09 旅路編
浜辺でクラーケンを倒してから、一週間が経った。
あれ以来、蘭は柘榴と希のことを無視しない。声を掛ければ、返してくれる。文句を言いながらも一緒に訓練を受けてくれる。
柘榴の真上に水が降り注ぐことも、だいぶ減った。なくなったわけではないけれど。
「それってすごい進歩だよね」
食堂のカウンターに座った柘榴は、お菓子を摘まみながら目の前の人物に同意を求める。
「そうかもしれないな…って、なんで当たり前のようにサボっているんだよ!」
コップを拭きながら、柘榴の話に耳を傾けていた結紀。この数分間、疑問に思っていたことを口に出す。柘榴が一方的に話し続けるから、どうにも今まで聞き役になっていた。
「あれ?何で食堂まで来たんだっけ?」
話すことに夢中でここに来た目的を忘れてしまった。お菓子を摘まむ手を止めることなく考えてみるが、どうにも思い浮かばない。
「きっと元々サボりに――」
「行くわけがないでしょ!」
突然後ろから聞こえた声に、柘榴はビクッと身体が震えた。
怒ったように、尖った声。今までなら決して話しかけては来なかった話題の人物。
「ら、蘭ちゃん…」
恐る恐る振り返れば、腰に手を当て、柘榴のことを睨んでいる蘭がいた。
「飲み物取って来るって言った人間が、何をのんびりとお茶なんかしているのよ!」
そう言えば、休憩時間になったから皆の分の飲み物を取りに行く、と訓練から抜け出した。丁度食堂で結紀を見つけてしまったものだから、最近のことを話し出してしまったのだ。
ついつい時間を忘れて話してしまったものだから、相当時間が経っているに違いない。蘭の眉間に皺が寄っている。
「いつまで経っても帰って来ない。おつかい一つ出来ないのかしら?」
「すみません」
蘭の迫力に押され、即座に謝る。
「はは、怒られてやんの」
頭を下げて謝る柘榴の姿に、結紀が笑っていた。
言い返そうとする前に、冷ややかな蘭の視線が移る。
「貴方も柘榴と話なんてしてないで、自分の仕事をしなさいよ。自分の仕事を!」
「…すみません」
どうやら蘭の怒りの矛先は結紀に移動したようで、顔を下に向けてまま見つからないように柘榴は笑った。いい気味だ、なんて少し思う。
「柘榴、笑ってないで訓練戻るわよ」
ゆっくりと顔を蘭の方に戻せば、不気味な笑みを浮かべている。訓練に戻ったら、容赦なくしごかれそうな笑み。戻るのが怖い。
そんな柘榴を否応なしに、蘭は引っ張る。
「後ろ歩きはきついから!」
「うるさい。さっさと歩きなさいよ」
背中の方の服を掴まれ、結紀に無言で助けを求めようと試みるが、笑いながら手を振られた。柘榴と蘭の言いあいを楽しんでいる顔。助けてくれるはずはない。
「薄情者!!」
犬の遠吠えのように、柘榴は結紀に向かって叫ぶことしか出来なかった。
「全く、洋子が来たから早く帰って来て欲しかったのに。いつまで経っても帰って来ないんだから」
暫くしてから引っ張るのを止めてもらい、二人で並びながら歩き出す。柘榴の右横で、蘭は疲れた声で話し出した。
「洋子って…ああ、キャッシーね」
聞き慣れない名前を、すぐに聞きなれた名前に変換する。初日の出会いが強烈的過ぎて、今でもなかなか忘れなれない。
初日以降も廊下で出逢うたびに、主に希が抱きつかれていたが。ここ二三日は顔を見ていない。
「キャッシーが訓練室に来ているの?なんで?」
キャッシーが訓練室に来ることは滅多に、と言うより今日まで一度もない。不思議がっている柘榴を見て、蘭は心底面倒そうにぼやいた。
「貴方達の戦闘服。ようやく出来上がったって言って持って来たのよ。わざわざ、カメラを持って」
戦闘服、つまり蘭が今着ているみたいな真っ白な制服。
柘榴は自分自身で想像してみる。基本、本部の中では運動服。部屋では家から持ってきたジャージ。私服はショートパンツ。ワンピースなんて着る機会がなかったし、スカートも制服のスカートだけしか持っていなかった人間である。
希は可愛いからワンピースでも何でも似合うであろう。
だが、柘榴が似合うとは限らない。
「…食堂戻りたい」
蘭には聞こえないように、小さく呟いた。戻れるなら戻りたい、蘭が許してくれるとは思わないけれど。足取り重くなった柘榴は訓練室に行くしかないのだった。
訓練室の中から、確かにキャッシーの声が聞こえてくる。とても嬉しそうと言うか、興奮しているような声は廊下まではっきりと響いていた。
「やっぱり、可愛い!可愛いわよ!」
訓練室の中で、蘭と同じを着た希は顔を真っ赤にして必死にスカート丈を伸ばそうとしていた。
蘭と同じ種類の制服。お揃いと言ってもいいのかもしれない。蘭はロングブーツを履いているし、青のラインが入ったスカートとスカーフだったが、希の場合は緑であり、下は組織支給のショートブーツのままである。
なんとなく、柘榴自身の服は想像出来た。
「あら?柘榴ちゃんやっと帰って来たのね」
希を抱きしめたまま、キャッシー蘭と柘榴を見た。輝いている瞳に、一歩下がりたくなる気分である。顔の引きつった柘榴は、片手を上げて言う。
「こんにちは、キャッシー」
「柘榴さーん」
泣きそうな声で希が助けを求めている。助けられない。
「洋子、柘榴の服はどこ?」
「そこそこ。赤い袋の中」
キャッシーが指している袋。訓練室の柘榴の机の上に置かれた赤い袋を、覗き込む。
真っ白な制服が入っているのが分かった。蘭と希とお揃いで、ラインとスカーフの色が真っ赤。
予想通りの服に、一瞬だけ顔が真顔になってしまった。
「ほら、柘榴も早く着替えなさいよ」
「いや、ほら…着替える場所とか、ね?」
「そこにあるじゃない」
動こうとしない柘榴に、蘭は素っ気なく言った。蘭が指し示した方向には、簡易更衣室が出来上がっている。いつの間に作ったのだろうか、天井から布を垂らしているだけで、引っ張ったらすぐに壊れてしまいそうな更衣室。
一応、中は見えないようになっている。
なかなか動き出そうとしない柘榴の背中を、蘭がぐいぐい押した。
「は、や、く、着替えて来なさい!」
「えぇー」
蘭に押される形で更衣室に押し込まれる。着替えないで出たら、怒られるに決まっている。しぶしぶ袋から制服を取り出した。
これを着なければいけないのか、と思うと深いため息が出た。
運動服の短パンと、足を出したくないがために履いていた黒のニーハイ。この二つは、脱がない方向でいこう、と着替えを始める。
靴も、替えがあるわけではないのでスニーカーのまま。
蘭や希の時も思ったが、膝上でスカート丈が妙に短いと感じるのは柘榴だけなのか。柘榴の前の制服より数センチ短いので、気になるところである。
のそのそと着替え終わると、少しだけ短パンの方が長い。一応見えないように二回程折る。鏡がないので、どんな風に見えるのかは分からない。
「あら?着替え終わった?」
顔だけを覗かせたキャッシーが柘榴の姿を見た。見定めるようにじろじろと見られている。
「可愛いじゃない!すっごく、すっごく似合っているわよ」
満面の笑みを浮かべているキャッシーにそう言われても、似合っているのか分からない。キャッシーの場合、大抵の女の子には可愛いと言っていそうなイメージである。
そのうち希と蘭にまで更衣室を覗き込まれて、恥ずかしい気分になりながら問う。
「似合っているのかな?」
「はい。可愛らしいと思います」
「まあまあじゃない」
希と蘭もそれぞれ率直に感想を述べる。キャッシーが周りでカメラを構えているのはこの際、無視することにしよう。柘榴は蘭に質問する。
「これから、ずっとこの服装なの?」
「そうよ。そろそろ冬になるから、上に着るもの作れって、前からずっと言っているのに。作らないから毎年私の上着はボロボロよ」
言いながら蘭がカメラを構えているキャッシーを睨み、カメラを押さえた。
「ああ、私のカメラが…」
カメラを取り上げられたキャッシーがあからさまに落ち込んだ様子で座りこむ。顔を隠して泣き始めたように、声を上げている。嘘泣きのように見えなくもない。
そんなキャッシーの様子は蘭にとって日常茶飯事なのか、上から見下ろして冷ややかに言う。
「嘘泣きしていないで、さっさと服作りなさいよ」
「ぐっす、ぐす。蘭ちゃん酷いわ」
どっちが年上か分からない。キャッシーがのっそりと立ち上がり、訓練室の端に置いていた大きめの紙袋を柘榴達の目の前に差し出す。それを受け取った柘榴達は、三人揃って中を覗き込んだ。
「なんですか、これ?」
「蘭ちゃんに頼まれていたもの。三人分作ったから、持って来ていたの」
キャッシーは不貞腐れた顔で、体育座りをして膝を抱え込んだ。カメラを取られたのが、相当ショックだったらしい。
袋の中、入っていたのは三人分の真っ白なマントだった。それぞれのマントの襟と裾のレースの色は赤と緑と青。どれが誰のマントか一目瞭然で、前にはリボンが付いている。
「どう、可愛いでしょ?」
少しだけ復活して照れながら言うキャッシーに、蘭は一言。
「これ着ても寒いわ」
「いいじゃない。魔法少女の鉄則でしょう!」
意味の分からないキャッシーの言い分に、柘榴と希は顔を合わせて苦笑い。蘭は文句を言いながら、マントを羽織ってみた。
「重さはないけど、ひらひらして動きにくいわね」
「そこは、ほら。ねえ…それより蘭ちゃん、そろそろカメラを」
もの欲しげな顔でずっと蘭を見つめているキャッシー。カメラを返して欲しいと言わんばかりな表情。蘭は仕方なくカメラを返すことにした様子。
「分かったわよ」
蘭がしぶしぶカメラを返す。差し出されたカメラを一瞬で奪い取ったキャッシーが、すぐさままた写真を取り始めようとカメラを構えた。
「ありがとう、蘭ちゃん!それじゃあ、さっそく…」
カメラを構えた先、蘭は逃げるように駆けだし窓に足を掛けた。まるで予測していたような行動に、柘榴も希も呆気に取られる。
「洋子、お礼は言うけど。写真は撮らせないわ」
そう言うと、一瞬で蘭の姿が消える。
「蘭ちゃん!」「蘭さん!」
「逃げないでよぉ…お?」
二階の訓練室から消えた蘭。柘榴と希がすぐさま窓に駆け寄り、一歩遅れてキャッシーが下を見た。
「ちょっと、何で柊さんがここにいるのよ!」
「いや、それはどっちかというと。俺の台詞なんだけどな」
下で言い争っているのは、蘭と柊。普段なら二階から飛び降りたぐらいじゃ怪我をしない蘭が、柊の真上に落ちたようだ。
上から落ちて来た蘭を抱き留めようとした柊と、柊を避けようとした蘭。そのせいでどっちつかずのままお互いぶつかり、現在柊の上に乗っている蘭が怒り狂っている。
「柊さんがそこにいたせいで、着地に失敗したじゃない!」
「まあ、見事に真上から落ちてきたからなあ」
柊から離れた蘭は足に痛みを感じて、顔を少しだけしかめた。
「…蘭ちゃん、足でも怪我した?」
「そんなんじゃないわよ。それよりも――」
柊の心配を無視した蘭が、バッと視線を上げた。
柘榴の隣、一部始終を見ていたキャッシーの方を見て蘭が思いっきり睨んでいる。
「あらら、私は退散しよーっと」
言いながら、キャッシーはそっと窓から離れた。
スッと息を吸い込んだ蘭。
「洋子ぉぉおおお!」
蘭の怒声が周りに響く。足の痛みなんてないような、怒った蘭が訓練室に駆け込む数分前の出来事だった。
「洋子は!?」
数分後、鬼の形相をした蘭が訓練室にやって来た。
柘榴と希しかいない部屋を見て、蘭はまた走り出そうとする。けれども、足を踏み出した途端に顔を歪めて、耐えている表情を浮かべて立ち止まった。
「蘭さん?」
柘榴より先に蘭の傍に駆け寄った希が、蘭の不自然な足を見る。柘榴もそれに気がついたが、ここは先に気がついた希に任せるようと思い、あえて口を閉じる。
「足、怪我していますね。医務室行きましょう」
「これくらい、だいじょ――」
「蘭さん」
腹の底から出たような希の声。普段優しげな声だけに、怒っているような声は迫力が違う。蘭の表情が固まって、身体も一緒に固まった。
「医務室、行きましょうか」
先程まで、怒っていたはずの蘭が大人しく頷く。
これで二回目。一回目は一週間前に食堂で、どうしても一緒にご飯を食べようとしない蘭と柘榴が喧嘩になり、食器を割ってしまった時。
人がいなかったからよかったものの、希は怒って今まで聞いたことのないような低い声で、二人を叱った。それ以降は蘭も大人しく一緒にご飯を食べているわけだが。
希を怒らせると、怖い。
柘榴も蘭もしっかりそれを学んだ。だからなのか、希が怒っていると気がつくと、蘭は大人しくなる。
元々希にだけは弱い蘭だ。希に逆らうことは滅多にない。
にっこり笑顔の希に手を引かれて三人で医務室に向かう。二人より一歩下がった柘榴は、希を怒らせないようにしようと、しっかりと心に刻んだ。
医務室に着くなり、不貞腐れている蘭を椅子に座らせ、柘榴と希は結果が出るのを待った。
「捻挫ね」
医務室の先生に、きっぱりと言われた蘭はショックを受けていたけれど、希はホッとした様子。柘榴も大きな怪我じゃなくてよかったと、肩を下ろす。
「安静にしていれば、一週間くらいで治るわ。それにしても私も長くここで仕事しているけど、初めて来たわね、貴方」
先生が見たのは蘭。先生と目を合わせないようにしていた蘭は、始終唇を噛みしめて無言。
「いつも怪我したら、どうしていたの?」
柘榴の質問に蘭は、小さな声でボソッと呟いた。
「何もしないわ」
「でしょうね。ずっと来ないから、それしかないと思っていたけれど」
呆れた先生が、座っていた椅子から立ち上がり蘭の目の前まで来る。
「いい?これからは怪我をしたら必ずここに来ること。知識がない子が、勝手に治療なんて出来ないのよ」
蘭のおでこを軽く突く。その行動の意味が分からなくて、蘭は頭を押さえる。
「でも、何とかなっていたわ」
「今まではね。これからもそうとは限らないでしょ。きちんとここに来なさい」
先生は自分の椅子に座り直し、全く最近の子は、と小言を言っている。
蘭のことを心配してくれる人は柘榴や希だけではない。確かにこうして心配してくれる人はいる、と言う事実が未だよく分かっていない蘭の様子に、柘榴と希は顔を合わせて微かに笑った。
先生にお礼を言い、三人で部屋から出て行く。蘭の速さに合わせて訓練室に戻る途中で、怪我を負わせた原因の一人が前からやって来た。
「「「柊さん」」」
「なんだよ。三人して――」
柊の言葉が途中で消える。蘭が片足のロングブーツを履いてなく、その代わりに包帯を巻かれている様子に気がついたようで、一人納得してくれたようだ。何か面白そうな笑みを浮かべ、柊はゆっくりと話し出す。
「蘭ちゃん。今回の任務は蘭ちゃん抜きに、決定で」
「はあ!」
柊は蘭の声を無視して、柘榴と希に数十枚の紙を渡す。
「ここから電車で数時間の小さな村で、夜な夜な不審な黒い生き物が目撃されているんだ。それを調べて欲しい」
紙にはその村への行き方、その目撃情報などが書かれている。
「いつ、私達は行けばいいのですか?」
紙に目を通しながら、希は柊に問いかけた。蘭はその内容を確認しようと、柘榴の紙を必死に覗き込んでくる。
柘榴が蘭にその紙を取られる前に、柊が笑顔で一言。
「今から」
「「え?」」
「何言っているのよ。柊さん」
呆れた蘭の声に、柊は答えることなく希に一つの封筒を手渡した。希がそれを受け取り、中を確認する。入っていたのは数枚の一万円札。つまり、旅費。
へらへらした様子の柊は、簡単な説明を始める。
「もう組織の人間が行きすぎて怪しまれているからさ。旅に来たっていう感じで、ちゃちゃっと調べて来てくれるかな。あ、倒してもいいから」
「すごい、適当に聞こえるなあ」
柘榴から漏れた本音に、柊が笑っている。その様子からして、大したことはないのかもしれない。
「小物なら戦闘員が対処するのではないのですか?」
「そうなんだが、今回のそれ。ちょっと、不自然なことがあってな」
柘榴が持っていた紙の下の方、赤字で書かれた文字を指し示す。
「【大量発生】?」
声に出して読んでみた柘榴は、首を傾げて柊にその意味を問う。
「そうみたいだな。とりあえず、戦闘員だけでは対処しきれないらしい。君らの力で何とかしてもらおうという話になってな。ラティランス自体は小物だから、大したことはないし、まあ大丈夫だろう」
「へえ」
大量発生、とはどれくらいいるのか詳しく書いて欲しいくらいだ。
柘榴の紙をある程度読んだ蘭は、口を尖らせて柊を見上げた。
「私も行くわよ」
「いやいや、無理だろ」
蘭が柊に食いつくが、柊は気にした様子もない。
ムキになって、柊が持っている蘭の分の紙を奪おうとするが、その蘭から身をかわす柊。足が痛いせいか、いつもより蘭の動きが鈍い。
「蘭ちゃんはここで待機。これは命令」
命令、という言葉に蘭は顔をしかめた。それでもそれ以上は反論もせず、柊を睨んでからどこかへ向かって歩き出してしまう。追いかけられない雰囲気だけど、声を掛けずにはいられなかった希。
「蘭さん?」
「分かっているわよ。部屋で安静にしているわ」
不貞腐れた声で、蘭は歩きだしてしまう。本当は一緒に行きたい、と思っているに違いない。そんな背中に向けて柘榴が叫んだ。
「蘭ちゃん!お土産は何がいい」
明るい柘榴の声は聞こえたはずだ。足を止めた蘭が振り返る。そこにあるのは、ムスッとした顔。
「そんなことより貴方達!きちんと任務をこなしなさいよ!」
それだけ言うと、蘭はすぐさま歩き出した。真面目な蘭らしい言葉に、柘榴と希は顔を合わせると笑みが零れる。一人柊だけは、少し驚いた顔をして一言。
「蘭ちゃん、やっぱり変わったなあ」
蘭の態度の変化に驚きを隠せないでいた。
電車に揺られること数時間。
温泉地として有名な村に辿りついたのは夕方。
宿にチェックインして、部屋に着くなり荷物を下ろす。柊が予約してくれたのは、小さな民宿。広い和室に窓から見える景色からは近くを流れる川の音が聞こえる。
「流石に、ずっと座っているのは疲れたね」
「そうですね。五回も乗り換えがありましたし」
本部から一番近くの駅に柊に送ってもらってから電車を乗り継ぎ、こうして無事に辿り着いたのは希のおかげである。
元々田舎育ちで、電車に乗ることなんて機会がなかった柘榴は、何度乗り間違えそうになったことか、そのたびに希が引っ張ってくれたわけであるが。
「柘榴さん。今のうちに情報をまとめておきましょう」
希は疲れた様子など見せることなく、テーブルに柊からもらった数十枚の紙を出し始めるが、柘榴は移動だけでもう疲れてしまった。畳の上に転がったまま、不満そうな声しか出せない。
「もう少し、休んでからにしようよ」
「そうですか?」
希は立ち上がって、近くにあったポットからお茶を注ぐ。二人分のお茶をテーブルの上に置かれ、これで起き上がらないわけにもいかない。
「希ちゃんって、いい奥さんになると思うよ」
それしか言えなかった。
柘榴は希の入れてくれたお茶を啜りながら、希が文章を書き変えている様子を見ていた。希にだけ後から渡された数十枚の紙は、全てが文章で埋められていて、柘榴は読む気も起らなかった。
どんな内容だったのか、希にだけ渡した紙だから、柘榴は知らなくてもいいことかと思ったが、そうでもないらしい。
「お待たせしました。それでは、任務の確認をしましょう」
数十枚あった紙は、希によってたった数枚にまとめられていた。
「希ちゃん…何していたの?」
「柊さんから貰った紙の村への行き方、乗り換え情報などは必要ありませんから省きました。それ以外のラティランスに関する情報をまとめ、ラティランスの特徴、出現情報などについて村の人たちの証言をまとめたのが、こちらです」
テーブルの上に並べられた紙。文章だけでなく、絵や地図まで書かれていて、読みやすくなっている。
「柊さんも希ちゃんを見習えばいいのに」
いつも訓練の指示だけだしては、どこかに行ってしまう。
蘭ではないが、柘榴もダメな大人は誰かと問われたら、間違いなく柊を指すであろう。通信機からの指示は的確であるが、どうやら文章をまとめる力はないとみた。
「今回の任務って、やっぱりラティランスが関係しているの?」
「ええ、そうみたいです。こちらの紙にまとめてありますが、ラティランスはこの宿から数百メートル先にある森の中で確認されています。時間帯も深夜遅く、村の方が数名見かけただけで襲われてはいません。その情報を得た組織が調べるため、近づいた結果襲われたそうですが」
希が別の紙を指す。そこに書かれているのは先程の情報から得たラティランスの行動範囲。
「黒い点が、目撃された場所です。そして、接触した場所はこの赤い点。赤い線はそこから組織の関係者が逃げた経路で、途切れた各場所まで来るとそれ以上追って来なかったようです」
それを頼りに、希は赤い線の途切れた線を結んで行く。
綺麗な曲線が出来上がる。
「これは私の推測ですが」
希はその曲線の続きを書くように、一つの円を書いた。その円の中には黒い点が含まれる。
「この赤い円の中がラティランスの行動範囲であると思われます。村の方は皆さんこの赤い円の外で目撃しているので、襲われなかったようです。大方、ラティランスを見て逃げ出したようですが、それ以来村自体は襲われていませんし、あまり怖がってもいないようですよ」
「そうなの?」
「はい。村の方が見たのは深夜遅くです。夢だったのではないか、そう思っていらっしゃった様子で、あまり危機感がなかったみたいです」
それはいいことなのか、微妙な気もする。柘榴のお茶はもう冷めていて、それは希も同じ。希は結局お茶に口をつけていない。
「こっちの絵が今回のラティランス?」
「そうですね。私の想像も入りますが、村の方と組織の目撃情報からおおよそはこんな姿かと予想出来ます」
希の書いた絵。全長一メートル強と書かれた、その絵はまさしく。
「宇宙人…?」
「サラマンダーのつもりなのですが…」
顔を赤くした希が申し訳なさそうに言う。
「サラマンダー、ってどんなの?」
「トカゲ、さんでしょうか?」
「トカゲ…ねえ?」
駄目だ。希の宇宙人並の絵のせいで、全く想像力が働かない。小学生でももっとましな絵を描いてくれるはずだ。柘榴の方が、上手く描ける。数秒無言の空気が流れる。
「っぷ、くふふ」
「柘榴さん、笑わないで下さいよぉ…」
「だって、くく」
駄目だ。笑いが止められない。腹を抱えて笑い出した柘榴を見て、希が顔を赤くしながら頬を膨らませる。その姿が可愛い、と言ったらもっと頬を膨らますに違いない。
ある程度笑いが収まった柘榴が、それで、と言葉を紡いだ。
「サラマンダーだって言うのは、目撃証言からなの?」
「そうみたいです。組織の人が写真を撮ろうとしたらしいのですが、焔を身に纏い、とっても大きなトカゲさん。不思議なことに全身は黒ではなく真っ赤だそうです。尻尾で、攻撃してくる、と」
まだ顔は赤いが、落ち着いた希がようやくお茶を一口飲んだ。随分冷めてしまっているが気にせずにそれを飲む。
その間に、希がまとめてくれた他の紙にも目を通してみる。
目撃された時間帯を比較したグラフ、目撃した村人の証言だけをまとめたもの。
短時間でしっかりとまとめられていた数枚の用紙に、ただただ感心する。
「希ちゃん、あれだけの文章をよくこれだけにまとめられたね」
謙遜するように希は首を振る。
「電車の中で少し、目を通していましたから」
それでも凄いと素直に思う。柘榴の持つ柊からもらった数十枚の紙が、何の変わりもないのに、希の紙はすでに真っ黒に見えた。
「それで、そのサラマンダーが大量発生なのか。どうする?やっぱり全部倒す?」
それでも構わない柘榴はへらへら笑って見せたが、希は冷静に判断をして首を横に振った。
「今日中に全てを片付けろとは言われていません。今日は様子を見て、明日の夜が本番、という事にしませんか?」
「了解っと。でも、襲ってきたら私は戦うかもしれないけど、それでもいい?」
「まあ、柘榴さんですからね」
希は半分諦めたように笑った。
「酷いなあ、流石に多過ぎたら。私だって逃げ出すよ」
「そういう時に限って、柘榴さんは立ち向かいそうだから心配なのですよ?」
そう言われると言い返せない。不貞腐れ始めた柘榴に、希はクスクスと笑い始めるのだった。
深夜一時。
宿からひっそりと抜け出すのは二人の少女。真っ黒な闇でも目立つ制服は、月明かりのせいか、不気味な白に見えなくもない。
美味しい夕食、広い露天風呂を満喫してからの深夜徘徊。ラティランスの行動範囲予測区域まで、柘榴と希は静かに歩いていた。
「夜は不気味に見えるね」
森まで続く道は住宅街ではなく、森の横を通る細道。
柘榴はすぐ横を歩く希を怯えたような顔で振り返るが、声を掛けられた当の本人は怖がっている様子はない。寧ろ、嬉々と歩いている様子。
「そうですか?ただ昼間より少し暗くて、静かなだけですよ」
全く怖くないらしい。これっぽっちも怖がっていない希と対照的に、柘榴の内心はすこぶる怖がっていてそれを悟られまいと平常を装う。
何か話していなければ無言の空間になってしまう。
希はそれでも大丈夫かもしれないが、こんな暗闇で柘榴は耐えられるはずもない。喋っていないと怖さが増す。
「の、希ちゃんって怖いものないの?」
最初の言葉が裏返ってしまったが、希はそれを指摘することもなく、首を傾げた。
「怖いものですか?そうですね…ちょっと待って下さい。何かあるはずですから」
柘榴の質問を真面目に考え始めた希。怖いもの、怖いものと口に出して考え始めているが、どうやらすぐには思い浮かばない。暗闇、高いところ、と色々口に出しているが、本人は納得しない様子。
「答えられないなら、なしでいいと思うよ」
「いえ、そんなことはないはずなんですが」
確かに怖いものはあったはず、そう思うのに思い出せない希は悩み始めてしまった。
折角、無言の空間を打破出来るかと思ったのに、希が黙ってしまう結果になってしまった。それ以上はもう話題を変えるしかない。
「じゃあ、怖いものじゃなくて…そうだ!恋バナしよう!希ちゃんって彼氏いないの?それか好きな人とか?」
「彼氏はいませんし、好きな人もいないですね…兄のことが一番ですから」
幸せそうにはにかんで笑う希。本当に好きなのだということは分かるが、柘榴が聞きたいのはそちらではない。その好きじゃない。
「初恋はお兄さん、とか言わないよね?」
「初恋、ですか?…いつだったでしょうか?」
また考え込んでしまう希に、柘榴は言葉を失う。柘榴でも自分の初恋くらいはきちんと自覚していたし、一応覚えているのだけれど。
希は頭の回転が速いくせに、変なところが抜けている。
「あ、そろそろ目撃範囲に到着しますね」
ふいに顔を上げた希が指す先に、立ち入り禁止と書かれた看板。この先からは、気を引き締めなくてはいけない。
「グラナート」
「スマラクト」
お互い静かに武器を呼び出す。いつもより光は淡く光り、その姿を現した。
「ですが、本当にいいのですか?私は木の上で見物ということでしたが」
「うん。希ちゃんは近距離向けの戦いじゃないでしょ?それなら私が囮をするから、希ちゃんは敵を観察して、出来たら弱点でも見つけてくれたらなって」
「では…お願いしますね」
希は申し訳なさそうに頭を下げてから、近くの木に登った。
風の力を借りているせいか、希が少し力を込めれば木の上まで簡単に登れてしまう。
希の姿が見えなくなってから、さて、と柘榴は気合を入れる。ここから少し進めばラティランスの行動範囲内で、集中しなければならない。
希の話では一定の範囲からは出ないと言う話だから、危ないと感じたら一目散に逃げることにしよう。
一歩、一歩足を進めた。
きっともうすぐ、その姿を現す。
「…来た」
柘榴の視線の先、暗闇の中に動く何体もの影が見えた。あれが、トカゲ。宙に浮いて、焔に包まれた身体。長い尻尾は地面につきそうだ。
柘榴の背よりは小さくて、赤い生き物。
これが、サラマンダーだと言われれば、そう認識する。サラマンダーの集団は、柘榴の姿を発見したのだろう。集団の向きが変わった、そう思った瞬間には一直線に柘榴に突進してきた。
「うお、いきなり?」
サラマンダーの集団が柘榴目掛けて、突進してくる。
大量発生、そう聞いていたがこれは予想以上に、多い。
「多すぎるでしょ!」
サラマンダーの後方が見えないほどの大量の数に、圧倒される。
村の人に目撃されたら、なんて考えて焔を弱くしていたが、そんなことを気にしていたらこっちがやられてしまう。
「こん、ちくしょう!」
数体のサラマンダーなら倒そうと思っていた。それなのに、この数はあまりにも多すぎる。柘榴一人では対処出来ない。
今日は様子見、そう思って柘榴は即座に方向転換して逃げた。
一定範囲内からは出ない。
「って、言っていたじゃない!」
全速力で駆け出した柘榴、その後ろに大量のサラマンダー。
希の言っていた話と違う。
逃げても、逃げても追って来る。
「助けてぇえええ!」
後ろを振り返ることなく、叫ぶ柘榴は全速力で走った。
木の上にいた希は、柘榴が逃げ出すところをしっかりと見ていた。
希の予想では、サラマンダーは一定範囲から出ないはずである。
その通り、サラマンダーの集団は戻って来た。
木の上で戻って来た様子を確認した希は、小さく呟く。
「です、よね?」
柘榴を追ったように見えたサラマンダーは、間違いなく戻って来た。何体もいるサラマンダーは周りを見渡すから、下手に動けば見つかりそうだ。
柘榴を追ったサラマンダーの集団は戻って来たのならば、微かに聞こえた柘榴の声は、なんて言っていたのか。
全く聞き取れなかったが、無事だと叫んでいたのだろうか。
柘榴のことは気になる。
けれども一定範囲外なら襲ってくることはないはずだ。逃げ出した柘榴なら、おそらく無事だろう。
助けに行きたくても動けない状況に、希の方もピンチだったりするのだが。
「…サラマンダーがいなくなったら、宿に帰りたいですね」
独り言を言いながら、本音が漏れる。今すぐ逃げ出してもいいが、そんなことをすれば囲まれる恐れもある。危険なことはあまりしたくない。
もう少し、きっともう少しでいなくなる。
そう思って弓を握る力が無意識に入った。
ギュッと握った弓、その光が少しだけ。ほんの少し、淡く光った。
「っ!」
サラマンダーの視線が、希のいる木に集まる。
全てのサラマンダーがゆっくりと、確実に希のいる方へ近づいて来る。
どうしよう、逃げるべきか。戦うべきか。
柘榴の言った通り、希は近距離に向いていない。囲まれれば、集中攻撃を受ける場合もある。けれど、サラマンダーの行動範囲外にさえ出てしまえば。
『エメラルド、ヲ。確認、シマシタ』
「…え?」
木の近くまで来サラマンダーは木の上、驚いている希の方を見上げていた。
どこからともなく聞こえた機械音のような声に、希はサラマンダーを見つめた。
『認証、シマシタ。御案内、致シマス』
希の木から森の奥へ続く道。両脇をサラマンダーが固め、頭を下げたサラマンダーの集団の道。その道が出来ると、一体のサラマンダーが希の前に出てくる。
『御案内、致シマス』
繰り返された言葉、敵意は感じない。不思議な感覚に戸惑いつつ、希は意を決して木から飛び降りた。
希が姿を現しても、サラマンダーは襲ってこない。
むしろ、前に出て来ていたサラマンダー以外は、仰々しく頭を下げて、森の奥に進むように促す。
『約束ノ品ヲ、オ渡シシマス。奥ヘ、オ進ミ下サイ』
機械音の声に従う。それ以外の選択肢が見つからなかった。
逃げても、逃げても追ってくるサラマンダーの集団に、いい加減疲れた。
一定の距離を保って追って来るサラマンダー。サラマンダーの数は何故か増えていた。追ってくる音が大きくなっていたからそう感じていたのだけれど、決して柘榴を囲むようには追ってこない。
柘榴の真後ろを追ってくるだけ。
追い出したいだけ、そう感じた。
最初に見かけてから、柘榴は数に圧倒されて逃げ出した。もし、立ち向かったらどうなのだろうか。
「…やってみるしかないよね!」
叫ぶと同時に柘榴は踵を返し、サラマンダーの大群の中に突っ込んだ。
「いっけぇえ!」
日本刀を振り上げた柘榴はとりあえず一番近くのサラマンダー目掛けて思いっきり振り下ろす。
「っ!」
振り落した日本刀はサラマンダーに当たることなく、ひらりとかわされた。かわされて反撃されるかと踏んだが、寧ろ一定の距離を保って離れていく。
近くまでは来ないし、攻撃も仕掛けてこない。
「どゆこと!」
思わず叫んだ柘榴。警戒心は持ったまま、それでもサラマンダーの集団に向け、叫んでいた。
『ガーネット、ハ。コノ場所、立チ入リ禁止。帰レ、帰レ』
柘榴の攻撃したサラマンダーから、場違いな声が聞こえた。耳を疑って、柘榴は少し考えたふりをしてもう一度尋ねる。
「つまり?」
『帰レ、帰レ、帰レ』
何故か始まったサラマンダーの大合唱。
このサラマンダー達は五月蠅い。物凄く五月蠅い。耳を塞ぎながら、柘榴は考える。
サラマンダーは帰って欲しいだけで、柘榴を襲うことはない。
「ふ、そうね。帰るわよ!」
カンガルーの合唱を遮るように、わざとらしくそう宣言した柘榴は、サラマンダーに背を向けるとゆっくりと歩き出す。
柘榴の今いる位置から見えた、街灯のある方角へ歩き始めた。
サラマンダーは追ってこない。静かになった。満足したのか、柘榴の言葉を信じたのか。もはや、どっちでもいいのだ。
「…て、帰ると思うか!」
叫ぶ、と同時に森の中に駆け出す。柘榴の行動にサラマンダーの方が、少しだけ動きが遅れた。
『待テ、待テ、待テ』
後ろからサラマンダーの大合唱が再開しようが関係ない。こうなったら、逃げるだけ逃げてやる。
「待てと言われて、待つ奴がいるかぁああ!」
攻撃してこないのをいいことに、柘榴は確信に迫るべく森の奥へと逃げた。
こうして柘榴と大量のサラマンダーとのかけっこが始まったのだった。
どれくらい歩いただろうか。希は一人、考える。
進んでも、進んでもサラマンダーの道は続いた。
数分無言で歩いてから、ようやくその姿が消え、森の中でひらかれた空間に違和感なく存在していたのは小さな祠だった。
「ここは?」
『少々、オ待チ下サイ』
祠に近づいたサラマンダーは、中を探り何かを探していた。
一歩下がったところでその様子を見ながら、ぼんやりと空を見上げた。
どうしてこんなことになったのか。よく分からない。
探し物が見つからないのか、時間が掛かっている。腰を下ろしてサラマンダーを眺めていた。
サラマンダー。幻獣であるはずだし、組織の人間も襲われた。見た目はラティランスに分類されるはずなのに、どこか違う。
月が輝き、拓かれたこの場所を明るく照らす。目が慣れたせいか、まじまじとサラマンダーの姿を確認出来た。そこでようやく、その姿が真っ黒ではなく黒に近い赤だと知る。それから、もう一カ所に目を奪われる。
「…赤い、宝石?」
サラマンダーの尻尾に、真っ赤なリング。その赤い金属のリングに、埋め込まれているのは柘榴の持つ赤い宝石、小さな欠片が見えた。
ジッとその飾りを見つめていると、サラマンダーが振り返り、目が合う。
こうしてよく見れば、瞳だって違う。柘榴の持つ、赤い宝石と似ている瞳。瞳の色は黒ではないし、黒っぽい赤でもない。深い赤、透き通る色の宝石の瞳。
サラマンダーは風呂敷に包まれた何かを希に差し出した。
『ドウゾ』
「あ、ありがとうございます」
お礼を言いながらその何かを受け取った。中々に重い、何だろうと下げてしまった視線をもう一度上げた。
「あ、あれ?」
希が顔を上げた時、すでにサラマンダーの姿はなかった。
驚いて周りを見渡すがどこにもいない。
この場所にいるのは、希一人だけだ。
森の奥だから静かなのだと思っていたが、そうでもなさそうだ。感じていた違和感、サラマンダー達の気配はこの森から消えてしまった。
静かすぎる森に、誰かが近づいて来る音。草をかき分けて、進んで来る人の足音。
サラマンダー以外の存在に無意識に風呂敷を抱きしめて、誰が来るのかジッと待つ。
「つ、着いたぁ!!!」
ひらけた空間に出るなり柘榴は大声で叫んだ。
全力疾走のし過ぎで、息も絶え絶え。凄く疲れて一歩も動きたくない心境に、そのまま身体から力が抜けて前のめりに倒れこんだ。
今襲われたらどうしようもないのだけれど、どうしようもない。
襲われるかも、と言う心配は、真上から聞こえた声で掻き消される。
「…柘榴さん?」
叫んで倒れこんだ柘榴を見下ろす、希。驚いている希は柘榴の顔を覗き込んで、何度か瞬きを繰り返すと、近くにしゃがみ込んだ。
「どうなされたのですか?」
「いやぁ…その前に、サラマンダーの集団は?」
「え?いませんけど…?」
周りを見渡して確認をした希の答えに、柘榴もゆっくりと身体を起こして確認する。
一匹も、いない。あれだけ追いかけ回したサラマンダーの集団は跡形もなくいなくなってしまった。いつからいなかったのか、一度も後ろを振り返らなかった柘榴が知るはずもない。
「…ま、いっか」
逃げられたのでよしとしよう。
もう一度寝っ転がり、柘榴は空を見上げた。
こんなに星が綺麗に見える場所だとは思わなかった。それくらい綺麗な星空に、幸せな気持ちになった。それから逃げられたことに対する喜びも徐々に実感してくる。
本当に、無事でよかったと今更ながら思う。
その隣に希も腰を下ろし、同じように空を見上げながら柘榴に問いかける。
「ところで、柘榴さんはなんでこんな場所に?」
「えーっと…逃げているうちにいつの間にか?てか、希ちゃんの推測と全然違ったからね!移動範囲外に出ても追いかけてきたからね、あいつら」
柘榴がどれだけ逃げようとも、知恵を増やしていくかの如く道を阻むように目の前に現れた。攻撃はしてこないが、突然目の前に現れて、何度方向転換したことか。
勢いよく起き上がった柘榴が、早口に言えば希が驚いたように言う。
「え、でも…サラマンダーさんが戻って来る様子は確認したのですが…」
「いやいや、嘘じゃなくて本当に私追いかけられたから」
「それは…申し訳ありません。私のミスですね」
心底申し訳なさそうに言う希。落ち込ませてしまったのは一目瞭然で、希を傷つけるつもりはこれっぽっちもなかっただけに、柘榴は慌てて言葉を紡ぐ。
「まあ、それは置いといてさ。その風呂敷は何?どうしたの?」
希が大事そうに抱えている風呂敷。
大きさからしてバスケットボールぐらいの大きさ、丸いような四角いような凸凹した形のそれを指さして、希の顔を伺う。
「何でしょうか?」
首を傾げながらそう言う希の顔は、本当に何か分かっていない様子。
「じゃあ、なんで持っているの?」
「サラマンダーさんに、先程頂いたばかりで中身を確認してないのですよ」
困った顔をしながら、希は静かに風呂敷を開いていく。
頂いた、と言う言葉に突っ込む前に、風呂敷の中から溢れ出したのは色とりどりの宝石。溢れんばかりの宝石は、目の前でキラキラと輝いて見えた。
「うわぁ、綺麗」
「すごいです」
お互いに宝石に目を奪われる。赤、青、黄、緑に透明、様々な宝石は月の光で輝きを増し、より一層幻想的に見えた。風呂敷から溢れ出た宝石の欠片の一つ、柘榴の持っている宝石と同じようなものを見つけ、思わず手を伸ばす。それを、月にかざす。
「いいなあ、これ欲しい」
月に照らされた赤い宝石が、一度光ったかと思うと手の中から消えた。
「え、あれ?」
周りを見渡してももう赤い宝石はない。
地面に落ちたかもしれない、と視線を巡らせる柘榴。その横で、希が宝石の奥に潜む一枚の写真を見つけたことを、それを見て唇を噛みしめていたことに、全く気が付かなかった。
無言で写真を見つめて、希は唇を噛みしめた。
それは普通の家族写真。お揃いの服を着たそっくりな子供が二人。小さな女の子を抱えた両親と、その横で優しげな笑みを浮かべた老人が二人。
見間違えるわけがない。両親の母親の方は若かりし柘榴の母親。老人のうち、祖父らしき人も、柘榴の祖父そっくりだ。
ということは小さな女の子は苺で、双子のうちの片方が柘榴。
父親も祖母も会ったことがないが、おそらくそうなのだろう。何となく、柘榴に似ている。
では、もう一人の子供は誰か。少なくとも柘榴の家にはいなかった。希は会っていない、柘榴の兄妹なのだろう。
分からない、分からないけど。
「あ、れ…?」
胸が、苦しい。希は知っている、気がした。
前に、小さい頃にこんな子供に会ったことがあるような気がする。
でも、それを思い出そうとすればするほど。何かがそれを阻むように頭痛が襲う。
宝石の奥に見つけた写真に、どうしようもない感情を抱く。まるで宝石を見つめているように、希は顔を下げたままだった。
「…希ちゃん?」
何故か宝石を凝視している希の顔の前で、手を振ってみる。
ハッとしたように顔を上げた希と目が合い、気まずそうに視線を外された。
「す、すみません。少し、眠くなったみたいで」
「確かに。もう深夜でしょ。宿帰って寝ようか?」
「はい、そうしましょう。もう三時近いですし」
懐中時計で時間を確認した希が言い、すぐに風呂敷を包み直す。先に立ち上がった柘榴がもう一度あたりを見渡して、なくしたかもしれない赤い宝石を探すが、やっぱりない。
失くしてしまったのだろうか。
でも確かに、あれは失くしたと言うより消えた気がする。
「柘榴さん、どうかしましたか?」
地面を見て唸っていた柘榴に、希が問う。
「う、ううん。何でもないから、帰ろうか」
視線を上げて、軽く笑った。
ない、と言うことにしよう。
そう決めつけて、少し眠たそうな顔の希の横を歩き始めるのだった。
宿に着くと、柘榴も希も疲労と睡魔に襲われて、ぐっすりと寝た。
それこそ、昨日赤い宝石を失くしたかもしれない、と言うことなんて忘れるくらいぐっすりと寝てしまった。
結局、宿を出たのはチェックアウトギリギリの時間。帰り道は二人でわいわいと盛り上がって、お土産を買いながら旅を終えた。
基地に着くなり、お土産を渡して蘭に怒られたのは言うまでも無い。




