ゆけむり探検の奇跡①
≪人物紹介≫
☆ 那智竜太郎 19歳
正統なる杜国主の長男、現在浪人、百万両の賞金首であるナチの竜
☆ 如月胡桃 19歳
宇都宮国東宮家老の長女、東宮直営の乙女倶楽部所属の役人
☆ 阿倍蜜柑 18歳
古河国東宮用人の末娘、東宮直営の乙女倶楽部所属の役人
☆ 大鳥虎之助 22歳
大鳥国主の三男、妾の子、現在賞金稼ぎ
☆ 板屋の伊万里 26歳
フタラ温泉宿、板屋の女将
☆ 中宮の神楽 17歳
二荒山神社中宮の末娘、巫女
☆ 望月華音 12年前=14歳
リュウタロウの世話係、杜の宮の巫女
☆ 望月雷蔵 12年前=50歳
カノンの父親、12年前の杜国主、元杜国家老
☆ 那智時継 18年前=37歳
リュウタロウの父親、正統なる杜国最後の当主
☆ 那智瑞羽 18年前=19歳
リュウタロウの母親、元杜の宮の巫女
☆ 大鳥錬龍 27歳
大鳥国主の長兄、竜の力を継承
☆ 朔心月 62歳
大鳥国の国家老、軍師
*ここでの歳は満年齢にて記載
*話が進むにつれ改定あり
(2)ゆけむり探検の奇跡
≪フタラの町≫
ここは東宮より北へ三十里(約120km)ほど離れた場所にある、山間の温泉街を中心に発展した町である。
フタラの町へ入るには天然の切通を通らなければならない、切通の幅は狭く大八車が一台やっと通れる程度で、両脇に切立った崖の高さは十間(18m)を有に越えていた。
町の入口に起つ者は、皆が自然と天然の要塞を見上げた。
「ミカン、本当に此方で間違いございませんこと」
「バッチリですよ、任せて下さい」
お揃いの旅装束に身を固めたクルミとミカンが、フタラ町の入口を見上げていた。
「お任せしたい気持ちは大いに有りますのよ、有るのですが…」
クルミは編み笠を持上げて崖の上を覗き見る。
「まーまーセンパイ、過ぎたことをいつまでも引きずってたら、ナチの竜さんどっか行っちゃいますよ」
ミカンは顎紐を緩めると編み笠を背に回し、大きな伸びをする。
「わ・わかっておりますわ、そ・それでは参りますわよミカン」
「あいあいさー」
クルミはどこかぎこちなく言い、ミカンは『サッ』と右手を額に翳して応えた。
「しっかしさーこれって自然に出来たんだよね、うーん巨大な門だなこれは、この崖の上から岩が落ちてきたら一巻の終わりだねー」
リュウタロウは歩き出す2人に聞こえるように言う。
「お黙りなさいませ、リュウタロウさんの感想など結構ですってよ、それよりもあなたはどちらまでついて来るおつもりですの」
不安げに崖の上を見ながら進むクルミが振り返ると、リュウタロウを一瞥する。
「それはないんじゃないのー、ここに来るまでの旅費を立て替えたのはボクだよ」
「えーえー確かにそのとおりですってよ、ですがここから先はわたくし達のお仕事でして、リュウタロウさんには無関係ですわ」
背の低いクルミがリュウタロウに抗議するが、リュウタロウからは編み笠が邪魔をして膨らんだ頬しか見えない。
「はい・はい・わかってるって、ボクがフタラに行くのは、温泉につかって豪華懐石料理を堪能するためだからさ、きみ達の仕事には一切興味はありません」
「ずるーい!わたしもリュウタロウさんについて行きますー」
ミカンはリュウタロウの豪遊話に釣られた。
「ミカン、わたくし達はお仕事で参ったのでしてよ、どこぞの体たらくなお人とは違いましてよ」
クルミはリュウタロウに軽蔑の視線を向ながら言う。
「酷い言われよう、君には情というものが無いのかい、ボクだって人並みに傷付くんだよ」
「よーく言いますわ、出張旅費をきらせたわたくし達に対し、よくもそのように贅沢なお話を持ち出しておきまして、なーにが傷付きますーですの!」
「そーだ・そーだ、センパイの言う通りだー、悪いと思ったらわたし達の分もおごって下さいってんだ」
ミカンが右手を振り上げて、威勢良くクルミを援護した。
「ミカンちゃん、人格が変わってるよ…」
リュウタロウは腕捲りしながら詰め寄る2人に圧倒され、
「わかったから、そんなに睨まないでよ、2人分の宿代を出す、それでいいでしょ」
渋々《しぶしぶ》と了承した。
「豪華懐石料理もです」
ミカンはニッコリと笑うと、人差し指を起てて追加注文をした。
「君って、食べ物が関わると人格変わるの」
リュウタロウは眉根を寄せ訊ねた。
「えへへへ、よく言われます」
ミカンは照れ笑いを浮かべた。
ミカンとの交渉に冷や汗をかくリュウタロウへ、
「そもそも、ツリシの方々がどーかしているのですわ」
クルミがリュウタロウの胸を突付く、
「わたくし達が事件を解決しまして、赤マントに巻き上げられましたお金を取戻す予定でおりましたところに、リュウタロウさんのちょー偶然の産物が生み出しました、出鱈目津波警報が的中なさったからって、リュウタロウさんだけに命の恩人あつかいをなさるなんて、納得いきませんわ」
クルミの憤りが続く。
「うーん…わかった、リュウタロウさんは魔法使いなんでしょう」
リュウタロウの津波警報に対する答えである。
「いやー、偶然偶然…」
ミカンの射抜くような眼差しに、リュウタロウは冷や汗を流す。
「それに、あの後のことにしましても」
クルミは横を向くリュウタロウの顔を両手で挟み、強引に正面を向かせた、
「壊れた船の修理を遣らされますわ、津波によって港に打ち上げられた泥の掃除に、挙句の果てには、宿泊した旅籠の仲居までさせられるしまつですってよ!」
クルミは話しているうちに、数日前の記憶が蘇り、次第に怒りが込み挙げてきた。
「それは気の毒だと思うよ、でもそれをボクに言われても困るよ、それにボクだってちゃんと手伝ったんだから、公平でしょ」
クルミの怒りを治めようと、リュウタロウは笑顔で応えるが、
「なーにが公平なんですのー、リュウタロウさんが船の修理の行きますと、釣りたてのお魚を肴になさいまして、すーぐに酒盛りが始まりますし、港のお掃除だって子供たちと一緒になって泥んこ相撲なさっておりましたわ、お宿に戻れば戻ったで毎晩へべれけになるまでの大宴会ですってよ、こーれのどこが公平だと仰りますの」
クルミの怒りは治まるどころか、火に油を注いだ結果となる。
「そうですよー、わたし達は東宮の役人だからって、あんなに働いたのにお給料をいただけるどころか、宿泊代まで請求されたんですよー」
ミカンは両方の手で目元を押さえると、涙ながらに訴える。
「ですのに、リュウタロウさんには町を救ったお礼などと申しまして、多額の報酬までいただいたそうですわねー」
クルミは皮肉たっぷりに言い、
「わたし、お腹が空いてもう歩けませーん」
ミカンが腹に手をあてて、しゃがみ込んだ。
「もーわかりました、豪華懐石料理を付けます、だから何時までも根に持つのやめてね」
リュウタロウは『ハーッ』とため息を付き降参した。
「やったー!そーと決まれば【ぜんはいそげ】です、さー2人とも置いてっちゃいますよー」
ミカンは勢いよく飛び上がると、大手を振って歩き出した。
「彼女の言う【善は急げ】って、たぶん配膳の膳だよね」
リュウタロウは失笑しつつも2人の後に続いた。
3人が切通を進むと反対から7,8人の一行が下ってきた、
「これは珍しい、乙女倶楽部のお役人が御参拝ですかな、それともこちらでなにやら事件でも起こりましたかな」
話しかけたのはフタラ山神社への参拝に東宮より来た商人で、着物の商いをしている彩根屋の主人でソメエモンである、一行はその家族と奉公人だ。
「まー彩根屋様ではありませんか、このような所で奇遇ですわ」
崖の上ばかり気にしていたクルミは、声をかけられるまで気付かずに驚きの声を返す。
「まだ事件は起きてないんですけど、フタラの町にナチの竜さんが居るらしいんですよ」
ミカンも彩根屋とは顔見知りで、屈託無く機密情報を漏らした。
「ナ・ナチの竜ですってー、それは本当のことですかいな、こーしちゃーいられないさっさと山を降りますよ」
ソメエモンは一行に言うと、大急ぎで駆け下りる、
「あぁ・彩根屋さまー、このことはくれぐれもご内密にー」
走り行く一行の背に向ってクルミが叫ぶが、その声は届いたかどうか、
「あれ、どうしちゃったんでしょうねー」
ミカンは走る去る一行を、手を翳しながら見送り、
「ミカン…、ナチの竜に関する情報は一切話してはならないと、あれほど申しましたのに、あなたって子は…」
クルミが言い寄ると、ミカンは『パンッ』と手を叩いて、
「忘れてましたー」
という応えが返った。
その後ろでは、リュウタロウが逃げ出した一行を見送ると、ガックリと肩を落とした。
【】
≪フタラの温泉街≫
【ようこそ、フタラ温泉へ】と書かれた看板を過ぎ暫く行くと三叉路となる、三叉路を右側に向うと東国一の大渓谷があり、左側に向かうと渓谷を渡す朱色の神橋がある、正面へとまっすぐ進むとフタラの温泉街である。
リュウタロウ達3人は、温泉街の入り口にある旅籠の案内所で今晩の宿を探した。
「センパイ見てくださいよー、この厚焼きのしし肉、血が滴るような焼き加減だとたまりませんよね、ねーここの宿にしましょうよー」
ミカンは【極楽苑】という名の宿を紹介する記事に見入り、夕餉の挿絵に食い入っていた、ミカンは肉食系女子である。
「ミカン、ここは温泉地ですってよ、つまりお風呂が1番良いお宿にお泊まりしますのが、醍醐味というものですわ、そしてそれは…ここですわ」
クルミは狙い定めた記事を指し示した、【憩の刻】と書かれた宿には五種類の天然温泉と、女子に大人気の美肌の湯と書かれていた。
「えーお風呂が良くっても、ご飯が山菜料理ばっかりじゃないですかー」
「なにを仰いますの、山に来たのですから山の幸を頂くのが1番の贅沢というものですってよ」
案内所の記事を振りかざしながら、お互いに一歩も引かない女子たちに、
「あのーきみ達、お金を払うのはボクだよ、当然ボクの意見に従ってくれるよね」
リュウタロウは恐る恐る訊ねた。
「と・とーぜんぜすわ、わたくし達そこまで厚かましくはないですわよ、ねーミカン」
クルミが恥ずかしそうに言と、
「リュウタロウさんは、こっちの極楽苑の方がいいですよねー」
クルミに同意を求められたはずのミカンは、自分が手にしていた広告をリュウタロウに見せていた。
「あーうん、どれどれ…」
リュウタロウが広告を覗き込む、
「あー卑怯者」
クルミが叫ぶ。
「リュウタロウさんが選ぶんですから、センパイは黙ってて下さい」
ミカンは両手を広げて、クルミの行くてを阻む、
「リュウ・タ・ロウ・さん…、こちらの・方が・よ・ろ・し・く…ってよ」
クルミはミカンに阻まれながらも、必死に憩いの刻の広告をリュウタロウに差し出す。
「いやーお客さん、両手に華で羨ましい」
宿の案内所に働く60がらみの親父が言う。
「いやーボクがいけないんですよ、2人の気持ちは嬉しいんだけど、2人のうちどちらか1人を選ぶなんて…、そんなかわいそうな事ボクには出来ない、あー罪深いボクをお許しくださいー」
リュウタロウは胸に手を当て、目を潤ませながら言うと、もう一方の手を天井へと翳した。
「リュウタロウさん!人が聞いたら勘違いなさるような仰り方をなさらないでいただけますこと、わたくし達はお仕事でこちらに参りましたのですわ」
リュウタロウをひと睨みすると、案内所の親父に訂正した。
「そーだったんですかー、それならもっと早くに言ってくれればいいのに、リュウタロウさん、わたしが身を引きますから、センパイをどうか幸せにして下さいね…う・う・う」
と、ミカンが泣き真似をすると、
「ミカン!なんてことを仰いますの」
クルミが噛み付くと『テヘへ』と舌を出すミカン、リュウタロウと案内所の親父が顔を見合わせて笑う。
「きーめた、ここが好い、ねーここにしようよ」
リュウタロウはクルミとミカンが示す広告とは別の物を指差す、
「おっ、お目が高いね、ここは良い宿だよ」
案内所の親父が受けあった、
「ほんとーっすかー、それは良かった」
男達が満足気に笑ってうなずき合う。
リュウタロウが選んだ旅籠は【板屋】と書かれた宿である、記事の内容はこれといって派手な特徴は無く、宿の一番の自慢は情からの御もてなしであった。
それでもリュウタロウと案内所の親父は目尻を下げて、ニコニコとうなずき合っていた。
リュウタロウが指し示した広告を覗き込むミカンとクルミは、
「えーここですかー、…わたしのお肉がー」
「あぁ…美肌の湯が…はぁ」
と、2人が同時にガックリと肩を落とした。
【】
≪板屋旅館≫
フタラ温泉街の最奥に位置するこの旅籠は、一見こじんまりとした平屋の木造造りだが、奥が開けていて客室は14部屋あり、風呂も内湯と外湯がそれぞれ男女別に有るから計四つの風呂がある。
とりわけ女子の外湯は凝った造りをしており、広さも充分にある、湯船には旅籠の裏手に沸く源泉から直接湯が注がれ、乳白色の温泉が一日中かけ流されていた、乳白色の温泉には美肌効果が含まれるので、図らずもクルミの願望は達せられることとなる。
「ようこそ板屋へ、遠路はるばるお越しくださいましてありがとうございます、本日はごゆっくりお寛ぎくださいませ」
リュウタロウ達の到着を予期していたように、玄関先で出迎えた板屋の女将と女中たちは深々とお辞儀する。
「ボクの名前は【ナチ・リュウタロウ】と言います、貴女に出会うために山を越え、海で津波にのまれ、さらにまた山に登って参りました」
リュウタロウはいつのまにか女将の隣へと並ぶと、女将の肩に手を廻して名乗った。
「まーどこかの【賞金首】のようなお名前ですこと」
女将はリュウタロウの手をそれとなく退けて言うが、
「よく言われますが、それは他人のそら名前というものです、それよりもお美しい貴女のお名前を教えてください」
女将の肩から外す手を、すかさず両手で握り締めて名を尋ねる、
「お若いですね、私は板屋の女将をさせていただいております【イマリ】と申します」
リュウタロウの行動に『フフッ』と笑ってから名乗った。
「イマリさんですかー、お名前も美しいー」
だらしない笑顔で応えた。
「なんですの・アレわ、広告には女将の似顔絵など載っておりませんでしたわよね」
クルミはミカンの耳元で囁き、
「えーなかったと思います、…それにしても、すっごい美人ですねー、リュウタロウさんはどうやって選んだんでしょう」
ミカンはイマリに見とれて言うと、
「おーい、2人ともー早く部屋に行こうよー」
リュウタロウはいつにも増してにこやかであった。
「本日のお部屋は弥生の間と皐月の間をご用意させていただきました、部屋割りはリュウタロウ様とクルミ様が弥生の間に、ミカン様が皐月の間でよろしいですよね」
板屋の女将であるイマリが笑顔で尋ねる。
「お待ちになって!ご冗談はおよし頂けますこと、どこをどのように見ますとその様な部屋割りが成り立つと仰りますの」
クルミは赤く染めた顔を隠すように、肩を怒らせながら抗議する、
「まーまー、そんな角の立つ言い方をしなくても」
と、宥めるリュウタロウだが、当人も困惑の表情である。
「こ・これは大変失礼しました、私てっきりお2人が婚約されているとばかり…」
イマリは慌てて詫びると、何度も何度も深く頭を下げる、
「どうしてリュウタロウさんとセンパイが婚約してると思ったんですか」
ミカンが聞く、
「はい、先ほど案内所のサクゾウさんから書付が来まして、小柄の方の女性と背の高い色黒の男性が好い仲だと…、それでてっきり、本当に申し訳ございません」
イマリは袖の中から、一枚の紙を取り出した。
「ミカン!あなたがご冗談を言いますから、このようなことになりますのよ」
案内所での一幕を指しての叱責である。
「でも女将さんは2人を見て勘違いしたんですから、やっぱり2人はお似合いなんですよー」
「それは・だんじて無い!」
「ありえませんわ!」
悪びれることなく言うミカンに対して、リュウタロウとクルミは声を揃えて否定した。
「そういたしましたら、ナチ様が弥生の間をおつかい戴きまして、キサラギ様とアベ様が皐月の間をおつかい戴くということでよろしいでしょうか」
イマリは宿帳に目を通しながら、これ以上の状況悪化を阻止すべく、3人に確認を取る。
リュウタロウは中年の仲居に、クルミとミカンはイマリに各々《おのおの》の部屋へと案内される、茶と茶菓子をもてなされると館内の説明を受ける、それから食事の時間を決め、そそくさと浴場へ向った。
「うっわーなにコレー、まるで牛乳の風呂だよ、なんだか浸かるのが勿体無いようだな」
リュウタロウが外湯に来ると、脱衣所から湯船を覗いた。
「湯気が立ち込めてて視界がいまいちだけど、夜は満天の星空が見れそうだよな」
言葉とは裏腹に勢いよく湯船に飛び込むと、空を見上げてほくそ笑む、
「しっかしいいのかなー、こんなに立派な風呂をボクだけで貸し切っちゃってて」
言いつつ、あらためて周囲を見回す、
「おや、アレはなんだ…」
乳白色の湯船を隔てた反対側には竜の形をした置物があった、リュウタロウは置物へと湯船を泳ぎながら移動する。
「なんだーコレ、うーん口から温泉が出るわけじゃないみたいだし、たんなる置物としては不釣合いだよな、と言うか…精巧すぎて気味が悪いよ」
竜の置物をまじまじと観察する。
「止め止め、あとでイマリさんにでも聞いてみよっと」
リュウタロウは身震いすると、竜の置物から逃げるように湯船に戻った、
「うわーセンパイって着痩せするんですねー、こんなにぼりゅうむがあるなんて知りませんでした」
ミカンが感嘆の声をあげる。
「お止めになって、人に見せるようなものでは御座いませんわ」
クルミは髪を纏めようと、手にしていた手拭を胸に当てた、
「そんなに恥ずかしがらなくても大丈夫ですよ、ここは女子風呂なんですからー」
ミカンは両手を広げて周囲を示す、脱衣所にはクルミとミカンの2人だけしかいないが、3個の籠に衣類が入っていた。
「わたくし・このように大勢の方と、ご一緒に入るお風呂は始めてですの…」
クルミは小声で恥じらいながら言い、
「あーそれでですかー、センパイが選んだ旅籠には貸切風呂が有りましたもんねー」
ミカンは謎が解けたとばかりに喜ぶ。
「えぇ・まーそういうことですわ、そ・れ・を・あのオタンコナスときましたらー、女将さんが美人だからという理由だけで、宿をお選びになるなんて許せませんわー」
クルミは胸の前に握り拳を作る、
「そーだそーだー、わたしの厚切お肉を返しやがれってんだー」
ミカンは腰に手を当ててふんぞり返ると、クルミの調子に合わせた。
「2人ともまだ根に持ってるよ…、それにボクは女将さんが美人だからここにした訳じゃないんだけど、って・ひとりで言い訳をしてもしかたないか」
リュウタロウが脱衣場へ戻ると、隣からクルミとミカンの声が聞こえた、その会話に対してのぼやきである。
「しかし、こーも筒抜けだと、…問題は無いのかな」
クルミ達の会話に聞き耳を立てながら言う。
リュウタロウが女湯側の壁へと視線を投げる、
「君、そこで何やってんの…」
褌一丁の男が壁にしがみ付いていた。
「しー、見たら分かるやろ、声かけんといてや!」
褌の男は慎重に壁をよじ登りながら言った、
「まーだいたいのことは分かるけど、それを黙って見過ごせってゆーのかい」
リュウタロウは手拭を肩に掛けたまま、腕を組んで男を見上げる、
「なんや・にーちゃんも覗きたいんか」
褌の男がリュウタロウに視線を向けるとにっこりと笑った。
「いや・それはまーボクも男だから見たくない訳は無い、でもそれって犯罪行為だし…」
首を捻りながら唸り、
「いや・生物学的に見れば雄とは雌を口説かなくてはいけないんだ、雄が雌を口説き雌が雄を受け入れることによって、命は受け継がれてゆき種の繁栄が成されるのだから…」
「はっきりせんやっちゃなー、見たいなら見たい、見たくないなら見たくないとどっちかにせー」
リュウタロウの独り言に、業を煮やした褌の男が声を荒げた。
「分かった!雄は壁を登れってことだよね、うん」
そう自分にいい聞かせた、辺りを見回して椅子を運んで来ると『ぴょんっ』と椅子に飛び乗る、そのまま勢いをつけ壁の上部に飛びついた、
「アイターーー!」
リュウタロウは悲鳴をあげ壁から落ち床で転げまわる、右手にはトラバサミの罠がぶら下がっていた。
「うおー、ごっつい仕掛け施されてるやんけー、危なかったわー」
褌の男は繁々《しげしげ》とリュウタロウの手に注目した、
「見てないで取ってよー」
「しゃーないなー、こっちよこしや、どれどれ…うんりゃー」
リュウタロウは震える右手を左手で押さえながら、褌の男へとトラバサミを差し出した、
「ひぃええええーーー」
「あらら…、誰かひっかっかたみたいですねーセンパイ」
「ほーら・わたくしの言ったとおりでしてよ、このように警戒能力の低い場所では、ちゃーんと自己防衛をいたしませんと、ゆっくりと温泉にも浸れませんことよ」
クルミが誇らしげに胸を張る、
「何方か知りませんが…、お気の毒さまです」
ミカンは壁に向って手を合わせた。
【】
宴部屋≪上弦の間≫
風呂からあがったリュウタロウがひとりで地酒を呑んでいる。
「ねーおねーさん、イマリさんはどこにいるの」
リュウタロウは配膳に来た仲居さんに尋ねた、
「女将ですか…、先程までは厨房に居たんですけどねー、そういえばどこに行ったのかしら」
仲居は愛想良く応えた。
「おーさっきのにーちゃんやないか、なんやにーちゃん連れがおるんか」
仲居が障子を閉めようと膝を着くと、その後ろから男が顔を突き出した、
「あーさっきの覗き魔-」
リュウタロウが指差し仲居が『サッ』と男を睨むと、男は顔の前で手を振り、
「ボケー、人聞きの悪いこと抜かすなー、嫌やなーわいがそんな事するよーに見えますー」
男は仲居に愛想良く笑い掛けてから、
「ねーちゃん、わいにも酒持ってきてくれんかー」
「お客様の夕餉はあちらでご用意しておりますが」
「こんまいこと言わんと、頼むわー」
「おい、君はここに居座るきかい…」
「なにゆーてんねん、さっき修羅場くぐった仲やないかー」
その言葉にリュウタロウがたじろぐ、男はお構い無しにずかずかと部屋に入った。
「宜しいのですか」
仲居はリュウタロウへと尋ねた、
「あーいいのいいの、ちょっと勘違いがあっただけでもういいんだ、それよりもこのフタラの地酒は最高だね、まろやかなのにのど越しがスッキリしていてさー」
作り笑いを浮かべて言った、
「宜しければ他にもおすすめ有りますよ、お試しになりますか」
「それはえーなー、あんじょう頼むは」
リュウタロウの猪口を一口に空けた男が、右手に空の猪口を掲げながら言った。
仲居が障子を閉じて居なくなるのを確かめてから、
「あのさー」
「そーしけた面すんなや、どうせ飯盛り女目当ての野郎旅なんやろー」
男はリュウタロウの猪口に徳利を傾けながら言う。
「そんなんじゃないよ、それにボクの連れは…」
「リュウタロウさん、お待たせしましたー、さー早くご飯にしましょう…」
桃色の生地に、黄色いユリの花柄をあしらった浴衣に身を包んだミカンが障子を開け、
「まーリュウタロウさんってば、もー呑んでおりますの…」
呆れ顔で言うクルミは、黒い生地に赤い大きな牡丹の花柄があしらわれた浴衣を着ていた、2人は敷居の前に立つと、見慣れない男の存在に部屋に入るのを戸惑った。
「へーー、2人ともよく似合ってるねー見違えたよ」
と言うリュウタロウのこめかみから、一粒の汗が流れた、
「なんやーこの別嬪さんわー、にーちゃんの連れはむさい野郎やないんかー」
クルミとミカンに見惚れた男の手には傾けた徳利があり、徳利からは酒が流れ続け猪口から溢れた、
「うわ・おい、酒・酒ー」
「酒の話しとるんちゃうわー、この別嬪のねーちゃん達がおどれの連れかっちゅー話や」
徳利を勢いよく置くと、男はリュウタロウを問い詰める。
「喜んでいただけましたか」
2人から遅れてやって来たイマリが顔を覗かせた、
「イマリさん!」
リュウタロウは男の顔を押し退けて言うと、喜色を浮かべた。
「あら、オオトリ様もこちらでしたか」
イマリはリュウタロウに押し退けられた男に告げた、
「女将はん、このにーちゃんの連れがこちらの別嬪さんゆーんは、ほんまでっか」
頬を潰されながらも前に出る、
「然様でございますよ」
イマリからの回答を得た男はリュウタロウへと向き直る、
「にーちゃん、えーご身分やのー、われはなにもんや」
「人に尋ねるときは、自分から名乗るのが礼儀でしょう」
互いに睨み合う。
「そーやな・わいから名乗ろか、わいは【オオトリ・トラノスケ】や・よろしゅー、ちなみにわいの商売は【賞金稼ぎ】や!」
オオトリ・トラノスケが右手を突き出して握手を求めた、
「おっほん、ボクの名前は…タケミカヅチノミコト・ニニギ・オオクニヌシ・スサノウ・ツクヨミノ・アマテラスです、どうぞよろしく」
と名乗りながらリュウタロウがトラノスケの手を取った、
「なにかのお呪いですか、ナチ・リュウタロウさん」
いつのまにか着席したミカンがリュウタロウに問う。
「なにも名字まで言わなくてもいいじゃない…」
リュウタロウは隣に座ったミカンに泣き顔を向ける。
「ナチ・リュウタロウやとー、おどれはあのナチの竜と同姓同名っちゅーんかい!」
トラノスケは握手した手に力を込めた、
「よく言われるんだよねー、でも他人のそら名前ですから気にしないでねー」
リュウタロウも力一杯握り返す、
「なかなかやるやんけ…、でもなーこれでどうや!」
トラノスケはリュウタロウの指先を強く握った、
「ひぃええええーーー」
リュウタロウが悶絶する、
「かっかっかっか、あっほやなーリュウノジ、さっきトラバサミで挟まれた手ーで握手なんぞしくさってー」
トラノスケが腹を抱えて笑う。
「少しよろしいかしら…、トラバサミで挟まれたとか仰っていましたが、それはいつ・どちらでのことで御座いますの」
クルミが笑い転げるトラノスケの横に『スーッ』と近付いて尋ねる、
「あーそれなー、ついさっき内湯でひとっ風呂浴びた後に、そや外湯もちょっくら入っとこかーおもて脱衣所いくと、隣から若い女の声が聞こえるやんか、わいはなんてついてるんだろと一目散に浴衣脱いで壁にへばりついたんや…」
トラノスケは楽しそうに風呂場での出来事を語っていると、リュウタロウは身振り手振りで必死に止めろの合図を送る。
「なんや、面白いんはこれからやろ、黙って見ときー」
トラノスケがリュウタロウを追い払うように手で扇ぐ、
「そんでなー、わいが壁にしがみ付いてると」
「いいえ、もうおおよその事は分かりました、それ以上の説明は結構ですわ」
クルミはそう言いながら左手を振袖の中に引っ込めた、
「つまり、トラノスケさんが女湯を覗こうとしているところに、リュウタロウさんが現れまして、お2人が共謀なさって女湯を覗こうとしましたところ、リュウタロウさんだけがトラバサミに掛かりましたということですわね」
クルミは不適な笑みをたたえながら、振袖にしまった左手をトラノスケに差し出す、
「すごいなーねーちゃん、まー簡単に言えばそんなとこや」
トラノスケは差し出された手を取ろうと振袖の中に手を差し込んだ、
「うゎいたあああーーー」
雄叫びと共にひっくり返ったトラノスケの手には、トラバサミがぶら下っていた。
「まったく男という生き物は、どうしてこうも破廉恥極まりないのでしょうか、汚らわしいですわ、ミカンあちらで召し上がりましょう」
ふん、と顔を背けたクルミがミカンに言う、
「わたしは平気ですよ、男の子が助平なのは仕方ないですよ」
ミカンは既に前菜を平らげ、山女の造りに手を付けていた。
「ねーちゃん、ほんまえーこと言うなー、名前おしえてんか」
トラノスケはリュウタロウを席から追い出すと、ミカンの手を両手で握っていた、
「なまえれすかー、わらひはアヘ・ミハンれす」
山女を頬張りながら応えた、
「ミハンちゃんかー、素敵な名前やなー」
両手で握ったミカンの手に頬擦りした、
「アベ・ミカンちゃんだよ!こちらはキサラギ・クルミさん、言っとくけど・それ以上やってると命の保障は出来ないよ」
席を奪われたリュウタロウが訂正と、紹介と、忠告をした。
「なんやリュウノジ、まさか・ミカンちゃんとおどれはできとるんかい!」
「違うよ、ボクは何もしないけど…」
リュウタロウは『チラッ』と隣を見ると、クルミが両手を握り締めて小刻みに震えていた、
「せ・せやなー、のも・のも…、女将はん酒まだかいなー」
クルミと目が合ったトラノスケは、恐る恐る手を放すとイマリへと言った。
「ええ、ご用意できておりますよ、キサラギ様もお席に着いて下さいな」
イマリは一同の遣り取りを見ながら『クスクス』と笑っていた、
「おひとつどうぞ」
イマリに進められたクルミは渋々受けた、
「イマリさん、ボクにもお酌してください」
リュウタロウが猪口を差し出す、
「あら、ナチ様はキサラギ様に注いでいただかないのですか」
イマリは今にも吹き出しそうな顔で応える、
「なぜ、わたくしがこのような破廉恥に」
「どうして、ボクがこんな破天荒に」
同時に言う2人が互いを睨む、その予想された光景にイマリの笑いは止まらない。
「息ぴったりやん…」
トラノスケは珍しいものを見るように言い、
「羨ましいですよねー」
ミカンがトラノスケに同意を求めた。
「それは置いときまして、どうですかお2人の浴衣姿は」
イマリはクルミとミカンへと両手を広げて言った、
「ステキですよねー、おかみさんが特別に用意してくれたんですよー」
ミカンは浴衣の袖を持ってひと回りし、嬉しそうに応え、
「わたくしは遠慮したのですけど、女将さんが是非にと仰いますので…」
クルミはほのかに頬を赤めた。
「そりゃもう、大輪の華が咲いたみたいやわ、なーリュウノジ」
「あ・あぁ、とても好く似合ってるよ」
「先程は大変失礼な誤解を致しましたでしょう、せめてものお詫びになればと思いまして」
イマリはリュウタロウに意味深な笑顔を向けた、
「性懲りにもなく、おどれはなんぞしくさったんかいなー」
「勝手に人を加害者扱いしないでよね」
「その件に関しましては、わたくし達は被害者ですわ」
一同の視線はミカンへと向けられた、
「えへ、わたしの顔に何か付いてますか」
ミカンは小首を傾げて笑う、クルミとリュウタロウは『ハアッ』とため息を漏らした。
「お客さんお待たせー、あら女将さんこちらにいらしたんですか」
フタラの地酒を角樽ごと持って仲居があらわれた、
「ええ、こちらのお客様に浴衣の着付けをしていましたのよ」
イマリが応える、
「まーお2人とも、とってもお似合いよー」
仲居がクルミとミカンを見て感想を述べた。
「なんかすごいの持ってきたけど…」
リュウタロウは角樽を見る、
「これくらい楽勝ですよ、さー今日はリュウタロウさんの奢りです、お酒とお肴をじゃんじゃん持ってきてください」
角樽を見て渋い顔をするリュウタロウへ、ミカンは元気よく言った、
「ほんまかーそりゃおおきに、遠慮なくよばれるわ」
トラノスケは徳利を掴むと、空の猪口をミカンに差し出す、
「だれも呼んでねーよ!」
ミカンと勝手に打ち解けるトラノスケに、リュウタロウが叫ぶ。
「そんなつれないこと言いよると、リュウノジの首に縄つけて代官所にしょっ引くでー、なんせわいは賞金稼ぎやからなー」
にんまりと笑って、脅し文句を言う、
「だからそれは人違いだって言ってるでしょう」
「そんなん知るか、決めるんは役人やさかいな、わいは銭さえもろたらええんや関係あらへん」
「無茶苦茶だなー君は…」
リュウタロウはすっかり威勢を欠き、
「君やのーてトラノスケと呼びー、ちゅーこってリュウノジも気持ちよく了承しよったでー」
うなだれるリュウタロウと対照に、トラノスケは満面の笑みをミカンに向けた、
「それじゃあ、景気よく乾杯しましょう、かんぱーい!」
ミカンの音頭でフタラでの宴会が始まった。
「ボクは、ちょっと厠に行ってきまーす」
リュウタロウは小声で言い、ひっそりと席を立つ、
「ナチ様、くれぐれもトラバサミにはご注意くださいませ」
笑いを堪えるイマリ、
「あはは…、気を付けます」
リュウタロウは頭をかきながら上弦の間を出た。
【】
「トラスケの奴はどこまで本気なんだか…」
リュウタロウは小便をしながらぼやく、
「まったく、みょーなことになったよ」
リュウタロウは腫れ上がった右手を見つめた、
「ボクがこんなことするなんてね」
外湯での出来事を思い出すと、笑いが込み上げてきた。
「あれ・何だろう…、向こうは外湯の方だよな」
厠の格子越しに夜空を眺めると、外湯の方からうす紫色の湯煙が立ち昇っていた、
「は・ははは…、あれしきの酒で酔いがまわったのか…」
リュウタロウが眺めていると、うす紫の煙は徐々《じょじょ》に渦を巻き始めた、渦を巻く煙は大蛇のようにとぐろを巻き、暫くするととぐろは鎌首を持ち上げた、鎌首はぐるりと周囲を見回すと天に向って昇り始めた、一匹の大蛇と化したうす紫の煙はそのまま天空へと消えていった。
「…錯覚・錯覚っと、さー部屋に戻って呑みなおそーっ…」
と、自らにいい聞かせ上弦の間へと急ぐ、その途中何度か振り返りるが特に異変は無かった。




