死体買います
津田直樹は、三本目のタバコに火をつけた。換気扇は、あがる紫煙を掃除機のように吸い込んでいく。
何故、あんなことをしたのか。それは今になっても分からない。これが殺人であることは分かっている。だが、罪を犯したという罪悪感は宙ぶらりん、落ち着く場所もなくふわふわと浮かんでいる。
自分が人殺しになったという実感が、ちっとも湧いてこない。足元を歩くアリを踏みつぶした時のちょっとした不快感との区別がつかない。人の命は、こんなにも軽いものなのか。テレビの向こうの中東の難民を見ているかのようだ。だが現に、部屋の真ん中には倒れた机と、物言わぬ直美の死体が転がっている。絞め殺したのか、殴り殺したのか。血が流れていないところを見ると、おそらく絞め殺したのだろう。この手にも、なんとなくその感触が残っている。あの感触。忘れることはないだろう。
三本目のタバコが、灰になった。
むせながら、直美の傍に歩み寄る。こう改まって見ると、いい女だ。俺にはもったいないくらいの女だ。物言わぬ死体になった彼女は、生きていた時よりもずっと美しい。口を開かなきゃ良かったのに。そうすれば、こんなことにはならなかっただろう。後の祭りだ。もう、どうしようもないんだ。警察を呼ぶか、それとも救急車か。いや、どちらもめんどくさい。もう、どうでもいい。捨て鉢な気分で、また換気扇の下へ。
すると、直美が動いた気がした。振り返る。直美は動かない、動くはずがない。死体は、喋ることも、動くことも無いのだ。でも、ジッと見てしまう。今にも動き出して、俺をなじるんじゃないだろうか。そんなオカルトな考えをめぐらしながら、手探りでタバコを取り出そうとする。取れない。ソフトはこういう時不便だ。イライラする。このイライラは、タバコのせいだけなのだろうか。やっとの思いで取り出したタバコは、クタクタになっていた。
まるで、今の直樹の気持ちを代弁するかのように。
チャイムが鳴った。
ネズミのように驚く。蚤の心臓が止まりかける。
また、チャイムが鳴る。
警察か。いや、早すぎる。では誰だ。お隣さんか、大家か。どっちでも困る。やはり無視するべきか。だが、居留守はバレた後が厄介だ。なにが後々問題になるか分からない。ここは自然に出て、丁寧に追い返そう。吸いさしのタバコを乱暴に灰皿に放り込み、玄関に行く。靴が目に入る。あいかわらずグチャグチャに置いてある。俺と直美の悪い癖だ。靴は出しっぱなし、ほったらかし。あいつ几帳面なのに、こういうところが抜けてる。本棚の漫画は一から順にきれいに並べてるのに、靴はどうして並べられないんだ。まぁ、俺も人のこと言えないが。あぁこんな時に、笑みがこぼれやがる。
またチャイムが鳴った。
『鳴ってるよ』
そう急かすなって、すぐ出る。ドアに近づいた。ドア越しに、誰かが立っているのが分かる。心臓がバクバクいう。落ち着け、落ち着くんだ。これは、なんでもないことなんだ。いつも通り、適当に対応すればそれで終わり。別に部屋に上がり込んでくるわけじゃないんだから。額の汗を乱暴にシャツの袖口でぬぐう。それから、手ににじむ汗をズボンで何度も拭き、ノブを掴んで、ドアを開ける。もちろん、チェーンをかけて。
「あ、どうも。津田直樹さんですか?」
「そうですが」
よし、うまく声が出た。
「いや良かった、ご在宅で。また来るのもなんかいやらしいですしね」
「あなたは?」
「あ、これは失礼。私」
「浄水器は買いません」
「いえ、むしろ私は買い取りに来たんです」
「買い取り?」
「はい。お持ちの死体、売って頂けませんか?」
時間が、止まった。なんで、どうして、いつ、なぜ。頭の中で言葉が反響するが、口からは出てこない。ただ、半開きになるだけだ。首筋をぬるい汗が流れていくのが分かる。まずい。なにか、なにか言わなくては。しかしどれだけ急いても、なに一つ気の利いた言葉が思いつかない。ただただ、怯えた子猫のように、戸惑うだけだ。
「こみいった話になりますので、部屋に上げて頂けませんかね」
やめろ、上げるな。上げたら終わりだ。だってそうだろう?
「部屋、間違えてませんか?」
「いいえ、ここです。あなたの家で間違いありません」
「そう、ですか。」
ドアを閉めろ。そして無視すればいい。それでまるく収まる。さぁ、閉めろ。閉めるんだ。
「上げて、頂けませんか?」
やめろ、あげるな、追い返せ! そう叫ぶ声が、頭の中で響きまわる。思わず叫び出してしまいそうだ。
自然と目線が下がる。まともにこいつの顔を見ることも出来ない。
『直樹、なんでこっち見てくれないの?』
後ろを振り返る。直美が、こちらを見ている気がした。
「あの、津田さん?」
『目、そらさないで』
あぁ、そうかよ。こいつを上げりゃいいんだろ。分かったよ、今、開けてやる。
いったんドアを閉め、それから、汗ばんだ手でチェーンを外した。それから、どうにも気になるので足元の靴を少し整理する。いらないものは片付けないと。直美はもう靴を履かないのだから。こんな時に、妙に頭がさえやがる。忌々しい、ずっと混乱していられればこんな思いしなくてすむのに。
こんなものか。一度深く息を吐き、ドアを開けた。
「どうぞ」
「失礼します」
その男は、小奇麗な喪服を着ていた。髪の毛も綺麗に撫でつけてあり、清潔感がある。それに、はりついた笑顔。普通、常に笑っているやつを見ると薄気味悪く感じるものだが、この男のそれは違う。不自然だが自然で、なんの違和感も感じさせない。きっと、生まれた時からこの笑顔をたたえていたんだろう。そんな非現実的な考えに、妙に納得してしまうのが我ながら不思議だ。今会ったばかりのこんな胡散臭い男の、いったいなにを俺は知っているというんだ。
男は靴を脱ぎ、奇麗にそろえて部屋に上がった。その所作は非常に丁寧で、好感が持てる。この喪服の男は、中々礼儀がしっかりしている。自分のことは棚に上げ、俺はそう、このあやしい男を値踏みした。
「タバコ、吸われるんですね。銘柄はラッキーストライク」
「よく分かりますね」
「私も吸うので」
何故だろう、安心する。どうして喫煙者は、喫煙者と話すと落ち着くのだろう。これがタバコの連帯感か。それは、たとえ初対面の怪しい男とであっても感じることが出来るのだ。この男は信用できる、間違いない。自分の吸っているタバコを知っている。それだけのことで目の前のこいつが、十年来の友人のように感じられる。だから、大丈夫なんだ。そんな根拠のない、非常に危うい自信がわいた。
『だから直樹は騙されやすいんだよ』
そんな直美の声が、聞こえた気がする。
部屋に上がった男は、無遠慮にジロジロと直美の死体を観察してから、まさぐり始めた。額を触り、頬を触り、鼻を触り、唇を触った。直美の唇を。俺が散々ついばんだ、直美の唇。今にも動き出しそうな。俺が言えたことじゃないが、もう少し丁寧に扱って欲しい。直美は、荒々しく触られるのを嫌がってたから。
「あぁ、随分奇麗ですね。状態もいいし、元もいい」
「奇麗かどうかは分かりませんけど、さっき、その、殺したばかりですから」
「おや、なるほど、折れてますね」
そういって立花は、首の後ろをトントンと叩いてみせた。
「こりゃ奇麗なわけだ。ここが折れたら一発ですから。運がいい、お互いにね。鮮度によって査定も変わってきます」
「そう、ですか。で、あなたは?」
「あ、失礼。私、こういうものです」
男は、真っ黒な名刺を差し出す。そこには、
株式会社カロン 買い付け 立花卓 死体買います
とある。真っ黒な名刺は初めて見た。そしてなにより、この白い文字。なんだか吸い込まれそうだ。
「立花さん、っておっしゃるんですね」
「そうです」
「偽名、ですか?」
「もちろん本名です。こんな仕事をしてますが、最低限の礼儀は守らないと。」
「そうですか。それで、立花さん。さっきのお話なんですけど。死体を、買うって言うのは」
いざ死体、と言葉にすると、喉が渇く。タバコのせいもあるだろうが、この言葉の力は、思っていた以上に強い。直美。ついさっきまでは話し、笑い、怒っていた直美は、もうかえってこない。この「死体」と言う言葉が、その事実を乱暴に突き付けてくる。やっとだ、やっと実感がわいてきた。死体、直美はもう死体なんだ。俺がそうした。俺がやったんだ、この手で。白く細いあいつの首を締め上げて、息の根を止めた。他の誰でもない、俺が。あんなにも愛していた直美を。
『ひどいこと、するね』
そうだね、そう思うよ。本当にひどいことだ。小学生ですら、むやみやたらに虫とかカエルを殺したら怒られるんだ。それが人間に変わったら、怒られるじゃすまない。誰でも分かる、当たり前のことだ。十分分かってたはずなのに、俺は、この手で。そうだな、この二本の汗ばんだ手で、直美を。この逡巡も何度目だ。数えるのも馬鹿らしいぞ。
「津田さん?」
「あ、ごめんなさい。ちょっと、ボーっとしちゃって」
「いえいえ、お気になさらず」
立花は、こちらの心の隙間に入り込んでくる。それは決して不快なものではなく、むしろ心地いい。それが怖い。話していると、なんだかこちらの考えや心の奥に潜めるドス黒い感情も、全てさらけ出したくなる。危険だ。唾液がにじみでる。目がシパシパする。あぁ、タバコが吸いたい。
初対面の男に全てを、正気か? 冷静になれ。そんな心のブレーキさえも甘くなっていく。おそろしい男だ。
だが、逆に考えよう。考えや気持ちを読み取られるのなら、こちらもそうしてやればいい。相手のことを知るのだ。勝負はそこから。掘り起こせ、相手の全てを、中も外も。この優しい目、牧場の乳牛を見つめる酪農家のような目、この目の奥でこいつはなにを思い、なにを考えているのか。それを引きずり出さなければ。
そう決意し、乾く唇を舌で湿らせた。名刺を改めて見てみる。株式会社カロン。聞いたこともない会社だ。カロンは確か、ギリシャ神話だったっけ。くそ、直美が生きてれば分かったのに。
「その、この会社って」
「手広くやってる会社なんですよ。雑貨から、食品加工まで。様々な分野に分かれておりまして、私はその中で買い付けを担当しております。もちろん、扱っている商品は非常に特殊なものですが、それを心待ちにされている方が大勢……」
立花の話し方は非常に丁寧だが、話の内容のせいか、ちっとも頭に入ってこない。明らかに怪しい。追い出すか。いや、直美を見られている。ここから帰すわけにはいかない。それならいっそ、こいつも……。
はっ、と我に返る。今、俺はなにを考えた? 冗談だろ、俺はそこまでいかれちまったのか? 違う、俺はまともだ、まともなはずだ。でも、俺は直美を。
『直樹』
そうだ、俺はもう引き返せない。だからこいつを。駄目だ、駄目だ! 落ち着け、落ち着くんだ、氷のように冷静に。
大きく息を吸い、吐いた。よし、少し落ち着いた。改めて、立花から受け取った名刺を読み返す。
死体買います
そうだ、こいつは死体を買いに来たんだ、俺を告発する為ではなく。だから、こいつを殺す必要はない。殺さなくてもいいんだ。何度も何度も、自分にそう言い聞かせる。これ以上殺したら、俺は引き返せない。
思考を切り替える。自分の中の疑問を一つ一つ処理するんだ。
立花は何故、ここに死体があることを知っていた? そもそもそこからおかしいじゃないか。勿論俺は、直美を殺したことを誰にも言っていない。それどころか、さっき殺したばかりだ。それを何故こいつは知っていたんだ? まさかずっと、監視されていたのか。
そしてなにより、立花の目的。死体を買ってどうするんだ? さっき言っていた、雑貨・食品加工とは、やっぱりそういうことなのか。その、死体を、転用して……。
換気扇の音が、いやに耳につく。思考がかき乱される。聞けば、聞けばいいじゃないか。それだけの、話だ。
「あの、聞きづらいんですけど」
「はい、なんでもどうぞ」
「死体を、買う、っておっしゃいましたよね」
「そうです。死体を」
「それで、どうするんですか? 買ってから、その後は」
「お金持ちにね、そういうのが好きな人がいるんです」
「そう、いう?」
「詳しくは聞かない方が良いと思いますが、どうします?」
「やめときます」
「私はあんまり好きじゃないんですけど、まぁ好みは人それぞれですから」
「冗談、ですよね」
「いえ、仕事ですから。嘘をつくわけには」
あぁ、昼間に食ったラーメンを吐きそうだ。食う、食うのか。人間が、人間を? わざわざ、好んで? それじゃまるで、獣じゃないか。二本足で歩き、服を着る獣。人間じゃない、まともな人間がすることじゃない。
食べたこともないのに、口の中にその味が広がるような錯覚を覚えた。
「人間は捨てるところがありませんから」
「やめて下さい、聞きたくない」
「失礼」
そんなおぞましいことが、この日本でおこっているのか。知らなかった。フィクションだけの話だと思っていた。実際に、食う連中がいるんだな。
いや、立花が嘘をついているのかも。だが、嘘をつくメリットが見当たらない。直美の死体を見ても、この男はピクリともしなかった。まるで、スーパーの生鮮食品コーナーで刺身を見るような目で、直美を。そう、直美の好きな刺身。
『あたし、お肉より魚の方が好きなの。直樹は?』
ツマの上に乗った刺身。鯛、サーモン、イカ、そしてマグロ。真っ赤な真っ赤なマグロ。目に浮かぶ。それを直美が食べて、その直美を誰かが。
「ちょ、ちょっと失礼」
トイレに駆け込み、便器に顔を突っ込む。えずく。吐けない。またえずく。吐けない。つばしかでない。
『吐く時はちゃんとトイレで吐いてよ』
吐けない、吐けないんだよ直美。
「大丈夫ですか?」
立花の声が聞こえる。こんなに吐けないものか。吐けないぶん、胃の中にムカムカしたものが鉛のように溜まっていく。頼む、出て行ってくれ、俺の中から出ていけ!
「よろしければ、さすりましょうか?」
「いえ、結構です。もう、大丈夫です」
結局なにも吐けないまま、トイレから出た。そんな俺を、立花は温かい目で見つめている。
「不用意な発言でした、申し訳ありません。大丈夫ですよ、当然の反応ですから」
慣れているのだろう、そりゃそうだ。普通あんな話聞かされたら、疑うか、吐き気を覚えるはずだ。そのどちらも、この男は何度も見てきたのだろう。だからこんなにも落ち着いている。今はそれがありがたい。すがるものがあるのは、ありがたいものだ。
しかし、何故だろう。吐き気を覚える程の不快感を感じた筈なのに、心のどこかで安堵している自分がいる。直美の死体が無駄にされない事への安堵なのか、それとももっと利己的な安堵なのか。
おそらく後者だろう。いつも自分のことしか考えられない。
『直樹はいつも自分のことしか』
うるさい、何様のつもりだ。お前は、お前はもう死んでる。死人が生きてるやつに口を利くな。いや、違う。これは、俺の声なのか? 直美を愛していた俺の。
「それで、どうなさいますか?」
「どう、とは?」
「買い取りの件です。料金の方は即金で」
立花はそっと、その額を耳元で囁いた。そんなに、貰えるのか。だが、命の値段と考えると、安いのかもしれない。そもそも、人の命に値段がつけられるのかは甚だ疑問だが。
「どうでしょうか?」
「こういうのって、その場の取引なんですね」
「後に回すと大変ですから。言い方は悪いですが、おヤクザさんの取引と一緒です。なので申し訳ありませんが、料金の控えもお渡しできません。それと返品にも応じられませんので、ご了承のほどを。あんまりいらっしゃいませんけどね、そういう奇特な方は」
妙に納得した。確かに物証を残すとお互いの為にならない。
しかし、物証、か。俺はもう、犯罪者なんだな。証拠の隠滅に必死になっている、醜い人殺し。いっそ、他の人殺しが俺を殺してくれれば楽になれるのに。
「その値段で、お願いします」
「ありがとう御座います。もめなくて良かった」
「もめることがあるんですか?」
「まぁ、何度か」
こんな状況に置かれて料金の交渉が出来る人間がいるとは思えないが、いるのか。いるとするならば、相当肝の座った人間か、とんでもない馬鹿かだ。いや、馬鹿は俺も一緒か。人を殺すなんて、馬鹿げたことだ。普通に生きてれば、こんなことしやしない。
どんなに小難しい理屈をつけようが、殺人は殺人だ。動機なんて関係ない。そうだ、あんな一言が動機なんて。
『どうしていつもそうなの! 直樹はどうしていつも』
そうだ関係ない、関係ないんだ。殺す、その殺意だけがただ存在する。たとえ覚えていなくとも、俺にもその殺意があったはずだ。どこにいったか知らないが、どこかにある殺意。おもちゃ箱の底に隠れている、レゴブロックのような。この吐き気は、ひょっとするとその殺意の裏返しなのかもしれない。自分を律せずにそんなものに振り回される。それこそが馬鹿の証明だ。やっぱり俺は、大馬鹿だ。
「引き取りは、今からでもよろしいですか?」
「そう、ですね。はい、いつでも」
「それでは、応援を呼ばせて頂きます。ご近所の方に気付かれないようにうまく偽装しますから、その点はご安心ください」
どうやるのだろうか。聞こうかとも思ったが、やめた。聞いてもなにもならない。それとも、ここに就職するつもりか? 決まっていないし、それもいいんじゃないか。下らない考えが、頭の中をハエのようにブンブン飛び回る。一匹残らず叩き潰してやりたいよ。
そうだ、もう一つ聞きたいことがあった。どうして、こいつが直美を見つけたか。これだけは聞いておきたい。そうすれば少しは、気持ちもすっきりする。
「どうして、分かったんですか? うちに、その」
「死体があると?」
「そうです」
立花はしばらく考え、こう言った。
「スマートフォン、お持ちですよね」
「は、はい」
「それです」
「え?」
「あなたにとっても便利ですけど、こちらにとっても便利なんですよ。最近のものは、画質も良いですし、助かってます」
「……そう、ですか」
言うまでもないが犯罪だ。だが、俺にそれを咎める権利などあるはずもない。うまいやり口だ。気付いた時にはもう手遅れ。警察に伝えれば自首になってしまう。そう、単純な話だ。
アドバンテージはあちらが握っている。そのうえで、こちらにおこぼれを投げてよこすのだ。それが金であり、死体の処理である。これでは裏切れない。裏切りは身の破滅だ。だいたい他に、文字通り動かぬ証拠である死体を処理する方法があるのか。バラバラにしてトイレに流しても、骨まで焼いてまき散らかしてもバレるご時世だ。それを考えれば、この待遇は至れり尽くせりだろう。だが、黙認するのは癪だったので、俺はたった一言、言ってやった。
「とりあえず、機種変しますね」
それからは、早かった。立花がどこかに電話すると、三十分もしないうちに、二人の男が家具屋の格好をしてやってきた。町でもよく見るあの家具屋だ。あの大きな家具屋。直美とも何度か行ったことがある。
目を引かれたのは、今からする仕事とは不釣り合いな、さわやかな笑顔だ。慣れているのだろうが、よく笑えるものだ。とても俺には、出来そうもない。
「それじゃ、頼むね」
立花はテキパキと指示を出していく。それに従って、笑顔の男二人は直美を黒い大きな段ボールに詰めていく。緩衝材も入れて。直美が詰めていかれる。スーパーの袋に、野菜を詰めるみたいに。丁寧に、無造作に。そして彼らは、段ボールを閉じようとした。
「待って、下さい」
気付けば、声が出ていた。二人の男は仕事の手を止め、こちらを見た。嫌な目だ。立花もこちらを見ている。あぁ全く、嫌な目だ。
「どうされました?」
「その、こんなこと言えた義理じゃないと思うんですが。最後に、お別れをさせて貰えませんか? 出来れば、二人きりで」
立花はこちらから目をそらし、しばし考え込んでから口を開いた。
「分かりました、大丈夫ですよ。こちらも支払いの準備がありますから」
「ありがとう御座います」
「では、三十分後にまた伺います。それまで、ごゆっくり」
立花は軽くこちらに会釈して、男達を連れて出ていった。
出ていく三つの背中を見送り、ひと呼吸ついてから、直美の顔を見下ろした。段ボールに入った直美は、なにも言わず、目をつぶっている。直美の瞳は、どんな色だったか。思い出せない。あんなに見つめあったのに、あんなに愛し合ったのに。どうしても思い出せない。まぶたを開いて確認することも出来るはずだ。でも、そんなことをしてなんになるんだ。いつかきっと思い出すよ。そうさ、きっと。
『直樹の目って、奇麗だね。羨ましい』
髪を手に取ってみる。一本一本、手に焼きつける。あいついつも自慢してたな。シャンプー変えてみたんだ、とか、このリンス高かったんだよ、とか。正直どうでも良かったけど、やっぱり違ったんだろう。他の女の髪をまじまじと見たことなんてないけど、なんとなくそう思う。あれだけ直美は、髪に自信を持ってたんだから。
直美の唇に目がいく。奇麗だ、ちっとも荒れていない。俺は、この唇が大好きだった。口紅を塗る必要なんてないよ、何度もそう言った。そうしたらお前はいつも、困った顔してたな。なにがそんなに困るんだか、俺には分からなかったよ、最期まで。
唇に少し、触れてみる。まだ少し温かい。この唇が開くことは、もう二度とない。行ってきます、も、ただいまも、罵声も、愛の言葉も、この口からはもう出てこないんだ。山のように金塊を積んでも、この命をささげたとしても。帰ってこない。直美は帰ってこないんだ。
そう思うと、何故だか涙が零れた。たったひと筋。この涙は、人生で一番濃い涙だ。それを拭いもせず、俺は、直美の顔をじっと見つめ、その唇に、キスをした。
『直樹はもうあたしのこと』
「愛してるよ、直美」
最後のキスは、ファーストキスの味がした。
三十分はあっという間だ。気付けば俺の後ろに、立花が紙袋を手に提げて立っている。二人の男は、玄関でこちらを見つめている。
「お別れは、すみましたか?」
「はい。ありがとう御座います」
二人の男は作業を再開した。と言っても、ただ直美を段ボールに梱包するだけだが。丁寧にやってくれよ、心の中でそう呟く。それが聞こえているはずはないだろうが、心持ち、二人の作業が丁寧になった気がする。そうだ、それくらいで頼むよ。
「では、こちらがお支払いになります。ご確認を」
立花はそう言って、こちらに紙袋を差し出した。受け取ってみると、少し重い。覗いてみれば、中には札束が何束か入っている。一枚一枚は軽い一万円札も、これだけ集まればそれなりの重さがある。だが、これが直美の命の重さだと考えれば、軽い。随分軽い。あぁ、あんなに綺麗なのに。これが、あいつの命の重さか。
「では、ここら辺で失礼します。さ、行こうか」
直美を詰めていた二人の男は軽く頷くと、息を合わせて直美を持ち上げ、玄関に向かう。その二人を誘導しながら、立花はドアの介錯をして、直美を外に運ばせる。二人の男はまるで水が流れるようにサラサラと、大きな音を立てることもなく、直美を運んでいく。まるで外国の葬式みたいだな。TVで見た、確かガーナの葬式。棺に死体を入れて、町中を練りまわる葬式。死体はその時、どんな気持ちでいるんだろう。
軽いやり取りが聞こえる。誰かとすれ違ったのか。
「ご安心を。ヘマはしませんから」
しばらくしてから、また階段を下りる音が聞こえる。トラブルなく切り抜けたようだ。
「それで、後始末の話なのですが」
「直美周りは、俺がなんとかします。あいつも、付き合い良かった方でもないんで」
「そうですか。助かります。まぁ、基本的には知らぬ存ぜぬでなんとかなりますよ。一応、彼女のスマホはこちらで預かっても?」
「あ、はい」
直美のスマホを、立花に渡す。ラインの通知が来ているが、変に開かない方が良いだろう。
『どれがいいと思う?』
そういえば、機種変の時は一緒に行ったっけ。アイフォンかアンドロイドか、とかどうでも良いことで悩んで、結局俺と同じやつを。恥ずかしかったけど、なんだかんだで嬉しかった。そんなこと言いやしなかったけど。もう言うこともない。
「この名刺も、処分しておけばいいですか?」
「そうですね、出来れば」
「分かりました」
「まぁ、たいていの場合大丈夫ですけどね。私もプロですから」
立花は、ふふんと笑った。俺も、つられて笑った。立花はもう一度丁寧に会釈すると、こちらを振り返ることもなく去っていた。その背中を見送る。
あぁ、非日常が去っていく。いや、正確にはまだ去ってはいない。だが、ドアを閉めて部屋に戻れば、きっと日常の息吹を感じることだろう。
手に提げたいくつもの札束をじっと見つめる。これが、代わりか。思い出、罪悪感、後悔、そして、直美の。全部失って、残ったものがこの金だ。喪失を、この金で埋めろというのか。札束はなにも言わない、なにも答えてくれない。答えてはくれないんだ。
換気扇の下でタバコに火をつけた。随分、色々あった。濃厚な時間だった。部屋を見渡す。直美は、もういない。立花から受け取った札束の入った紙袋だけがある。何に使おうか。これだけあれば、派手に遊べるだろう。酒もタバコも、女も。だが、今はどれにも魅力を感じない。今吸っているタバコだって、舌の上を上滑りしていく。習慣から吸っているだけだ。まだ半分ほど残っていたが、タバコを灰皿に押し付けて消す。
サイレンの音が、外から聞こえてくる。
俺を迎えに来たのだろうか。もう、どうでもいい。刑事も、裁判も、牢屋だって怖くない。怖いものか。俺はもう、なにも怖くない。ただ、直美。もう一度お前に会いたい。俺が殺した、俺だけの直美。浮かぶのはあいつの顔だけだ。物言わぬ直美の顔。喋らないはずなのに、もう生きてもいないのに、あの顔は、月光のように神々しく、そしてなにより、綺麗だった。おそらく、生きていた時よりもずっと。この世のなにものよりも。
その直美は、行ってしまった。そして、顔も知らない奴らにバラバラにされるだろう。だが、あいつのファーストキスは、俺だけのものだ。俺だけが知っている、俺だけが持っている、あいつの死後のファーストキス。顔も知らないどこかの金持ちが、直美の唇をむさぼり食うかもしれない。そんな奴らを、俺は思いっきり笑ってやる。直美の初めては、俺だけのものだ。誰にも譲らない、俺だけの。
目を閉じる。すると、すぐ耳元で直美の声が。
『直樹』
「直美」
『直樹はあたしのこと、今でも好き?』
「お前になら、殺されても文句言わないよ」
そう独りごち、部屋の窓を開ける。風が吹いている、いつもの風が。風が体を撫でていく。その風に乗って、遠くのパトカーのサイレンが聞こえる。近所のカレーの匂いも運ばれてくる。そういえば、晩飯をまだ食べていない。腹は、ちっともすいちゃいないが。
直樹はタバコを吸おうとしたが、なにを思ったか、そのタバコを窓の外に投げ捨てた。ソフトケースに残っていたタバコも、一本残らず投げ捨てた。そして紙袋から札束をひっつかみ、一枚残らず、外にばらまく。宙を舞う福沢諭吉の顔が、笑っているように見える。それにつられるように、直樹は笑った。腹の底から、声を出して、おかしそうに、おかしそうに笑った。
直美、直美! 見えるか。お前は、今空を舞ってるぞ! そうだ、お前は風に乗って踊ってるんだ。死の舞踏、死の舞踏、死の舞踏。俺もいつか踊るだろう。その時は一緒に、踊ってくれるかい?
そうだ、直樹にはもう必要ないのだ。タバコも女も、なにもかも。なんでも買えるはずの金だって、何の価値もない。金を山と積まれても、その重さに価値はない。本当に価値のあるもの。それはもうここにはない。失ってしまったもの。もっとも求めるもの。直樹が引き裂き、踏みにじり、唾を吐き捨てて、台無しにしたもの。一番大切な、直美。
完




