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宝石少女奇譚  作者: 香山 結月
第3章
16/59

15 合宿編03

 柘榴と蘭が囮になってくれている間に、希は逃げ遅れた人の避難に集中することになった。

 動けなかった人、気を失っていた人を安全な場所へ。救護の人がいる場所まで移動させた希は、最後の一人を救護の人に頼んで、ホッと肩の力を抜いた。

「…すぐ、戻らなくちゃ」

 瞬間移動を何度も繰り返すとすぐに戦う力がなくなってしまうので、風の力を使って急いで運んだだけだ。それでも疲れないわけではない。少し、身体が重い。

 慌ただしい避難場所ではあるが、誰も希には目もくれない。それくらい忙しい雰囲気の中、立ち止まっている希は不自然だ。ふと視線を巡らせると、頭に包帯を巻いた結紀と目が合った。

 希の方へ結紀がやって来る様子だったので、希の方が駆け寄る。

「結紀さん、怪我は?」

「大丈夫。でも、助かったよ。俺なんかを先に避難させて悪かったな」

「いえ…」

 結紀の頭から流れる血が他の怪我人より酷く見えたのは、見間違いではなかったはずだ。柘榴がいち早くそれに気が付き、希に結紀のことを頼んだだけのこと。

「これから戻るんでしょ?」

「はい、結紀さんは?」

「この状態で戦いに参加しても、援護は出来ないから。大人しくここで救護の手伝いでもするかな」

 そう言いながら、結紀は悲しそうな顔で柘榴と蘭が戦っているであろう方向を見つめた。通信機であれだけ柘榴に叫んでいた結紀だが、実際は近くにいた訓練生を庇ったせいで怪我をしていた。

 もっと早く助けられれば、と言う後悔が希の心を占める。

 希の様子に気づかず、結紀は、あーあ、と悲しそうに言う。

「怪我がなければ、力になれたのにな」

「そう、でしょうか?」

 思わず希は疑問形で言う。

「何、俺じゃ役に立てない?」

 冗談交じりの声だけど、希の方を見た結紀の顔は何かを諦めたような顔だった。いえ、と小さな声で静かに否定する。

「そうじゃないのです」 

 どういえば結紀に伝わるだろうか、と考えながら言葉を紡ぐ。

「前に柘榴さんが言っていました。私に戦って欲しくない、と。力がないからかな、と思ったらそうじゃないのですよね。大切な人だから、戦って欲しくない」

 真剣な希の言葉を、結紀は黙って聞いてくれている。だから、と希は言う。

「役に立たない、とか。役に立つじゃないと思います。特に柘榴さんにとって、結紀さんはすぐさま怪我をしていると気が付く程大切な人なのですから、戦場に来たら怒られちゃいますよ」

「いや、俺ヒロイン役じゃないからね」

 困った顔の結紀。予想外のツッコミに希は笑ってしまった。それにつられて、結紀まで笑みが零れる。

「そうですね。ヒロイン役は似合わないと思います。結紀さんは柊さんやキャッシーさんみたいに、本部で悠々と待っていて下さる方がお似合いですね」

「それで食堂で飯でも作っていればいいわけだ」

「はい!柘榴さんが凄く喜びますよ」

 満面の笑みを浮かべて頷いた希に、なんだかなぁ、と小さく結紀が呟いた。

「結局俺が役に立つ場所は、食堂ってことか」

「人には向き不向きがあるから仕方がありません。自分が役に立たないかも、なんて考えるよりもどうやって誰かの役に立てるか考えた方が、素敵だと思います」

 少なくとも私は、と小さく付け加えた。

「そう、だな」

 何となく納得した表情をした結紀。その顔を見て、落ち込んでいないことだけははっきりと分かった。

 希は、よし、と気合を入れる。

「そろそろ、戻りますね」

 少し話しすぎた気がして、希は微笑みながら言った。

「気をつけてな」

「ええ」

 片手を上げた結紀に見送られて、希は柘榴と蘭が戦っている場所に向かって駆け出すのだった。

 


 風の力を使いすぎると、後で疲労感が希を襲う。程度な力を使うように、と柊には何度も言い聞かせられた。それでも今日はいつもより力を使いすぎてしまったようで、結紀と話をして少し休憩出来たと思ったのに、案外身体は重く感じてしまう。

 希だけが力を使いすぎると目を覚ませなくなる。そのことに気が付いているのは柘榴だけで、蘭にはまだ気づかれていない。力の限界をまだ計りかねている希は、どれだけ力を使えばいいのかがまだよく分からない。

 最初に希が柘榴の妹のいる中学校に移動した時、中学校から神社へ逃げた時。無意識に力を行使していたのだと、柊に言われた。

 そのせいで、記憶を失ったか。柘榴の家で倒れた結果に繋がったのか。

「私は…どういう存在なのでしょうか?」

 走りながら希は呟く。

 どうして柘榴や蘭のように存分に戦えないのだろうか。どうして希だけが、力を使いすぎて倒れてしまうのか。

 考え込んでいた希は、全く前が見えていなかった。

「きゃ!」

 誰かに思いっきりぶつかって思わず転びそうになる。その誰かに、腕を掴まれたおかげで転びはしなかったが、顔を見て驚きを隠せない。

「悪い」

「蘇芳、さん…それに浅葱さんと鴇さんも」

 希の腕を掴んで謝ったのは蘇芳だった。

 立ち止まった希の腕を解放した蘇芳より先に、近くにいた鴇と浅葱が言う。

「希ちゃん?」

「なんで、こんなとこにいるんだ」

 浅葱達も驚いているが、希の方が驚いた。逃げたと思っていたのだけれど、実際はこうして出逢っている。どういう状況なのか、理解出来ない。

「ここは危険ですよ。早く避難を――」

「何言っているんだよ。俺らは逃げるためにここにいるわけじゃねえ!戦闘員を目指していたのは守るためだ!」

 希の言葉を遮り、怒っている顔の浅葱が叫ぶ。その内容に、すぐに返答出来なかった。

「戦う、と言うのですか?一緒に?」

「当たり前だろう!」

 きっぱりと言い切った浅葱の言葉に、蘇芳も鴇も頷く。

 一緒に戦う、そうはっきり言われたのは、柘榴と蘭を除けば初めてではないだろうか。ラティフィスである希より力がないはずなのに、それなのに戦う、と言う。

 驚きすぎて、一瞬何て返せばいいのか分からなかった。

「…三人とも、武器もないじゃないですか?」

 思わず尋ねた言葉に、浅葱はうっと言葉を詰まらせた。それは正しかったらしく、蘇芳も鴇も何も言わない。

 その姿が数か月前の自分の姿と、何故か重なった。

 力がなくても、戦う場所にいて無意識に誰かを守ろうとしたのは希と一緒だ。あの時、希がラティフィスとなった日。友樹に言われた言葉を思い出し、口に出す。

「『力がない人がここにいても、仕方がありませんよ?』」

 正論で、意地悪な言葉だと思う。それでも同じことを言われて、なんて反応するのか知りたかった。真っ直ぐに浅葱を見つめて言った希の言葉は、案外冷ややかに発せられた。

 唇を噛みしめ、何も言い返さないか、と思った途端に浅葱が噛みつくように言い返す。

「それくらい知っている!それでも、俺は…俺達は戦うって決めたんだよ!」

「まあ、浅葱が言い出したら聞かないしね」

「仕方ない」

 浅葱の言葉に、鴇も蘇芳も便乗して軽く言う。浅葱が真剣で、蘇芳は無表情で、鴇は軽く笑っている。

 逃げないで、戦う意志。

 友樹に同じことを言われて、逃げないで女の子を助けようとした希と浅葱達はどこが違うかと問われれば、力があるか、ないか。それだけのこと。

 もし、浅葱達にも力があったら。

 結紀には先程、人には向き不向きがあると言ったが、目の前にいる浅葱達の向いている場所はどこにあるか。逃げないで戦うと決めた意志がどれだけ強いか。

 二つの問いの答えは一瞬で出た。

 立ち止まって考えている時間の方が、無駄な時間。こんなところで立ち止まっている暇なんてない。

 スッと右手を通信機に当て、今まで下げていた音量を上げる。ずっと柘榴と蘭が戦っている声が聞こえていた。タイミングを見計らって、通信に割り込む。

「柊さん、聞こえていますよね?」

『ん、どうかしたかい?』

 会話には入っていなかったが、必ず会話を聞いている柊に話しかければ瞬時に返答が返って来た。

「訓練生で、戦闘に加わりたい方が三名。実力はありますし、協力を仰いでもよろしいですか?」

『許可する』

『早っ!』

『ちょ、何を…考えて、いる、のよ!』

『うわ!蘭ちゃん、こっち投げないで!』

 一部始終を聞いていた柘榴と蘭の声が少し大きいが、柊からの許可は得た。これで浅葱達が一緒に戦っても、蘭は文句を言えない。

「武器、はありますか?」

『それなら、テントのところに少し残っているよ』

 結紀の声も混ざり、一気に話は進む。

「では、その武器をお借りします。時間も惜しいので、すぐに柘榴さん達と合流しますね」

『ちょっと、私は許可してないわよ!』

『ぎゃー!蘭ちゃん、私にも気を配ってよ!』

 柘榴と蘭が会話するたびに、柘榴に被害がいっているように思えてならない。心配でならないので、一刻も早く合流するべきなのだと悟る。

 浅葱達も予備の通信機で全て聞こえていたようだ。希と目が合うと、頷いて走り出そうとする。

 それを見て、希は待った、の声を掛けた。

「走るより、早く行く方法があります」

「おい、何言って――」

 浅葱の信じていない言葉を聞く前に、希は三人の手をまとめて掴んだ。ポカンとした表情の三人に、説明している暇なんてない。

「皆さん、着いたらすぐに物陰に隠れて下さいね」

「希ちゃん?」

「いや、意味が分から――」

 い、と浅葱が最後まで言う前に、希が念じたのは柘榴と蘭のいる場所に行くこと。目を閉じ、小さな声で呟く。

「スマラクト」

 凛とした希の声が響き終る前に、希を含む四人の姿は瞬く間にその場から消えてしまった。



「蘭ちゃん!右、じゃない左来るよ!」

「あーもー、分かっているわよ!」

 希の後ろから聞こえた声に思わず振り返る。日本刀を構えた柘榴と剣を構えている蘭が、希達を見つけてギョッと声を上げた。

「あ、柘榴さん。希さん!」

「希ちゃん!上!」

「そこから早く逃げなさい!」

 柘榴と蘭の同時の叫び声に、希は真上を見た。何となく暗いとは思っていたが、それがどうしてか分かっていなかった。真上に見えた、黒い怪物。

 ここはラティランス、亀の真下。

「とりあえず…予定通り物陰に隠れてください」

 口角が引きつった希は、それしか言えなかった。

 亀に見つかる前に離れたほうがいいだろう。申し訳ない気持ちになりつつ、三人を振り返るとすでに走り出しながら騒ぐ姿。

「おい!なんでこんな場所なんだよ!」

「浅葱、騒ぐ前に逃げる」

「本当にここはやばいから!」

 浅葱、蘇芳、鴇がそれぞれ言いながら、ラティランスの後ろ側へ逃げ出した。真下だからかきっと亀は気が付いていない。

 音を聞き取った亀が浅葱達の方を見る前に、希は逆に前に駆け出した。

「スマラクト!」

 緑の光が集まったかと思うと、希の手に現れた頑丈で重みのある木の弓。出現した弓、数歩進んで構えたら、矢に力を溜める。溜められる時間が少ないが、仕方がない。ただの威嚇程度でいいのだ。

「こっちです!」

 くるっと回って真正面からの、距離も威力も小さい攻撃。せいぜい気を引くことぐらい出来る攻撃だった。希の矢は、近距離で亀に当たった。けれどもその矢は亀の身体を傷つけることなく、弾けて消えてしまう。

「嘘、全く効かないのですか?」

 驚いて立ち止まる。もう一度、矢を引こうとした一瞬の隙を狙った亀の口が開き、コンクリートの塊が現れる。

「希ちゃん!」

 飛んできた塊を割り込んで来た柘榴が防ぐ。日本刀がコンクリートの塊を真っ二つに切り裂いた。

「…切れるのですね?」

「うん、でも。この亀さんの甲羅がめっちゃ固いんだよ!潜られたら攻撃効かないし」

 右手で日本刀を構えた柘榴に守られて、空いていた希の右手を掴まれる。二人で一気に駆け出しその場から逃げる。

 背を向けた瞬間に襲い掛かった亀の攻撃は、蘭が斬りつける。

『希!なんであんな場所に現れるのよ!』

「すみません。予想外でした」

 攻撃しながらも怒られた希は、思わず走りながら頭を下げて謝った。

 ある程度まで離れた場所まで希を引っ張って走った柘榴は、何度も深呼吸を繰り返して息を整える希を見て心配そうに言う。

「…希ちゃん、顔色が悪いよ。少し力使いすぎてない?」

「いえ、そんなことは」

 そう答えてみたはいいものの、柘榴にそう言われると確かにさっきより体が重いような気がした。けれども、大丈夫だと思い込み柘榴に微笑んで見せる。

「まだ、大丈夫だと思います。それより、蘭さん一人に任せていいのですか?」

「…分かってる。少しの間、ここで休憩してて」

 希の瞳を真っ直ぐに見た柘榴に言われ、素直に頷いた。それから柘榴はすぐさま背を向け、亀の方へと駆け出す。

 日本刀を振るい戦う柘榴と、剣で戦う蘭。蘭は戦いながらも、通信機に向かって叫ぶ。

『だいたい、何で浅葱達が来たのよ!』

『うるせえ、チビ!』

 結紀の言っていたテントにあった武器を持って叫ぶ姿。

 戦闘員が普段使っているラティランス用の拳銃、それから初めてみるショットガンをそれぞれ持った浅葱と蘇芳と鴇の姿は、亀の背後に確認出来た。

「蘭さん、ラティランスの特性を教えてもらってもよろしいですか?」

 柘榴に休憩していて、と言われて何もしないでいることなんて希には出来ない。木の影に隠れつつ、柘榴と蘭の二人でもなかなか倒せない敵を観察する。

『ラティランスは亀、その大きさは校舎二階分。見た目通り動きは鈍いけど、口から出るコンクリートの塊の攻撃のせいで中々近づけない!甲羅も固いわ!』

『亀に髭とか、おじいちゃんみたいだよねー』

『柘榴、真面目に戦いなさいよ』

 周りを見渡せば、コンクリートの塊がちらほら。その多くが二つに切り裂かれているので、柘榴と蘭の結果だと納得する。

 蘭の指摘を、柘榴は全く気にしない。明るい声が通信機から聞こえる。

『森ごと亀を燃やしたいって、言ったら蘭ちゃんに止められちゃった』

 あはは、と柘榴が笑いながら攻撃を繰り返している。呆れている蘭も攻撃を繰り返しているが、亀の甲羅が固くて攻撃を受け付けない。

 さっき希の攻撃は通じなかったが、力を込めればまた変わってくるかもしれない。

「力を込める時間を稼いでもらってもよろしいですか?」

『分かったわ。不本意だけど、蘇芳はショットガンで背後からドンドン撃って。浅葱は攻撃で裂け目が生じたら、そこを集中的に狙いなさい。それから、鴇!』

 鴇の名前を呼んで、数秒だけど間が空いた。

『拳銃の実力はそこまでよくないから、希の身を守りに今すぐ走る!遠回りしてもいいから、亀に気づかれないで迅速に移動。柘榴は今まで通り攻撃に専念して、浅葱達のことは私が援護する』

『蘭ちゃん俺だけ扱い酷いって!』

 鴇以外のメンバーは、蘭の指示に一斉に動いた。

 通信を聞いていて思うのは、蘭の指示に誰も逆らおうとしないこと。希は力を込めながら、蘭を素直に尊敬する。例えどんな場面になろうと、蘭は冷静に判断してくれる。だからこそ、信頼出来る。

『ちなみに蘭ちゃん、私の森ごと燃やしてしまおう作戦は?』

『却下に決まっているでしょうが!』

 柘榴の提案は一瞬で消し去られた。懲りていないと言うべきか、諦めが悪いのか。

『ええー!全部燃やしたら楽なのに』

『被害を広げるんじゃないわよ!』

 浅葱や蘇芳は静かに狙いを定め攻撃するのに対し、柘榴と蘭の戦いは正直騒がしい。でもそれが、柘榴達の戦い方。主に柘榴と蘭の騒がしい声しか聞こえない通信機に耳を澄ませながら、呼吸を整える。

 そうしているうちに、物音立てずに近くに鴇がやって来た。

「お待たせ、希ちゃん。俺、どうすればいい?」

「前衛で、一応構えていていただけますか?」

「了解」

 お喋り好きな時も、戦闘の時は口数が少なくなる。

 黙って亀の瞳に狙いを定めながらもそれを撃つことはなく、ただ銃を構える鴇の後ろ側で希もゆっくりと弓を構えた。

 いつもなら眩いほどの光の矢に、ならない。

「っ!」

 目の前にいる鴇に聞こえないくらい小さな声が漏れ、唾を呑む。

 今になって力を使いすぎていたのだと身に染みて感じた。どう頑張っても亀を一撃で倒せる威力の攻撃など、出来そうにない。身体が重いだけじゃなくて、頭痛まで襲ってくるから厄介だ。

「希ちゃん!」

 緊迫した鴇の声が聞こえたのと、亀の瞳が希を捕らえたのはほぼ同じだった。

「鴇さん!逃げて下さい!」

「ちょ!」

 威力のない矢を射た希が思わず叫んだタイミングと、亀の口が開きコンクリートが飛んで来たタイミングが重なる。飛んできたコンクリートの塊に鴇の銃弾と希の矢が刺さっても、大した威力はなくコンクリートの塊が目の前に迫る。

『希ちゃん、鴇!下手に動かないでよ!」

 バッと亀と希達の間に割り込むように柘榴が躍り出て、コンクリートを真っ二つに切り裂く。その欠片は、希と鴇の両脇へと流れた。

「あっぶな…」

「柘榴さん」

 危機一髪を逃れた鴇の安堵の声と、希の声が重なった。助けた張本人は、振り返ってにっこり笑う。

「大丈夫?」

「はい。一応――」

 希の目の前に来て、左手を差し出した柘榴。その手に右手を重ねようとして、希の瞳に映ったのは亀の口が開いたままの状態。

 真っ黒な口の中、その中に見えた光の欠片。

 ほんの数秒だけ柘榴の手の温かさを感じた。けれどもそれはほんの一瞬で、本能的に感じた危険な気配に、希は消えそうなくらい小さな声で言葉を紡いだ。

「スマラクト」

 柘榴と鴇を守りたいと強く祈った希の姿は、一瞬で消えた。

 移動した先はたった数メートル先で、柘榴と鴇を守るように立ち、両手を横に出す。

「っ!」

 嫌な予感は当たるもので、その直後に亀の口から沢山の小さなコンクリートの欠片が飛んできた。それらを塞ごうと、咄嗟に風の力で身を守る。

 いつもなら出来ることが、今日は出来ない。

「…っい」

 痛い、と言う感情が静かに芽生えたのに気付くのに数秒掛かった。

 風で防ぎきれなかった欠片の一つが希の脇腹に突き刺さり、そこからどくどくと赤い血が流れる。それを止める術もなければ、どうしようもない事実を諦めて受け入れてしまう。

 倒れちゃ駄目だ、と唇を噛みしめて耐えるしかない。

 たった数秒の出来事なのに、とても長い時間のように感じた。攻撃が止んだ途端に、希の身体がぐらりと後ろに倒れる。

 コンクリートの塊。正確には、二十センチほどの棒状の塊が突き刺さった状態で、立っていることなんて出来なかった。ぐらりと前に倒れながら、意識が遠のく。

 すぐ傍で、柘榴や鴇が希の名前を呼んでいる。それに答える事も出来ないまま、静かに瞼を閉じた。



 差し出したはずの柘榴の左手に、希の右手が重なったのは一瞬だ。その姿は瞬く間に消えた。

「希ちゃん!?」

 驚いた柘榴。バッと振り返った途端に、瞳に映った光景に目を瞠る。

 両手を横に伸ばし、まるで柘榴と鴇を守るように立ち塞がった希に、大量のコンクリート欠片が降り注ぐ。希は必死な表情で、風の力でそれを全て防ごうとしていた。

 攻撃はすぐに止んだ。

 ホッと安心したのも束の間で、柘榴と鴇を庇って前に出た希の身体がぐらりと前に倒れそうになる。

「「希ちゃん!」」

 鴇よりも早く駆け出して、地面に倒れこむ希の身体を抱きかかえた柘榴。青白い顔で、意識を失った希の真っ白だった制服とマントは赤く染まり、その赤が柘榴の制服とマントも染める。

「…希、ちゃん?」

 恐る恐る名前を呼んでも答えてくれない。

「希ちゃん、希ちゃん!」

 何度も何度も名前を呼ぶ。泣き叫ぶ柘榴の声に、いつものように返って来る声がない。 

「あ…あぁあ」

 守るって、言ったのに。いつだって突然、大切な人がいなくなる。

 約束をした。苺の前で、実家で、希を守ると誓った。

 それなのに、約束を守れなかった後悔が押し寄せる。

 五年前の時の悲劇がフラッシュバックする。あの時も柚の身体が赤く染まって、動かなくなって、それで――。

「――嫌ぁあああ!!!」

 全く動かない希を抱きしめて、柘榴は何も考えられずにただただ悲痛な叫びをあげることしか出来なかった。



『――嫌ぁあああ!!!』

 戦いの最中に蘭の通信機から聞こえたのは、柘榴の悲痛な叫び。

 冷静さの欠片もない柘榴の声が蘭の心まで届き、耳を思わず蓋ぎたくなる。どうなっているのか、分からない。

 今の蘭に出来ることは、柘榴も希も戦えない状況で亀と戦い勝つことだけだ。

 亀の攻撃を受けているのは蘭だけで、剣でそれを切り裂いても近くに寄って攻撃出来ない。浅葱や蘇芳が加勢しても、一向に優勢にならない。

 通信機からは希の声が一切聞こえず、柘榴の泣き叫ぶ声だけが聞こえる。

 最悪な事態が頭に浮かんで、蘭は唇を噛みしめる。

 希の状態が良くないことだけは分かる。死んだわけではないはずだと、信じて戦うしかない。今の現状で蘭まで戦いを放り投げたら、被害は大きくなる。それは嫌だ。 

 でもそれ以上に、柘榴と希の身に何か起こる方が本当は怖い。

 危険な目に遭うことは、いつだって分かっていたこと。それなのに、心のどこかでいつも大丈夫な気がしていた。何とかなる気がして、いつも戦っていた。

 それが現実に起こりそうになった途端、恐怖が生まれた。

 戦いに集中しないといけないのに、集中することなんて出来ない。

 グッと唇を一度噛みしめて、蘭は亀を睨むように剣を構える。

「エグマリヌ!」

 戦おうとする蘭の気持ちに答えるように、水が剣を覆い亀に向かって駆け出す。蘭に向かって放たれた

コンクリートの塊を斬りつける。

 視線を巡らせ、チラリと見えたのは希を抱きかかえる柘榴と呆然と立ち尽くしている鴇の様子。

 どうすればいい、なんて言えばいいのか分からなくなった蘭。ただ無我夢中に戦うしかない蘭に代わって、通信機から聞こえたのは怒った浅葱の声。

『鴇、何があったか言え!』

『え…え、あ』

『早くしろ!』

 動揺した鴇を叱りつけた浅葱の声で、鴇は柘榴と希の方へ近づいた。落ち着こうとしている鴇が、声を震わせながら言う。

『希ちゃんが、攻撃を受けて。左脇腹から大量の血を、流している』

『お前らは怪我はないか?』

『俺と柘榴ちゃんは怪我してない…』

 早口の浅葱と対照的に、鴇の口調は静かでゆっくりだった。落ち着いているからじゃない。まだ混乱している鴇に、しっかりしろ、と言わんばかりの浅葱が叫ぶ。

『さっさと止血しろ!』

 それから、と言った後浅葱の声が止まる。柘榴になんて声を掛ければいいのか、迷っている気がした。だから代わりに蘭がすうっと息を吸い込んで、浅葱の言葉の続きを引き受ける。

「柘榴はいつまで座っているつもりよ!この馬鹿!!!」

 浅葱の声より大きく、それ以上の大声で蘭は叫んだ。

 本当なら柘榴のように希のところへ駆け出したい。蘭だって希が心配なのに、立ち止まったままなんて許さない。希が怪我をしているなら尚更、柘榴は戦うべきだと思ってしまう。

「柘榴がそのままで希が助かるの?怪我が治るの?今柘榴がするべきことは、目の前の敵を倒すことじゃないの!?」

 感情をぶつけるように叫んだ蘭。その声に、柘榴はゆっくりと立ち上がって言う。

『…分かった』

 小さくも柘榴の声が聞こえた。その声は、低く短い言葉。

 けれども亀の方へと振り返った柘榴の瞳は憎しみで溢れていて、怒っていると見れば分かるほど醸し出す雰囲気がいつもと違っていた。

『蘭ちゃん、言ったよね?』

「何を?」

『今するべきことは、目の前の敵を倒すことだって。その通りだよね、私の役割は倒すことだよね?』

 ゆっくりと歩き、亀に向かって歩く柘榴の瞳にはもう亀以外の存在は映っていない。右手に持つ日本刀の焔が燃え上がり、剣先は地面の草までも燃やしてしまう。

 真っ赤な日本刀、それは今まで見たことのないくらい最大級の焔を纏っていた。

 柘榴の焔の熱気が、離れた場所にいる蘭にまで届く。

 少し、怖い。

 怖いと感じるほど、巨大な焔の力を持った柘榴が、亀の前へと進み日本刀をゆっくりと上に上げた。いつの間にか浅葱と蘇芳の攻撃も止まって、亀すら柘榴の方を真っ直ぐに見つめていた。

 ゆっくりと口が開く。

 また攻撃が始まる。

 日本刀を構えた柘榴は、そっと呟く。

『グラナード』

 通信機から微かに柘榴の声が聞こえた途端、攻撃が再開した。巨大な塊から小さな欠片まで飛んで来る攻撃を、柘榴は避けることもなく全て切り裂いていく。一歩も動くことなく、ただ瞬時にコンクリートの塊全てを切り裂き、粉々になった欠片が柘榴の近くの地面に落ちる。

 攻撃が止まった。

 亀が一度、口を閉じた。

 その途端に、今度は柘榴が一歩踏み出した。

 その速度は遥に人の身体能力を超えていて、亀の目の前に躍り出て攻撃を繰り返す。咄嗟に甲羅に潜ろうとする亀に容赦なく、今まで壊すことが出来なかった甲羅を斬りつける。

 一撃、一撃が重く甲羅を傷つけた。

 蘭には見ていることしか出来ない。

 そして、甲羅の一部が剥がされたと同時に、柘榴の冷めた声が通信機から聞こえた。

『絶対に、許さない』

 その声があまりにも冷たい。柘榴が日本刀を真っ直ぐに亀に突き刺した。亀の身体の中から燃やすように焔が燃え上がり、その中心で柘榴はただ立っていた。

 それからすぐに燃え上がる亀の上を悠々と移動して、柘榴が亀の頭まで行くと剣を振るった。

 亀の瞳を一撃で、破壊した柘榴。その証拠に、亀の身体が柘榴を中心に灰となっていく。柘榴と、その足元に転がった無色透明な宝石の塊。

 灰の山の上で、焔を纏う日本刀を握りしめた柘榴は眉ひとつ動かさずに立っていた。

 

 あれほど苦戦していたはずの敵なのに、柘榴があっという間に倒した。

 その力は今までの比ではない。

 蘭も見たことのない力。まさに全ての力をぶつけたように、戦ってみせた柘榴に蘭も浅葱も蘇芳も、誰も何も言えない。すぐに動けない。

 柘榴は無色透明な宝石を拾うと、それを持って出来るだけ端へと寄っていた希と鴇の方へと歩いていく。柘榴の真っ白だったはずの制服とマントは希の赤い血で染まり、一部は焦げていた。

 柘榴の近寄りづらい雰囲気に飲み込まれる前に、蘭もその後ろ姿を追って駆け出す。

「柘榴!」

「…何」

 冷ややかな声で返され、蘭は言葉を詰まらせた。今まで一度だってこんな風に拒絶されたことがなかった。いつだって明るく接してくれた柘榴だからこそ、拒絶されて悲しい。

 悲しくて堪らないのに、蘭にはそれ以上に何かを言えない。

 柘榴と一緒に希のいる場所に行くことすら許されない気がして、一歩下がって付いて行く。

「のぞ、み?」

 数十メートル先。まるで眠っているように目を瞑ったままの希は、鴇の着ていた白のワイシャツによって一応止血はされていた。大量の血が流れたことは、希の制服とマント、それからワイシャツが赤く染まっているのを見れば一目瞭然。

 その血は止まらない。未だ、赤く染め上げる。

 希の横で正座をして、動かない鴇が小さな声で言う。

「さっき、ラティランスが倒されたと同時に、コンクリートの塊もなくなったんだけど…」

 浅葱と蘇芳もやって来て、黙って鴇の言葉を待つ。

「血が止まらないし、目も覚まさない。何度も名前を呼んだけど、でも段々呼吸も浅くなっていて」

 段々と消えそうな声で言った鴇。何も出来ない、と泣きそうな顔をしている。

 そんな鴇とは反対側に膝をつき、柘榴は愛おしい者を見るような瞳で、じっと希を見つめた。

「希、ちゃん…」

 柘榴はとても小さな声で呼びかけた。そっと右手を握っても、握り返してはくれない。

「嫌だ、よぉ」

 柘榴の本音が、静かな空間に響く。知らず知らずのうちに柘榴が流した涙は怪我をしていた頬を伝い、赤い血と混ざって希の怪我をした身体に落ちた。

 

 柘榴の涙が、希に触れた。蘭はその瞬間をしっかり見ていた。

「何が…?」

 漏れた声に答えてくれる人はいない。柘榴の身体が赤く光り、その光が希をも包み込む。柘榴の光に共鳴するかのように、次第に希の身体も赤から、淡い緑の光が溢れた。

「っうぅ…」

「柘榴?」

 柘榴が身体を丸めて蹲る。その脇腹から、希と同じ箇所から赤い血が服を染めていく。顔色が一気に真っ青になり、蘭は慌てて柘榴を支えた。

「柘榴!」

「蘭、ちゃん?」

「馬鹿!何をしているの!」

 聞いたところで答えられる状態ではないことは明白だった。未だに身体が光っている柘榴は息絶え絶えに、蘭に言う。

「分かんない。ただ、希ちゃんの怪我が治ればって…」

「そんなこと――」

 あるはずがない、と言う言葉を蘭は飲み込んだ。視線を上げた先、希の顔色がみるみる赤みを増し、赤く染まっていた血が止まっている。微かに呼吸を繰り返していたはずなのに、深くなっていく呼吸。

「あ」

 希の様子に気が付いた柘榴の驚きの声が微かに漏れたのと同時に、光は弾けるように消えた。

 柘榴の赤い光だけじゃなく、希の身体を包んでいた緑の光も消える。

「今、手を――」

 握ったよ、と言う柘榴の疑問形が問う前に、横たわっていた希が静かに瞳を開けた。



 身体が重いし、痛い。けど、少しずつ痛みが引いていく。もう大丈夫、大丈夫だと自分に言い聞かせて、ゆっくりと瞳を開けた先には泣きそうな顔の柘榴と蘭の顔が目の前にあった。

「ざく、ろ、さん?らん、さん?」

「希ちゃん?」

「希」

 名前を呼ばれて、ぼんやりとした頭のまま瞬きを繰り返す。

 戦いは終わったのだろうか。いつの間に眠っていたのだろうか。柘榴と鴇を守ろうとしたところまでしか記憶がない。聞きたいことは山ほどあるが、それよりも心配そうな二人の顔を見て掠れた声で問う。

「怪我は、ありませんか?」

「なんでそれを希ちゃんが聞くのかな?」

 泣き出しそうな顔で、それでも笑おうとした顔の柘榴が言った。

「だって…蘭さんはともかく柘榴さんは怪我だらけですよ?」

 握られていた右手を、柘榴の怪我をしていた頬へと伸ばす。痛そうな怪我、すでに血が止まった怪我に触れるか触れないかの位置まで手を伸ばした。

「そう、かな?」

「ええ」

「でも、希ちゃんが無事で、本当に、よか、った…」

 言いながら安心した顔になり、柘榴は意識を失って希の上に倒れこむ。 

「柘榴!」

 希の上に倒れそうに柘榴の名前を、蘭がいち早く呼んだ。そしてその肩を支えて、意識を失った柘榴を支える。横になっている希から見ても明白なほど、柘榴は全身怪我を負っていた。蘭にもたれかかった柘榴から、気持ちよさそうな寝息が聞こえる。

 寝ているだけ、と知り希は心底安心した。希は鴇に支えられて、ゆっくりと起き上がる。

 呆れた顔をしている蘭と、希の瞳が交わる。

「蘭さん、亀は?」

「柘榴が倒したわ。希、本当に身体の調子は大丈夫なの?」

「はい、大丈夫ですよ?」

 ものすごく心配そうに尋ねられるが、全然痛くない。制服などは赤く染まっているが、痛さを不思議と痛さを感じないのだ。

 今まで傍で一部始終を見ていた浅葱や蘇芳は特に怪我をした様子もなく、希が微笑むと浅葱はすぐに視線を逸らし、蘇芳は軽く微笑み返した。

 もう、大丈夫。

 本当に、終わったのだと実感したのだった。


 

 結局、戦いの後。柊が迎えに来て、本部まで連れ戻された。

「なんで、浅葱達まで…」

「それは、こっちが聞きたい」

 ワゴン車の中。運転席には柊が、助手席には頭に包帯を巻いた結紀が座っている。それから二段目に四人乗れて、浅葱と蘇芳と鴇と、蘭。三段目は希に膝枕されて眠る柘榴。

 合計九人乗れる車の中で、重症である柘榴は力の使いすぎで、未だ気持ちよさそうに寝ていた。

 蘭と浅葱の言い合いは、車の中でも始まったら止まらない。

「だいたい訓練していたなら、もっと強くなっていなさいよ」

「それが助けに行った奴に言う台詞か!」

「浅葱の攻撃なんて、これっぽっちも効いてなかったじゃない」

「効いてただろ!ちゃんと見てろよ!」

 左右で分かれて座っているはずの蘭と浅葱はお互い窓の方を見ているにも関わらず、顔も言わずに言い合う。流石に五月蠅かったのか、浅葱の隣にいた蘇芳の顔が渋い顔に変わる。

「浅葱、静かにしろ」

「珍しい、浅葱が蘇芳に注意されるなんて」

 蘇芳と蘭に挟まれて身体を小さくしていた鴇は、小さく呟いた。

 希はただその様子を後ろから見ていただけで、何も言わない。

「皆…五月蝿いよね?」

 いつの間にか目を覚ました柘榴が、希を見て笑いながら言った。無事な姿に、希は微笑んで見せる。柘榴の声を聞きつけ、蘭と浅葱が同時に振り返った。

「聞こえているのよ!」「聞こえているんだよ!」

 睨まれた柘榴はすぐに顔を隠した。

 思わず声を潜めて笑ってしまう。浅葱と蘭の言い合いが再開して、未だ騒がしい車の中、柘榴に問う。

「柘榴さん、具合は大丈夫ですか?」

「うん。ちょっと、待ってね」

 バッと制服を捲った柘榴は自身の腹を確認して驚いた顔になる。それからジッと希を見つめたかと思うと、希の制服に手を伸ばした。

「きゃあ!」

「何!?」

 叫んだ希の声に二段目に座っていた四人が振り返るが、蘭は呆れた顔になり浅葱や蘇芳、鴇はすぐに顔を背けた。柘榴は悪びれもなく、希の怪我をしたはずの脇腹を見て瞬きを繰り返す。

「希ちゃん…怪我が塞がっているよ?」

「それより、服を捲らないでくださいぃ」

 咄嗟に対応出来なかった希は顔を赤くして、服を伸ばすようにお腹を隠す。頬を膨らませても、柘榴は笑っているだけである。

 反省の欠片もない。

 コンクリートの塊が刺さったはずの大怪我は、車に乗る前に確認したが跡形もなく消えてなくなっていた。柘榴も血を流していた脇腹だが、怪我がないことは確認済みである。

 蘭曰く、光に包まれた希と柘榴はまるで最初から怪我がなかった状態になってしまった。

 希の掠り傷や柘榴の掠り傷、火傷はあるが、大量の血を流した脇腹の大怪我だけはなくなってしまった。流れた血は消えないのに、怪我は消えた。

 この事実には誰も説明は出来ない。

「それにしても、希ちゃん細いね。ちょっと、腰のサイズを確認してもいい?」

「ここでそんな話をしないで下さい!」

 盛り上がり始めた柘榴と希。

「そう言えば、希くん」

 騒いでいた希に、柊が声を掛けた。一番前と一番後ろで会話をし出したので、二段目の蘭達四人は何となく黙ってしまう。

「基地に帰ったら怒られるかもしれないぞ」

「えっと、どうして怒られるのでしょうか?」

「てか、私じゃなくて希ちゃんが?」

 怒られる理由でも思い当たる節がある柘榴が問えば、柊だけがどことなく楽しそうに言う。

「希ちゃんの通信機を盗聴していた整備部が、希ちゃんの安否を心配していたから」

「盗聴?」

 蘭の眉間に皺が寄った。柘榴は起き上がらずに、呆れた声で言う。

「柊さん、それは駄目でしょ?」

「親方が泣きながらキャッシーの部屋に来なかったら、気が付かなかった事実だな」

 希は何も言えなかった。そう言えば、今回の外出の前に、陽太にメンテナンスと言われて通信機を確認してもらったことがあったから、その時だろうか。

 柊は運転しながら、思い出すように言う。

「親方御一行が、心配し過ぎてエントランスで待つとか言っていたし。無理やり車に乗り込もうとしていたし。きっと、本部に着いたら怒られて、大泣きだな」

 希以外は話が見えずに首を傾げている。希だけが頭を押さえ、どうしようとぼやく。

「…帰りたくないですぅ」

 希の様子に、柘榴は不思議そうに大きな声で尋ねる。

「柊さん、その、親方さんが泣くの?」

「そう」

「え、本当に?」

 柘榴が驚くのも仕方がない。柘榴には言っていない。

 訓練中に何度かかすり傷を負って、それを放置したままお茶会に参加した希。その時は、いつも親方が泣くのだ。怪我をするな、と叱って親方は心配して泣く。

 陽太は親方同様慌てふためくが、泣きまではしない。

 どちらにしても恥ずかしいので、お茶会に柘榴を誘いたくなかった理由の一つ。

 柊は少し楽しそうに言った。

「毎回、俺のところにも泣きに来るから。今回は大怪我で、覚悟しておいた方がいいだろうな」

「希、そんな連中と付き合っていたの?」

 蘭が少し引きながら言う。

「いい人達ですよ。リアクションは、柘榴さん並な方が二人いますが」

 親方と陽太と違って友樹は心配してくれるが大袈裟じゃないないので、安心する。最近は無表情の中に読み取れる表情の変化にも慣れた。心配こそしてくれるが、それを隠そうとしているのも分かってきた。

 友樹がいれば二人の暴走を止めてくれることも多いし、心配し過ぎの親方と陽太を叱ってくれるのも、正直助かる。

「帰ったら、ド派手なお出迎えだね!」

「そう、ですよねぇ…」

 柊は他人事なので楽しそうに言った。親方が泣いて心配してくれるのは、希のことを想っているからこそだと、分かってはいる。それでもどう頑張っても慣れない。

 心配を掛けないように、戦闘の時は怪我をしないように気をつけていたのに。

 一人落ち込んでいる希の頭を、柘榴がよしよしと撫でてくれた。されるがままの状態で、車は本部へと向かうのだった。



 エントランス前に車が到着する。

「よし、降りろ!」

 柊が先頭切って車から降りる。柘榴を起き上がらせて外を見れば、待っていてくれた面々。その中ですでに泣き出しそうな親方と陽太、それから呆れている友樹の顔。一瞬だけ顔を上げた友樹と目が合い、嬉しくなって笑う。

「…友樹、先輩?」

 前の席に乗っていた蘇芳は、驚いてハッと降りようとしていた浅葱の背中を押す。

「ちょ、蘇芳!」

「浅葱降りろ!友樹先輩がいる!」

「だから、押すな!」

 騒ぎ出した蘇芳にド肝を抜かれたのは希だけではなかった。蘇芳の慌てぶりに、誰もが何事かと蘇芳に注目してしまった。

 呼ばれた人物、友樹の方も異変に気が付いた。

 気が付いた途端、友樹は一目散に逃げ出した。

「ま、待って下さい!先輩!」

「だから、押すな!蘇芳!」

 ドアを開けて飛び出そうとした蘇芳よりも早く、友樹はエントランスから逃げてしまった。友樹の行動に親方の涙は止まってしまったようだ。親方は迷わず、友樹の後を追いかけた。

 浅葱を押し出し車から降り、追いかけようとした蘇芳の前に、一人。陽太はわざとらしく前に出て、蘇芳をその先へは進ませない。

「はいはーい。うちの同僚は用事があるから帰りましたー。邪魔しちゃ駄目だよ」

「え、いや。俺は友樹先輩に聞きたいことが――」

 陽太と蘇芳が言い争っている様子を、柘榴を蘭に任せた希は近寄って見守る。陽太の脇を通り抜けようとした蘇芳の肩を、陽太が軽く掴んで止める。

「だから、行っちゃ駄目だって」

 そう言った直後に、ドンっと大きな音がして、蘇芳は見事に地面に倒された。呆然とした蘇芳を見下ろし、意地悪な笑みを浮かべた陽太が言う。

「あいつは友樹と言う名前じゃありません。だから、追わないでもらえませんかね」

「は?」

「ね、希ちゃん。さっきの奴は誰だっけ?」

「え…えっと」

 突然話を振られ戸惑うが、何か言わなきゃだと咄嗟に希も話を合わせた。

歩望あゆむ、さん?」

 頭に浮かんだのは兄の名前。

 希が便乗してくれたのが嬉しかったのか、陽太は嬉しそうに笑った。

「そうそう、だからさ。それからあいつに会いたかったら、俺の許可がいるのでお前が会うのは無理。これから仕事もあるし、あいつの予定は二カ月後まで埋まっているから会えると思うなよ!」

 どうだ、と言う顔の陽太に蘇芳が呆気に取られた。

 無茶苦茶にもほどがあるくらいの内容に、周りも誰も何も言えない。

 陽太は満足したようで、ゆっくりと蘇芳の傍から離れると希の方へやって来た。すれ違い様に、希にだけ聞こえるように小さな声で言う。

「ごめん。後で説明するから、友樹にこいつらを会わせないようにして」

「…はい」 

 真面目な陽太の声に、希は素直に頷いた。

 希が頷いた後、すぐさま足音は遠ざかり、振り返れば陽太も友樹と親方がいなくなった方向へ走って行ってしまった。

 一人、残された蘇芳はゆっくり起き上がり友樹達がいなくなった方向を見つめていた。

 任されたからには、希も何か言わなければと蘇芳の傍にしゃがんで言う。

「蘇芳さん、今は会わないであげてください」

 希が言っていいことなのかは分からない。それでも言わずにはいられないから、軽く頭を下げた。

「お願いします」

「…分かった」

 どこか納得できない蘇芳の声。

 希が顔を上げれば、いつもの無表情ではなく不機嫌そうな顔だった。それ以上は希も蘇芳も何も言わない。その無言を破るように、タイミングを見計らっていた浅葱が怒りながら走って来た。

「この、馬鹿!」

 蘇芳が立っていたなら浅葱が頭を叩くことは出来ない。座っていた蘇芳の真上に、浅葱は勢いよく拳を落とし、怒りの表情で蘇芳を見下ろす。

 相当痛かったのか、蘇芳は頭を押さえた。

「浅葱…痛い」

「お前が暴走するからだろ!」

 少し落ち着いた蘇芳の服を無理やり引っ張ろうとした浅葱は、すぐに止めて一人で歩き出す。

「さっさと来ないと置いてくからな」

「ああ」

 さっさと立ち上がった蘇芳は急いで浅葱を追いかけた。その先には柊と結紀、鴇が待っている。横には笑顔の柘榴と蘭も希を待っていてくれる。

「希ちゃーん!」

「今、行きます!」

 きっと希が今友樹たちを追いかけたところで何も出来ない。後で話を聞くことぐらいしか出来ない。深く考えるな、と思いながら返事を返して希も駆け出すのだった。


 浅葱と蘇芳、それから鴇は柊につられてどこかに行ってしまった。結紀も食堂に行くと言って、さっさといなくなってしまい、希と柘榴、蘭の三人は一緒に医務室に向かって歩く。

「蘭ちゃん…お腹が減って死にそう」

「はいはい。途中で食堂に寄って、キャサリンに何か貰いなさい」

「食堂に寄ると遠回りになりますよ?」

「じゃあ、諦めなさい。柘榴」

「うへー」

 真ん中で歩きの遅い柘榴の腕を引っ張りながら、蘭は歩く。

 蘭はともかく、希と柘榴の服はすでに血が乾いた悲惨な状態で、早く着替えたいのだが、蘭は医務室に行かせると言って聞かなかった。

 医務室に行って健康診断を受けろ、と言うのは柊からの命令でもあり逆らえない。

 医務室に着くなり、ギョッとした顔の香代子が勢いよく椅子から立ち上がった。

「報告と違うじゃない!大怪我しているんじゃないの?」

「え、いやー」

「大怪我をしたはしたのですが…」

「騒ぐ前に、診断して」

 ため息をついた蘭は、早々にベッドに座りこむ。

「で、柘榴ちゃんと希ちゃん。どっちの方が怪我が酷いの?」

 香代子に問われて、希と柘榴は顔を見合わせる。

「柘榴さんからどうぞ?」

「いや、希ちゃんで」

「…はい、柘榴ちゃんね。火傷の傷が目立つから」

「そんなぁー」

「さっさとマントを脱いで。蘭ちゃんも希ちゃんもよ」

 柘榴は不満そうに、希と蘭は素直に頷いた。

 柘榴が香代子の目の前にあった椅子に座ったので、希は空いていた蘭の横のベッドに座った。

 正直、服が血まみれなのは希であるが、大怪我はなくなった。柘榴も血まみれではあるが、それ以上に小さな火傷や傷が多数。

 蘭は掠り傷が目立つが、大した怪我ではない。

 柘榴の一番酷い火傷を香代子が治療しながら、包帯の巻いた右腕を軽く叩いた。

「い、痛い!」

「全く、今回は流した血が大量なはずなのに…本当に大きな怪我はないわね。その血は柘榴ちゃんの血じゃないの?」

「え、えー?」

 まじまじと香代子が柘榴を見つめても、答えらない。希の怪我も柘榴の怪我も、香代子は知らない。

 香代子は真剣に、柘榴の他の怪我に消毒液を掛けていく。その痛さに、柘榴は騒ぐ。

「い、痛い…痛いぃ」

「火傷に切り傷、よく倒れなかったわね」

 柘榴の痛そうな怪我を見ていると、希の怪我は大したことないのかと思えてくるのが不思議である。

「希、さっきから黙って柘榴を見ているけど。柘榴の次は貴方が怪我の治療で騒ぐ羽目になるわよ」

「お手柔らかに治療していただきたいですね」

 苦笑いを浮かべて、希はベッドに腰掛けたまま全身を見渡す。

 柘榴程ではないが、全身かすり傷と打撲もある様子。横になったら立てなくなりそうなくらい眠たいと言うのが、本音である。少しずつ、疲労が襲ってきている。

 蘭が無意識に甘えて、寄りかかってくるので気を抜けない。

 寝ないように、希は柘榴に声を掛ける。

「柘榴さん、本当に怪我が多いですね。私が力のないばかりに…」

「違う、違う!全然違うからっ、て。香代ちゃん先生痛い!」

「はい、これで終わり」

 最後まで痛がった柘榴。立ち上がって、希と場所を交換する。

「希ちゃんは…かすり傷と打撲ね。耳まで怪我して、折角の女の子なのに」

 耳を触られてくすぐったい。その傷には全く気が付かなかった。それを見た柘榴が、ぼぞりと言う。

「もし、希ちゃん怪我が顔で傷跡が残ったら、私が泣くわー」

「柘榴の気持ちは分かるわ」

「蘭さん!?」

 真顔で言う蘭の肯定の言葉に、希の顔が赤くなる。泣かれるのは困る。

 あわあわし出した希の姿を見て、蘭と柘榴は顔を合わせる。そして、声を上げて笑い出す。ふと、柘榴が思い出したように言った。

「そうだ。希ちゃん、蘭ちゃん。おかえり」

「ただいま。柘榴もおかえり」

 蘭は柘榴に笑いかけ、唐突な流れに驚く希に目を向ける。柘榴も、同じで希を見て言う。

「ただいま。ほら、希ちゃん」

 言わなければならない空気。それが嬉しくて、ようやく帰って来た実感がじわじわやって来る。

「た、ただいま!」

 心からにっこり笑った。

「はい、感動のところ悪いけれど。希ちゃん、ちょっと染みるわよ」

「え、ひ、ひゃー!痛いです、痛いです!」

「あはは」

「馬鹿ね、本当に」

 痛がる希を楽しんでいる柘榴と蘭。その穏やかな時間が、希にとっては心地よく、痛さも混じって笑ってしまった。


 全員が医務室での治療を終え、大人しく過ごすように香代子に念を押された。

「柘榴ちゃんと希ちゃんは、お昼食べたら部屋から出ないで休むこと!」

 香代子に強く言われて、素直な希が頷かないわけにはいかない。

「そして、蘭ちゃん」

 この中で一番軽傷の蘭は、香代子に名指しで呼ばれて首を傾げる。

「何かしら?」

「午後から、一緒に行く場所があるから。お昼を食べたらここに戻ってくること」

「行く場所って?」

「それを言うと、柘榴ちゃんと希ちゃんが気になってついて来そうなので、ここでは言いません」

「香代ちゃん先生…そこまで言うと気になりますって」

 尚更興味が湧いてしまう柘榴。それを無視して香代子が言う。

「それじゃあ、そろそろ食堂行きなさいな。柘榴ちゃん、お腹の音が五月蠅いわ」

「あ、はは」

 一回鳴り出すと止まらない柘榴のお腹の音。柘榴のお腹が鳴るのも仕方がない。柘榴だけじゃなくて、希も蘭もお腹が減っている。

「行きましょうか」

「そうしよう!ご飯、ご飯!あ、香代ちゃん先生ありがとうございました!」

 嬉しそうに柘榴が最初に医務室から出て行く。そして希も蘭もその後に続いた。

「香代子先生、ありがとうございました」

「一応、お礼は言っていくわ」

 それぞれお礼を言い、医務室から出て行こうとする。そんな三人に香代子は慌てて叫ぶ。

「その服装じゃ目立つから!とりあえず、これでも上に着て行きなさい!」

 投げられたのは患者用の検査服。

「ちゃんと羽織っておきなさいよ!」

 笑って言った香代子に手を振って、希達は医務室を後にした。



 時間は既にお昼のピークを過ぎているので、食堂には誰もいなかった。食堂に来る途中で柘榴と希は上だけでも検査服に着替えた。マントは医務室に三人とも置いて来てしまったし、スカートの代わりになるものはなかった。

 いつものように、食堂に入って真っ直ぐにカウンターに向かう。

「お、やっと来たか」

 奥にいた結紀が希達を見つけて、カウンターの方に出てきた。柘榴、希、蘭が席に着くとすぐにキャサリンも出てきた。

「ちょっと、貴方達。怪我大丈夫なの?ぎゃー、皆の可愛い顔が!!」

 太い声で悲鳴を上げられて、希も蘭も無意識に椅子を引く。

「大丈夫、大丈夫」

「そう言う柘榴ちゃん。傷が多くないかしら?」

 柘榴の頬を引っ張るキャサリンに、結紀が笑っている。

「ひょ、ひょんなことひょり、ごひゃん、くだしゃい」

 柘榴の言葉が、全く意味の分からない言葉になっている。蘭は呆れ、希は笑みが零れた。

「ほら、持って来たぞ」

 結紀がおぼんを希と蘭に渡す。まだ頬を引っ張られたままの柘榴はようやく解放され、ご飯を待つ。

「全く、愛情たっぷりのご飯をさっさと食べなさい」

「キャサリンの愛情はいらないけど、ご飯はいただきます!」

「…柘榴ちゃん、言うようになったわね」

 柘榴の言葉に、誰よりも結紀が大爆笑している。

 キャサリンが物凄く睨んでいるのに気がついていない。希も蘭も手を合わせ、いただきます、と言ってから食事を始める。

「それにしても、本当に三人とも無事でよかったわ」

「キャサリン、おかわり!」

「…食べるの、早すぎないかしら?」

 泣き真似をしようとしたキャサリンの声を遮った柘榴。柘榴の目の前にあったはずの食事は、それこそ一瞬でなくなってしまった。希も蘭も半分も食べていない。

「なんか、ものすごくお腹が減っていたんだよね」

「柘榴さん、よく噛んで食べましょうね」

「うん」

 元気よく柘榴が返事をしても、きっとまた早く食べてしまうのだと、希と蘭は同じことを思った。


 柘榴が二人分のご飯を食べ終わって、蘭はじゃあ、と言って立ち上がった。

「私は呼ばれているから、医務室に行くわね。柘榴と希は部屋に戻るのよね?」

 問われた希は、隣でデザートのプリンを食べていた柘榴をチラリと見る。

「そうする予定ですが、部屋に戻る前に整備部に行こうか、と」

「じゃあ、私は先に部屋に戻るよ。もう少し、ここでデザートを食べてから」

 まだ半分以上も残っているのにも関わらず、柘榴は、おかわり、と手を上げた。

「柘榴、どんだけ食うわけ?」

 柘榴の声に呼ばれた結紀が奥から出てくる。

「なんか、食べれるんだよねー」

 言いながらも柘榴の右手は止まらず、スプーンを口に運ぶ。

「ブラックホールの胃袋め」

 それだけ言って結紀はキャサリン特製のプリンを取りに戻る。

「では、私も蘭さんと一緒に行きますね。また後で」

「はいはーい」

 食べ続ける柘榴を置いて、希も席を立つ。

 結紀からプリンを奪った柘榴に見送られて、食堂を後にするのだった。



 蘭とも別れて、希は一人廊下を歩いていた。

 行っていいのか、と思いつつも、いつの間にか壊れていた通信機を直してもらわなければいけない。行かなければいけないのは、変わらない。

「あれ?」

 廊下を歩いている途中に、外のベンチで見知った顔を見つける。

 ただ何かをするわけではなく、ぼんやりと空を見上げるその姿に、希の足は止まった。声を掛けてもいいものか、迷いつつも外へと続くドアを探す。

「友樹さん?」

 近くまで行き、希の声で顔を下げた友樹は、少しだけ驚いた顔をした。

「俺は友樹ではない名前らしいけど?」

 意地悪そうな声で言った友樹の言葉に口に手を当て、その意味を考える。その意味を理解すると同時に、勢いよく頭を下げた。

「ごめんなさい。咄嗟にとは言え、嘘の情報を流してしまいました」

「別に気にしてない。俺の名前が、あたるだか、あゆみだかと呼ばれたり。会うには陽太の許可が必要だとか。全然気にしてない」

 表情は無表情なのに、段々声が早口になるからそれが嘘だと分かる。

「…ものすごく気にしているではありませんか」

 恐る恐る顔を上げれば、友樹は馬鹿にするような笑みを浮かべている。怒った表情を浮かべているわけではないので、肩の力を抜く。

「友樹さん、昼間のことを聞いてもよろしいですか?」

 陽太には後で説明する、と言われたが気になるのだから仕方がない。友樹の事情を、希が聞く権利はないかもしれないが、恐る恐る尋ねた。

 友樹は口を閉ざし、無言の空気になってしまう。

「座れば?」

 素っ気ない声で一言。

 友樹がベンチの端に寄ったので、希は空いた場所に浅く腰掛けた。

 希はそれ以上言えない。友樹の言葉をただひたすら待つ。

「…一年前」

 地面を見ながら、友樹は静かに話し出した。

「俺も訓練生だった」

 一つ一つ言葉を選びながら話す友樹の言葉を聞き逃さないように、希は背筋を伸ばす。友樹の方は見ることが出来ないので、少しだけ頭を下げ地面を見つめる。

「首席で卒業して、四月からは戦闘員として本部にいた。たった、一か月だったけど」

 悔しそうに、悲しそうに言う友樹に掛ける言葉が見つからないまま、間が空く。

 話し出そうとしない友樹を急かしたいわけではないが、それでも希は小さな声で呟いた。

「何が、あったのですか?」

「…親友に大怪我を負わせた」

「…え?」

 驚いて友樹の方を見てしまった。真っ直ぐに前だけを見る友樹と目が合うことは決してない。

「あいつはラティランスと戦っている時に、俺を庇って大怪我を負った。そのせいで、そいつは一生走れなくなった、て聞いた」

 段々と声が小さくなって、友樹は黙る。両手を強く握りしめ何かに耐えている友樹の横顔を盗み見て、希はそっと呟く。

「…その人は、今は?」

「組織を抜けたから、行方が知れない。一度抜けた組織の人間を、組織の人間が追いかけることは禁止されているから」

「そうなのですか?」

「こっちの世界を抜けた奴を、もう一度巻き込むことが禁止事項なんだ」

 知らなかった事実に、希は驚いた。さっきから訊ねたことに関して、友樹は素直に答えてくれる。少し苦しそうに、言葉を選びながら言う友樹が静かになり、希も少し考える。

 もしも、今回の戦闘で希が死んでいたら。希を守る、と約束していた柘榴はこんな風に自分を責めるのだろうか。それは希の意志が望まずとも、不本意の結末だろうと、同じように後悔させるようなことになったのだろうか。

 もしも、柘榴や蘭が傷ついたら。希は絶対に悲しい。会えなくなったら、寂しくて会いたくなる。その気持ちだけははっきり分かる。胸を張って、間違っていないと言える。

 だから、と意を決して希ははっきりと問う。

「友達が、友達に会いに行くのも行けないのですか?」

「いや、だから組織の人間は――」

「元組織の人でも、友樹さんの友達なのでしょう?」

 問いかけた質問に友樹は黙る。その沈黙に、友樹がその人のことをどう思っているのか分かった。

「さっき言っていたではありませんか。その人は親友だった、て…。親友が親友に会いに行くのも行けないのですか?その人は生きているのにですか?じゃあ、会いたい人がいても会えない私はどうすればいいのですか!?」

 段々と早口で泣き叫ぶように言いきった希の様子に、驚いた友樹は呆然としていた。

 ぎゅっと両手を握りしめて、泣くまいと唇を噛みしめていた希の頬から涙が流れ始めたのは、それからすぐのことだ。

「ちょ、おい――」

「ずるいですよぉ…ずるい、ですぅ…」

 声に出したら、涙も一緒に流れて止まらない。ずっと誰にも言えなかった想いが溢れて止まらない。

「どうして、会えるのに会いに行かないのですか?生きているなら、会えるのに…どこにいるか分からないお兄ちゃんに、会いたいっの、に」

 泣いているせいで、言葉が上手く出ない。膝を抱えて、泣き顔を見られまいと顔を隠した。

 それから、と言葉を続けようとして、一瞬だけ頭の中に誰かの顔が過った。

 それは幼い少年。

 けれども、たった一瞬で消え失せた顔はすぐに忘れてしまう。

「実家の友達にだって、おばさんにだって。皆に会いたいです。会い、た…い、のにぃ」

 泣くな、と思っていたのに、ずっと溜め込んでいた想いを吐き出したせいで、感情が制御出来ない。

 一度言った言葉は取り消せない。

 会いたい人がいて、その人に会えることがどれだけ幸せなことか。今の希には嫌と言う程分かる。

 半年間、強くなろう、誰かを守ろうとして、忘れようとしていた兄の顔がさっきから頭から離れない。それはおそらく、友樹の偽名に兄の名を使ってしまったから。

 会いたい。でも、会えない。

 半年前までは希だって普通の生活を送っていた。普通に学校に行って、友達と遊んで、バイトをして。笑って、泣いて、楽しかった日々。兄と過ごした大切な日々。

 もう一度会えるなら、沢山話したいことがある。離れてから希の身の回りで起こった不思議なこと。沢山の友達、命懸けの戦い。

 話したいことはあるのに、会えなきゃ意味がない。

 それは友樹に出来て、希には叶わない現実。

「うわぁぁぁああん」

 涙を止めようと思えば思う程、溢れて止まらなかった。隣にいる友樹の存在を忘れて、希は子供のように泣き続ける。

 溜め込んでいた気持ちを全て吐き出すように。今日までの想いを、流すように。

 


 声を上げて泣いたのは、いつぶりだろうか。

 泣くことは何度もあった。でも、いつからだったろうか、声を押し殺して人知れず泣くようにしていた。泣けば周りが心配するから。大丈夫、が口癖になっていた。

「俺が泣かしたみたいに見えるんだけど…いい加減、泣き止まない?」

「泣いて、ません」

「いや、泣いているから」

 本当のことを言われ、それ以上は何も言えない。いつの間にか頭の上に被せられた友樹の上着で顔を隠しながら、希は小さな声で謝る。

「っぐ、ぐす。ご、ごめんなさい」

「…本当に」

 呆れ声の友樹に言われて、ようやく落ち着いた希は顔を上げた。涙を拭って、何とか声を出して言う。

「つ、つまりぃ。友樹さんの、親友に会いに行くのが、よいのではないか、と思うのですぅ」

「その話、まだ続いていたんだ」

 少し呆れた声に、子供みたいに泣き叫んだことが恥ずかしくて、顔を向けられない。

「泣いて、ごめんなさい」

「もういい」

 友樹の声は、今まで聞いた中で一番優しく希の心に響いた。それからもう一度、もういいから、と言われて泣きたい気持ちがこみ上げるが何とか耐える。

 鼻をすすって、それから話題を変えようとわざとらしく希は言う。

「い、今。何時でしょうね?」

 上着を被ったまま、ごそごそと首からかけていた懐中時計を取り出す。その蓋を開けた途端、希の表情は一瞬固まって動かなくなった。

 何度か瞬きを繰り返し、懐中時計を見たまま友樹に問う。

「今、何時ですか?」

「時計見ているんじゃないの?」

「…今、九時じゃないですよね?」

 疑問形で言い合い、希が差し出した懐中時計を友樹も覗き込む。時計の針は、九時前で止まり動いていない懐中時計を二人で数秒見つめた。

「…壊れたんじゃないの?」

「そう、ですよね。友樹さん、直せますか?」

 首から外しながら、懐中時計を友樹に手渡す。機械は得意ではない希が下手に触れば壊れてしまいそうで、こういう時はいつも兄に頼っていた。

 でも、兄はいない。希には買い物に行く暇も滅多にない。

「普通、直せないけど」

 そう言いながらも、懐中時計を受け取って色々な角度から見定めた友樹。でも、と言って言葉を続ける。

「直すよ」

 さらりと言った友樹の言葉に驚いて瞬きを繰り返す。

「え、でも」

「俺の実家、時計屋」

 だから、と言って友樹はそのまま懐中時計を大切そうにポケットにしまった。無理なら断ってもらってもよかったが、友樹が直すと言ってくれたので任せることにする。

 直る見込みが出来、嬉しくなった希は自然と笑みが零れてしまう。

「じゃあ、よろしくお願いします。それだけが、今となっては兄との思い出の品なのです」

「あゆむって言うのが、兄貴の?」

「はい。あ、友樹さんの偽名に使ったのも、兄の名前なのですよ。徒歩の歩に、何かを望むの望。それで歩望あゆむと言う名前が、兄の名前です。前に話しませんでしたか?」

「忘れた」

 即座に返された言葉。いつものような、無表情になって友樹は言った。

 もう悲しい空気はない。穏やかな時間が流れる。

「友樹さん、私の話、全然覚えてないんですか?」

「失敗談なら覚えているけど?」

「意地悪です!」

 覚えてもらいたくないことはしっかり覚えているらしい。頬を膨らませた希を見て、友樹は微かに笑う。その笑った顔を隠すように友樹は立ち上がって、希を振り返る。

「俺はそろそろ仕事に戻るけど、どうする?」

 どうする、と言われて一瞬間が空く。

「一緒に行きます。整備部に行く途中でしたから」

 言いながら立ち上がって、借りていた上着を友樹に返す。上着をさっさと着た友樹が、いつもよりゆっくり歩き出したので、急いで隣に並んで歩く。

 何だか嬉しくなって、ついつい世間話をしてしまう。

「友樹さんは、時計屋さんを継がなかったのですよね?」

「まあ、兄がいたし」

「そうなのですか!初めて知りました。どんなお兄さんなのですか?」

 ころころ表情を変える希。友樹と少しの距離を置きながら、整備室を一緒に目指すのだった。


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