れた。

 まるで希を守るように突風は吹き荒れ、目を瞑った終冶が再び目を開けた時には、希の姿だけが消えていた。

 少し驚いた顔で、終冶は呟く。

「まさか、希ちゃんにエメラルドを持って行かれたのか?」

 これは予想外、と独り言を呟いた終冶は近くにあった椅子を思いっきり蹴った。それから残された歩望を冷めた目で見下ろす。

 もう動くことのない、歩望の姿。

「ばいばい、親友」

 一瞬だけ悲しそうに唇を噛みしめて、背を向けて歩き出すのだった。

 


 終冶がいなくなった部屋。可子は窓を無理やり割って、部屋に滑り込んだ。

 残された歩望の身体を見下ろして、何とも言えない感情が湧き上がる。

「なんて、安らかに眠っているのですか?」

 可子の声が、部屋に響く。最後の最期で、歩望は笑みを浮かべていた。

 人はなんて呆気ない。美来も歩望も、どうしてこんな簡単に死を迎えるのだろうか。

 守ることが出来なかった。歩望と希をこの五年間見守っていたのに、肝心な時に守れない、無力さが悔しい。

「ねえ、歩望様。幽霊っているのですか?幽霊になって、美来様と再会出来ましたか?」

 歩望の傍に膝をつき、そっとその身体に触れた。

 このまま放置には出来ない。それだけはしてはいけない気がして、持っていた小刀をそっと取り出す。こんなことしたくない、そう思いながら歩望の身体に小刀を突き刺した。

 歩望の身体が緑の光に包まれ、瞬く間に砂と化す。

「どうか、来世では幸せに」

 いつか美来と出逢えるだろうか。

 そうだったら、いいのに。

 と、顔を上げた。悲しい、と言う感情を知っているのに、涙は流れない。流れることはない。部屋の中はこんなに静かなのに、外は騒がしくなっていく。

 ラティランスが暴れているらしい。

 ラティランスを止めなければいけないのだろうが、今すぐには動けない。

 美来と歩望と交わした約束が、頭の中で繰り返される。


「ねえ、可子」

「はい。何ですか?」

「もしも、私が死んだら。歩望くんと希ちゃんを守ってくれる?」

「…美来様がお望みならば」

 美来はその言葉に、嬉しそうに笑った。


「なあ、可子」

「はい。何ですか?」

「もしも、俺が死んだら。希のことを頼むな」

「…はい。かしこまりました」

 歩望はそう言って、悲しそうに微笑んだ。


 目を開き、前を見据える。

 美来と歩望と交わした、約束をもう二度と破ってはいけない。今度こそ守ってみせる、と決意を固めてゆっくりと立ちあがった。

 絶対に、忘れない。

 絶対に、希を守ろう。

 それが可子のやるべきことだ。

 

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