25 過去編02
バチッと音が鳴って、画面がまた真っ暗になった。画面が切り替わったのだと、理解するのに時間は掛からなかった。
大学の食堂には沢山の人。季節は変わり、冬になった。食堂のテーブルの端に、座っていたのは歩望と、それから終冶。
歩望の目の前に座っている終冶は、口にご飯を詰め込む歩望の様子に呆れながら言う。
「歩望、食べ過ぎじゃない?」
「んなこと、ねーよ?」
今日はバイトで夕食を取る時間がないから、二食分の食事を食べているだけのことである。
「あ、そう。それよりそろそろ例の物が、ばれそうなんだけど?」
「マジで?終冶。それ、本当の話?」
「嘘だったら、よかったねー」
自分は関係ないと言わんばかりの終冶は、ゆっくりとご飯を食べる。歩望の箸が止まり、真顔になって言う。
「やばいじゃん…」
「だから、忠告しているんだよ。なんであんな人形作ったわけ?」
「いや、暇だったから。ほら、他の連中に適当に声を掛けたら、段々本格的になってさ」
あはは、と笑いながら話す歩望。
歩望が制作責任者扱いになっているのは、そこらへんの暇人が集まって制作中の機械人形のこと。制作を始めて三か月、ようやく形が出来上がったところで完成までは程遠い。
「あー、意地でも隠し通さないといけないよな」
「本当に。なんで作っているんだか。時々、本気で歩望のことを馬鹿だと思うよ」
ゆっくりと食べるのを再開した歩望に、終冶は呆れ顔になった。食べながら考えなくてはいけないことは、制作途中の機械人形の保管場所と、午前中の講義の課題とバイトに必要なものと。
「あー、考えるのも面倒だ」
バイトばかりで、最近はほとんど夕食を希と一緒に食べていない。時々希と美来が一緒にご飯を食べているらしいが、残念ながら歩望は忙しくて帰る時間が遅くなってしまうのが現状。
まあ、何とかするしかないか。と言う考えに落ち着いて、歩望は一気にご飯を食べ終えた。
「ご馳走様でした、と。保管場所は、後で俺がどっかに移動しとくわ。深夜にでも運んでおけばばれないだろう?」
「多分ね」
「じゃあ、問題なし。そう言えばさ、先週一週間実家に帰っていたんだろ?なんかあった?」
ふと訊ねたのは、ほんの思い付きだった。心なしか、顔が暗い気がして訊ねただけのこと。一瞬だけ終冶の表情が固まったが、それはすぐになかったことにされる。
「別に。特に何でもない」
「ふーん。なら、いいけど。まあ、俺食べ終わったから。先に次の講義の教室行って課題終わらすわ。また後でな」
「おぅ」
軽く挨拶を交わしてから、歩望は軽い足取りで食堂を出て行く。
背中越しの終冶が思いつめたような表情を浮かべていたなんて、その時は想像も出来なかった。
深夜。
いつものようにバイトが長引いて、帰るのが遅くなってしまった。昼間終冶に忠告を受けていたので、家に帰る前に大学に戻って、こっそりと機械人形を運び出す。
目指したのは美来の家。
一応、午後に会った時に軽くお願いしてみたところ、渋々了承してくれたので迷うことなくインターホンを押した。
ドアを開けた先に、笑顔の歩望が人を担いでいるように見えなくもない様子に、美来は頭を抱えた。
「…冗談じゃ、なかったんだ」
「ごめんね。家に置いたら、希が怖がりそうで」
玄関の前で立ち止まっているわけにもいかず、美来に促されて部屋へ足を踏み入れる。美来の家の中は初めてだな、と思いながら部屋に入れば、いかにも女の子らしい部屋だった。
物がないわけではなく、きちんと整理された部屋。パステルカラーの小物が多いが、派手と言うよりは落ち着いている部屋。
その部屋の真ん中に、とりあえず機械人形を降ろした歩望はその隣に座り、同じく目の前の床に腰を下ろした美来は恐る恐る言う。
「それ、本当に人間じゃないよね?」
「当たり前でしょ。俺と他の連中の共同作業中の、機械人形ちゃん」
「女の子なんだ。まあ、その着せている服を見れば何となく想像は出来たけど」
等身大の女の子、を目指すつもりはさらさらなかったのだけれど。途中から加わった連中によって、女性用の服を着用、と言うよりは下にスカートを穿かせてある。
美来が始終引いているので、誤解を解こうと歩望は慌てて言う。
「でもほら、顔は人っぽいけど機械だから!機能としては、瞬きをする。声を出す。唄う程度だから、ね。電源入れなきゃ稼働もしない!」
問題はない、と伝えたかったわけだが、それが伝わったかは微妙で美来は確認を込めて問う。
「歩望くんて…頭よかったんだよね?」
「受験時の成績はトップクラスかな」
自慢ではないが、特待生制度を受けられる程度の学力は持っている。希と二人で暮らすには、奨学金は必要だった。
そのために時間がある時には勉強を欠かさないようにしている。
「天才と馬鹿は紙一重、なんだね」
「そんなしみじみ言わなくても」
腕を組んで一人納得する美来は、まあいいや、と言いながらようやく笑みを見せた。
「置いておくだけでいいんだよね?押入れの中でもいい?」
「うん。本当に迷惑かけてごめんね、後で他の保管場所を考えます」
急だったから、頼める人が美来ぐらいしか思い浮かばなかった。そもそも誰かに頼ることなんて滅多にない。だからこそ、美来の顔が一番先浮かんだのかもしれない。
希のことを任せられるぐらい、美来のことは信頼しているのだろう。
美来がさっさと押し入れに隠してる後ろ姿を見て、そんなことを思ってしまった。深夜と言うこともあって、早々に退散しようと歩望は立ち上がった。
「あれ、もう帰るの?」
「うん、急いで帰るよ。希が起きているかもしれないし」
かもしれない、と言いつつ絶対に起きているだろうと言う確信がある。玄関に向かって歩き、靴を履く歩望に美来は名残惜しそうに言う。
「また…学校でね」
「うん、いつもありがとう。美来さん」
振り返って微笑んだ歩望と目が合った途端、その頬が少し赤くなった。首を思いっきり横に振った美来、その首筋に赤い一筋の傷。
「…美来さん、怪我してるよ?」
「え?」
そっと手を伸ばした途端、美来の身体は硬直した。一瞬だけ触れて、やっぱり血だと確認した歩望は、急いでポケットの中を探る。
真っ赤になってしまった美来は、動けずに歩望の行動を見守ることしか出来ない。
「あった、あった。はい、絆創膏」
「女子力…じゃなくて、ありがとう」
最初の呟きは消えるくらい小さく、後半のお礼しか聞き取れなかった。何故か微妙そうな顔で、絆創膏を受け取った美来は自分で貼ろうとするが中々貼れない。
絆創膏を返してもらって、歩望がそれを貼りながら思い出すように言う。
「希がさ、絆創膏はいつも持っていろ、て言って毎朝俺のポケットに入れるんだよ」
「へえ」
「この傷口だと…ひっかき傷かな?」
「そうかも。今日の帰り道、猫を抱き抱えた時かもしれない」
絆創膏を貼り終った歩望は、軽く一歩下がった。絆創膏を確認した美来は、ようやくいつも通りの笑みを浮かべて再度お礼を言った。
「それじゃあ、今度こそ。また、大学でね」
「うん。また」
今度は名残惜しそうな顔でなく、嬉しそうな笑顔で見送られ急いで家に帰ることにした。
機械人形を美来に預けて、早二日の朝。
「歩望くん!」
物凄い形相で駆け寄った美来に、驚いたのは歩望だけではなかった。隣にいた終冶も何事かと、不思議そうな顔で美来を見つめるが、美来には歩望の姿しか映っていない。
挨拶を交わす暇もなくガシッと腕を掴まれた歩望は、そのまま引っ張られて駆け出す格好になった。
「どゆこと?」
「いいから!いいから、家に来て!」
叫びながらもその声は震え、唇を噛みしめる姿に何かが起こったことだけは理解出来た。歩望の方など見向きもしないで走る後ろ姿がとても小さく見え、分かった、と小さく呟く。
美来よりも前に出て歩望が引っ張る形で、一気に駆け出した。
「あ、歩望くん!?」
「急ぐんでしょ!」
歩望の言葉に、美来は小さく頷いた。今にも泣き出しそうな顔の美来を連れて、歩望はただただ前だけを見て走り続けた。
美来の家まではそう遠くない。
部屋の中に入るなり、美来は息絶え絶えの状態で腰を落とした。その隣にしゃがんで、背中を擦る。
「大丈夫?美来さん」
「うん。でも、ちょっと待って」
深呼吸を繰り返す美来から視線を外し、部屋の中を見渡す。前に来た時とあまり変わらない、と思っていた部屋の押し入れが開いていた。
機械人形を入れておいたはずの場所に、その姿がない。
歩望同様に部屋を見渡した美来は、押入れを見てハッとした表情になった。視線を下げ、何かに怯える美来に優しく言う。
「何があったか教えてくれる?」
「…あの、ね」
視線を下げたまま、美来はか細い声で話し出す。その声にいつもの生気はない。美来は両手をこれでもかと言う程強く握りしめる。
「今朝、荷物が届いたの。宛先が実家だったから、あんまり不審に思わなくて…そうしたら段ボールの中に宝石と手紙が入っていたの」
うん、と小さく頷けば美来は一呼吸置いた。
「手紙に『お願いがあります』て。内容はすごく簡単で、ただ宝石を抱きしめればいい、それだけだった。無視してもいいかな、と思ったけど、ただ抱きしめるだけだし。興味本位で、宝石を抱きしめたの」
そしたら、と言った声が今にも消えそうだった。
「…そうたら、どうしたの?」
「み、緑の光が溢れて。それからすぐに押し入れの中から、変な物音がして。私、怖くてそのまま家を飛び出して――」
ついに耐え切れなくなって涙が零れた。
「家に一人でいるのが怖いし、何が起こったか分からない。頼れる人が歩望くんしか思い浮かばなくて、帰ったら押入れが勝手に開いているし。もう、意味が分からなくて――」
泣き出した美来を、そっと引き寄せればのまま体重を預けてきた。しがみついて泣く美来は、混乱しているのだと言うことははっきりと分かる。
どうしようか、と美来の様子を伺っていた歩望は、あれ、と不自然なことに気が付いた。
昨日絆創膏を貼った箇所。微かに緑色に光っているように見える。何度か確認しても、それは変わらない。これ以上不安要素を増やすのは避けた方がいいかもしれないが、気になって仕方がない。
「美来さん、首元の絆創膏。剥がしてもいい?」
歩望を見上げる美来は、意味が分からないと言う顔で見上げた。安心させるように微笑む。
「大丈夫。ちょっと確認したいだけ、だから」
「…分かった。自分で取るよ」
そう言って、美来は絆創膏を取った。
その途端に歩望は動かなくなって、目が釘付けになった。歩望の異変に気付いた美来が近くにあった鏡を手に取る。
「っ嫌!」
「美来さん!」
鏡を投げ出して、美来は叫んだ。
歩望の見間違いじゃなかった。猫のひっかき傷に、血が出ていた箇所には緑の宝石が取って付けたように存在していた。その宝石が僅かに輝き、絆創膏が光って見えていたのだ。
「もう、嫌!嫌ぁあ!」
「落ち着いて!」
咄嗟に取り乱している美来を思いっきり抱きしめた。希が泣いている時にするように、背中を擦って優しく言う。
「大丈夫、大丈夫だから」
「っひ、っく。大丈夫、じゃないよ。歩望くんだって、気持ち悪いって、思ったんでしょぅ」
泣きながら顔を埋める美来は、決して顔を上げようとはしない。身体を震わせたまま、離れようとはしない。得体の知れないものへと不安、恐怖。
確かにさっきは驚いたが、気味が悪いとは思わなかった。
だから、思わず本音が漏れる。
「綺麗だったよ?」
「え?」
歩望の言葉が信じられないのか。少し離れてゆっくりと顔を上げた美来は、瞬きを繰り返しながら言葉を探している。泣き顔のせいで、目が赤い。言い聞かせるように、言う。
「緑の宝石、すごく綺麗だよね。そんな綺麗な宝石が、俺は怖いとも気味悪いとも思わないかな」
それが歩望の感じた素直な感想。宝石は魅入られるように綺麗で、良くないものには思えない。ポカンとした表情に変わった美来の頭を撫でながら、思わず笑みが零れた。
「もう、大丈夫だよ」
「…本当に?」
「一つずつ、確認してみようか」
ね、と言えば美来はようやく微かな笑みを見せた。ホッと安心した歩望も、肩の力が抜ける。
「失礼します」
そんな二人の間に割り込んで来た声。
それも美来と同じ声だった気がして、バッと後ろを振り返った。玄関に立っている女性、美来の顔とそっくりだが、美来は歩望の目の前にいる。
美来の存在を確認して、女性の方をもう一度見た。
「…双子?」
「違う、よ?」
美来は呆然としたまま、それでも歩望の質問をはっきりと否定した。流石にこの状況に言葉を失い、女性を見つめることしか出来ない。
女性はゆっくりと頭を下げ一礼すると、歩望と美来を見つめながら淡々と述べる。
「初めまして、美来様。それから、歩望様」
「どちらさま?」
様付けされる覚えはない。女性の瞳をジッと見て、ようやく気が付いたのはその瞳がガラス玉だと言うこと。それから、着ている服には見覚えがある。先日美来の家に運んだ機械人形、と同じ服。
まさか、と思う。
そんなことあるがない、と心では思うのに現実はそれを否定するかのように女性は言った。
「歩望様の作った、機械人形です」
「…証拠、は?」
「証拠は、と言われると何もありませんが、信じてもらうしかありません」
まるで人のように動き、話す。ガラス玉の瞳以外は、何故か美来と酷似している。
「私の話を、聞いていただけますか?」
表情は始終無表情だ。それでもその声は少し申し訳なさそうに遠慮がちに発せられ、歩望と美来はほぼ同時に頷いた。
機械人形だと名乗る女性に、名前はなかった。
歩望が作った機械人形。美来の家に送られてきた宝石の力を原動力に動いている。宝石はエメラルドで、美来の容姿と似ているのは美来が仮契約をしたからだ、と意味の分からないことを言う。
歩望が頭を抱える横で、美来は何故かその言葉をすんなりと受け入れていた。
途中から歩望より美来の方が理解している様子で、機械人形は説明をした。
可子、と名付けたのは歩望だ。
とりあえず恐怖の対象でなくなった機械人形を美来の家に置いておく、と言うことで話がまとまり、帰る直前に名付けた。
美来の妹みたいな存在、可能性の可、子供の子。未来と過去、と言う意味を踏まえて名付けた名前を可子は気に入ったようだった。
歩望の作った機械人形、可子が動くようになって早三日の昼。
「歩望くん、終冶」
美来に声を掛けられて、大学を歩いていた歩望と終冶は立ち止まった。
美来に変わった様子はない。次の日に気になって可子のことを聞けば、問題はない、と笑っていた。あれだけ泣いて怖がっていたのが嘘みたいに、美来はよく笑う。
宝石のことはタブーのようで口にしない。ただ可子といるのは楽しい、とだけ言っていた。
いつもは友人と食堂でお昼を食べる美来は一人きりで、微笑んで言う。
「一緒にお昼食べてもいい?」
「いいけど。美来は友達と一緒じゃないの?」
歩望より先に終冶が訊ねた。二人が幼馴染だ、と聞いたのは随分前のことで、何度見ても二人が並ぶとしっくりくるような気がする。
美来はモテるが彼氏を作らない、と終冶が前に悲しそうに言っていた。
そう言う終冶にも彼女はいないし、勿論歩望にもいない。昔からずっと一番優先する人物は、と問われれば希でそれが変わることはない。
今頃希もお昼かな、とぼんやり考えごとをしていた歩望の顔を覗き込んだ美来は頬を膨らませて言う。
「歩望くん。話聞いてた?」
「…何?」
全く聞いていなかった。気まずそうな顔をした歩望を見て、ため息をつく美来と呆れている終冶。
「だから、今日友達が休みだから一緒にご飯食べてもいい?」
「うん、それは勿論」
「歩望くん。うんともすんとも言わないで上の空なんだもん。駄目なのかと思った。ほら、行こう」
そう言いながら、美来は歩望の背中を押した。歩き出した歩望の横に並んだ美来はどこか楽しそうな笑みを浮かべ、終冶は美来の空いている隣に並んで歩く。
「歩望くんと終冶は、午後から何の講義があるの?」
「イタリア語だよ」
「そうなんだ。私は外国語、英語しか取ってないな」
美来と終冶が話す内容はあまり耳に入らず、そう言えばと思い出すのは希のこと。今日は午前で終わる、とか今朝言っていた気がするが寝ぼけた頭ではっきりと返事が出来なかった。もう少しちゃんと話を聞いておけば、と今更後悔が押し寄せる。
歩望の様子に気づかず、美来と終冶の会話は弾む。
「英語でも、これからは結構重要になっていくと僕は思うな」
「そうだけど。苦手だから、小テストの点が最悪で」
「まあ、覚えることも多いしね」
お昼ご飯は一人で作るとか言っていなかったか、。一回家に帰るべきか。
「おすすめの英単語集とか、歩望くん持ってない?」
「うん、え。何だって?」
頷いてから聞き返す。名前を呼ばれたから返答したが、またも聞いていない。いかにも怒ってます、と言う声で美来は言う。
「今日、話を全然聞いてない」
「あはは」
その通りでから笑いしか出てこなかった。否定出来ない。
希の心配をしていた、と言っても終冶は希のことを知らないし、美来に言えば呆れられるのだろう。ふと前を見ていた終冶が、あ、と声を漏らす。
「歩望、ほら、あれ。優作さんと、柚くんじゃない?」
「優作さん?」
美来の視線から逃げるように、前を見た。
歩望の知り合いの教授の兄弟で、偶然知り合った男性。
優作、と言う名の男性は写真家で、そこそこ有名らしいが歩望は知らなかった。見た目はひょろりと細長く、ネギみたいだと第一印象を受けたのは最近のこと。
それから、一緒に付いて来た小学生。
希と同じ年で、顔が何となく生意気そうだと思ったから、覚えている。
歩望より終冶に懐いていた少年、柚は女の子と手を繋いでいた。
それも、歩望がよく知る女の子と。心なしが柚の顔が赤いのは、歩望の見間違いでなければ許されないことである。美来が終冶に問う。
「歩望くんと終冶の知り合い?」
「ちょっとした知り合いかな?女の子の方は知らないけど」
「あ、あの子なら…ねえ」
美来も女の子が誰なのか、はっきりと分かっている様子。一気に不機嫌になった歩望の様子に、それ以上声を掛けられない。
三人をジッと見つめる歩望の眉間に皺が寄り、笑顔を浮かべているのに近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。
「なんで、希と手を繋いでいるのかなぁ?」
想像以上に低くなった声は、美来にだけは聞こえた。
「歩望くん、少し落ち着こうよ」
「そうだね…無理かな」
にっこりと笑って、歩き出す。にっこり笑った顔は笑顔のはずなのに怖かった、と言うは後から美来から聞くことになるが、今は関係ない。
歩望の存在にいち早く気が付いた希が、嬉しそうに大きく手を振った。
「お兄ちゃん!美来さん!」
歩望の後ろで終冶だけ誰だろう、と首を傾げている。終冶に説明する前に、するべきことがる。
希と未だ手を繋いだままの男の子、柚と同じ高さまでしゃがみこむ。
「希、まずその手を離そうか?」
「うん?迷子になりそうだったから、繋いでいたんだよ?」
可愛く首を傾げて希は言う。本当に希は可愛いが、それとこれとは話が別だ。柚の方が何かを察したように、笑みを浮かべて言う。
「こんにちは、歩望さん」
礼儀正しく挨拶する姿勢は素晴らしいが、その顔は生意気で上位に立ったと言わんばかりの顔だ。柚に微笑んで見せ、歩望は希の耳を優しく塞ぐ。手を退かそうとする希に顔が見られないようにして、聞こえないことを言いことに喧嘩腰で言う。
「柚、早く手を離せよ」
「歩望さん、大人げなーい」
「よーし、生意気なガキは相手にやってやる」
柚と歩望が睨み合っているのを眺めていた大人三人は、呆れたように集まって話し出す。
「終冶くん、久しぶり。そちらのお嬢さんは友達かい?」
「はい。美来、こちらは写真家の優作さん。それから、僕の友人の美来です」
「初めまして」
歩望と柚、希の後ろで挨拶を交わす三人。終冶を介して紹介が終わると、終冶の視線は女の子に移る。
「あの子、歩望の知り合いの子ですか?」
「ああ。そうみたいだね。校内を散策していたら、あの子が迷子でね。歩望くんの妹、て言っていたから連れて来たんだけど。まずかったかい?」
「そんなことはない、と思いますけど」
けど、と言った美来の言葉の後。三人とも歩望と柚の様子を伺う。歩望があまりにも敵対心を露わにして柚に接するので、優作は意外そうにそれを見ていた。終冶も似たような心情。
美来だけが、歩望の今の心境を察し、呆れた声で言う。
「歩望くん、大人げないですよね。希ちゃんのことになると、いつもあんな感じです」
「へえ。第一印象が変わったなあ。普通の真面目で好青年だとばかり思っていたよ」
美来の説明に、何か言いたそうな終冶。その言葉は飲み込まれ、希が声を上げる。
「お兄ちゃんも、柚くんも内緒話ずるいです!希もお話したいです!」
我慢の限界で頬を膨らませた希の言葉に、歩望も柚も我に返ったような顔になった。希から離れてその顔を見れば、怒った表情。
「…希、怒ってる?」
恐る恐る尋ねれば、希はすぐに微笑んだ。
「怒っていません」
「じゃあ、お兄ちゃんとも手を繋いでくれる?」
「うん!」
嬉しそうに言った言葉に、笑みが隠せない。空いていた希のもう片方の手を繋いで、ドヤ顔で柚を見る。勝ったと言わんばかりの歩望の顔に、一番呆れていたのは美来だ。
とりあえず立ち話も何だし食堂に行こう、と言うことになった。前を歩くのは希を真ん中に、両脇に歩望と柚。後ろから見れば、歩望は面倒見のいいお兄さんに見えなくもない。
「それで、なんで希は大学に来たの?来ちゃ駄目って言っていたのに」
「お兄ちゃん、お財布忘れていたから」
クスクス笑いながら言う希に言われて、ポケットを探す。
「…あ、本当だ」
すっかり存在を忘れていた財布。このまま食堂に行っても、何も買えなかった。今日は朝からボケていた事実に、柚がにやりと笑いながら言う。
「希ちゃん、大学で迷子になっていたんだよ。妹に財布を届けさせるなんて、兄失格じゃないの?」
「お前なあ…」
希を挟んでいなかったら、すぐにでも頭を叩いていただろう。希がいるから絶対に暴力は振るえない。
「希にとって、お兄ちゃんはいいお兄ちゃんだよ?」
「だって、歩望さん。よかったねー」
棒読みで言われても嬉しくない。最近の小学生は本当に可愛くない、と心底思うのだった。
希が大学に来てしまい、いつもなら集中出来る授業も集中出来る自信がない。だから、早々にサボることにして、歩望と希、それから優作と柚で校内を散策することになった。
希と柚が中庭で遊び始めたので、そっとその場を離れ、息子の写真を撮っていた優作の方へ向かう。
「あれ、希ちゃんの近くにいないの?」
不思議そうに問われ、歩望は真顔で返す。
「柚の傍にいたら、俺殴らない自信がないです」
「うちの息子に暴力は止めてくれないかい?」
苦笑いを浮かべた優作と一対一で話しながら、その隣に立つ。遊んでいる希と柚の様子を見て自然と頬が緩む。
「いいお兄さんの顔だね」
そう言われて横を振り向けば、シャッターが押される。
「突然撮らないでくださいよ」
「いい写真は、本当に一瞬だからね。いつでもどこでも、撮り逃さないようにしないといけないのさ」
そう言って笑って、またカメラを希と柚の方へ向け、何枚か撮る。
写真をあまり撮らない歩望は、あまりカメラに興味はない。希の想い出を撮っておきたいとも思うが、カメラを買うお金さえ惜しいのが現状だ。
「…いつまで、この大学で写真を撮りに来るんですか?」
「そうだな、気が済むまで、かな」
照れたように笑って、優作は近くにあったベンチを指差した。
「あそこなら、子供たちの様子も見られる。休憩しないかい?」
「そう、ですね」
自販機でコーヒーを奢ってもらい、ベンチに座って少し無言の空気が流れた。話すこと、が咄嗟に思い浮かばない歩望に、優作が遠くを見ながら言う。
「美来さんが、君について熱弁してくれたんだが」
「っぶ!」
飲もうとしていたコーヒーを吹き出しそうになって、歩望はむせた。落ち着いてから、美来の言いそうなことを考える。
「どうせ、希のことしか考えていない。とかじゃないですか?」
「まあ、希ちゃんが大好きとも言っていたけど。頑張っているって」
意味が分からなくて首を傾げる。
優作は一つ一つの言葉を思い出すように、言った。
「兄妹二人で暮らして。バイトも、勉強も、何一つ手を抜かないで頑張って。希ちゃんのことをいつも考えていて、人より何倍も頑張っているってさ」
「…俺からしたら、それが普通なんですけどね」
美来がそんな風に思っているなんて知らなかった。
いつからだろうか。
勉強で常に上位を取るように必死に勉強して、生活費を稼ぐためにバイトをして。希を立派に育てるのは、当たり前のことだ。
そう、思ったのはいつからだろうか。
「それが凄いことだよ。とりあえず、これが俺の名刺。前の時は挨拶だけだったからさ、何かあったら連絡しなさい」
差し出された名刺を手に取っていいのか、迷う。
正直親戚とは仲が良くない。頼れる大人は近くにいない。でも出会って間もない大人を信用してもいいのか。
迷っている歩望の心情を悟った優作は、安心させるように言う。
「別に、絶対連絡して欲しいわけでもない。本当に困ったことがあった時の非常用だと思えばいい」
「ですが…」
「柚と希ちゃんが仲良くなったのは、これは何かの縁な気がしたんだ。だからさ、連絡先くらい知っていて欲しい」
そう言われて、ようやく受け取る気になった。
縁、と言う言葉。その言葉が何故か、その時の歩望の心に響いたのだった。
それから連日、優作の仕事に付いて来た柚は希と一緒に遊んでいた。
時には美来や終冶と一緒に、希が楽しそうなのでこれはこれでいいかな、なんて考えて一週間が過ぎようとしていた。
「今日は柚くんと探検に行ってきます!」
「歩望さん、付いて来ないでよ。四時にはここに戻るから、ちゃんと待っていてよ」
疑っている柚と、遊ぶことが楽しくて仕方がない希が食堂で宣言したのが午後十二時。食堂には休日と言うことで人はいない。
美来も終冶も予定があるそうで、今日はいない。
無邪気な子供二人が外へ飛び出し、その後ろを追うのは大人が二人。歩望だけでなく、優作も一緒だった。表面上は素直に見送った優作だったが、楽しそうに尾行している。歩望は恨めしそうな視線を送りつつ尾行する。
そんな大人二人には嫌でも注目が集まる。それに気が付かないのが、希と柚。
危なっかしくて目が離せない。
「希、そんなに挨拶しなくていいのに」
「いやいや、挨拶は大切だよ」
行き交う大学生に律儀に挨拶をしている小学生が二人。
最初の二時間ほどは特に問題なく、過ごした。大学内を散策中に教授と出会ったり、渡してあったお小遣いでジュースを買ったり、楽しそうに遊ぶ柚と希。
途中、迷い込んだ犬に希が襲われそうになると言うハプニングも起きたが、柚が身体を張って守っていた。
「希ちゃんは、僕が守るよ。これからずっと、絶対に守るから」
「うん」
なんて格好つけた柚の台詞を、希は素直に受け取っていた。子供だから出来る純粋な約束。木の影から見守っていた歩望は、希の無事を確認して安堵の息を漏らす。
「さて、歩望くん。そろそろ時間だから食堂に戻ろうか」
「そうですね」
残り時間も少なくなった。
少しだけ柚を見直した。希と仲が良すぎることを許したわけではないが、それでも柚は希を守った。
希が柚と仲がいいことは、本当は喜ばしいことだと思う。絶対、誰にも言わないが。
その日の夜。
柚と遊び疲れて眠る希の横顔を見ながら、歩望は教科書を広げていた。眠ろうと思っていたが、中々寝付けなかった夜。
チャイムが、鳴る。
誰だろうと身体を起こした歩望は、ぐっずり眠っている希を起こさないように起き上がると玄関のドアをそっと開けた。
「美来さん!」
「あゆ、む、くん?」
歩望の顔を見て、安心したようにその身体が倒れこむ。
抱きかかえた身体から、脇腹から止どめなく流れる赤い血。その身体が、淡く緑の光を放つ。久しぶりに見た緑の光。あの日から、一度だって光っていなかったはずなのに。
「美来さん!何があった!」
「あの、ね。お願い、しても、いい?」
歩望の顔を見ながら、美来は微笑んでいた。いつも絆創膏で隠していた宝石は見事に砕け散り、息絶え絶えに言う。
「宝石を、エメラルドを…守って。お願い…」
「どういう、こと?」
何で今それを言うのか。腕の中にいる美来が夢ではないのか。頭が真っ白になりそうだ。
美来は歩望の右手を弱々しく握り、えへへ、と笑った。
「可子に、託したから。だか、ら、大丈夫…可子を、恨まないで、ね」
耳を澄ませないと、聞き逃してしまう程小さな声。それがどういう意味か、その時は分からなかった。ただ、頷くことしか出来ない。冷たくなっていく右手を握りしめて、泣きそうだ。
もう喋るな、なんて言えなかった。
もうきっと永くないなんて、見れば分かる。
知らず知らずに涙が頬を伝って落ちた。美来がそっと、空いていた左手を伸ばしその涙を拭う。
夢、だと思いたい。
なのに、押しかかる美来の身体の重さ。リアルな、温かさ。
「好き、だよ。だい…す、き」
「うん」
消えそうな声で最後まで喋ることを止めない。強く強く抱きしめる。
美来の言う好きと、歩望の美来に対する好きが同じか分からない。それでも、伝えなければ後悔する。
「俺も好き、だよ」
「うれ…し、い」
そう言った美来の瞳からも一筋の涙が流れた。
美来の身体は瞬く間に緑の光が包むこみ、砂と化してしまう。腕の中には、緑色に輝くエメラルドの宝石の塊。それだけしか、残らなかった。
声が出ない。
何が目の前で起こったのか、理解出来ない。したくない。
突然訪れた、最悪の別れだった。




