父親と夫として(カルマ視点)
*
イゼアが出ていった扉から視線をそらし、ソファで眠るミコトに視線をやる。
イゼアに言われたことは否定ができない。むしろ図星に近い。
今まであそこまではっきりとこちらの目を見て、意見を言ってきたことはなかった。イゼアも、ミコトが大切で、俺と大切の仕方が違うのだろう。
きっとどこかで、これはミコトにはよくないと気づいていたのだろう。しかし、目をそらして、気づいていないふりをしていた。
いったい、自分はいつからこんなにも保守的になってしまったのだろうか。
息子のために、息子自身と向き合い、鍛えようとしなかったのか。……いや、イゼアは一応鍛えている。つまりは、まぁ、ミコトを甘やかしているのかも知れない。
イゼアもミコトも聡明であるが、二人のベクトルは違う。
イゼアは何事に置いても、年の割に驚かされる冷静さや視野の広さ、そして度胸や吸収力。しかし、それは年がたてば、そこらの凡人と変わらないだろう。
ミコトは違う。イゼアが秀才、努力型なら、ミコトは『天才』という一言で覆す。吸収力と頭の回転は、そこらの大人をはるかに上回る。
確か、あれはミコトが二歳の時。
一歳で読み書きを完璧にマスターしていたミコトを書斎に連れてきていた。ミコトはイゼアのように運動、武道面では秀でていない。将来、イゼアの補佐をするのに役立つだろうと、とりあえず、まだ教えていない計算を教えつつ、関税の仕事をしていた。
数字が関係するものは、大抵ジャンに押し付けているが、あいつはちょうどマリアと新婚旅行に行っていて不在だった。
俺はドンパチするのは好きだが、数字は苦手だ。適材適所で、できるやつに押し付ければいい精神の俺は、のろのろと計算をしていた。
そこにミコトがひょこっと顔を抱いて、計算の採点を求めてきた。膝の上にのせ、自分の髪より更にふわふわの銀髪の感触を楽しみつつ、採点していた。
全問正解でスゲェなと思い、褒めようと見下ろすと、俺がやっていた計算―――しかも教えた簡単な和算ではなく、もっと複雑なものを、俺の計算あとから全て理解して―――の続きをしていた。
確認したら、全てあっているものだから、おったまげる。
ミヤのそろばんや、ガーダンで発祥した筆算などを使って俺は計算するが、ミコトは数字を見ただけでパッと浮かんでくるらしい。
どうやっているのかと訊ねると、首を傾げて、「数字の色がきれいになるように混ぜると、なるよ?」と言った。
それを聞いて気づいた。
ミコトは計算のやり方を理解したのではなく、何を計算しているのか理解したのだと。
「お父さんが教えてくれた計算のほうほう、面倒くさいね」と言われてしまって、少々泣けた。
誰もいないことを確認して、ミコトに書類の計算をすべてやってもらったのはジャンには秘密にしている。
たびたび、そうミコトの態度が変わるまで、ミコトに貴族の教養を教えてきた。
貴族の教養。それは貴族が貴族でいれるための条件である。貴族は国政に携わり、国を回すという重大な役目があるからこそ、貴族でいられる。これができない奴は貴族としては生きてはいけない。そうそうに市井に落とされる。
そして、ミコトが三歳になる一ヶ月前には何も教えることがなくなってしまった。
ミコトの頭の良さは、並外れたものである。世間に知れ渡れば、どうなるかなんて想像に難くない。
ミコトの容姿と、そして頭の良さ。俺にとっては自慢の子供でも、世間はそれを排除しようと動くだろう。
人は異物を本能的に排除しようとする。
その姿を、俺は知っている。否定はできない。
それでも。
ミヤから連れ帰った、あの時のユキハと周囲を思い出してしまう。
一種のトラウマともいえるだろうか。
だから、護身術を教えずに、屋敷に、自分の目の届くところに置いておこうとしていた。
ミコトが好む『知識の塊』を図書室に詰め込み続けた。
ミコトはそれを気づいただろうか。
*
ミコトの「数字の色」というものが気になり、調べたり、医者を尋ねたりした。ものを見ると、音が聞こえるという例もあり、それの一種ではないかということになった。
イゼアは、ミコトのそれは「共感覚」ではないかといっていた。
共感覚とは、ある刺激に対して通常の感覚だけではなく、ほかの感覚を生じさせる、特殊な知覚現象らしい。
ミコトの場合、「ある刺激」が文字や数字などの「記号」ではないかといっていた。
それを聞いたとき、初めに思ったことは、子供がそんなことを書いてある本を読むものだろうか、ということだった。
医者も知らないような子供を、子供が知っているというのもおかしな話である。イゼアに関しては、時々そんな違和感を感じることがあった。
だから、今回のことをきっかけに追求した。
「書斎の本だ?」
「……忘れました」
このやり取りで、追求する気も失せた。
イゼアはごまかしが苦手で馬鹿正直で、……真っ直ぐだ。それを今更ながらに感じて、まあ些細なことだと流すことにした。
イゼアに違和感があろうとも、自分の子には変わりないだろう。
きっとあれ以上追及していたら、幼少の時のイゼアのように、『イゼア』がわからなくなってしまうのではないか……という思いもほんの少しあったが。
「あぁ……イゼアが生まれたときから、俺はだんだん、臆病になっていたかもしれないな……」
書斎に、俺の声が、俺だけに聞こえる。
ミコトは、まだ寝ている。
目蓋を閉じれば、聴覚が鋭くなる。
龍巫を淡く広げるように念じると、屋敷全体に広がるのを感じる。
身体からツールを通さず龍巫を流すのは、汗がにじみ出るほど難しい。下手したらこの屋敷が吹っ飛ぶくらいの、『自爆』になってしまう。
屋敷の人間がどう動いているのか、誰が誰だかわからないが、屋敷の一角で自分の龍巫が掻き消えるように感じるところは、イゼアがいるのだろう。
……ドアの前で座り込んでいるように感じるが、気のせいだろうか。
そして。
いつも欲しいと思った時。
静かで軽やかな足取りでこちらに一人向かってくるのを感じて、知らず知らずのうちに笑みが浮かぶ。
いつだって、彼女のことはこんなにもはっきりとわかる。
龍巫を流すのをやめると同時に、書斎の扉がノックをされる。
控えめなのが、彼女らしい。
「ん」
「お邪魔します」
ひょっこり扉から顔だけ出して、にっこりと笑う。滑るような動作でこちらまで来て、俺の背後からゆっくりと首に腕を回す。
手は俺の目を覆い、頬と頬を擦り付けてくる。
背中には、小さな心音を感じる。
ユキハは、一言。
「だいじょうぶ?」
俺が揺らいだとき、何も聞かずにいつもそれだけを訊ねられる。
俺はその問いに答えない。
「……イゼアが生まれてから、いや、お前を連れて帰ってきてから、俺は臆病になっていたみたいだ」
「私が、弱いから……?」
「違う。ユキハが一人しか、いない。失えない。失いたくないんだ」
「うん」
俺らしくもない、声が震えている。
「領主として、民を守ることが第一でも、それ以上に、ユキハが大切なんだ」
「…カルマも、人間だもの。本音と建前があって当然だよ。私は……あなたの一番になれてうれしい。カルマが公私混合しないのは、私が一番知ってるわ」
「イゼアも大切だ。あいつは良い領主になる。何かは知らないが……決意があって、目標がある。……だから、俺は手加減なく、あいつをしごけるんだ」
稽古があると、いつも死にそうな顔をしているが、それでも強烈に輝くあの眼があるからこそ、イゼアの背中を蹴り飛ばせる。
「でも、ミコトは違う。イゼアみたいに早熟しているわけではないし、してほしいわけでもない」
これからたくさんのことを体験して、視野を広げて、そして、イゼアのような目標を見つけなけれならないのに。将来に向かって走り出していかなければならないのに、俺は荒波の世間にミコトを放り出せない。
普通なら、この荒波の中でもまれながら、ミコト自身の道を見つけさる。
「今もなお、傷つき続けているあの子を、手放してしまったら、道を見つける前に、取り返しのつかないことになるかもしれない……」
ユキハは俺の言葉を、そのまま言った。
密着していた体が離れ、すこし寒く感じる。
ユキハは俺の頬に手を当て、黒曜石の瞳で俺をじっと見つめた。
「私も怖いわ」
みなものように、瞳が揺れる。
「ミコトは、あの容姿を嫌っているから」
私のこと、憎んでないかって。
「こわいの」
涙こそこぼれないが、声は泣いていた。
あぁ、今俺は父親として、夫として、何もできていないじゃないか。
泣きそうな、否泣いている妻を慰めることも、本当に泣かせてやることもできない。
ミコトの将来をつぶそうとしているじゃないか。
沈黙が落ちる。
ユキハが目を伏せ、俺は上を見上げる。
「夫婦二人して、臆病になっちゃったね……」
「…悪い」
ここの重たい空気とは裏腹に、そとは晴れ、青空は広がっている。
日差しが差し込み、まぶしさに目を細める。
ちょうどミコトに日が当たり、銀色の髪がキラキラと輝く。まぶしいのか、眉間にしわが寄り、振り払うように腕を動かすが、まとわりつく光は消えるはずがなく。
ミコトは不機嫌そうに目を覚ました。
予想外の方向に行きました。
あれれ。




