19 休日編02
朝寝坊ほど幸せなことはない。
ここ三日ほど。誰に起こされるわけでもなく自由な時間に起きた希は、布団から出ずにそう思った。
「うう、布団の中で暮らしたいです」
そろそろ起きないとご飯を食べ損ねる時間になってしまうのだが、もう少し寝ていたい。
二日前は合宿最終日の疲れが溜まっていたようで起きられなかった。
昨日は休暇ということでお昼過ぎまで寝ていた。今日も今日とて、布団の中は素晴らしい。柘榴の存在がどれだけ偉大か分かるというものだ。柘榴のようにきちんと朝起きられる自信は全くない。
流石に三日連続朝食抜きは、キャサリンに心配されるので、起きようと思っていたのに起きられなかった。
それでもいい加減起きようと、もそもそと布団から這い出る。
柘榴がいないというのは、本部に来てからは初めてのこと。少々寂しく思えたのだが、今日の夜には帰って来ると聞いていたので、それを考えれば嬉しくなる。
「早く帰って来るといいですね」
誰に言うわけでもなく、独り言を呟きながら起き上がった。希は傍に置いてあった、新しい戦闘服に手を伸ばし着替える。
緑色のキャミソールはレースが付いていて、そのままでも十分可愛い。
その上に着る白のワンピースは前回より格段に凝ったデザインとなっている。ワンピースの後ろの長さは統一されているのに、前は中心になるほど短くなっていて、首から一直線に並ぶカラフルなボタンは形は違えど全て緑だ。
裾は黒のレースであしらわれている。靴はグレーに近い黒の膝までのブーツ。上着として黒の長いカーディガンのおかげで寒さ対策も出来る。
「まあ、外に出る時はコート来ますけどね」
流石に冬も近くなってきたし、本部の中と言え、決して寒くないわけではない。支給の上着を前までしっかり止めて、最後に新しくなった通信機を耳に装着する。
電源をオンにすると同時に持ち主の体温を測り、生体反応を確認しているという通信機。前回、希の通信機が故障してから渡されたものだ。
強度も強化されていると念を押された。
最低限の準備を整え、希は鏡の前で一回転。
「さて、行きましょうか」
にっこり笑って、希は部屋を出るのだった。
女子寮から出ると、季節はすっかり秋で、マフラーが欲しくなる。
美味しいご飯を食べるために、食堂を目指す。
「おはようございます」
「…もう、お昼の過ぎているわよ」
食堂のカウンターに着くなり、呆れているキャサリンは言った。急いでご飯を持って来る。
「ありがとうございます」
「見た目は希ちゃんの方がしっかりしていそうなのに。どうしてこの子はご飯をちゃんと食べてくれないのかしら、ここ二日間はお昼と夕飯しか食べてないじゃない」
「そう言えば、そうですね」
あまり気にしていなかったが、そういうことになるらしい。
いただきます、と手を合わせてからそのままキャサリンと会話が始まる。
「でも、私。キャサリンさんのお料理好きですよ。ここに来る前なんて、もっと食べていませんでした」
兄と二人で暮らしていた時なんて、学校前の朝食抜きは当たり前だった。
夕飯も帰って来る時間がばらばらで、バイトもあって忙しかった。毎日時間が不規則で、ここに来て随分健康的になった。
そんな話をすると、キャサリンは心配そうに希を見る。
「よく、それで生活出来ていたわね」
「えへへ、意外と丈夫ですよ」
たまにお昼だけを食べて寝ていたこともあった。
夕飯に帰って来るはずの兄を待ち続けて、次の日の朝になっていた。ということもあったせいか。食事は後回しという考えが強い。
と言ったら、キャサリンがまた何か言いそうなのでそれは言わない。
「あ、それに。食べる量は少なくとも、柘榴さんと違って好き嫌いありませんから」
「確かに、言われてみればそうね」
「柘榴さんは、こんにゃく苦手ですし、蘭さんは辛いものが駄目ですし」
キャサリンもそのことに関しては、腕を組みながら同意してくれた。
それからもキャサリンと会話をしながら食事は進む。大体が柘榴や蘭の話になって、長い食事が終わったのは随分経ってからだった。
「さて、何しましょうか」
食堂から出て、希は歩きながら考える。
二日間というのは意外と長い。やることが、特にない。それはそれで暇である。
「本は…読み始めると止まりませんし」
実際、昨日読み始めたら夢中になって夕食を食べ損ねそうになったくらいだ。本を読むのは止めておこう。
「寝る…のも止めておいた方がいいですね」
寝たらそれこそ、起きられない。次の日になっている可能性も考えられるだけに、止めておく。
「あとは…」
「あ!希ちゃん!」
後ろから呼びかけられ、誰だろうと振り返る。そこにいたのは、何故か嬉しそうな陽太。両手で段ボール二つを持ち、とても重そう。
「陽太さん。今、お仕事中ですか?」
「まあ、ちょっとサボりも入っているけどね」
段ボールの上にあった封筒が落ちそうになっているので、落ちる前に希が持つ。
「どこまでですか?お手伝いしますよ?」
「…ありがたいけど、これ結構重いからね」
「あ、大丈夫ですよ。私意外と力持ちです」
両腕を直角に曲げて見て、力がありそうにアピールしてみる。陽太は楽しそうに笑いながら、とりあえず段ボールを床に置いた。
見た目に以上に重いのかもしれない、腕を伸ばした陽太は悩み始める。
「そりゃ、手伝ってもらえたら嬉しいけど…そうだ!段ボールはいいから、引っ越しの手伝い一緒にしない?」
「引っ越しのお手伝いですか?」
「そう。暇ならでいいんだけど、人手が足りなくて困っているんだよ」
陽太が言うならそうなのだろう。
別にこれと言ってやることもないし、暇でもあったので一目散に頷く。
「お手伝いします」
「やった。よし、じゃあ一緒に行こうか」
はい、と笑顔で答える希を確認して、陽太は気合いを入れると、段ボールに手を掛ける。持った途端によろけてしまったが。
「…持ちますよ?」
希の声に首を横に勢いよく振った陽太の手から、段ボールが一つ奪われるまであと数メートル。
「希ちゃん、重かったでしょ?」
「いえ、持てましたから」
整備室までの道のりを陽太と二人で、他愛のない会話をしながら歩く。
お互い段ボールを持ちながら歩いていたが、希の腕は少し疲れがやって来た。持てない重さではなかったが、やっぱり重い。
「希ちゃん、意外と力持ち?」
少し後ろを歩く陽太の声で振り返る。早く整備室に行きたかっただけで、勝手に足が動いてしまった。
「ほら、もう少しで着きますよ」
あと数歩先に、整備室のドア。力を振り絞り、急ぎ足でドアまで行く。両手が塞がっていて、開けられない。困った希の後ろに陽太がやって来た。
「ちょっと待っていて。俺が今ドアを開け――」
陽太が素早く段ボールを床に置き、ドアに手を掛けた瞬間。ドアが勝手に開いた。
「…友樹さん?」
私服姿の友樹が、段ボールを持つ希と今まさにドアを開けようとしていた陽太の顔を見比べた。
笑顔の希の後ろで、陽太は、しまった、と呟き一歩引く。
「あ、あれ?友樹、どこか行くのか?」
たじろいでいる陽太に向かって、あからさまに溜め息を付く友樹。陽太を無視して、重そうに持っている希の手から段ボールが消えた。
「自分の仕事を押し付けんな。それは俺が持つから、入れば?」
前半は陽太に対して、後半は少し口調が優しくなって希に言った。
「ありがとうございます。あ、でも中まで運べましたよ?」
「重そうだった」
そう言われて、苦笑い。希の腕は疲れていたので、持ってくれたのは有難かった。
段ボールを持った友樹が部屋の中に入るので、希も置いて行かれないように、すぐにその後ろを追う。
「ちょ、俺置いて行くわけ!」
陽太が急いで自分の持っていた段ボールを持つと、希と友樹の後を急いで追った。
「友樹、その封筒。お前のな」
段ボールをテーブルに置くなり、椅子に座り込んだ陽太が言った。
「これ?」
「そう、それ。探し物の在処だってさ」
「探し物?」
首を傾げた希とは違い、友樹は納得したように頷くと封筒を開けて中の紙を眺めていた。
希はどうしていいのか分からず、壁の傍で立ったまま傍観する。
部屋の中は整理中で道具はほとんど段ボールの中に納まっている。親方の姿が見当たらない。
「じゃあ、俺。出掛けるから」
それだけ言って友樹は部屋から出ようとドアを開けた。
「おお、友樹か。丁度よかった、手が塞がっていたんだ」
友樹が出る度に誰かがドアの前に誰かがいる。
今度は親方が段ボールを持って、部屋の中にずかずかと入ろうとした。積み重なった段ボールのせいで部屋の中に入れない。親方が運が良かったと言わんばかりに言う。
「丁度いいから、友樹。上の段ボールを中に運んでくれるか」
「…はい」
しぶしぶ頷いて、友樹は再び部屋の中に戻って来た。
それが可笑しくて、希は小さく笑った。笑った希を見て、友樹に軽く睨まれた気がするが気にしない。友樹の後ろから入って来た親方は、希の姿を見て驚いたように言う。
「希ちゃんじゃないか。遊びに来たのか?」
「あ、いえ。お手伝いに来ました」
首を横に振って言えば、親方が少し困った顔になってしまった。
「それは有難いが、手伝ってもらうことが力仕事だからな…買い出し頼んでいいかい?」
「はい、喜んで」
「じゃあ、俺が希ちゃんの運転手になりますよ」
いつの間にか起き上がって、希の傍に来た陽太は恭しく頭を下げた。
「陽太は駄目だな。仕事してないから。丁度友樹が出掛けるから、連れて行ってもらえばいいさ」
「え」
一瞬、ものすごく嫌そうな顔をされた。
「あ、自力で行きますよ」
友樹に迷惑だろうと思いそう言ったが、それこそ親方に駄目だと必死の形相で言われる。
「希ちゃん一人じゃ駄目だ」
「そうそう、それなら俺がサボってでも荷物持ちするから」
堂々とサボる宣言をした陽太の頭に、容赦なく厚めの本が飛んできた。
「っつ!」
「仕事しろ」
怒っている友樹に睨まれて、陽太が蹲る。
友樹は、困っている希を見て、ため息をつきながら一言。
「十分」
「十分?」
「だけ、エントランスで待つ」
それだけ言って、今度こそ友樹は部屋から出て行った。
改めて思うのは、友樹は素直じゃないと言うこと。一緒に行く、とは言わずに時間だけを言うあたりが、友樹らしいと言えばそうかもしれない。
陽太と親方、希の三人は顔を合わせてクスクス笑ってしまったのだった。
「友樹さんは、買い物に行くところだったのですね」
友樹のバイクで街までやって来た希は、信号でバイクが止まった拍子に友樹に笑いかける。
場所は本部から外に出て街の大通り。友樹と二人、親方に言われたメモを思い出しながら、希はスラスラと言う。
「紅茶のティーパック、ドライフルーツ、インスタントコーヒーに、本日のお茶菓子…お茶菓子って何がいいと思いますか?友樹さん」
「何でもいい」
友樹は呆れたように、後ろに乗っている希に言う。
まだ信号は赤のまま、友樹の顔は見えないが、気まずそうな声がした。
「病院に、行ってもいいか?」
「はい、どうぞ。私は近くで時間でも潰しましょうか?」
病院に知り合いがいるわけでもない。
そう言ってみた言葉に、友樹は少し考えてから静かに言う。
「いや、すぐ終わるから――ありがとう」
「え?」
最後の言葉が言い終わる前に、信号が青に変わりバイクは発進した。
なんて言ったか分からなかった。バイクが発進したので希は友樹にしがみついてさっきの言葉を少し考える。けれども答えは出なかった。まあ、いいか。と言うことにした。
迷うことなく街の外れに存在する病院を目指して、二人を乗せたバイクは進む。友樹は無表情で、希は楽しそうに、二人の頬を風が撫でた。
大きな病院だった。
友樹は迷うことなく入口を進み、近くのエレベーターに乗り込む。希は迷子になりそうなので、置いて行かれないように付いて行く。
友樹が立ち止まったのは、完全個室の部屋が並ぶ階だった。
エレベーターから出ると、ガラス張りの部屋。椅子とテーブル、テレビのある休憩室。あのさ、と申し訳なさそうな顔をした友樹は希の方を見ずに言う。
「そこで――」
「待っていますね」
友樹の言葉を遮り笑いかければ、振り返った友樹は微かに頷いて一人廊下の奥へ進んで行く。
友樹が歩いて行った背中を少し見送り、それから休憩室に入った。
運がいいのか、人がいない。
座って近くにあった雑誌を手に取り、椅子に座って友樹の帰りを待つことにした。
そこまで時間は経っていない。
けれども、聞き慣れた声が聞こえた。希は雑誌から目を離し、顔を上げた。
ガラス越しに手を振っている、何やら嬉しそうな鴇とそんな鴇に服を掴まれて先に進めない蘇芳の姿。
「希ちゃん!どうして、ここにいるの?」
「鴇さんと蘇芳さんも、お知り合いの方のお見舞いですか?」
雑誌を元の場所に戻し、二人の元へ行く。エレベーターの前で騒ぎ出す三人を止める者はいない。
「そうそう、一つ年上の先輩がここの階の病室にいるんだ」
「寛人先輩」
動けないと悟った蘇芳も、会話に加わった。
もしかして、と希は言う。
「その方は、友樹さんのお友達ですか?」
スッと出た言葉に、場の空気が固まった。けれどもそれを、鴇がすぐさま破る。
「まあね、でも友樹先輩はお見舞いに来てないみたいだけど」
「一回も来てない」
蘇芳と鴇は何度も来ているらしい。 蘇芳があからさまに落ち込んだので、鴇がその背中を思いっきり叩いた。
「絶対に、来るって。寛人先輩もそう言ってたじゃねーか」
「そうだけど」
「こんな場所で落ち込むなよ!さっさと寛人先輩のところに行こう。悪いね、希ちゃん」
そう言った鴇は申し訳なさそうな顔をしていた。けれども希は気にせず、あの、と恐る恐る言う。
「私も一緒に行ってもよろしいですか?」
前回同様、蘇芳の姿を見た途端に友樹が逃げ出したらと思い、咄嗟に提案した。
蘇芳も鴇も驚く。当たり前だろう。知らない人のお見舞いに行く、なんてこと普通はしない。右手を顔の前で振りながら、鴇は言う。
「いや、でも。希ちゃんの知らない人だよ?」
「友樹さんがそこにいるはずなのです」
間を置かずに静かに言い返す。帰って来ない友樹。すぐ帰ると言っていたが、戻って来ない。心配になった、と言うのが本音である。
「友樹先輩が来てるのか!」
一気に目を輝かせた蘇芳が希の両肩を掴む前に、鴇に首を絞められる。
「浅葱じゃないけど、蘇芳。お前、友樹先輩のことでがっつき過ぎだって」
「悪い…」
襟元を絞められて、蘇芳の勢いがなくなる。
「蘇芳さん、お願いしてもいいですか?」
申し訳なさそうに言う希の声に、蘇芳は耳を傾けその瞳をじっと見る。
「友樹さんが逃げたら、全力で追いかけてもらえませんか?」
「え、そっち」
鴇の方が驚いたように、希を見た。真剣な顔で、声で希は続る。
「きっと、また同じように逃げると思うのですよ。でも、それじゃあ駄目なのです。不意打ちで捕まえてでも、話し合いをして…前に進むしかないのです。だから、協力してください。お願いします」
頭を下げた希に、鴇と蘇芳の方が驚いて一瞬言葉を失う。戸惑った鴇の横で、蘇芳は小さな声で呟く。
「分かった」
その返答が嬉しくて、顔を上げた希は微笑んでお礼を述べる。
「ありがとうございます」
「じゃあ、行こう」
「はい」
蘇芳を先頭に、廊下の奥へと進む。
「置いてくなよ!」
一歩出遅れた鴇は、急いで二人の後を追いかけた。
二回ほど廊下を曲がってから、蘇芳が小声で止まれの合図をした。
「病室の前に、友樹先輩がいる」
「どうする、希ちゃん」
決定権は希にあるようで、蘇芳と鴇は希の顔色を伺う。
「もしかして、ずっとあの場所にいたのでしょうか?」
「おそらく」
数十メートル先の病室の前。入ろうとドアノブに手を掛け、悩んで手を戻す。その繰り返しの行為。
「あそこの病室が、その寛人さんの病室ですか?」
「「うん」」
同時に頷いた蘇芳と鴇が顔を戻し、希も同じように顔を引っ込めて作戦会議が始まった。
傍から見たらかなり怪しい三人組が廊下にしゃがみ込む。
「反対側の廊下に、回り込んで挟み撃ちはどうでしょうか?」
「いいけど。反対側に行くのには時間が掛かる、と思う」
普段あまり話さない蘇芳が、考えながら言う。
「それは任せてください。私が反対側に行きます。通信機で連絡を取り合い、一斉に取り押さえましょう」
「まさか、能力使うの?」
小さな声で鴇が素朴な質問をしたわけだが、希は笑って返す。
「大丈夫ですよ」
返答になっていない希の回答に、蘇芳は真面目な顔で言う。
「よし、それで行こう」
「…これ、戦いじゃないよね?」
あはは、と笑う鴇が蘇芳に笑いかければ、思いっきり睨み返され鴇は黙るしかなくなった。
「鴇、これは戦い」
「そうですよ。何としてでも、友樹さんを取り押さえるのです」
小声で話しているはずなのに、二人に迫られた鴇は参ったと両手を上げた。蘇芳は走る準備をし、希は瞬く間にその場から消えていなくなる。
鴇は一人口角を上げてから笑いしながら、一言。誰にも聞こえないように呟く。
「友樹先輩…逃げた方がいいですよー」
何も知らない友樹は、未だ部屋の前で立ち往生していた。
友樹は一人、どうするべきか悩んでいた。
一言だけでいいから、謝ってすぐに帰るつもりだった。けれども部屋は個室で入りくい。
希を待たせているので、すぐに帰る口実も作ったが、寛人に合わせる顔がなくて先に進めない。
今日は諦めよう、とドアに背を向けて来た道を見る。
見知った顔が二人。一人は無表情ながらも友樹を見つめ唇を噛みしめ、もう一人は苦笑い。
「蘇芳、鴇」
タイミングが悪い。回れ右して別の道から帰ろうとすれば、その先には笑顔の希。
嫌な予感しかしない。そもそも、なんで休憩室がない方向から希が歩いて来るのか、と考える暇もなく蘇芳と希の声が廊下に響く。
「「せーの!」」
希と蘇芳が同時に叫んだ途端に、一気に友樹目掛けて駆け出した。鴇だけが、勢いもなく巻き添えをくらった顔で駆け出す。
「友樹さん!」「友樹先輩!」
希は心底楽しそうに、蘇芳は逃がさないとばかりの視線で。
友樹は壁に寄り、どうしようもない現実に頭を悩ませた。
「捕まえました!」
「作戦成功」
友樹に抱き付いた希と蘇芳に、友樹は降参とばかりにため息をついた。
右腕は希が離さないとばかりに抱き付き、左腕を蘇芳に捕まれて友樹は動くに動けない。そのまま二人が座り込むので、友樹も座るしかない。
「何、これ?」
「友樹さん、捕獲作戦です!帰って来ないから、心配したのですよ?」
「それで、この仕打ちって」
「友樹先輩と、どうしても話がしたくて」
「蘇芳は…もういいや。鴇、止めろよ」
友樹の呆れた顔が、鴇に助けを求める。一人だけ立って見下ろしていた鴇が、必死に笑いを耐えるように鴇に言う。
「無理ですよ。蘇芳だけならともかく、希ちゃんまで加わったら。にしても…その恰好とか」
その言葉に、希は笑う。
「ちょっと、楽しかったですね」
「確かに」
「おい。いい加減、立ち上がりたいんだけど?」
希は蘇芳と顔を合わせて、どうするかアイコンタクト。蘇芳の方が、先に言う。
「逃げそうなので、このままで」
「もう少しだけ、この状態は駄目ですか?」
「何がしたいんだよ…」
段々小さくなった友樹の声。そのまま顔を下げてしまった友樹は、心底疲れた表情を浮かべている。絶対に離そうとしない希と蘇芳。
この先の展開を全く考えていなかった希が口を開く前に、目の前のドアが静かに開いた。
「友樹?」
ドアの方から声が聞こえたので、希はすぐに顔を上げる。一人の青年が、希達を不思議そうな顔で見下ろしていた。
恐る恐る顔を上げた友樹と青年の目が合う。
「寛人?」
掠れそうな友樹の声は、希の耳にはしっかり届いた。
松葉杖で身体を支えた青年。黒ぶち眼鏡に、たれ目で優しそうな印象を与えた青年は、友樹の姿を見て一瞬だけ泣きそうな顔をした。
松葉杖が落ちる音と同時に、床に膝を付いて友樹の首元を掴んで怒ったように叫ぶ。
「お前、来るのが遅い!」
「わ、悪い…」
怒鳴られた友樹の方が、咄嗟に謝った。まさかの展開に希も蘇芳も友樹から離れ、二人の様子を伺う。鴇に至っては、一人だけ立ったまま驚いていた。
友樹を挟んで反対側にいる蘇芳が、小さな声でその人の名前を呼ぶ。
「寛人先輩…」
友樹が会いに来た青年、寛人は興奮状態のまま廊下に響くほどの声で言う。
「この、馬鹿!友樹の馬鹿!」
「…寛人」
「蘇芳と鴇と、それから浅葱達なんて月に一回は来てたんだぞ!」
「…そんなに来たのか」
「俺が暇で呼んだんだけどな!」
どうだ、と言う顔で寛人は宣言した。途中から呆れた顔になっていた友樹は、その言葉に思わず顔を隠して声を出さないように笑う。
「お前、笑ってんじゃねーよ!」
「いや…悪い」
「悪いと思ってねーだろうが!」
小さな声で謝っても、声に笑いが混じっている。笑いを耐えようとしている友樹の服を掴んだ寛人は、この野郎、と叫びながら友樹を揺らす。
パッと見、真面目そうな顔なのに性格は明るい人。性格が少し陽太に似ているような気がする。
友樹が悩んでいたのが馬鹿みたいに、会ってみれば友樹の不安は杞憂だったのだと分かった。友樹が笑い、寛人も何だかんだで笑っている。
鴇は嬉しそうな顔で、蘇芳はずるい、と言わんばかりの顔をしている。
幸せな空間、そう思ったら希も自然と笑みが零れたのだった。
「鴇さん、ありがとうございます。買い物に付き合ってもらって」
「いいよー。蘇芳のように部屋の前でストーカーするつもりはないから」
希と鴇は空気を読んで、友樹と寛人の二人で話をさせるつもりだった。けれども蘇芳だけは部屋の前で友樹を待ち伏せする、と言って動かなかった。
一人は暇だと言う鴇と一緒に、バスで街まで戻って買い物をすることになった希は、親方から貰ったメモを片手に街を歩く。
後はお茶菓子を探すだけ。
小さなこじんまりとしたケーキ屋さんのショーウインドを見つけて、希は満面の笑みを浮かべて指を指す。
「ここ!このお店にしましょう」
笑顔の希は迷わず店の中に足を踏み入れ、ケーキを選び始める。
後から入って来た鴇は、希の代わりに荷物を持っていてくれた。希の横に来ると、一緒になってショーケースを覗き込み、感心したように言う。
「すごく美味しそうなケーキばっかりだね」
「どのケーキにしましょうか?」
「好みとかあると思うんだよね」
確かに、と思うとなかなか決められない。少しだけ悩んで、パッと閃いた希は明るい声で言う。
「すぐに、親方さんに電話して。聞いてみます!」
名案だと思ったので、すぐに行動に移す。携帯を取り出して、希はさっさと店の外に出て行った。
鴇を店の中に置き去りにしてしまったことには気が付かない。
店の入口で電話をすれば、コール二回で親方は出た。
『どうかしたか?』
「買い出しがあとお茶菓子なのですが、どのケーキがいいですか?チーズケーキとか、チョコレートケーキとか。あ、ショートケーキもありますよ?」
『俺はチョコレートケーキ。陽太は一番安いケーキでいいや』
何とも投げやりな言い方に苦笑しつつ、では、と尋ねる。
「友樹さんは何がいいですか?」
『友樹は一緒じゃないのか?』
不思議そうな親方の声。希はさっきの出来事を思い出し、簡潔に言う。
「友樹さんなら、お友達とお話中です」
『それは…寛人か?』
「はい、そうです」
『そうか…』
「無事、仲直りしたみたいですよ」
『それならいいんだ。うん、よかった、よかった』
安心したような、嬉しそうな声。
きっと親方は全てを知っていたのだろう。まるで父親のような喋り方だった。
『あれ、てことは今一人か!』
急に焦り始めた親方。何故か希が一人で買い物に行くことに反対した親方に、子ども扱いされるのは少し納得いかないのだけれど。安心させるように、希は言う。
「大丈夫ですよ。鴇さんと一緒に買い物していて、ケーキを買い終わったら友樹さんと合流しますから」
『そうか。手伝ってもらったのなら、そいつの分のケーキも買っておいで』
「もう一人、増えてもいいですか?」
『おう、何人でも増やしていいぞ。ああ、それから友樹のケーキはイチゴがいっぱいのケーキな』
友樹がイチゴが好き、それは初めて聞いた。
「友樹さん、イチゴが好きなのですか?」
『あんまり人には言わないから、内緒な』
「分かりました」
電話越しで、親方と希は笑い合う。
「ではでは、早めに帰りますね」
『気をつけて、帰って来い』
「はい!」
親方との電話を終えて、嬉しいな、と思ってしまう。
友樹が仲直り出来たことも。楽しい買い物が出来たことも。帰って来い、と言ってくれる人がいることも。誰もが笑顔でいることが嬉しい。
今日は本当にいい日だと思いながら、もう一度ケーキ屋のドアを笑顔でくぐるのだった。
心底楽しそうな希と少し疲れたような鴇。
「まさか、ケーキを選ぶのでこんなに時間が経つなんて」
「仕方がありません。どれも美味しそうなケーキばかりでしたから」
希は両手でケーキの箱を持ち、鴇の隣を楽しそうに歩く。
結局自分の食べたいケーキが中々選べずに、あっという間に三十分以上過ぎてしまっていた。
お店の人と世間話も盛り上がっていた、と言うのも遅くなった理由の一つ。
ケーキ屋から出る前にメールをしたため、病院の前でバイクに跨った友樹と、その横で嬉しそうな蘇芳の姿があった。
希と鴇が辿り着いた途端、友樹の一言。
「遅い」
少し不機嫌そうだけど、吹っ切れたような顔に変わっている。
鴇の持っていた荷物を受け取るために、バイクから降りた友樹に希は笑顔で言う。
「ちゃんとケーキ買えました。おつかい全部終わりましたよ」
まるで子犬のように、主人に褒めてもらいたいかのように寄って来た希を見て、友樹の顔が和らいだ。
「分かった。そろそろ帰ろう」
「はい。では、鴇さん、蘇芳さん。後ほど」
買い物に付き合ってくれた鴇、それから傍にいた蘇芳に挨拶をするため振り返った。鴇は笑顔で、蘇芳は未だ嬉しそうな笑顔を浮かべたまま頷く。
「またね、希ちゃん」
「じゃあ」
バスで帰る鴇と蘇芳を見送って、友樹に向き直る。
「では、帰りましょうか」
「その前に、持っている箱」
「あ、お願いします」
希が持っていたケーキの箱。そのままでは帰れないので、友樹に手渡す。その箱の大きさに、友樹は首を傾げて問う。
「…今日のお茶菓子何?」
「秘密です」
笑顔で答えた希に、もう一度問う。
「ケーキの箱大きくない?」
四人分のお茶菓子のはず、と友樹が箱を開けようとする。
希は大慌てで、断固それを阻止する。
「駄目です!着いてからのお楽しみなのです!」
「何で?」
何が何でも見せまいと、友樹の腕を引っ張って睨んで見る。少し涙目になって見上げた希を、友樹がうろたえたように見下ろした。
「…分かった」
その言葉に、ホッとして安心した表情を浮かべる。
「ほら、早く帰りましょう。こうしていたら、鴇さんや蘇芳さんより遅く着いてしまいますよ?」
「なんで、あいつら?」
「一緒にお茶会です。親方さんと陽太さんの承諾はもう得ています」
「また、勝手に」
そう言う友樹は希にヘルメットを手渡した。ヘルメットを被りながら、希は友樹の顔を横目で確認する。友樹は確かに笑っていた。
「今、笑っていましたよね?」
思わず目の前に周り込み訊ねた。瞳を輝かせた希に見つめられて、すぐにいつもの表情を浮かべた友樹はすぐに視線をずらして言う。
「笑ってない」
バイクに跨り、さっさとエンジンを掛ける。
「絶対笑ってましたよ?友樹さんは段々表情が豊かになった気がします」
「…変なことを言っていると置いて帰る」
「それは嫌ですぅ」
慌ててバイクにまたがって、友樹に捕まる。
その様子を見て、やっぱり友樹が笑ったのは笑い声で分かる。笑ってない、と言いながらしっかり笑っているのを指摘する前に、バイクは発進した。
行きもそうだったが、居心地のよい空気。
結局、本部に着いても友樹が笑ったか、笑わなかったの口論は続くことになるのだった。
「お前ら、ゆっくり買い物していたな」
「希ちゃん!ついでに友樹、おかえり」
整備室のドアを開けると笑顔の親方と陽太に出迎えられた。
「ただいま帰りました」
「ついでって」
「あ、希ちゃん達に負けちゃったよ」
「鴇、五月蝿い」
呆れたように言った友樹の後に、ほんの少しの差で整備室にやって来た鴇と蘇芳の二人。
整備室の片づけは大方終わったのか、希が買い物に行く前より綺麗になっている。物が少なくなっているようにも見えた。
陽太と親方、鴇と蘇芳が話している隙に、希は空いているテーブルで買って来たケーキの箱を開ける。中から出てきたのは、様々な種類のケーキ。
親方は、ミルクとビターの二層の味が味わえる、チョコレートケーキ。
陽太は、色とりどりのフルーツが乗った、フルーツタルト。
蘇芳は、栗ではなく紫いものモンブラン。
鴇は、迷わず選んだティラミス。
希は、迷いに迷って選んだ、リンゴの沢山入ったアップルパイ。
それから、友樹の分にイチゴが沢山乗ったイチゴのタルト。
どのケーキもおいしそうで、顔がにやけてしまう。
「やっぱり、美味しそうです」
「それを、買ったわけ?」
肩越しに聞こえた声に、驚いて振り返る。
「友樹さんでしたか…びっくりしました」
驚かすつもりはなかっただろうが、ケーキに見とれていただけに突然声が聞こえると驚く。
包丁を持っていなくてよかった。持っていたら間違いなく落としただろう。ケーキに視線を戻し、その中のイチゴのタルトを指差して言う。
「これが友樹さんの分はこのケーキですよ」
「まあ、イチゴは好きだけど。なんで、知っているわけ?」
「ふふ、秘密です」
悪戯っ子のような笑みを向け、人差し指を口に当てた希。ここは敢えて言わずに、困ればいいと思った。友樹は困った素振りはなく、じゃあ、と言う。
「コーヒーでいい?」
「あ、手伝います」
「いいよ。買い出し付き合えなかったから、座ってれば?」
「人数が多いので、手伝うのですよ」
鼻歌を歌いながら、希は友樹より先に棚からカップを六つ取り出すことにした。
実家から戻ってきた柘榴、そして蘭と出会う一時間前の出来事だった。




