第7話「声を失う者、数える手」
朝靄がまだ広場の石畳に絡みついていた。
吊台の印は十七。昨夜は誰も死ななかったはずなのに、切り目はひとつ増えている。祈りの家の扉には拭い残した煤の痕があり、こびりついた油の匂いが朝の冷気の中でかえって濃く感じられた。
墓地の門では、痩せた青年が毛布に包まれていた。喉に浅い裂傷。命はあるが、声は出ない。
――影は声を持たない。
紙片の一文が、現実になっていく音を俺は耳の奥で聞いた。
カイは弟を吊台の支柱に縛り付け、槍を構えたまま村人の輪を見回していた。弟は顔を伏せ、布の面を剥がされてなお、目に焦点を結ばない。喉は潰れていないのに、声を出さない。出せないのか、出さないのか。
「聞け」
カイの声は鉄のように乾いていた。「弟は“影”だ。鐘をいじり、吊台に印を刻んだ。だが、導いた者――“声を持つ者”が、別にいる。そいつを見つけなければ終わらない」
ざわめきが広がる。ドルンが死に、火傷の女が死に、レナが吊られ、昨夜は誰も死なず、それでも印は増えた。恐怖は形を変え、疑いという名の針となって互いの皮膚を刺す。
老人が杖を突き、輪を鎮めた。「まずは、投票だ。掟に従う」
その言葉に、老婆が小さく震えて言った。「……投票できぬ者がいる」
全員の視線が墓地の門に向いた。青年は唇を動かすが、空気の擦れる音しか漏れない。
「声を持たない者を、どう数える」
誰かがそう呟くと、言葉は別の言葉を呼び、広場の空気が荒れた。
「笛で合図を」
「だが笛は音、声ではない」
「鐘と同じだ。音で数を増やされる」
「なら石だ。名前の刻んだ投票石を箱に入れ、数える」
「石はすり替えられる。増やされる。――“ひとつ多い”を、またやられる」
理屈は恐怖に押しつぶされ、正しさは声の大きさでねじ曲がる。俺は一歩、輪の中央に出た。
「やり方を変える」
俺は短く宣言した。「投票は『声』をやめる。全員に“印石”を持たせる。石には各自の刻印を掘る。票は二つの籠に同時に投げ入れる――“リク”と“ミナ”。合図は鐘ではない。俺が手を上げて十を数え、同時に投じる」
「わしが数える」と老人。
「いいえ」俺は首を振った。「『次は数える者』と書かれていた。あなたが狙われる。数える手は分散するべきだ。――ミナ、頼む。君は俺の隣で指を折ってくれ。カイ、反対側で指を折る。三人で数え、互いに食い違いが出たらやり直す」
ミナがこくりと頷く。「やる」
カイは短く「承知」と言い、槍の柄を地に立てた。
エダが手を挙げる。「神は――」
「掟の上に鐘はない。鐘の上に神もいない」老人は昨日の言葉を繰り返し、祈りより先に事実を置いた。「事実で動く」
◆
刻印を作る作業は、意外に村人を落ち着かせた。
薄い石片を配り、各自の印を彫らせる。ドルンの家の棚から出てきた刻み刀は刃こぼれしていたが、石は柔らかく、線は十分に刻める。
老婆は古い針で小さな十字を、エダは祈りの言葉の頭文字を、痩せた青年は羊の角のような曲線を彫った。ミナは小さな花。カイは短い二本線。俺は「リ」のような形にした。
刻印が増える。そのたびに、吊台の印が目に入る。十七。
“数える者”。
俺の脳裏に昨夜の文字がちらついた。
――次は“数える者”。
俺か。老人か。ミナか。カイか。
準備は昼過ぎに整った。籠を二つ、同じ大きさの布で包み、縁に灰を塗って指跡が残るようにした。投票の箱には二重底も仕込んでいないことを全員に見せ、底の布は縫い付け、口は縄で結ぶ。結び目のひとつひとつに印蝋と刻印。
「これなら音で増えない」ミナが小さく言った。「数は、手で守る」
「手で守るなら――手が狙われる」カイが呟き、指の節をぐっと曲げた。
◆
投票。
老人が杖を一度打ち、俺、ミナ、カイの三人が互いの顔を見た。息をそろえ、指を一本立てる。
一。
輪の外から、人々の呼吸がそろう気配がした。
ふたつ。
俺の背中を冷たい視線が這う。
みっつ。
カイの弟が縛られたまま、地面の一点を見ている。
よっつ。
ミナの指が震え、俺はそっと手首を押さえた。
いつつ。
鐘は鳴らない。鈴も鳴らない。
むっつ。
俺たちの影が石畳に濃く付き、塔の影と交わって――
ななつ。
影が“ひとつ多く”見えた。
やっつ。
目を逸らさない。
ここのつ。
俺たち三人は指を十に開き、同時に下ろした。
とお。
印石が一斉に籠へと落ちる。乾いた音が重なり、広場の空気が一瞬止まった。
籠の口を結び、印蝋の刻印を皆の前で確かめる。
開ける。
布を捲る。
石を数える。
――指を折って、数える。
俺:ひとつ、ふたつ、みっつ……
ミナ:ひとつ、ふたつ、みっつ……
カイ:一、二、三……
三人の声は重ならない。意図的にずらす。数えの拍が広場に波のように広がり、耳の錯覚を抑える。
結果。
「リク、四。ミナ、六」
俺が言い、ミナがうなずき、カイが確認のためもう一度石の刻印を撫でる。「一致。――多数はミナだ」
輪にざわめきが走る。
ミナの指が俺の袖を強く掴んだ。
俺は息を吸い、吐き、手を上げた。「待て。これで終わりじゃない。もう一度、別の方法で交差確認をする」
老人が目を細めた。「二重に?」
「ああ。刻印石の総数が、今生きている人数と一致しているか。――それを数える」
籠から投じられなかった石――つまり誰かが手元に残している石――はないかを一人ずつ確認する。
俺は輪を回り、掌を見せてもらい、袖の中、腰袋、靴の中。皆の視線が刺さる。
エダは震えながら石を差し出した。老婆は皺だらけの掌に小さな十字の石を載せて微笑む。
痩せた青年は笛と一緒に石を握っていた。
……最後に、カイの弟。縛られた手の指先に、黒い粉が付いている。
「持っていないな」
カイが確かめ、俺は頷いた。
総数を数える。
――ひとつ、多い。
石は十一個あった。生存者は十人のはずだ。
広場が揺れた。
誰かが息を呑み、誰かが目を瞠り、誰かが笑いそうになって笑えなかった。
俺は喉が乾くのを感じた。
――“ひとつ多い”。また、だ。
「誰だ。二つ持っている者は」カイが槍の柄を強く握る。
俺は首を振る。「二つ持っていれば、手の中に“冷たさ”が残る。いま確かめた。――違う。これは“増えた”。どこかで」
ミナが震える声で言った。「布……籠の底……」
「二重底はない。縫い付け、印蝋も確認した」
「なら、誰かの“石”が、途中で“別の石”に入れ替わった」
彼女の言葉は震えていたが、意味は鋭かった。
「刻印を見直す」
俺は石を広げ、それぞれの刻みを指でなぞる。
十字、祈りの字、羊角、花、二本線、リ、丸、刃……。
――ひとつ、見覚えのない印がある。
石の端にごく小さく、歯車のような刻み。歯の数は十五。昨夜、吊台の印を“なぞった”数。
「これだ」
俺は石を掲げた。「“影”の石。声を持たず、印だけで数に入る」
「誰が投じた」
カイの声は低い。
俺は首を振る。「同時投票だ。紛れ込ませるなら、籠そのものに仕込む。――布の縁、縫い目の間に細い袋を作っておけば、ひと振りで落ちる」
ミナが布の縁を裏返す。縫い目の一箇所に、煤で汚れた糸が混ざっていた。昨夜張った白布の繊維の一本と同じ種類。
誰かが、夜のうちに“籠”を差し替えた。
◆
輪の空気が限界まで張り詰めたところで、老人の体がぐらりと傾いた。
「老人!」
俺が支えるより早く、カイが肩を抱えた。老人の右手の人差し指が、血で濡れていた。指の腹に、細い切り傷。
――数える指。
“数える者”が狙われた。
「どこで」
「数える時に、籠の縁をなぞった」老人は苦笑した。「薄い刃だ。わしの指は老いて、血が出やすい。それを見越した刃渡りだ」
籠の縁を調べると、布の下に薄い金属片が貼られていた。真鍮。端に歯。――鐘の割り板を切り出したもの。触れれば指を裂き、血が滴れば“印の数え直し”を強いる。混乱を呼ぶための、静かな毒。
「導き手は、手段が多い」
俺は息を吐いた。「音、影、印、そして――指」
◆
「もう一度だ」
カイが言った。「籠を変える。布も変える。――それでも“ひとつ多い”なら、掟どおり処刑するしかない」
ミナが俺の腕を掴む。「リク、危ない」
「分かってる。けど、やる」
二度目の投票。
今度は俺たち三人ではなく、村人全員に“数える役”を分散した。輪の外に立ち、各々が自分の指で十を数え、同時に籠に入れる。
鐘は鳴らない。笛も鳴らない。
ただ、呼吸と心臓が数える。
落ちる石の数は、耳が覚えるほどには多くない。
開ける。
数える。
――十。
「一致」
俺とカイとミナが同時に言い、老人が安堵の息を吐いた。
十。生存者数と一致。
だが、内訳は――
「リク、五。ミナ、五」
同数。
静寂。
誰も動かない。
同数の場合、掟では“長の裁量”か“鐘の一打”で決める。
鐘の一打。
その言葉に、村人の視線が塔へ向かいかけ、俺は慌てて制した。
「やめろ。鐘で決めれば、影に決めさせるのと同じだ」
俺は老人を見た。「あなたが決めるしかない。だが、“事実”で決めてくれ」
老人は長く目を閉じ、開いた。
「――保留だ」
広場にどよめきが走る。
「掟に“保留”はない」エダが叫ぶ。
「掟は命を護るためにある。数が壊れているとき、掟は鈍器になる」老人は杖を立て、静かに言った。「今夜は処刑を行わない。代わりに、“導き手”をあぶり出す。鐘の周り、吊台、祈りの家、全てを三重に封じ、見張りを輪番で立てる」
その瞬間、吊台の上梁に止められていた白布が、風もないのにふっと揺れた。
次いで、粉が舞った。
祈りの家の扉に、黒い粉で文字が書かれていく。
――「保留は“数”を疲れさせるだけ」
誰も近づいていない。
それなのに、文字は浮かび上がる。
俺は目を凝らし、薄い粉の軌跡の中に一本の糸を見つけた。鐘室から吊られた極細の綱。白布に溶ける色で、夜の作業では見えなかった。
粉の袋を綱に結び、上から少しずつ落とせば、文字は“勝手に”現れる。
――声を持たない、筆を持たない、だが“文字を書く影”。
またひとつ、やり口が増えた。
◆
午後、カイの弟の拘束を増した。手首ではなく肘上で縛り、足首は板で添え木して“爪先立ち”を封じる。
弟は抵抗せず、ただ一点を見続けている。
ミナが囁く。「あの目……見ているけど、見ていない」
「教え込まれたんだ」俺は小声で言った。「“見る場所”を。鐘、綱、庇、吊台、印、指。――数を乱すために」
老婆が近づき、弟の耳元で何かを囁いた。声にならない声。唇だけで作る古い祈り。
弟の瞼が、初めてゆっくりと動いた。
老婆は俺を見て、皺だらけの口元で笑った。「声は器。器が空なら、風は歌う」
意味は分からないが、その言葉がやけに腑に落ちた。声は器。鐘も器。器に何を入れるかで、音は変わり、数は狂う。
◆
夕暮れ。
広場の影が伸び、塔の影が重なる。
俺はミナと並び、空の色が青から墨に変わるのを見ていた。
「リク」
彼女が袖をつまむ。「もし、今夜“導き手”が私を狙ったら、逃げないでね」
「逃げない」
「あなたが“数える者”だから。――きっと、あなたが次に狙われる」
「逃げない」
同じ言葉を繰り返すと、ミナは微かに笑った。
そのとき、鈴がほんの少し鳴った。鐘室ではない。吊台の上梁。
俺は顔を上げる。
白布の裏、細い影。
「来た」
カイと目が合い、二人同時に走った。
吊台の上で、細い綱が張り直されている。
影は二つ。
ひとつは身軽に梁を渡り、もうひとつは地上で受け渡しをしている。
地上の影が顔を上げた瞬間、俺は息を呑んだ。
――エダ。
祈りの家の女が、両手で粉の袋を抱え、目を閉じたまま、綱の合図に合わせて粉を放つ。
「エダ!」
俺が叫ぶと、彼女ははっと目を開け、袋を落とした。粉が俺の顔を打ち、視界が白く霞む。
カイが梁の影に槍を向けたが、上の影は綱を切って鐘室の暗がりへ消えた。
エダはその場に崩れた。
震える唇。
「ごめんなさい……私は……導かれて……。神の声だと思って……鐘の音と同じ合図で……」
彼女の手には、真鍮の小さな口鈴が握られていた。鐘の音に似た高い澄んだ音。祈りの時刻を知らせるため、教会に昔からあるもの。
――“声を持つ導き手”は、鐘ではなく、鈴で合図を送っていた。声なき影に、音で指示を与えるために。
「誰だ。誰が合図を」
俺の問いに、エダは首を振るだけだった。
「顔を見ていない。……扉の隙間から、鈴の音だけがするの。私は扉の前で祈って……粉を……」
老人がゆっくりと膝をつき、エダの肩に手を置いた。「エダ。罪を裁くのは明日だ。今は“音”を止める」
◆
夜。
鐘室の周りに三重の封。鈴は全て回収し、祈りの家の扉の鉄金具で封印。綱は途中で切り、余った先に鈴をつけて侵入の“音”を増やす。
見張りは輪番。俺とカイとミナは同じ列に入り、三つの影を一つの槍で刺すつもりで視線を張った。
笛が、短く二度鳴った。
危険。
だが青年の喉からは音が出ないはず――俺が墓地の門を見ると、青年は笛を握り、涙を滲ませながら首を振っていた。
笛の音は、祈りの家の中からだった。
――誰かが、笛を奪った。
扉に駆け寄る。封は破れていない。だが、その下の石畳に、黒い粉で短い文が浮かび上がっていく。
――「数える者、ひとり減らす」
粉は、上から。
俺は反射的に見上げた。
塔の庇の縁、白布の影。
綱が、静かに、俺の首の高さに降りてくる。
背中を強く引かれた。
ミナが俺の襟首を掴み、石畳に倒れ込んだ俺の上を綱がかすめた。二の腕が焼けるように痛い。纏った灰が皮膚に食い込み、呼吸が荒くなった。
次の瞬間、槍の穂先が綱を断ち切った。
カイだ。
断ち切られた綱の先から、鈴がいくつも転がり落ち、祈りの家の扉に当たって音を散らした。
――“声を奪う導き手”は、俺を狙った。
“数える者”を、ひとり減らそうとして。
吊台の方で、白布がはためく。
印は――十八。
また増えた。
処刑を行わなかった夜に、印は進む。
その事実が、村人の心をまたひとつ凍らせる。
「終わりにしよう」
俺は立ち上がり、痛む腕を押さえながら言った。「明日、俺が“数える者”を名乗る。影と導き手は、俺を狙って来る。――そこで終わらせる」
「危険だ」カイが言う。
「危険をおとりにする。――ミナ、嫌なら離れてくれ」
「離れない」ミナは即答した。「あなたの声を、私が数える」
彼女の声は細いのに、不思議と鐘より強く響いた。
老人が頷く。「明日は投票をやめ、新しい“数え”をやる。影が入り込めない数え――数える者を囮にして、導き手を炙り出す」
広場に静けさが降りた。
塔の影は短くなり、祈りの家の扉の粉文字は夜露に滲んで消えかけている。
俺は吊台の印を見上げ、息を整えた。
十八。
数は進む。
なら、俺が止める。声で。指で。目で。
“声を持たない影”にも、“声を奪う導き手”にも、俺の“数え”を突きつける。
朝はまだ遠い。
だが、俺の胸の中では、もう新しい数えが始まっていた。
ひとつ。ふたつ。みっつ。
――次で終わらせるために。




