第6話「祈りの家、影の囁き」
夜が、音を食べていた。
村の外れ、祈りの家――小さな教会は、月光を受けて青く沈み、塔の影が石畳に長い刃のように伸びている。影は風に揺れない。ただ、そこに在るというだけで、誰かの足を縫いとめるように冷たい。
――“ひとつ多い”。
レナの最期の言葉が、鼓膜の裏でこだまする。吊台の印は今朝で十四。犠牲者の数とは一致しない。では、あの切り目は何を数えている?
「封は確かだ」
カイが扉の楔を探る。蝋は割れていない。だが蝋の縁に、猫の爪でひっかいたような細い跡がある。
老人は杖の先で扉を軽く叩き、鼻をわずかにしかめた。「鐘の油と煤の匂い……扉の内側から吹いてくる」
「鐘守の倉にあるはずの油だ」カイが頷く。「鯨脂に煤を溶かした重たい匂い。こんなに強く漂うのはおかしい」
エダが胸元を握りしめる。「ここは神の家。影など入るはずがないのに」
「“神の家”だから、皆が安心する」俺は答えた。「安心は、もっとも深い隙だ」
昨夜のドルンの死は、全員の顔色を薄くした。誰もが言葉を少なくし、それぞれの手を見つめる時間が増えた。手の汚れは、己の潔白を確かめるための拙い儀式に変わっている。
◆
配置は決めた。
カイが屋根と鐘室を監視。
俺とミナは祭壇裏、扉が死角になる角度で。
老人は広場側から祈りの家を見張り、エダと老婆は扉の脇に座って祈る。
痩せた青年は少し離れた墓地の門、笛を手のひらに隠した。
月の出は遅く、空はしばらく無月の薄闇に沈んでいた。蝋燭の火が壁に長椅子の影を伸ばす。木の節が人の顔に見える瞬間ごとに、ミナの指が俺の袖をつまむ。
「怖い?」と彼女が囁く。
「怖い」俺は短く笑った。「怖いから、目がよく利く」
鼻腔の奥を掠める、油の匂い。重い。鼻の根元にぬめりを作る嫌な質だ。鐘を上げ下げする綱には必ず差される油。――そして、レナの踵。踵だけが黒く汚れ、足裏の中心はきれいだった。塔の石段は乾いている。油は手すりに付いている。踵で重心をかけ、手で手すりを掴めば、あの汚れ方になる。
外で、砂の擦れる音。
カイが屋根を這っているのか、それとも――。
◆
最初の鐘は、息の合間に落ちてきた。
誰も綱に触れていない。にもかかわらず、腹の底を揺らす低音が、塔の中から滴る。
エダの祈りが止まり、老婆が顔を上げた。
次いで、二つ目。三つ目。短く、間を置いて、四度目は鳴らない。
「屋根に影!」
カイの声。
俺は祭壇裏から飛び出し、扉の楔を蹴り外す。冷気とともに、塔の庇を渡る黒いものが視界の端をかすめた。人か獣か――爪先だけで屋根を蹴り、踵はつけない。
「追う!」
叫ぶ俺より早く、カイが屋根の上を走る影を追っていた。黒い輪郭は、鐘室の開口へ吸い込まれるように沈み、月の光に溶けた。
◆
祈りの家の内部は、冷えた湯のように静かだった。
長椅子の間を抜け、祭壇に駆け寄る。香の灰の上に、黒い粉――煤と油が、指で払ったような線を描いている。
鐘室へ続く石段の上に、小さな包み。蝋の封。
老人がそれを拾い上げ、蝋を割る。
紙片が一枚。そこに、墨で短い一行。
――「影は声を持たない」
ミナの呼吸が速くなる。「声を持たない……投票しないってこと?」
俺は頷き、紙片を光に透かす。薄く黒い粉がにじむ。指で擦ると、べたつきが残った。鐘の油だ。紙の縁には、丸い穴の跡が小さく並んでいる。歯車の歯か、鋲か。
影は声を持たず、しかし“数に入る”。
数――吊台の印。ひとつ多い。
背後の扉の陰で、老婆がぽつりと言った。「……笛」
痩せた青年が反射的に肩をすくめる。
「夜、短く三つ。聞いた」老婆の言葉は乾いているが、確かだった。
青年は震える声で返す。「群れを落ち着かせる合図です。夜……不安で、つい」
俺は青年の靴に目を落とす。爪先に泥、踵は薄い。畑の土。だがさっき屋根を渡った影の足跡は、爪先で引っかくようで、油と煤が混ざっていた。違う。
◆
その夜、犠牲は出なかった。
夜の底を探るような時間が過ぎ、空の端が白み、鳥の声が戻ってくるまで、誰も倒れなかった。
静けさは救いというより、不気味な猶予だった。
朝、広場の吊台へ向かう。
切り目は――十五。
また、増えている。
「どうして……昨夜は誰も殺されていないのに」ミナの声が掠れる。
「“声を持たない影”が“いる”限り、印は進むのかもしれない」俺は言う。「犠牲の数じゃない。影の呼吸に合わせて刻まれる“数”だ」
老人が目を閉じ、短く頷いた。「ならば、影を祈りの家に誘い込んだことで、やつは満足した。……いや、遊んだだけか」
エダは祈りを結び直し、吊台をにらんで震えた。「神よ……なぜ数が増えるのです」
俺は紙片をもう一度見た。
――影は声を持たない。
声を持たないなら、投票しない。けれど、鐘の数に合わせて“在る”ことを示す。
鐘は昨夜、三度鳴った。吊台の印は一晩で一つ増えた。単純には結びつかない。……もしかして、印は“鐘の状態”を刻むのか?
◆
昼下がり、俺はカイと塔に登った。
鐘室の床は黒く、油と煤が靴底でぬるりと滑る。綱は太く乾き、途中、わずかに繊維が毛羽立っている。夜、誰かが綱を使った痕だ。
庇の端、金具の一つに真鍮の欠片が挟まっていた。歯の並ぶ薄い板片。穴が一つ、端に穿たれている。
「外された部品と似ているが、歯の数が違う」カイが言う。「鳴り方を変えるための割り板だろう。挿す位置で打音の間合いを調整できる」
「鳴る回数は?」
「綱を引かずとも、重しの落下で短く“鳴らす”仕掛けができる。屋根を走る者が、庇の外から棒で押し込めば……三度鳴る」
俺は庇から身を乗り出し、広場を見下ろす。石畳に俺たちの影。――そして、塔の影が重なると、一瞬、影の数が“ひとつ多く”見える。
「影は声を持たない。影は数に入る。鐘は、影を増やす」
口に出した言葉は、謎かけのようで、しかし背筋に冷たく馴染んだ。
「鐘が鳴る“前”に集まれば?」俺は尋ねる。
「影は増えないかもしれない」カイは顎に手を当てる。「だが、人は鐘で集まるよう躾けられている」
躾け――。
俺は急に喉が乾いた。
この村の呼吸は鐘に合わせられている。祈る時刻、食べる時刻、集まる時刻、投票の時刻。
鐘が、数を決めている。
◆
夕暮れ、全員で作戦を練った。
鐘の封を二重にする。
鐘室の綱に“鈴”を付ける――誰かが触れれば、別の音が鳴る。
祈りの家の扉は外からも内からも楔を打ち、屋根の縁には灰を撒いて足跡が残るようにする。
さらに、吊台の足元にも薄く灰を敷いた。夜の間に刻まれるなら、誰かはそこに立つ。
痩せた青年が不安そうに笛を握る。「僕は……吹かないほうがいいですか」
「吹くとしたら、合図を決めよう」俺は言った。「短く二度――危険。三度――見失った。四度――集まれ。五度――鐘へ」
青年は何度か小さく息をついて、頷いた。
エダは祈りの言葉を短くして、扉の内側に座ることにした。老婆は吊台の前に座り込み、灰をじっと見張る。老人は広場の中央、全員を一望できる位置で杖を立てる。
ミナは俺の袖を指先で摘み、「離れないで」と呟いた。
◆
夜は、予告なしに濃くなる。
星が幾つか瞬き、風が塔の角を撫で、髪の毛先を湿らせる。
最初のうちは、何も起きなかった。
やがて、祈りの家の屋根で小さな音がした。灰を踏む音ではない。……潜る音。屋根材の隙間に、薄い板をこじ入れるような、木と金の軋み。
鈴が、かすかに鳴った。
鐘室の綱だ。
俺はカイと目を合わせ、頷く。
次の瞬間、塔の中から低音が落ちた。ひとつ。
続けて、ふたつ。
――三つ目は、鳴らない。
笛が、短く二度鳴った。青年の合図。危険。
俺は祭壇の陰から飛び出し、扉を開け放つ。外の空気は刺すように冷たい。塔の庇の縁に、人影の影のようなものが張り付いている。月が雲に隠れ、輪郭だけが浮く。
「そこだ!」カイの叫び。槍の穂先が月光を滑り、庇に火花が散る。
影は綱を離し、屋根の反対側へ走った。灰が舞い上がる――が、足跡は爪先で抉れ、踵が残らない。
俺は追わず、灰の模様を見る。爪先の幅。間隔。……人の足の間合いだ。四肢の獣なら、もっと狭い足跡が四つ残る。
人間。
――では、なぜ“影”と呼ぶ?
◆
その夜の犠牲は、やはり出なかった。
代わりに、朝、吊台の灰に奇妙な模様が残った。
円をなぞるように、指のような、爪のような細い筋が十五。切り目の位置と一致する角度に、それぞれ短い擦過。
誰かが夜の間に、印の位置を“なぞった”。
老婆は一睡もしていないと言い張った。だが、目は赤く、瞬きの間が長い。見間違いはある。……だとしても、これは明確な“見せつけ”。
印は――十六。
また、増えた。
「数え癖を、誘導されている」俺は言った。「俺たちは“十”だと思って動く。けれど、鐘の鳴らし方、合図、吊台の印で、無意識に“十一”を数えさせられている。誰かがずっと、俺たちの呼吸を管理している」
老人が杖を少し強く握った。「では、影は“鐘の側”にいる」
カイが頷く。「倉の封は俺が見ている。破られてはいない」
「封自体を遠隔で“動かせる”なら?」俺は庇の金具を思い出す。「真鍮の割り板を棒で押し込む。綱に触れずに鳴らす。封は破れないが、鐘は動く」
エダが顔を上げた。「なら、誰が棒を持って屋根に登れるの」
カイは屋根を見上げ、静かに答えた。「屋根に慣れた者。毎日、屋根を歩く者」
視線が、痩せた青年に集まる。彼は狼狽して、笛を握った手を胸に当てた。「ぼ、僕じゃない……!」
俺は首を振る。「爪先の幅が違う。君の靴はもっと薄い」
青年の肩の力が抜け、涙がにじんだ。
◆
ここで、ミナが指を上げた。「……“声を持たない”って、投票しない者がいるって意味じゃないの?」
「投票しない“者”?」
「ううん。者じゃないかも。――“鐘の一打”。投票の場で、誰かが無意識に“はい”と頷くように、鐘が一回余計に鳴って、その“音”をみんなが人数として受け入れてる。だから“声を持たない」。声じゃなく、音で数を増やすの」
俺は息を呑んだ。
言葉が、ぴたりと骨に合った。
影は人の形をしているかもしれないし、していないかもしれない。だが“声”を持たない。――音で、数を増やす。
鐘が“人数”になっている。
だから、吊台の印が犠牲と無関係に増える。鐘の“状態”が、印に移されていく。
「印を刻むのは誰だ」老人が問う。
「夜のあいだに吊台へ近づける者」カイが短く答える。「鍵を持つ俺、老人、エダ……いや、鍵は俺が持っている。となると、鍵など要らない方法で来られる者」
俺は塔から張られた綱の毛羽立ちを思い出す。屋根から梁、梁から吊台の上梁へ。夜のうちに渡れる者。
――軽く、爪先だけで立てる者。
――踵を使わない者。
「今夜、鐘は鳴らせない」俺は口にした。「鳴れば、影は増える。数も増える。俺たちは、鐘の前で先に集まる」
カイが頷く。「鐘室の綱は切れない。だが、綱の“手前”に楔を追加できる。割り板も外す。庇の金具には“鈍い刃”を噛ませて、棒が差し込めば音ではなく金属音が出るように」
老人は短く言った。「やれ」
◆
夕闇が落ちる。
俺たちは祈りの家の中と外、塔の周りに配置につく。灰は新しく敷き直し、鈴は感度を上げ、吊台の周囲の梁には薄い白布を張った。触れればすぐ分かるし、風では揺れない工夫も施した。
痩せた青年は笛を胸に抱え、決めた合図を静かに復唱する。ミナは俺の左隣、カイは右。老人は中央に立ち、エダと老婆は扉の脇。
誰もが息を潜めた。
――音。
鈴が微かに、ひとつ。
次いで、金属がこすれる耳障りな音。庇の“鈍い刃”が棒を弾いたのだ。
鐘は鳴らない。
代わりに、屋根の上で足の速い音。爪先で石を押す乾いた連打。
「来た!」カイが叫ぶ。
俺は外へ飛び出し、灰の軌道を追う。爪先の抉り――幅は狭い。昨夜よりも。速度が上がっているのか、あるいは別の足。
庇の縁に短い影が止まり、こちらを見た。
月が雲から抜け、影の輪郭が“人”だと分かった。覆面。額から顎まで布で覆い、目だけが光る。
「止まれ!」カイの穂先が閃く。
影は身を捻り、庇の内側に消えた。鐘室ではなく、塔の支柱の細い隙間へ。人ひとりがやっと通れる空間。
その先は、梁――吊台の上梁へつながる。
「吊台!」俺は叫んだ。
広場へ駆け込むと、白布が一枚、破れていた。
吊台の足元の灰に、細い指のような跡。……そして、印の位置に合わせて、刃物で木を撫でた新しい筋。
老婆が立ち上がろうとして躓き、エダが支える。
俺は足元に目を走らせた。
――踵の跡が、ひとつもない。
爪先だけ。
影は、踵を地面につけない。常に爪先で立つ。
人であり、人でない歩き方。
「そこまでだ!」
カイが吊台の背後から影に飛びかかり、槍の柄で壁に押し付ける。覆面の下から荒い息。
「誰だ」
影は答えない。
“声を持たない”。
だが、喉は潰れていない。……意図的に沈黙している。
俺は手首を掴み、指の腹を嗅いだ。油と煤。鐘の匂い。
影は抵抗をやめ、ゆっくりと手を開いた。そこに薄い真鍮の板。端に穴。細かい歯。――割り板。
布の隙間から覗く目は、焦点を結ばない。どこか、遠い。
カイが面布を剥ぎ取る。
現れた顔に、広場の全員が息を呑んだ。
――鐘守の子、カイの弟だった。
頬は痩せ、唇は乾き、目は虚ろ。
「なぜだ」カイの声が震える。「お前が、影を――」
弟は口を開いたが、声は出なかった。ほんのわずかに喉が鳴り、空気の擦れる音が漏れるだけ。
“声を持たない”。
老人が一歩進み出る。「理由は後だ。今、問うべきは“もう一匹”だ」
カイが顔を上げ、はっとする。
そうだ。鐘を鳴らす工夫、庇の金具、割り板、吊台の印。弟ひとりでは届かない場所がある。
“導く者”がいる。
レナを踵で疑わせ、群衆の数え癖を利用し、紙片で揺さぶる“声を持つ”者が。
白布が、もう一枚、裂けた。
吊台の反対側。
ミナが振り返り、俺の袖を強く引いた。
俺は咄嗟に彼女を抱え、身を伏せる。
月が厚い雲に入り、広場が闇に沈む。
次の瞬間、笛が――四度――鳴った。
集まれ、の合図。
だが、笛を吹く青年は、墓地の門で倒れていた。喉に浅い切り傷。命はあるが“声”が出ない。
――“声を持つ”者が、声を奪った。
鐘は鳴らなかった。それでも、印は――十七。
夜の終わり、吊台に刻まれていた。
祈りの家の扉に、黒い粉で文字が描かれていた。
――「次は“数える者”」
老人が震える指で杖を握り直す。
俺はミナの肩を抱き、カイの弟から目を離さず、心の中でひとつ数え、ふたつ数え、みっつ――数を刻んだ。
もう、鐘ではない。
俺たち自身の心臓で、数える。
影は、まだ終わらない。
だが、輪郭は見えた。“声を持たない影”と、“声を奪う導き手”。
次は、“数える者”が狙われる。
なら――俺が、“数え”をやめるわけにはいかない。
夜が明ける。
塔の影が縮み、祈りの家の扉に描かれた粉の文字が、日差しで淡く散る。
印は十七。
俺は指を一本折り、静かに息を吐いた。
次の投票までに、もうひとつ――影より先に、数を刻む。
“声を持たない影”に、俺の声をぶつけるために。
そして、“声を奪う導き手”の喉元へ、迷いなく。




