01 緋
あの日から、五年の月日が流れた。
とある県、とある田舎。四方を山に囲まれた盆地。
見渡す限り山、田んぼと畑の多い土地のせいで、どこに行っても緑が目につく。自然に囲まれているとも言えるが、反対に何もないと言えなくもない。
そんな田舎の山近く、田んぼの真ん中の砂利道を、必死に自転車を漕ぐ少女。
時刻は夕刻、時期は七月。
日に日に太陽が出ている時間が長くなっている季節。
焦げ茶のブレザー、チェックのスカートをなびかせて、少女は懸命に自転車を漕いでいた。
綺麗な黒髪と自慢は出来ないけれど、それでも最近ナチュラルストレートをかけたばかりの髪は、ペダルを踏み込むたびに風になびく。
数十メートルの距離を進んだだけで、少女の額にじんわり汗が滲む。
砂利道を抜け、少し住宅が立ち並ぶ通りに入れば、真っ赤な屋根が少女の家。
畑に囲まれた一軒家がポツンと建っている。それから黄色い軽自動車が一台。
もうすぐ夏休みも近いと言うことで、楽しそうな笑みを浮かべた少女は、玄関の脇に自転車を止めると、勢いよく家へ駆けこんだ。
「ただいま!」
大声で叫び、脇目も振らずに階段を駆け上る。
「柘榴!靴は揃えなさいって、いつも言っているでしょう!」
玄関入って左、ドアから顔を出した一人の女性、少女の母親。
玄関に脱ぎ捨てられた靴を見て、深いため息をつく。
「後で直すってば!」
二階へと駆け上がりながら叫ぶ少女、柘榴。
二階でドタバタと大きな音が聞こえ、それから間も置かずに降りてきた。
「んじゃ、行ってきます!」
着ていた制服から私服に着替えた。Tシャツの上に前開きのパーカーを羽織って、下はショートパンツと言うラフな格好。変わっていないのは、ハイソックスだけ。
玄関に到着するなり、ローファーを靴箱に片付ける。その代わりにお気に入りのスニーカーを取り出すと、靴紐を強く結び直す。
「また、出かけるの?」
「うん、今日も…どこに行こうかな、っと」
よし、と小さく呟く。行く当てを決めないまま、出掛けるのはいつものことだ。
忘れ物はないか確認する。首から下げているデジカメ、ポケットには財布と携帯などの最低限のもの。
部活もせず、勉強もせず、家に帰るなりデジカメを持って出かける娘の姿に、柘榴の母親は見送ることしか出来ない。
何を言っても聞かないのは、昔から変わらない。
趣味と言って、デジカメ片手に写真を撮るようになったのは、かれこれ五年も前からのことである。
「そんなに好きなの?写真を撮ることが」
「まあね。夕飯までには帰るから」
小言を言われる前に、柘榴は逃げるように玄関から飛び出した。
玄関先での母親の小言は無視して自転車に跨り、とりあえず山に向かって進む。
山道の所々はコンクリートが捲りあがっている。進みやすいとは言いがたい道を、柘榴はいつも通りに進むのだった。
数分間、自転車で山道を進む。
自転車を道の脇に止めて降りると、その近くにある石段を登ることまた数分。柘榴は一人で、五年前に破壊されたままの神社の跡地を眺める。
五年前、柚が死んだ場所。
意識を失い、死にかけていた柘榴が発見された時には、神社は壊されていた。
修復、することはないらしい。元々古い神社で、取り壊す予定だったこと。それから、破壊された町の修復の方が先決と言う理由から、神社は放置されたまま。
神社に残っているもの。それは金木犀の木だけ。
金木犀の木の葉が揺れる。風の音、葉の揺れる音が、この場を支配していた。
「柚、遊びに来たよ」
笑顔を浮かべた柘榴は、金木犀の木に寄りかかってそっと呟く。
誰もいない。それは分かっている。
それでも柚に会いたくて、会える気がして何度もこの場所に足を運んだ。いつの日か帰って来ることを祈っていた。
でも、それは無理だ。
生き返る、なんてことが出来る世の中じゃない。
受け入れて、前に進むしかない。
『柚のことを忘れなさい、とは言わない。でも、今の柘榴を見て柚はどう思うかしら?』
生気を失っていた柘榴に、母親は繰り返し諭してくれた。
だからこそ、今の柘榴がいる。
柚に恥じない自分でいられるように、柘榴は前を向いて歩いている。
目の前で失った柚だけでなく、父親もその日を境に姿を消した。元々家にいる父親ではなかったから、母親はひょっこり帰ってくるかもしれないわね、と笑っていた。
父親と柘榴に共通していることはないが、父親と柚の趣味は同じだった。
二人とも、写真を撮ることが大好きだった。
写真家で家にいなかった父親。その父の背中を見て育った柚の好きなことは、写真を撮ること。
特に、この場所から撮る空の写真が好きだった。
十歳の誕生日に父親から貰った一眼レフを片手に何枚も写真を撮って、柘榴に見せてくれた。
柚を忘れたくなくて、柘榴はその一眼レフを受け継いだ。それから柚のように写真を撮る毎日。柚のように空の写真が中心ではないが、一週間に一回はこの場所で空を撮る。上手いか、下手かはよく分からない。
残念なことに、柚の形見とも言える一眼レフは、使い始めて数か月で崖から落としてなくしてしまった。今の相棒は、使い慣れた真っ赤なデジカメである。
一眼レフがなくなって、泣き叫んでいた過去も、今なら懐かしく思い出すことが出来る。昔は随分泣き虫だった。
「空、綺麗だなぁ」
デジカメを空に向け、映った画面で確認する。
雲一つない、夏の空。青という水色の中間の淡い色合いは鮮やかで、ずっと眺めていたくなる空。
あの日。柚がいなくなった日の空に、少し似ていた。
「あーあ、なんで俺まで駆り出されるのかな。今日は休みのはずだったのに」
大きな独り言が柘榴の耳に届いた。若い男性の声は、柘榴が登って来た石段と同じ方向からで、顔だけ動かして石段の方を見た。
空の写真を撮ろうと構えていた柘榴と、石段を上って来た人物の目が合う。
スーツ姿が似合っていない、若い青年。スーツの方が、上品な感じがする。
ここら辺では見かけたことのない顔。
茶髪の髪は日に焼けたのか痛んで赤くなり、毛先はパサついている。短髪でそれなりに整った顔はクラスの男子よりかっこいいかもしれない。
目つきは悪い。そこらへんのチンピラ並の目つき。
思わずまじまじと顔を見てしまった。
小さな田舎なので、年が近ければ近いほど顔は覚えてしまう。少なくとも、柘榴はやって来た青年の顔を知らない。
「「…」」
青年の方も何も言わずに目を離すことなく、瞬きを繰り返していた。
「あー、なんでこんな場所に人がいるわけ?」
「…こんな、場所?」
思いの外低い声が出た。眉間に皺が寄り、怒った表情を浮かべ、睨んでいる柘榴に青年がたじろぐ。見た目はチャラそうだったが、柘榴の怒りを悟ったのか、顔を少し引きつらせる。
確かにこの場所には何もない。神社は壊されているし、残っているものはない。
知らない人から見たら、つまらない場所でも柘榴にとっては大切な場所だ。
「この場所に用がないなら帰ったらどうですか?邪魔、なので」
普段だったら喧嘩腰で言い返したりしないのに、この場所を侮辱された気がしてイライラしてしまった。柘榴はデジカメに視線を戻し、青年の存在を無視するように空を見上げた。
青年は柘榴から離れるように移動する。
「…さっさと仕事を終わらせて帰ろう」
青年の小さな呟きは、柘榴には届かなかった。壊れている神社の方へ歩いて行った青年の背中を横目で見送って、デジカメを下ろす。
神社に柘榴以外の人が来るのを見るのは、久しぶりだ。
壊れた神社に用がある人は滅多にいない。少なくとも、柘榴が写真を撮り始めて、通い始めた日から人と会うことはなかった。
妹の苺が一緒に来たことはあるけれど、それぐらいだろうか。
何をしているのか、すごく気になる。
もしも、神社を壊しに来た業者の人なら、本当に帰って欲しいと思いながら、青年のことが気になり始める。
壊れた神社の目の前で腰を下ろし、携帯電話をいじっているだけに見えなくもない。のっそり、ゆっくりと青年に近づこうと目論む柘榴。
あと、数歩で青年の携帯画面を覗けそうだ。
「…さっきから、何なんだよ」
呆れた声が聞こえた瞬間だった。
あっという間に立ち上がったかと思うと、柘榴の右の手首はがっちりと掴まれて、逃げられない。
「い、いったい!」
「騒ぐなよな…それから、後ろから人を襲うな」
「襲ってないじゃない!」
心外だ。顔を真っ赤にしながら柘榴は叫ぶ。その様子を見た青年は耐えられなくなって、口元を押さえながら笑いを耐える。
それから、ようやく手首を離してくれた。
「そこまで、真っ赤にならなくてもっ…」
「笑うな!」
恥ずかしさでいっぱいで、唸ってしまう。青年を睨んだのち、柘榴は逃げるように背を向けてこの場から逃げ出そうとする。青年も柘榴に背を向けた。
柘榴の目の前には何もないはずだった。
けれども、右足を踏み出した途端に何かが目の前を通り過ぎる。
「うわ!…あ?」
踏みそうになった何かを、目で追う。草むらの中に入って行ったその何かが、ゆっくりと出てくる。
「ウサギ…?」
少し、普通のウサギより大きい。毛は真っ黒だし、真っ黒な一本の角を持っていた。たれ耳で、真ん丸のウサギは、これまた真っ黒な瞳で柘榴を見ていた。
「あ、可愛いかも」
すぐさましゃがみ込んで、デジカメを構えた柘榴。距離が空いていたので、もう少しと近づこうとする。
ウサギがゆっくりと口を開ける。
頭を飲み込むぐらいの大きな口を開けた。
その口にずらりと並ぶ鋭い歯は涎を垂らし、不気味な顔に見えた。
「…え?」
デジカメから覗いた出来事を夢だと思い、すぐに身体は動かなかった。
デジカメではなく直にウサギを見ても、見える景色は変わらない。
普通のウサギのはずがない。
パンっと銃声が鳴り響き、ウサギの頭に命中する。動きを止めたウサギ、呆然として座り込んだ柘榴の右腕を誰かが掴む。
「馬鹿!逃げるぞ!」
腰を抜かしてしそうになっていた柘榴の腕を無理やり引っ張ったのは、後ろにいた青年だった。その右手にあるのは拳銃で、その拳銃の銃口に組み込まれた青い宝石に目を奪われてしまう。
青い、青い澄んだ宝石を見ていると、冷静に判断できるようになってくる。
「…銃刀法違反?」
「今はそれどころじゃねーの!」
咄嗟に口から出た柘榴の言葉に青年が言い返す。
頭の真ん中を撃たれたはずのウサギは、黒い液体を頭から流しながら笑っているように見えた。
ウサギが動かぬうちに、青年に引っ張られて、一緒に石段を駆け下りる。転ばないように走るのが必死で、後ろを振り返れない。
「た、ただのウサギじゃないの!」
「いいから走れ!」
あまりに必死な声だったので、それ以上尋ねられる雰囲気ではなかった。
最後の石段を降りる前に、ウサギが真上を飛び越えて優雅に正面に舞い降りる。
「やばいな…」
「さっきの銃でどうにか出来ないの!」
柘榴を守るように、一段下に立って銃を構える青年に思わず叫ぶ。
「今の俺には武器がこれしかねえんだよ、普通一対一で戦わないし…ちなみに俺は実践久しぶりだし」
顔を引きつらせながら言う青年の最後の言葉はよく聞こえなかった。
何が起こっているのか、分からない。
青年の言いたいことの半分も意味が分からない。今はただ、青年の視線の先にいるウサギが、獲物を狙うように見ているだけだ。
目の前のウサギに恐怖を感じる。でも、五年前ほどじゃない。
青年と同じようにウサギを見据えて、じっくりとその姿を確認する。
じっくりと見て、ああそうかと納得する。
どうしてこんなに冷静に考えることが出来るのか。
ウサギの瞳が黒い宝石のような瞳ではない。鬼の黒い瞳に、真っ黒な空間でも輝きを失わない、光を秘めた紫の輝き。黒に近い、深い紫。
五年前の鬼のような、魅入られる黒い瞳ではない。だから、怖いけど怖くない。
「よし、俺が引きつけるから。お前は走れ」
「えっ?」
掴んでいた柘榴の腕が解放される。柘榴の方こそ向いてくれない青年が、真面目な声で言った。
「合図をしたらもう一回威嚇する。足止めするから、全速力で一気に右に走れよ。振り返るな」
「い、嫌!」
反射的に言い返して、青年の服を掴んだ。ぎょっとした顔の青年と一瞬だけ目が合うが、睨み返す。
「足が遅いの!」
「知るか!」
「追いかけられたら、喰われそうじゃない!」
それだけが理由ではないが、それも理由の一つ。
守られるのは嫌だ。
守ったふりして、結局柚を守れなかった。それがどうしようも出来ないことだったとしても、誰かを見殺しにするのは嫌だ。
どうすればいい。
この状況で何が出来るか、考える。
服を放そうとしない柘榴を見た青年が、小さくため息をつく。
「…他に選択している暇ないし。とりあえず、あいつが来たらこれでも振り回しとけ」
腰から小さな小刀を取り出して、柘榴に渡す。
「俺には当てるなよ」
「が、頑張る…」
普段小刀なんて持ち歩かない。スッと鞘から抜いた瞬間、謝って刃に触り血が付いてしまう。
「っい!」
「あ、何やっているだよ」
左手の親指を綺麗に切って、赤い血が流れる。こんな状況なので、口に入れ血を止める方法しか思いつかない。
「だ、いひょうぶ…」
「はあ、渡さなければよかったかも」
肩を落として言う青年があまりにも悲しそうに言うので、柘榴は何も言えずに右手だけで小刀を、持つ。
「そんな小刀じゃ、攻撃なんて出来ないが…武器がないより、ましー…」
青年が最後まで言う前に、ウサギが動く。一直線に向かって来たウサギに、両手で銃を構える青年。
スローモーションのように、青年の真後ろからその様子を見ていた。
ウサギが飛び上がって、青年の頭に噛みつこうと頭上に飛んだ。
その口が青年の頭を噛みつく前に、青年はウサギの右目を撃った。宝石が割れた。
もう一発撃とうとした青年よりも早く。ウサギが青年に噛みつく、その前に。
柘榴は無我夢中で、青年の服の襟元を引っ張った。
「危ない!」
反射的に叫んでいた。叫んで、ウサギから逃げようとしていた青年の重心が後ろだったせいか、そのまま柘榴と入れ替わるように場所が反転する。
地面に尻餅をさせられた青年は柘榴の後ろに、そして何もない空間で口を閉じたウサギが、青年より背の低かった柘榴目掛けて口を開ける。
「馬鹿っ!」
青年の焦った声が聞こえるのと同時に、柘榴は持っていた小刀をウサギの左目に突き刺していた。真っ直ぐに、迷うことなく小刀がウサギの宝石のような左目を、壊す。
壊れた、と思った瞬間に、ウサギは目の前から消えた。
一瞬で灰となり、地面に深い紫の綺麗な宝石が、小さな宝石が転がった。
「あ、ぶなかった…」
自分の行動にも驚いた柘榴は、腰を抜かして座り込む。小刀が地面に転がる。
「でも。よかった…」
「何がよかった、だよ?」
座り込んだ柘榴の目の前で、仁王立ちで柘榴を見下ろした青年の怒っている顔。へらへらとした笑いが止まらない。
「無事だったじゃん?」
生きている、現実感が戻って来る。誰も傷ついていないことが、嬉しい。
「ふざけんな。この無鉄砲」
言いながら、青年がポケットから絆創膏や消毒液を取り出す。柘榴が自分で切った左手の親指の傷を、手当てしてくれる。
「ありがとう」
「…ああ」
怒っている青年の顔に、無意識に視線は下がる。真剣な顔で、手当てをされて柘榴は別の話題を考える。
「…さっきの、って?」
「あ?さあ、なんだろうな」
はぐらかす気満々で、真剣な顔が一変した。人を馬鹿にしたような笑みを浮かべている青年には無性に腹が立つ。
手当てを終えた青年は、何故か丁寧に小刀をしまう。
ほら、と差し伸べられた右手。数秒考えて、自力で立ち上がることにした。
「よっこらしょっと」
「お前、親父っぽいぞ」
憐みの視線を向けられたが、無視する。スカートに付いた埃を払い落とす。
青年に向き直り、もう一度素直に頭を下げた。
「助かった、ので。ありがとうございました」
「敬語は気持ち悪いな…」
「おい」
素で返した柘榴が顔を上げれば、青年と目が合ってお互い笑う。
「それじゃあ、私は帰り、ま――帰るね!」
「俺も帰らなきゃな…俺は、結紀。お前は?」
「柘榴だけど?」
もう二度と会うことはないだろう、と思ったことは口にしなかった。それでも聞かれたから答えた。青年はその名前を覚えたのか、小さく柘榴の名前を呟いた。
名前を呼ばれるのは、不思議な感じ。だから、柘榴も心の中で青年の名前を、結紀と言う名前を覚える。
それ以上の会話は思い浮かばない。
「それじゃあ!」
早口でそれだけ言って、青年に背を向けた。石段を早足で駆け下りる。
そんな柘榴の背中に、結紀が叫ぶ。
「またな!今日は助かったよ、ありがと!」
言われた言葉で足が止まった。少しだけ考えて、柘榴は振り返った。
「どうしたしまして!」
恥ずかしさも混じって、もう一度叫ぶ。
それから振り返ることなく自転車に跨った。
夢みたいな出来事だった。それでも、怪我をした左手の親指に巻かれた絆創膏の存在。夢じゃなくて、現実に起こったことの証明のようだった。
家の近くになると、夕食のいい匂いがする。
「ただいま」
家に着いてから、ドッと疲労が襲う。玄関に座り込んで靴を脱いでいると、妹の苺が、ドアから顔を出して問いかける。出かける時の母親と同じ行動。
「おねえ、おかえり。今日はいい写真撮れたの?」
少しだけ見えた苺の服は、中学校の制服。帰って来たばかりなのかもしれない。
「ただいま。今日は…微妙かな」
満足な写真を撮れなかったために、曖昧な返事を返す。途中から写真を撮る暇なんてなかった、とは口が裂けても言えない。
「そっか。いい写真が撮れたら見せてね。あ、お母さんがもうすぐご飯出来るって」
笑顔の苺はそれだけ言うと、顔を引っ込める。居間ではいつものように苺と祖父が寛いでいるに違いない。
まずはデジカメを置きに行こうと、自室を目指す。
柘榴の部屋、白を基調とした部屋には赤い小物が多い。もちろんデジカメも。
いつもなら机の上、デジカメ専用の置き場所に置くデジカメを身に付けたまま、ベッドに飛び込む。
「えい!」
飛び込んだところまではよかった。飛び込んだ拍子に、バキっと言う嫌な音。
「…げ」
無言のまま、のっそりと起き上がり、正座してデジカメを確認する。
レンズに見事なヒビが入っている。
「…あぁあああ!!」
これでもかと言う声を上げて、台所に走りこむ。
「カメラが壊れたぁああ!!」
泣きそうな声で叫んだ柘榴に、母親は料理をしていた手を止め、苺とそれから一緒にテレビを見ていた祖父の驚いた顔。
壊れたデジカメを、母親に見せる。
「それは…大変ね。あ、ご飯出来たから座っていなさい」
大変ね、と言いつつ気にしていない。気にしてくれない。
「苺!聞いて、カメラが!」
「おねえ、テレビの音が聞こえない」
「ちょっとはこっち、見てくれてもいいじゃんか!」
柘榴の方を見向きもせずに、そんな風に言われてしまい、そのまま祖父の方を見てみる。祖父、もテレビを見ているので柘榴の相手をしてくれないのは目に見えている。
そうなると、柘榴は部屋にある写真立てに向かって報告するしかない。
「柚、お父さん、おばあちゃん。カメラが壊れました」
言いながら泣きそうになる。
その写真立てには、三人の写真。
柚、行方不明の父親。それから、病弱だった祖母。祖母は、柘榴がうんと小さい頃に死んでしまっていて、病気だった。
小さかった柘榴と柚の子守をしてくれていた祖母のことは今でも大好きだ。
そして、こうして写真立ての中に父親の写真が入っていると、本当に死んでしまった人に思えてしまう。父親はどこにいるのか、考えたところで答えは出ない。
いつか、帰ってきてくれたらいいけれど。
「柘榴、ほら座って。ご飯食べましょう」
母親に呼ばれて、振り返ればテーブルの家に並べられた夕食。母親も苺も、祖父もいつもの定位置に座っている。悲しむのは止めて、まずはご飯を食べることにした。
「ねえ、お母さん。臨時お小遣いとかもらえないかな?」
ご飯を食べながら、前の席に座る母親に尋ねる。
「駄目よ。月初めっていう約束でしょう」
無駄だと分かっていたが、きっぱり言われると落ち込む。今月分の残りのお小遣いだけでは、デジカメを買えない。
「この機会に写真なんてやめればいいんじゃ」
ボソッと呟いたのは、斜め前に座っていた祖父だった。祖父は写真が嫌いなのか、父親が嫌いなのか。写真に対して否定的だ。
一眼レフを失くした時なんて、一緒に探してもくれなかったし、写真を止めるようにまで言った。
『いい加減、写真なんて止めればいい』
そう言われた時は、怒って喧嘩してしまった。ようやく少しずつ話すようになったと言うのに、ふりだしに戻りそうな雰囲気になる。
すぐにでも、長期戦の喧嘩を開始してしまいそうだった。
「もう、おねえもおじいちゃんもそれくらいにして。仲良くご飯食べようよ」
無言で祖父を睨む柘榴に、苺が勘弁して、と小さく声を出す。
これ以上は祖父と言い争えない。いじけてしまった祖父は黙々とご飯を食べているので、柘榴も残りのご飯を食べることにした。
祖父とは会話をしないままの夕食を終え、就寝するためベッドに入り目を閉じる。
何度も、繰り返す夢。
目の前で、柚を失う夢。
夢の中では柘榴の数メートル先に柚が立っていて、その背後にいるのは黒いマントを被っている人。誰だけ分からない人が、柚の後ろに立っている。
笑っている柚の心臓から赤い染みが広がっていく。
赤い染み、赤い血。
柚を守りたい、そう思って駆け出しても間に合わない。結局はあの時のように、守れない。それが悔しくて、悲しくて。
夢は何度も繰り返す。
「…お、ねえちゃん」
力のない柚の呼ぶ声。どんなに時間が流れようと、忘れられない声。心に直接響く声は夢だからに違いない。
その声が消える。夢の中の柚に、柘榴の手は届かない。
あと一歩で届く距離にいるのに。
手を伸ばした先にいる柚には、届かない。柚が、いなくなる――
「――っだめ!」
勢いよく飛び起きた柘榴は、急いで周りを見渡した。
「…部屋、だよね」
ゆっくりと息を吐きながら、肩の力を抜く。カーテンの間から太陽の光が微かに部屋に入り込む。
いつもの夢。五年前のあの日から、時々見ていた夢を見る回数が増えたのは最近のこと。夢を見ると、大抵起きた時には全身汗だくになってしまう。
乱れていた呼吸は段々と収まっていった。右手の掌を見つめながら、尋常ではない汗を確認して、どれだけうなされていたか。想像するのは容易い。
「らしくない」
ベッドから出て、カーテンを思いっきり引いた。太陽は昇り、目を細めて外を眺めた。いつもと変わらない朝、変わらない平和な日の朝。
「学校、行こうかな」
独り言を呟いて、制服に着替え始める。いつもより早く起きてしまった。また寝る気になれないのは、もう一度同じ夢を見るのが怖いからだ。
身支度を整え終わってから、柘榴はキッチンに向かうことにした。
昨日のことなど忘れかけていて、それよりも今はデジカメが壊れた方が頭の中をぐるぐる回る。
キッチンでは母親がすでに朝ご飯を作っていて、苺や祖父は起きていない。
「あら、まだ七時前よ。今日は早いのね」
「目が覚めたから、早めに学校に行こうと思ったの」
テーブルにウインナーや目玉焼き、たらこはすでに並んでいた。自分でお茶を入れる間に、母親がご飯と味噌汁をよそう。
「はい、どうぞ」
「いただきます」
「よく噛んで食べなさいよ」
目の前にある食事が有難いことだと言うのは、五年前に身に染みた。椅子に座って食べ始める柘榴。母親は柘榴の分の弁当を作りながら、声を掛ける。
「早めにおじいちゃんと仲直りしなさいよ」
「…分かっているもの」
朝ご飯を口に頬張りながら、げんなりした柘榴。母親を睨むと、はいはい、と流されてしまう。
母親の視線から逃れようと、キッチンに掛かっている数枚の写真に目を移す。
その中にある一枚には、五年以上前に撮った家族写真が混ざっている。
家族旅行で遊園地に行った時に、撮ってもらった一枚。
柘榴と柚がお揃いの服を着て、満面の笑みを浮かべてピースをしている。その後ろに苺を抱えた母親と父親。その横に祖父と祖母が優しく微笑んでいる。今はもう、戻ることの出来ない幸せだった思い出。
ご飯を早食いし終わった柘榴は、思いっきり両手を叩いて、合わせる。
「ご馳走様でした。学校、行くね」
出来上がっていた弁当を掴み、無理やり鞄に押し込む。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
「うん、行ってきまーす!」
母親に見送られて、柘榴は元気よく家を飛び出した。
時刻は七時三十分。学校に向かって上機嫌で自転車を漕ぐ。
時々立ち止まり、アングルのいい場所で立ち止まりながら進めば時間はあっという間に過ぎてしまう。
そのせいで、結局は学校に着いたのは八時過ぎとなってしまうのだった。
いつも通りの学校。
眠たい目を擦りながら受ける授業に、友人と過ごす昼休み。いつもと同じ日常生活を何も考えずに過ごす。
あっという間に時間が流れて、放課後になると同時に柘榴は机の中に詰め込んでいた教科書を鞄に詰め始めた。
「ざーくろ!今日一緒に買い物に行かない?」
声を掛けられて顔を上げる。仲の良い友人の提案に、柘榴は軽く首を横に振った。
「ごめん!今月はもうお金がないんだ」
「あら、写真じゃないの?」
「デジカメは成仏しました」
鞄の中からそっと取り出したデジカメの無残な姿に、友人が憐みの視線を送る。
「今日も写真を言い訳に行かないのかと思っていたのに」
「いつもじゃないでしょ?」
「ほぼ、いつもじゃない」
きっぱり言われると言い返せない。
確かに買い物に誘われても、写真を撮りたいと言って断っている。
八割方、九割方をその理由で断っている。
呆れながら柘榴を見る、友人の冷ややかな視線を避けるように。柘榴は椅子から立ち上がった。
「お金もないし、図書館で勉強しようかな」
「柘榴が勉強なんて珍しい」
「いいじゃん。ほっといて下さい!」
「まあまあ、怒らないで。買い物行こうよ。ジュース一杯くらい奢ってあげるから」
今日はいつもに増して誘ってくる友人に、先に折れたのは柘榴だった。
「…ジュースくらい自分で買うよ。すぐ行くの?」
「ううん。ちょっと教務室に顔を出さなきゃいけないから、その後でいい?中庭のベンチで待っていてよ、迎えに行くから」
あまりにも嬉しそうに笑う友人。前に一緒に買い物したのは、一ヶ月くらい前だった。よく、覚えていないのは途中から写真を撮り始めてしまったせいだ。
久々に写真から離れるのもいいのかもしれない。
祖父に言われたからじゃない。絶対に、そうではない。
友人は用事を早く済ませようと教室から先に出て行った。友人がいなくなれば柘榴の周りは一気に静かになる。教室にいても仕方がない。
数人のクラスメイトに挨拶をしてから、早々に教室を立ち去ることにした。
柘榴の通う高校の中庭は、教務室のすぐ脇のドアから入ることが出来る。
女性の石造一体と、それからベンチが三つ。入口近くの二つのベンチは廊下に近くて、人目に付く。
その代わり、中庭奥のベンチは人目に付きにくいがカップルがいることが多い。
「あ、今日はいないんだ」
カップルがいたものなら即座に回れ右をして退散しようと思ったが、今日は誰もいないらしい。
運がいい、と思いながらベンチに座って鞄を置いた。
人目に付きにくいからこそ、ここで寝ていても人に見つかることはないだろう。
「少し、少しだけ…」
鞄を枕にして、体重を掛ける。授業中も少し寝てしまったが、夢見が悪かったせいか、まだ眠い。睡魔に耐え切れずに、柘榴はゆっくりと瞼を閉じる。
太陽はまだ明るくて空が青いけれど、ベンチに座れば木の影で涼しい。
目を瞑っても、人の声は聞こえる。
おそらく中庭で部活をしている園芸部の人の声。楽しそうな会話。
その声を聞きながら、柘榴の意識は遠のいた。
夢だ。
今朝も見たのに、また見るとは思わなかった。
柘榴の数メートル先に誰かが立っている。それがいつも柚のはずなのに、その後ろ姿は柚、ではない。
柘榴と同じくらいの身長だろうか。少し離れているから、よく分からない。
桜色のカーディガンで、見慣れないセーラー服。
二つに結ばれた髪の毛は、真っ白なリボンで結んである。後ろ姿から儚い印象を醸し出す少女。
泣いている、声が聞こえた。
その背後に、真っ黒なマントを被っている人は現れた。
その人は変わらない。あの人は誰か、分からない。
声を掛けたいのに、声が出ない。身体が動かない。
そうしている間に少女の背中に赤い染みが広がっていく。柚と同じように。
赤い染み、赤い血。
「止めて!」
掠れた声が出た。守らなきゃ、そう思って駆け出して少女に手を伸ばす。マントの人物を押しのけて、その肩を掴む。
「…た…すけ…て」
声が聞こえた。それはおそらく少女の声だ。
鈴の音のような声。
少女が振り返る、その前に。
目の前が真っ暗になった。
いつもなら覚めるはずの夢から覚めない。
意識ははっきりしているのに、どこかに座っていることしか分からない。
中庭のベンチで眠っていたはずだった。
ベンチに横になっていたはずだった。
暗闇、の中。自分の姿さえ見えないけれど、座っているベンチの感覚は、はっきりと感じられた。
夢の続き。そう結論付けて、ギュッと頬を抓ってみる。
「…痛い」
夢にしてはリアルな痛みがあった。どうしてこんな状況なのか。
考えようとする前に、目の前に赤い光が集まる。蛍の光のように、温かな小さな光、綺麗な深紅の光に魅入って動けなくなる。
小さな光は段々と明るさを増し、掌に納まりそうだった明るさが、柘榴の身体を照らすまで明るく辺りを照らした。
静かに立ち上がって、柘榴は光に手を伸ばす。
光に触れるか、触れないか。手を伸ばした瞬間、一気に明かりが赤の光で埋め尽くされた。
あまりの眩しさに目を瞑る。少しして、大丈夫かと目を開けた。
「…はい?」
突如現れた巨大な生き物が、柘榴を見下ろしていた。赤い光が全身を包み込んでいるせいで、真っ暗闇の中でもよく見える。
柘榴より何倍も大きな身体、鋭い爪、固そうな鱗。その背についているのは羽、それから四本足で立つ姿。全体的に赤く、その瞳は宝石のように透き通っていた。
「ドラ、ゴン?」
掠れた声で呟いて、その姿を何度も確認する。空想上の生き物で、現実にいるはずがない。
叫んで喚かなかったのは、驚きが大きすぎて呆然としてしまったせいだ。
頭なんて回るはずもなく、何も考えられなくてドラゴンを見つめていた。
そのドラゴンの瞳も、返すように柘榴の瞳から目を逸らさない。
【き…こえて…いるか】
声が、聞こえた。その声は耳元で話されているのではなく、直接頭の中に響く。
少し幼くて、なのにどこかで聞いたことのあるような声。
【らて…ぃら…んす…を、たお…せ】
その声はドラゴンの声なのかもしれない。それしか考えられない。思考が追いつかないけれど、声は続く。
【名を、呼べ。我が…名は…】
声は何度も繰り返す。
動く気持ちになれない柘榴は、そのまま立ち尽くして声を聞いているだけ。
声が少しずつ消えていく。
それと同時に、目の前が赤い光で埋め尽くされていく。その眩しさで、いつの間にか目を腕で覆っていた。
どれくらい目を瞑っていたのだろうか。
ベンチの前で一人立ち尽くしていた柘榴。目の前にはドラゴンがいるはずもなく、周りにすら人はいない。
空は明るい。
いつもと変わらない中庭。園芸部の声が、耳に届く。
「…何だったの?」
答えてくれる人などいないのに、思わず声が漏れた。
夢、だと思っていた出来事なのに、心のどこかでそれを否定している。足から力が抜けて、ベンチに腰掛けた。
昨日から立て続けにおかしなことが起こっている。
夢の内容も気になる。
頭がおかしくなりそうだ。落ち着こうと、ベンチに腰を下ろす。
座った衝動のせいか、右わき腹が痛んだ。両手でお腹を押さえるように蹲る。
五年前に、柚と一緒に負った傷。その傷に感じる違和感。
完全に治ったとは言えない傷の痛みは、ない。血が流れていたのは、五年前のこと。
誰にも言えない。柘榴の抱えた秘密を知っているのは母親ぐらいだろう。
深呼吸をして痛みが落ち着いてから、柘榴は立ち上がる。
時間を確認したくて、ベンチから移動することにした。
「ねえ、さっきから空が暗い気がしない?」
「そうね。少しだけ…」
歩きながら園芸部の人の会話が聞こえて、柘榴は空を見上げた。
暗い、青い空が段々濃くなっている。その空の色は青から、紺へ。紺から黒へ。それは、五年前のあの日の空に似ている。
まるで、前触れ。
そして、大きな地響きが響いた。
「きゃああ!」「何!」
園芸部の子たちの叫び声、柘榴は咄嗟に地面に座り込んで揺れを身体で感じた。地面から伝わる揺れに、何かが割れる音。壊れる音。
それから、沢山の悲鳴。
「生徒は早く避難を!急いで!!」
避難を誘導する声、異常事態であることは間違いない。ゆっくりと立ち上がって、それでもどこに逃げればいいのか、頭が働かない。
「貴方!早く、逃げるのよ!」
呆然としていた柘榴を見つけた先生。園芸部の先生だった。エプロン姿の女性は、固まっていた柘榴の腕を掴んで走り出す。
途中で体育館に避難している生徒の波に飲み込まれた。生徒の流れに逆らえないで、柘榴は足を動かす。
周りにいる避難する生徒たちの不安そうな声。飛び交う声の中で、はっきりと聞こえたのは一人の男子生徒の声だった。
「本当なんだよ。一瞬だけど、グラウンドに怪物がいたんだって」
男子生徒の悲痛な叫び声に、伝染していく単語。
怪物、その言葉で柘榴の頭に浮かんだのは、柚を襲った鬼。
何も出来なかった五年前。
今だって、避難場所に行くしかない。
【らてぃら…んす…を、たおせ】
また、だ。らてぃらんす、意味の分からない単語が、声が頭の中に響く。誰も聞こえていない。少しずつ、歩く速度が遅くなっていく。
【早く…たお、せ】
足を止めた柘榴を、さり気なく避ける生徒の波は止まらない。
【早く!】
最後に叫ぶような声が聞こえた。その声で、ハッとした柘榴の右足は一歩前に出る。一歩進んだら止まらない。
生徒の波をかき分けて、柘榴は飛び出していた。
逆らえない何かが、背中を押す。
どこに向かえばいいのか。
知らないはずなのに、目指す場所は一カ所だった。
本来なら生徒が部活をしているはずのグラウンド。いつもなら賑わって、活気のあるその場所にいるは、黒くて大きな怪物。
昨日のウサギとは違う。大きさが、全然違う。
鬼ではない、その姿はまるで神社でよく見る狛犬。五年前の鬼ほど大きくないけれど、鬼より鋭い牙に、黒くて固そうな逆立つ毛。
何より、柘榴が似ていると思ったのはその瞳。全てを呑み込むような黒い宝石のような瞳、その奥で輝いている深い紫。
その巨大な怪物の姿は狛犬。その前に、臆することなく立っている一人の少女。
夢の中の少女かもと思ったが、雰囲気が違う。髪型も、服も共通しているところは何もない。
真っ白でワンピースのような、半袖の制服を着た少女の後ろ姿。その両手で握りしめている剣。少女の身長の半分ほどの剣を構え、その剣先を狛犬に向ける。
剣の柄に括り付けられた青い紐、その先端で揺れるのは青く澄んだ宝石。水色に近い青。それから、銀の色の刃が夕焼けの光を反射する。
それは、昨日の青年の拳銃の銃口の宝石と同じだった。
「アオォォォォォオオオン!」
狛犬が吠えれば、空気が震えた。狛犬は少女に向かって、突進する。少女は純白の制服をひらめかせ、その攻撃を紙一重でかわし懐に入り込む。
少女と狛犬から目を離せないでいた柘榴は、校舎脇でジッとその様子を見つめた。
「あ、お前!昨日の…柘榴!」
聞き覚えのある声。昨日出会った、青年は柘榴を指さしながら、一目散に駆け寄る。
「あ、昨日の…」
「お前ここの生徒かよ。こんな場所にいないで避難するぞ」
左の手首を無理やり掴み、この場から離れるように言う青年、結紀。
「なんか、雰囲気が…」
「はあ?」
腕を引っ張られて、グラウンドに背を向けながら考える。今日はスーツじゃない。どこにでもいるような若者ファッション的なラフな格好。
昨日より年相応な服装に、一人納得する。
納得した途端に、窓ガラスの割れる音。
それから、狛犬の咆哮と近くに飛んで来た、誰か。
凄まじい衝撃音と、すぐ横を吹き飛ばされた時の風の音。足を止めた柘榴と結紀が振り返った先に、吹き飛ばされた少女の姿。
吹き飛ばされて瓦礫に衝突したはずなのに、ゆっくりと少女は立ち上がった。柘榴と結紀を睨んでいる少女に、酷い怪我はないのを不思議に思う。
少し幼い印象を持つ、少女。肩につかないくせっ毛のある黒髪、前髪を左に流し、威嚇するような瞳。
年下のように見える少女は結紀の姿を確認すると、砂や埃を払い落としながら興味なさそうに呟いた。
「…こんなところにいないで逃げなさいよ」
「今から逃げるところだったんだよ!」
すぐに言い返した結紀と少女の口ぶりは、まるで知り合いのように聞こえた。
近くで見れば、少女の服装がとても似合ったものだとは思う。
青のラインの入ったスカートは膝丈以上で、ふくらはぎまでのロングブーツを着用している。青のスカーフが、青の宝石と似ている色。
顔に出来た掠り傷が痛々しく見えた。
少女は一通り自分の身体を見渡すと、傍に落ちていた剣を拾って歩き出す。
呆然としていた柘榴の耳に、すれ違い様に聞こえた小さな囁き。
「逃げなさい。早く…」
安心させるような優しげな声は、戦っている時の雰囲気の欠片もない。少女を振り返れば一瞬だけ目が合った。柘榴より少し幼い、年相応の顔だった。
先程の声が少女の声か確認する間もなく、駆け出していなくなる。
見送ることしか出来なかった柘榴、それから顔をしかめている結紀。
思わず尋ねてみる。
「…知り合い?」
「まあ、そうだけどさ。半年ぶりに話した…それより逃げるぞ」
もう一度しっかりと握られた左手。歩き出そうとした結紀を引き留めて、柘榴は少女から視線を外せない。
少女は巨大な狛犬に立ち向かい、再び剣で切りかかる。少女が斬りつければ、狛犬はそれを腕で弾こうと暴れる。
魅入っている場合ではない。逃げなければいけないが、絶対にこの場から動こうとしない柘榴は問う。
「…昨日のように、倒せないの?」
「無茶言うなよ!あれじゃ、威力がないから役に立たないんだよ!」
苛立った声、怒った顔に身体が震えた。柘榴のせいで、避難が遅れて怒っているのかもしれない。
「ごめん、なさい」
真正面から顔が見られなかった。下を向きながら謝ることしか出来ない。
力がなくて、誰を救えない悲しさは知っているはずなのに、無神経なことを言ってしまった。掴まれていた手首の力が少しだけ弱まる。
「あ、わりい。とりあえず、走るぞ。怖くて動けないわけじゃないだろ?」
その言葉に小さく頷く。
「アオォォォォォオオオン!」
再び狛犬が叫ぶ。咄嗟に振り返った戦いの行方。
「う、そ?」
狛犬の右手が少女の身体を、吹き飛ばしてしまう。少女の身体が空高く吹き飛ばされる。
今度は柘榴の傍ではなく、校舎三階まで飛ばされる身体。窓ガラスが割れて、地面へと降り注ぐ。柘榴のいる位置からでは、少女の安否は確認できない。
「――っ!」
「マジ、かよ」
声にならない柘榴と、信じられないという結紀の声が重なった。
少女の吹き飛ばされた方向から視線を外せば、目の前にいる狛犬の標的が変わる。
「っくそ!」
腰に付けていた銃を狼に向けて構える結紀。小さな銃と、大きな狛犬。
勝てるわけがない。
圧倒的な力の差が、そこにはあった。
「おい!今日は走れ!怖くても、足が遅くても、逃げろ!振り返るなよ!」
必死な声は、嫌でも伝わる。繋がれていた手は振り解かれた。もう、逃げることしか出来ないのかもしれない。
どうして、私はこの場所に来たの?
戦いが見たくてここまで来た、そんなわけない。
誰かに守られたくてここまで来た、違う。
「私は…」
すでに狛犬はすぐ近くまで迫ってきている。結紀は柘榴の方を一切見ずに、戦いに集中するつもりらしい。勝てるはずがないのに、戦おうとしている。
先程まで戦っていた少女が助けに来てくれるなんて思えない。
【戦え…】
まただ、またこの声。頭の中に響く、夢の中の声。結紀の後ろで柘榴は頭を抱えて、声に耳を澄ませた。
【名を、呼べ――】
繰り返す声は何度も同じ言葉を言う。もうすでに、この状況が夢のような現実で、それを受け入れるしか出来ない。
【我が名を、呼ぶのだ。我が名は――】
幻聴でもいいから、この状況を打破したかった。
その名を呼んで、どうにかなるなら、誰かを助けられるのなら。
覚悟を決めて、息を吸う。
「【グラナード!】」
柘榴はこれでもかと言う程、叫んでいた。その場にそぐわない柘榴の叫び声に、驚いた結紀が振り返り何かを言うが聞こえない。
声が響き渡った、それと同時に目の前に赤い光が集まる。
柘榴と狛犬の間に現れた真っ赤な光、手のひらサイズの光。その光を包むように赤い焔が現れて、次第に形を変えていく。
「何、これ…」
一本の日本刀が、呆然としている柘榴の目の前に現れた。
手を伸ばせば届く距離で、その日本刀は宙に浮き、淡く赤い光を放つ。
焔を纏った日本刀、刃は穢れのない白銀。柄は焔と同じ真っ赤な紐で固く結ばれている。その紐の先端に付いているのは、忘れられないドラゴンと同じ瞳、赤い宝石。
掴む、その選択肢しか思い浮かばなかった。
ほんの少し、手を伸ばす。
「っ!」
柘榴が日本刀に触れると同時に、日本刀に纏っていた焔が周りにも出現した。
「…熱くない」
周りの焔に熱いとは感じない。近くにあっても熱くなく、強く柄を握っても、焔の熱さは全く感じない。
焔は消えることなく、柘榴の右腕を守るように包み込む。
少しだけ、焔は弱まるが消えることは決してない。
「その、力…なんで?」
結紀の呟きに気づかぬまま、柘榴の身体は勝手に動き出す。周りの音なんて柘榴には一切届いていない。考えることは一つだけ。
どうすればいいのか。
どうすれば目の前の巨大な狛犬を倒せるのか。
一歩、たった一歩足を踏み出せばいい。ただそれだけでよかった。
「アオォォォォォオオオ!」
狛犬の鳴き声、大きな地鳴りと共と突進して来る。真正面からぶつかるように、柘榴は駆け出していた。呆然としていた結紀の横を通り過ぎ、真っ直ぐに進む。
「【行け――!】」
声が重なる。柘榴と、それからドラゴンの声。無意識に日本刀を握る力が強くなる。一直線に柘榴に向かってきた狛犬の左手は、柘榴が来るであろう地面を抉る。
少し避けようとしただけだった。
そのはずなのに、身体が軽い。
地面を少し蹴っただけ、そのはずなのに身体は宙を飛び、狛犬の頭上を飛ぶ。
運動神経の問題ではなく、浮いた。狛犬の背後に、造作なく、ふわりと着地する。
「…うそ」
掠れた声しか出なかった。自分のことなのに、何が起こったのか分からない。
さっと振り返った柘榴の瞳に、振り返った狛犬の姿が映る。柘榴を探して、首を回す狛犬の姿。力の差を感じていたはずなのに、それはなくなった。
「…行ける!」
身体中から湧き上がる自信。刀を真っ直ぐに構え、大丈夫だと負けるわけがないと自分自身に言い聞かす。
地面を蹴り、目指すは一つ。その瞳。黒い宝石のような瞳の奥の、紫の輝き。
本能のままに走り出せば、身体は自然に動く。狛犬の攻撃を、紙一重でかわしながら、その懐に滑り込んだ。
「いっけぇえええ!」
大きく腕を振り上げて、狛犬の宝石のような瞳を一刀両断する。真横一直線に斬りつける。
黒い液体が、黒い血のようなものが柘榴に降り注いだ。
狛犬の呻き声、その声を無視して、着地するとすぐに振り返った。今度は心臓あたりに日本刀を突き刺す。日本刀に纏っていた焔は狛犬に乗り移り、その身体を業火で燃やす。
日本刀を突き刺したまま、狛犬が苦しむ姿を見つめていた。
柘榴は痛くないのに、怪我なんてしていないのに、心が痛い。
真っ赤な焔の塊が、灰となるまで数秒。
灰となれば、後は風に吹かれて空に舞う。
それは、儚く、短い時間。
その姿が燃え尽きてなくなるまで、柘榴はそのまま動けなかった。残されたのは、神秘的な紫の宝石の塊。
「終わった、のかな?」
信じられない気持ちでいっぱいになって、日本刀を掴んでいた腕に力が入らなくなる。フッと手から滑り落ちた日本刀は、地面に落ちる前に赤い光となって消えた。
その途端、疲労が襲う。
立っていられなくて、息絶え絶えに柘榴は片足をついた。呼吸を整えようと、深く息を吸っては、吐く。
近くに誰かがいるなんて、考えることすら出来なかった。
「大丈夫か?」
地面に前のめりに倒れこむ前に、肩を支えられる。結紀の顔が近い気もするけど、そんなことすら考えられないほど頭の中がぼんやりする。
「…だい、じょうぶ」
「じゃ、ねーよな」
言い返されて、柘榴は苦笑いを浮かべるしかなかった。正直、身体に力が入らない。結紀の胸元に頭を預け、おっかかっているおかげで少しずつ呼吸が落ち着く。
柘榴の安否を確認した結紀は、真正面から不機嫌そうな顔をしている少女を見つけた。柘榴に小さく声を掛けて、それを知らせる。
柘榴の瞳にも少女の不機嫌、怒りは感じられた。結紀に支えられたまま、ゆっくりと立ち上がる。
少女は真っ直ぐに柘榴の前にやって来た。
真っ白な制服は汚れることなく、剣を片手に近寄った。一瞬だけ、柘榴の傍に落ちていた宝石に目を向けるが、すぐに柘榴を睨んで言う。
「…貴方、何者?」
「え?」
聞かれた問いに答える前に、首に感じたのは冷たい金属。それから、微かな痛み。
あまりに早すぎる剣の動きに、柘榴は思わず息を呑む。
「おい!ら―」
「貴方は黙って!答えなさい。さっきの力は、何?」
焦った結紀の言葉を遮った少女は、これでもかと言う程唇を噛みしめていた。
何か言わなければと思うのに、どう説明すればいいのか分からない。言葉が出てこない。それに、狛犬と戦った時とは別の恐怖が生まれて動けない。
柘榴も結紀も、それから蘭も黙り込んで、無言の空間がその場を支配した。
『おい!二人とも無事かい?』
無言の空気を破ったのは、少女と結紀の耳に付いていた通信機だった。柘榴にまで聞こえた焦った声から、ただ事ではない雰囲気がある。
「…こっちは取り込み中よ。何かあったの?」
あまりにも通信相手が五月蠅かったからか。左手で通信機を少しだけ耳から遠ざけた少女は、心底迷惑そうな声で問う。
結紀は黙ったまま、柘榴の身体をそっと後ろに引いた。少女に気付かれないように、ほんの少しだけ下がって、剣先が首筋から離れる。
『結紀くんは――』
「無事よ。さっさと要件を言いなさい」
声からして少女より年上の男性のようだけれど、容赦なく少女は言い放つ。
『ああ。その近くの中学校でも、ラティランスが現れた!戦闘員もいるが…』
近くの中学校、その言葉で柘榴の頭に浮かんだ場所はただ一つだけ。この近くにある中学校は、そこしかない。
妹の苺が通う中学校。
結紀は真面目な顔で通信機に集中している。少女の意識は柘榴から離れた。
「いつ現れたの?戦況は?」
『現れたのはついさっきだ。戦闘員が近くに待機していたが、生徒や教師に被害が出ている』
途切れ途切れに聞こえる通信機からの声と少女の会話を柘榴は黙って聞いていた。
今のうちにと、無意識に足に力が込められる。
逃げ出すなら今しかない。
逃げ出そうとすれば少女の持っている剣で刺されそうな未来もありえそうだけれど、怖いけれど、このままここで立ち尽くす気はさらさらない。
柘榴が今すぐしたいこと。
今すぐにでも苺に会いたい。
会って、無事を確認したい。
両手の掌に汗がジワリと滲んだ。大丈夫、殺されはしないはずと言い聞かせる。結紀の方も通信機に耳を傾けている今なら。そう考えて、静かに息を吸った。
息を止めた、その瞬間。
「――っ!」
逃げ出した。
「ちょっと!待ちなさい!」
「おい!」
後ろから少女と結紀の呼び止める声が聞こえたが、お構いなしに一目散に駆け出す。
少女が柘榴を捕まえようと手を伸ばす。
「――っ!」
手を伸ばした少女は、その手を引っ込めるしかなかった。掴もうとした途端に、柘榴の身体から焔が現れたから。その焔に、柘榴は気づいていない。
駆け出した柘榴は振り返ることなくグラウンドの端に向かっていた。
目指した場所は自転車小屋。ポケットに入っていた鍵を無我夢中で取り出すと、金属音が鳴って鍵は外れる。
振り返りはしない。首の痛みを気にする暇もない。
柘榴は無我夢中でペダルを漕ぎ出した。
柘榴のいなくなった高校で、置いて行かれた少女と青年。
「…結紀、車はどこに停めた?」
久しぶりに名前を呼ばれた青年、結紀は間を置かずに答える。
「校舎の脇。走って、一分」
「行くわよ」
少女は柘榴のいなくなった方向に背を向けると、落ちていた宝石の塊を丁重に拾い上げた。すぐ横を通り過ぎる少女の顔。その顔を横目で見た結紀は呟く。
「怖っ」
本人に聞こえないぐらい小さな声で、怒りの矛先が自分に来ないことを祈った。