ゆけむり探検の奇跡④
≪人物紹介≫
☆ 那智竜太郎 19歳
正統なる杜国主の長男、現在浪人、百万両の賞金首であるナチの竜
☆ 如月胡桃 19歳
宇都宮国東宮家老の長女、東宮直営の乙女倶楽部所属の役人
☆ 阿倍蜜柑 18歳
古河国東宮用人の末娘、東宮直営の乙女倶楽部所属の役人
☆ 大鳥虎之助 22歳
大鳥国主の三男、妾の子、現在賞金稼ぎ
☆ 板屋の伊万里 26歳
フタラ温泉宿、板屋の女将
☆ 中宮の神楽 17歳
二荒山神社中宮の末娘、巫女
☆ 望月華音 12年前=14歳
リュウタロウの世話係、杜の宮の巫女
☆ 望月雷蔵 12年前=50歳
カノンの父親、12年前の杜国主、元杜国家老
☆ 那智時継 18年前=37歳
リュウタロウの父親、正統なる杜国最後の当主
☆ 那智瑞羽 18年前=19歳
リュウタロウの母親、元杜の宮の巫女
☆ 大鳥錬龍 27歳
大鳥国主の長兄、竜の力を継承
☆ 朔心月 62歳
大鳥国の国家老、軍師
*ここでの歳は満年齢にて記載
*話が進むにつれ改定あり
【】
≪フダラク湖≫
「ねーミカン、あなたはこちらの世界をフダラク湖の湖底と仰いましたわよねー、そうしますと水面はずっと上になるのでしょうが、わたくし達はいったいどのくらい沈んでおりますの」
クルミは上を見上げて訊いた、ミカンは腕を組んで首を捻った、
「うーんと、そうですねー、ぶっちゃけわたし達は湖に沈んだ訳じゃないんですよ」
悩んだあげく結論を述べた。
「どうして湖に沈まないのに、わたくし達は湖底に居りますの」
ミカンは額に手をかざして遠方を眺めた、
「あーあれ、あそこに見覚えありませんかー、崖が門の様に切り立ってる場所です」
ミカンは湖底が斜めに下がった方角を指差して言う。
「あーそう言われれば、フタラ町の入り口で見ました崖によく似ていますわねー」
「センパイ、こっちはどーですか」
「こっちって…、こちらはもう板屋さんの外湯から眺めましたフタラ山に瓜二つですってよ…」
ミカンに言われ、振り返ったクルミの視線の先には見事な稜線を描いた大山がそびえていた、大山の頂へと目を凝らすとようやく水面らしきものが見えた、大山の頂まではざっと半里(約2000m)もの高さがある。
「これはどうなっておりますの」
クルミとミカンの居る場所が湖底であるにも関わらず、大地の造りはフタラの地形と一致していた、
「さっきセンパイが眠っている間に、この子に案内してもらってたんですよー」
ミカンはそう言いながら紫竜の頭を撫でた。
「それはつまり…、わたくし達が居ります場所というのは…、うーんいえいえ御座いませんは、そんな非現実的なことがあってたまるものですか」
クルミは何らかの答えを得たようだが、首を振って自らの答えを否定した、
「この世界も今はこんなに水が多いんですけど、雨期が過ぎるとフタラの大渓谷くらいまで水位が下がるそうですよ」
そんなクルミの様子などつゆ知らず、ミカンはフダラク湖について説明する。
「フタラの大渓谷とはあちらの溝ですわよね、それほどまでの水位変化がございましたら、生物はたちどころに滅んでしまいますわ」
クルミは眼下に視線を向ける、右手の広大な窪みから左下へと続く割れ目を見た、
「あーそれでしたら大丈夫です、みんな海を渡って雨期の国へ引っ越しますから」
フダラク湖の水位が高いのは現在この国が雨期であることを告げていた。
「つまりなんですの、こちらで泳いでおります方々は、世界を転々と移り住んでいるとでも仰いますの」
鼻で笑うクルミ、
「正解ですよー、センパイ」
ミカンは笑顔で応える、
「ちょっとお待ちになって、そのような摩訶不思議なことって…」
クルミは頭を抱えた、
「ですからー、この世界はわたし達の世界とは別の神々の世界なんですからー、それとですねこのフダラク湖っていうのは、わたし達が普段生活している世界とは重なりあって存在してるんですよー」
頭を抱えるクルミに、ミカンが軽い口調で断定した。
「ミカン…、あなたの仰りたいことは分かるのですよ、分かりますが…」
ちらりと視線を上げミカンを見た、
「センパイ、これはすべて現実に起こってるんですから、素直に受け入れないと頭が爆発しちゃいますよー」
気の毒そうにクルミを見つめるミカン。
「わ・分かりましたわ、あなたの仰ることを信じたといたしまして、こちらの世界と重なり合った、本当のわたくしたち世界はいまどの様になっておりますの…」
クルミは二度三度と深呼吸してから訊いた。
「重なっているといってもですねー、わたし達の世界がここみたいに湖の底に沈んだ訳じゃないです、今もちゃーんと陸地のままですよ」
ミカンはご安心をとばかりに笑顔で応える、
「あーでもこっちの世界とわたし達の世界はつながってますからー、こっちの世界が雨季ということは、わたし達の世界でも水は多くなるんです、あーだからあちこちで水による災害が発生してるんですねー」
(そういえば)と手を打つミカンは、新たなる発見を解説した。
「確かに、このところ水に関わる事故や災害が続いておりますわね、つい先日もツリシにて遭遇いたしましたし…」
ミカンの意見に、クルミも記憶をたどり頷いた、
「て言っても、こちらの世界では雨期は60年も続きますからー、わたし達が生まれた時にはもう雨期に入っていましたけどねー、あーでも今年が雨期に入ってちょうど30年目なので、水量は一番多いみたいですから、最近になって水害が多いのはあってるんだー」
説明しながら1人で納得した。
「あのーミカンさん、なんですの・その60年とか30年目とかは…、それにこちらの世界にも四季が御座いますの」
クルミが問い掛けると、ミカンは紫竜の幼生をジーッと見つめた、
「そうですねー、四季という言い方が良いのか分かりませんが、こちらの世界では雨期は黒季と言って水の精の季節です、その次が青季で木の精の季節、乾期は赤季で火の精の季節となり、最後に白季で金の精の季節となるそうです、それとですねーその黒・青・赤・白それぞれの季節の変わり目となる15年間づつを、黄季といって土の精の季節になるんですって」
ミカンは季節の違いが色で分かれていることと、その季節ごとに活発になる精霊の説明をした。
「ただ・わたし達の世界とは時間の流れがずい分ちがっていて、1つの季節が過ぎるのに掛かる時間はだいたい60年なんですよ、だから四季がひとめぐりするのに240年も掛かっちゃうんですよねー」
と追加した、
「なんと申し上げればよろしいのか…、その途方も無い時間の経過では、わたくし達には確認のしようが御座いませんわね、わたくし達の一生などこちらでは1季節にしか値しませんですから」
クルミは一応の理解を示して応えた。
「そーなんですよねー、ですからこの世界は竜宮城なんですよ」
ミカンが同意を得たクルミに笑い掛けた、
「たしかお助けした亀に乗りまして、竜宮城に参った浦島太郎さんが数日お遊びになり、元の世界にお帰りになりますと、元の世界では700年もの月日が過ぎておりましたわ…」
クルミがそれとなく訊いた、
「うーん、たぶんそれと同じようなことになると思います、こちらの世界で過ごす1年というのが四季をひと回りすることなのですから、わたし達の世界では240年経ったことになりますねー」
「なんと仰いました、それではわたくし達がこちらで過ごした時間は、元の世界では240倍もの早さで過ぎているとでも仰いますの」
「はい、わたし達がこっちに着てからはまだほんの少ししか経ってないですけど、たぶんわたし達の世界では丸1日は経過していると思います」
ミカンはあっけらかんと告げた。
「な…、何が起こっておりますのー!」
クルミは両手で頭を押さえて発狂した、
「センパイ、なんだか楽しそう」
雄叫びをあげるクルミへと笑顔を向けた。
「どーしてあなたにはそうに見えますのー」
クルミは泣き顔を向ける、
「えへへへ、でも…リュウタロウさんは心配しているでしょねー」
なぜか照れ笑いを浮かべたミカンが、遠くを見るように呟く。
「あっ…そーですわ、あなたのお話ではこちらの世界と元の世界とは重なり合っておりますのよね、しかもお互いに影響しあっておりますと…」
クルミがミカンへと確認する、ミカンはクルミの問いにゆっくりと頷いて応える、
「わたくし達がこちらの世界に参りましたのは板屋さんの外湯ですわね、もしかしましたら板屋さんの外湯には、こちらの世界と元の世界とをつなぐ接点があるのでは御座いませんか」
(あーなるほどー)とミカンは手を叩いて頷いた。
「そちらから元の世界に戻れればよろしいのですが…、それが叶わなくても、せめてわたくし達の存在を伝えられれば、あちらの世界ではわたくし達の帰る方法をご存知かもしれませんわ」
微かな希望を得たクルミは目を輝かせる。
「センパーイ名案ですよー、そーと決まればぜんは急げです、センパイもこの子の背中に乗ってください」
ミカンが紫竜の幼生の背を指し示す、
「えぇ…、ですがわたくしが乗っても大丈夫ですの」
クルミは紫竜の幼生を見ながら訊く、
「大丈夫です、この子見かけによらずとっても力持ちなんですよ」
ミカンは自身満々で応え、
「いいえ…それは見たとおりですわ」
クルミは紫竜の幼生に愛想笑いを浮かべると、ミカンに近付き耳元に口を寄せる、
「わたくしが心配しておりますのは、わたくしが乗らせていただいても、紫竜さんのご機嫌を損ねはしませんかということですってよ」
と訊いた。
「なーんだ、そんなことを気にしてたんですか、それならバッチリです心配要りませんよー、この子センパイのこと大好きですから」
クルミの小声に対し、ミカンは通常の声量のまま応えると、クルミはばつが悪そうに紫竜に会釈した、
「ミカン…、どうしてあなたはそうしていつもいつも、周りの空気をお読みになりませんの…」
『キッ』とミカンを睨んで抗議するが、それもミカンに対しては空しく通り過ぎた。
「それじゃー、行っきますよー!」
クルミが紫竜にまたがろうと手を掛けたところで、ミカンは紫竜へと出発の合図を送る、
「ちょっとお待ちになって…、わっきゃあああぁぁぁぁぁ…」
慌てて竜の尾にしがみ付いたクルミの悲鳴が遠のいた。
【】
≪フタラの大渓谷≫
「イーマーリーさーん、こっちでーいーいーですかー」
ダイヤ川を下流に下って行くと眼下に大渓谷が見えてくる、その大渓谷の始まる場所に落差が32丈(約97m)もの大滝がある、大滝の滝壺へ行くには山道を迂回して川の下流から大渓谷の底へと下りるが、落差の激しい岩場を抜けるためイマリは大渓谷の中腹までの案内となった、岩場に下りたリュウタロウは両手を振ってイマリへと訊く。
「…ー…ー…ーすー」
イマリも大声で応えるが、『ドドーッ』と流れ落ちる大滝の水音に阻まれ声は届かない、イマリは足元を確かめてから両手を振ると、リュウタロウの行く先を示すように手を大きく回した、
「こっちー!」
リュウタロウも手を大きく回して問うと、少ししてイマリは両手を頭の上にあげ丸の形を作った。
リュウタロウはイマリが示した方角へと進む、濡れた岩場にも関わらずいとも容易く飛び移っていった、もう既にイマリの位置からリュウタロウを見ることは出来ない。
リュウタロウが軽快に大渓谷を下って行くとダイヤ川が見えた、入り組んだ川の淵に沿って上流を目指す、四半刻(30分)程進むと川幅が急に広がり大滝が目の前に迫った、32丈(約97m)もの高さから流れ落ちる大滝の水量は途方もなく多く、滝壺に打ち付けられる水飛沫が舞い上がり辺りを白く染めていた。
その滝壺の周囲には巨大な岩がごろごろと転がっていた、リュウタロウは揺れる滝壺の水面を透かして見る、暫く見ていると水底に沈岩陰が浮かぶ、その岩陰が示す岩の大きさは辺りに転がる巨石の何十倍もの大岩であり、大滝から流れ落ちる水を長年受け続けた大岩の上面は丸くへこんでおり、大岩は滝壺の中心でどっしりと鎮座していた。
「さて、滝壺に沈んだ巨石は見つかったけど、ここでいったい何をすればいいんだろう…」
リュウタロウは呟いて周囲を丁寧に見回した。
…板屋でのこと…
「お帰りなさいませ、中宮では何か分かりましたか」
イマリがリュウタロウとトラノスケを出迎えた、
「おーいろいろと分かったでー、なーリュウノジ」
と応えたトラノスケは横目でリュウタロウを見る、
「うん、いくつか分かったんですけど、まずボクには行かなければいけない場所があります、イマリさん教えてもらえますか」
と、リュウタロウがこの足で向う勢いで言った。
「ええ、私に出来ますことは何なりと、でもまずは昼餉と致しましょう、お腹が空いていては良い仕事は出来ませんわ」
と笑った、
「ほんまや、わいは腹ペコでもう動かれへんでー」
そう言うと商売道具が満載の大箱を『ドスンッ』と肩から下ろした、
「じゃーまずは、腹ごしらえさせて貰おうかな」
3人は板屋の暖簾を潜った。
お膳を仲居と共に運んできたイマリがお茶を淹れた、
「中宮の巫女はんがゆーには、花嫁になるんは竜の子孫なんやと」
鮎の塩焼きに香の物と山菜の炊き込み、味噌汁の具はきのこである、トラノスケは鮎の塩焼きを頭からかぶりついていた。
「はい、私もこちらの温泉神社で聞いてまいりました、こちらの伝承では紫竜さまのご結婚について、2匹の竜より放たれし天に輝く赤い花々、金色の衣にて包まれしとき、天と地をつなぐ虹の橋となる、となっており、もう1匹の竜は漆黒の刀より出でたるとあります、ですのでご結婚なさるのは2頭の竜神さまなのだと思います」
イマリが応えた。
「ほー、漆黒の刀かいな…」
トラノスケは山菜の炊き込みをほお張りながらリュウタロウを見る、
「まーえー、女将はんが聞いた伝承よりな、中宮の巫女はんがゆーとった話のがえぐいこと言うとったでー」
トラノスケは黙ったまま味噌汁をすするリュウタロウから視線を移した、
「それはどのような…」
イマリが訊き帰す、
「それについては、こんあとリュウノジにきいてんかー、わいはわいで調べることがあるさかい、大滝へはいかへん」
(ごっそさん)と言うなり立ち上がった。
「ナチ様の行かなければならない場所とは大滝なのですか」
イマリはトラノスケを見送ると、リュウタロウへと尋ねた、
「うん、中宮のカグラさんが言うには、大滝に行って巨石を訪ねろって言うんだ」
と応える、
「大滝の巨石ですか」
イマリは首を傾げる、
「なんでも大滝の滝壺に沈んでいるとか」
リュウタロウは昼餉のお膳をすべて平らげると、手を合わせて頭を垂れた。
「それは難所ですねー、私では途中までしか案内できませんわ」
イマリは困惑の表情で応える、
「それで充分です、お願いします」
そう言うと太刀を腰に挿し落とした。
リュウタロウが板屋の玄関先でイマリの訪れを待っていると、暫くして勝手口からイマリがあらわれた、イマリは道中草鞋に脚絆で足元を堅め、更に手甲を着けた旅の姿である。
「それでは参りましょうか」
「あ・はい、お願いします」
普段の装いと大きく違うイマリにリュウタロウは驚いた、慌ててイマリの背を追いかる。
「あの、イマリさんには話しておいた方が良いかと思って…、聴いてもらえますか」
イマリと肩を並べて歩くリュウタロウが、イマリをのぞき見る、
「えぇ、私も訊きたいと思っていましたわ」
そう応えるイマリはリュウタロウに微笑む、
「この刀は朱雀っていうんですが…、この刀の刀身は地金の色が濃く出ていて、見ようによっては漆黒に見えるんです」
リュウタロウはイマリの表情を窺う。
「あー、さきほど私が話しました温泉神社の伝承ですね」
と応えると、リュウタロウの腰に刺さる鞘袋に入ったままの太刀を見た、
「ふー、もう気付いてると思いますが、さっきトラスケが言っていた竜の子孫とはボクで、竜は漆黒の刀より出るという漆黒の刀とは、この朱雀です」
大きく息を吐き出す、そして覚悟を決めたリュウタロウは鞘袋の紐を解くと、腰の太刀を引き抜いて刀身をイマリに見せた。
「これが伝承の刀ですかー、うーん・なんて言いますか…、割と普通ですね」
と屈託なく笑った、
「普通ですかー、例えばボクがナチの竜だったとしても…」
リュウタロウは太刀を鞘に戻しながら訊く、
「えぇ、そうですねーナチさんがナチの竜でも、私にはごく普通の青年にしか見えませんよ」
緊張気味に話しかけたリュウタロウだったが、イマリの対応に肩の力が抜けた。
「あのナチさん、べつに私は疑っているのではないですよ」
拍子抜けしたリュウタロウを見てイマリが言う、
「あーいえ、そうじゃなくって…、なんだかほっとしました」
リュウタロウ自身から賞金首であるナチの竜だということを告げたのは、これが初めてである、
「このことを、キサラギ様やアベ様はご存知ですか」
昨夜の会話だと、クルミとミカンがフタラの町に着たのは、ナチの竜を追ってのことだと承知しているイマリが訊いた、
「言える訳ないっすよねー」
困り顔で応える。
「それでは、どうしてナチさんはお2人と旅をされてるんですか」
「どうしてって…、行き掛かり上だけど…、ボク自身もナチの竜の噂には関係があるから、確かめに行くのはボクのためというか、それに彼女達だけで行動すると危なっかしくて見てられないというか…、どうしてなんでしょう」
と逆に問い、
「私には、皆さんの事情は分かりません、ですがナチさんの気持ちは分かる気がしますわ」
と笑いかけた。
「しかし、そうしますとオオトリ様には、ナチさんのことを気付かれるのは良くないですわね」
「いやー、たぶんもうとっくに気付いてます」
「まぁ、それなのに2人で中宮に行かれたんですの」
「そうですねー、たぶん中宮で確信したと思いますが、その後も変わりなくて…、トラスケは何を考えてるんだろう」
「迷っているのでしょうねー」
イマリとリュウタロウは暫くのあいだ無言で歩いた。
フタラの温泉街への入り口が見えた、旅籠の案内所の親父が顔を見せイマリに話し掛ける、リュウタロウは会釈をしただけで会話には入らず、フタラの町の案内図を見ていた。
「お待たせしてすみません、私も大渓谷の谷底へ下るのは初めてでして、道を確かめていました」
イマリが話の内容を告げる、
「お手数を掛けます」
と礼を言う。
「私としましては、板屋にお泊りのお客様が被りました災難ですので、最善を尽くすのは当然なのですが、ナチさんはどうなさるおつもりですか」
イマリの質問が唐突で、リュウタロウは首を傾げた、
「ボクは…、そっかー、ボクが彼女達を助ける理由ってあるのかな」
リュウタロウはあらためて自身に問い掛ける、
「いえ、そのような意味ではないのですが、ナチさんにとっても重大なことになりますでしょう、成り行きだけで行動するには少し荷が重いのではないかと」
そう言いリュウタロウを見上げた。
「ボクにとって大事なものというのは、この羽織と刀だけなんです、いや・それよりももっと大事なものが有りました、皆が命を掛けて守った郷の神の名前です…」
リュウタロウはしみじみと言う、
「ひょっとして、ナチの竜というのは、ナチさんの故郷で祭られている神様の名前ですの」
リュウタロウは目許にだけ笑みを作り頷いた。
「ボクが何よりも優先しなければいけないのは、ナチの竜という名を穢さない、穢させない事です、それがボクに出来る、せめてもの罪滅ぼしですから」
リュウタロウは前方を見据えて歩く、
「ナチさん…、ごめんなさい、立ち入ったことをお聞きしまして」
イマリはリュウタロウの様子を気にした、
「そんなことないです、イマリさんに言われるまで、ボクは何の為に行動しているのかすっかり忘れていましたから」
リュウタロウは明るく応えた、
「しかし、この度の事件でナチの竜に関わる内容といいますと…」
イマリが首を傾げる。
「たぶん、二荒山の紫の竜神に呼ばれたのはボクですね、というか招かれたのはナチの竜神である朱雀ですよね、やっぱり」
リュウタロウは渋い顔で応えた、
「まー、それでは伝承にあります2頭の竜神とは、紫竜様とナチの竜神様なのですね」
イマリの目が好奇心に輝いた、
「気のせいか…、イマリさんは嬉しそうに見えるんですけど」
リュウタロウは訝しい視線をイマリへ向ける、
「いいえー、そんなことないですよ、でもナチさん頑張って下さいね」
否定をするイマリの表情は明るかった。
…ダイヤ川大滝の滝壺…
「しっかし…、中宮のカグラさんは、俺にここでいったい何をしろっていうんだろね」
リュウタロウは滝壺に沈んだ巨石を見詰めた。
リュウタロウは背負ってきた道中嚢を下ろし、羽織をたたんで岩陰に置いた、腰から太刀を鞘袋ごと抜いて袋をはらった、朱色の鞘を左手に持ち、右手は竜の頭を象る細工があしらわれた柄を握る、ゆっくりと鯉口を切って刀身を引き抜いた。
「ほー、ほんまに漆黒の刀やわなー」
と言い、大滝の裏側からトラノスケが姿を見せた、
「何時から居たんだい」
リュウタロウは左手に持つ鞘を腰に落ち着けながら訊く、
「ほんの四半刻(30分)前からや」
トラノスケはひと際大きな岩の前に歩み寄ると、商売道具の詰まる大箱を岩の上に置いた、
「トラスケの調べ者も、この大滝だったのかい」
リュウタロウは右手に持つ太刀の切っ先を足元に寝かせる、
「そうや、わいはグダグダ考えるんは性に合わんのや、せやから確かめさせてんかー、リュウノジ・おのれがナチの竜やっちゅーことを!」
トラノスケは言葉尻に合わせて大箱を『バンッ』と叩いた、大箱の扉が両側に開き中から単筒に大筒、発破に撒菱などあらゆる武器が突き出した。
「目を瞑る訳にはいかないかい」
リュウタロウが訊く、
「きのうはほんまに楽しかったわ、あんな日が毎日続いたらえーと思うたで…」
トラノスケは単筒を手に取る、
「あぁ、本当に…」
リュウタロウの左手が太刀の柄に添えられた。
「ほな、行くでー!」
トラノスケは左右に持つ単筒を同時に撃った、滝壺を挟んで撃たれた弾丸がリュウタロウへと迫る。
リュウタロウは咄嗟に身を低く屈めて弾丸をかわすと、岩陰へと横っ飛びし、そのまま岩陰を走りトラノスケとの距離を縮める。
トラノスケは両手の単筒を手放すと大筒に持ち替えた、導火線に種火を付けて狙いを定める。
リュウタロウが大岩の上に飛び上がると同時に大筒が『ドーンッ』と火を噴いた、火薬の詰まった鉄球がリュウタロウを襲う。
リュウタロウは迫り来る鉄球へと更に踏み込む、火薬が詰まる鉄球を眼前まで引き付けると、炸裂するほんの寸前で上段に翳した太刀を振り下ろした。
鉄球が真っ二つに切り割られ、割れた鉄球はリュウタロウの左右へと分かれてすり抜ける、そしてリュウタロウの直ぐ後方で激しく爆発した。
リュウタロウはその爆風に煽られそのまま滝壺へと落下した、リュウタロウは太刀を口で咥えると、滝壺の中央で鎮座する巨石へと泳ぐ。
トラノスケは大筒を放り投げると、再び二丁の単筒を取りリュウタロウが水面に上がるのを待った。
リュウタロウは激しく流れ落ちる大滝の水流に抗いながら、必死に巨石へと泳ぐ、巨石に近付くにつれ、大滝からの激しい流れは水面近くだけのものだと気付いたリュウタロウは、さらに深く潜った。
水面を凝視するトラノスケは、姿を見せないリュウタロウに疑念を持つが、暫くしてもいっこうに現れないリュウタロウは、自らが放った大筒により斃れたのかとも思い始めていた。
「おい、こらーリュウノジー、ナチの竜がこんくらいで終わるわけあらへんやろー、さっさと姿を見せんかいなー」
滝壺に響き渡る大声で怒鳴った、トラノスケは目を凝らして水面を見るが、大滝から流れ落ちる水流が水面を揺らせるので水中の様子は分からない。
「堪忍してーなー、わいのはやとちりやったんか…」
トラノスケは構えていた二丁の単筒をだらりと下げた。
「いや、間違ってはいないよ」
トラノスケの背後から声が掛かる、
「なんや、生きとったんかい」
トラノスケは滝壺へと向いた姿勢のまま応えた、
「ボクは、間違いなくトラスケが追っているナチの竜だよ」
リュウタロウは滝壺に鎮座する巨石の下部に取り付いたあと、巨石をぐるりと回りトラにスケが現れた大滝の裏側から地上に出ていた、びしょ濡れのリュウタロウの手に太刀は無く、太刀は鞘へと納められていた。
「ほーか、んならわいを切れや、おのれはわいの敵なんやからなー」
トラノスケはリュウタロウに背を向けたまま二丁の単筒を落とした、
「ボクにはトラスケを切る理由が無い」
リュウタロウは無手のままトラノスケへと歩み寄る、
「そーか、言い忘れとったなー、わいの名はオオトリ・トラノスケ、つまりわいは大鳥国主の子供っちゅーことや、分かるやろー、わいはな12年前に杜の国と戦した大鳥の人間やーゆーとるうや!」
と言いリュウタロウへと振り返ったトラノスケの腰には、大小の刀が手挟まれていた。




