プロローグ
五年前の夏。
あの日は、柘榴と言う名の少女が十一歳の時のこと。
あの日の空は、真っ青な青空だった。梅雨明けはまだで、ムシムシした日々が続いていた。真夏が近い、七月のある日。
小学校の帰り道。双子の弟の柚と一緒に遊んでいた場所は、山の麓にある小さな神社。
一卵性の双子だったせいか。髪の長さが同じだったせいか。それともスカートを嫌っていた柘榴が、いつも柚とお揃いの半ズボンを履いていたせいか。双子の子供達は、まるで同じ少年が二人いるような印象を周りに与えていた。
顔も、身長も、頭の悪さも一緒。
違うとしたら、その性格。
大雑把な柘榴の性格は母親似、几帳面な柚の性格は父親似。
そんな柘榴と柚はいつものように神社でかくれんぼをしていた。かくれんぼの鬼である柚に見つからないように、柘榴は金木犀の木の裏に隠れた。柚は大きな声で数を数えていた。
悲劇は、突然。
その、瞬間だった。
暗くなった景色に、空を見上げた。
空の色が、真っ青な青から何もかも飲み込むような黒へと変わっていく。
「なに?」
心なしか肌寒く感じ、柘榴は逃げるように境内へ、柚の近くに向かう。
「ゆ、柚!」
立ち尽くした柚は真剣な顔で空を見上げ、何かを呟くが柘榴の耳には届かなかった。泣き出しそうになっていた柘榴の声に反応して、何故か微笑んでみせた柚の姿。
「あ、お姉ちゃん。みっけ」
柚は何事もないように言う。柘榴だけがこの異常な空に恐怖で怯えていた。
「ねえ、柚。空が――」
おかしいよ、と言う言葉は最後まで言えなかった。
大きな地鳴りと共に、黒くて大きな怪物が空から降って来た。柘榴の声はかき消され、幼い柘榴と柚の身体は反対方向へ飛ばされる。
「「うわ!」」
数メートル先で地面に倒れこんだ柚に、駆け寄ろうと起き上がった柘榴。
その柚の近くに、黒くて大きな怪物がいた。
真っ黒な肌、ボロボロの着物を身に纏った大きな図体。頭には二本の尖った角。尖った耳、鋭い歯。数メートルの高さはある大きな、鬼が柚を見下ろしていた。
「――っひ!」
恐怖のあまりに引きつった声。柘榴はそれ以上叫ぶことも出来ず、身体が震えた。辺りが夜になったかのように暗い。心なしか寒い。
「……く…ない…」
同じ言葉を柚は繰り返したが、少しだけしか聞き取れない。一人その場に立ち上がった柚は、鬼を見上げて手を伸ばそうとする。
その姿に怯えはなく、ただ立っているだけなのに。
変わらない柚の姿だからこそ、感じた違和感。鬼に手を伸ばす、柚の姿。
鬼はその右手に持っていた金棒を真上に上げた。その金棒が振り下ろされれば、柚は無事で済むはずがない。
「に、逃げて!柚!」
必死に叫んだ柘榴の声に、鬼は金棒を上げたまま、ゆっくりと顔だけ柘榴に向ける。その鬼の瞳に見つめられて、目が離せない。
黒い宝石のようだった。
真っ暗な空間の中でも輝きを失わない、光を秘めた黒い瞳。
一瞬、その顔が笑った気がした。
それと同時に、金棒を持っていた右手がわずかに動く。
「柚!」
「来ちゃ駄目!」
叫んだ声が重なった。柚は柘榴の方を見ずに、右手で制止の合図を送っていた。それを無視して、柚に向かって必死に手を伸ばす。
無我夢中に走った。勢いよく柚に突進して、押し倒す。ほぼ同時に、柘榴と柚の真横の地面に鬼の金棒が突き刺さった。
柘榴は自分の胸に柚の頭を押し付けるように抱きしめる。覆いかぶさったまま、逃げると言う考えはなかった。動けなかった。
柚だけが遠くに行ってしまいそうで、怖くて必死だった。
倒れこんだ時に、手や足が地面を擦って痛い。痛い以上に心を占めたのは、柚と会えなくなる恐怖。
「…おねえちゃん、痛い」
「うう、柚ぅ」
柚の体温を感じて涙が流れる。柚は柘榴を慰めるように背中をさすってくれる。
鬼に殺されるなら、柚と一緒がよかった。
生まれた時から一緒だから、死ぬ時だって一緒がよかった。
「…あっ――」
小さく、消えるような柚の声が聞こえて柘榴はもう駄目なのだと悟った。きっと鬼の持っていた金棒で殺されるのだと、そう思ってますます柚を抱きしめた。
痛い、と言う感情が右わき腹を中心に襲って来たのは、それからすぐだった。
鬼の金棒で攻撃されたわけじゃない。痛みを感じたのは右わき腹だけで、それ以外が痛むわけではなかった。
柚は動かない。
動かなくなってしまっているのだと気が付いたのは、痛みに耐えながら身体を振り返った時だった。
柘榴の右わき腹と柚の心臓を貫いている固く細い何か。
柚の体温が冷たくなっていく。
痛い。
痛くて、苦しい。涙が止まらない。
「ゆ…ず、ゆずぅ…!」
何度も何度も声を呼ぶ。その声が届かないことは分かっている。それでも柚にすがって、意識がなくなるまで名前を呼んだ。
柘榴の身体も力が入らない。柚の上から動けない。
地面が赤く染まる。柘榴の赤い血と、柚の心臓から流れる血が混ざり合う。
この日、襲われたのは柘榴と柚だけではなかった。
日本各地で沢山の人々を襲った鬼。多くの人や建物を破壊した。その被害は大きくて、死亡者も、行方不明者も出た。
その被害者になったのは、柘榴も含まれる。柚はその中の犠牲者の一人になった。
これが、五年前の柘榴の身に起こった悲劇。
運命に巻き込まれた日。