第20話「村の鼓動、最後の声」
夜は、こちらの都合を知らない。
囁きが村すべてを覆うと宣言したその晩、風は弱く、星はよく見えた。静かだった。静かすぎた。
その静けさは、器をほどいたときの“沈黙”とは違う。空間の奥に薄い膜が張り、音の粒を吸い取っていく――そんな種類の静けさだ。
老人が杖を掲げ、全員を広場へ集めた。
吊台の印は十八。その縁は薄れたまま、夜露で淡く濡れている。白布はもうない。鈴もない。鐘は布に包まれて眠っている。
あるのは声と、胸の奥の拍だけだ。
「最後の数えだ」
老人の声は低いが、澄んでいた。「囁きは“村全体の拍”を狙っている。個を守る術は学んだ。合声、返拍、無拍。――だが今度は、『群れ』で守らねばならぬ」
ざわめく輪に、ヨルグが一歩出る。「器は要らない。俺たちの体が器だ。……でも、器には型がいる」
老婆が肩で笑った。「型は、壊すためにも要るよ」
老人は頷く。「型は“揃えるため”だけにあるのではない。揃いすぎないためにもある」
俺はミナと目を合わせ、手を握った。
囁きは、拍の“揃い”にも“乱れ”にも取り憑く。ならば――。
「『揃って不揃い』にする」俺は言った。「輪を幾つも重ね、互いに半拍ずらして回す。合声は厚く、拍はずれる。囁きの入る“隙”はあるように見せて、実はない。……群れの返拍だ」
老人が広場の土に指で円を描く。
外円、中円、内円――三つの輪。
「外輪は『声』、中輪は『胸』、内輪は『無拍』。三つの輪を半拍ずつずらして回す。外輪が『ひとつ』を言うとき、中輪は胸を打ち、内輪は空白を置く。次の拍で内輪が声を置き、外輪は胸を打ち、中輪が空白を作る。――囁きが“声”“胸”“空白”のどこへ入っても、他の二つが押し出す」
「輪の長は誰が」と誰かが問う。
老人は杖を俺に向けた。「内輪の長はリク。外輪はミナ。中輪はカイ」
ミナが一瞬だけ怯えの色を見せ、すぐに笑った。「任せて」
カイは槍の石突を軽く打ち、「承知」と短く言った。
ヨルグが手枷の鎖を鳴らし、鍛冶屋に視線を送る。鍛冶屋は頷いて枷を外した。「おまえの手は今夜だけ自由だ。揃え過ぎを壊す手として使え」
老婆は札の束を抱え、祈り札の裏を素早く裂いて細い紙片を配った。「空白に息を置く“印”だよ。息を吸えないときは、紙を指で裂きな」
◆
三つの輪が広場に浮かび上がる。
月光が石畳を薄く洗い、影は重ならないように配置される。
外輪はミナの声で立ち上がり、中輪はカイの胸の拍で支え、内輪は俺の合図で沈黙を置く。
「いくよ」ミナが小さく言った。
「行け」と老人。
「――始め」俺は囁いた。
外輪が「ひとつ」を放つ。
中輪が胸をドンと打つ。
内輪は、無を置く。
半拍ずれる。
今度は内輪が「ふたつ」を置き、外輪が胸、中輪が空白。
さらに半拍。
中輪が「みっつ」、内輪が胸、外輪が空白。
広場に三重の波が生まれた。
声の波、鼓動の波、沈黙の波。
互いが互いを押し、引き、支え合う。
拍は揃っていない。だが、束になっている。
――その束の合間を、風より薄い何かが通り抜けた。
囁き。
夜の膜がひとところで凹み、石畳の縁がきらりと光る。
外輪の空白に潜りかけた囁きは、中輪の胸のドンに弾かれ、内輪の無拍に絡み取られる。
内輪の無拍は“器”ではない。穴だ。
器は増やせるが、穴は増やしようがない。
穴に落ちた囁きは、拍に乗れない。
それでも囁きは諦めない。
今度は外輪の声と中輪の胸の境目に身を細くして潜ろうとする。
ミナがそれを見逃さない。
「返拍!」
外輪が半拍だけ前へ踊る。
声の前歯が揃う直前、笑うようにずれて囁きの足を絡め取る。
膝をついた影が砂を払うように砕け、薄い声の皮が空中で剥がれた。
◆
囁きは広場の外へ回った。
畑の畦道、井戸の縁、祈りの家の梁、布に包まれた鐘の上――。
夜気の膜が少しずつ濃くなっていく。
村の“輪”が広がった分だけ、狙われる“外側”も増えたのだ。
俺は内輪から一歩だけ出て、広場と村の境に足を置く。
胸を薄く息で満たし、無拍を広げる。
無拍は無音の罠になる。
声を持たない影は、穴の縁に気づけない。
そこへ、外輪の声と中輪の胸が交差して落ちた。
囁きがもがく。
夜の膜の裏で、細い火花のような音がパリパリと鳴った。
――声と鼓動と空白。
三つの束が絡まった場所で、囁きは裂ける。
裂け目から、低い呻りが漏れた。
それは言葉ではない。
だが、長い間、器の陰で増えてきた何かの“根”の音だった。
俺は思い出す。吊台の柱に詰まっていた祈り札。鐘の割り板に宿っていた“間”。白布に残っていた孔。
拍は、器に根を持つ。
器をほどいたあと、その根の残骸だけが土中に残り、影の栄養になっていた。
「根を切る!」俺は叫んだ。
ヨルグが走る。鍛冶屋から借りた短い鈍し板(元・返し板)を逆手に持ち、祈りの家の土台、吊台の足、古い井戸の縁――器の名残を次々に“鈍く打つ”。
鋭くは切らない。鈍く打てば、根は“音”を失って朽ちる。
老婆が札の束を裂き、裂いた紙片を土に埋め、上から土を踏み締める。「祈りを土に戻すんだよ!」
エダが声で合図を回す。鈴の代わりに、短い息の型。「はっ」「あっ」――二音の合図が、輪の外で働く皆に拍を繋ぐ。
◆
囁きの膜が薄くなった。
だが、最後の場所だけが濃い。
――鐘。
布に包まれ、眠るはずの“喉笛”。
器から金属へ戻ったはずなのに、そこだけ夜の膜が息をしている。
ミナが顔をしかめる。「鳴ってないのに、鳴りそう」
「鳴らせない」老人が首を振る。「もし鳴れば、拍はまた“器のもの”になる」
俺は歩み出る。
布越しに、冷たい輪郭を手でなぞった。
――喉笛。
俺は声を器に預けない。
だから、最後の結びは、俺の喉でほどく。
外輪、中輪、内輪が、鐘を中心に反転して配置を換える。
内輪(無拍)が最外に出て、外輪(声)が中へ、中輪(胸)が最内へ。
囁きは中心に向かって縮む。
穴が外から絞り、声が中で薄い膜を震わせ、鼓動が核で待つ。
「リク」ミナが囁く。「怖い?」
「怖い」
正直に言う。
ミナは薄く笑った。「じゃあ、数えよう。……空白で」
俺は頷き、喉を軽く閉じ、息だけで拍を刻む。
ひとつ、ふたつ、みっつ――。
声にならない声。
鼓動にならない鼓動。
囁きが、どこに寄ればいいのか分からなくなる。
そこへ中輪の鼓動が静かに合わさり、外輪の合声が透明な膜のように覆いかぶさる。
鐘の布がふっと膨らみ、次の瞬間しぼんだ。
夜の膜が、鐘の内側へ吸い込まれる。
囁きは最後に、言葉らしきものを吐いた。
――「ひとつ……」
そこで、切れた。
◆
広場に、音が戻る。
虫が鳴き、犬が遠くで吠え、子どもが驚いて笑った。
俺は膝をつき、汗を地面に落とした。
ミナが抱きとめ、カイが肩を貸し、老人が杖で土を軽く叩いた。
「終わったのか」誰かが問う。
老人は首を振り、微笑んだ。「始まったのだ」
ヨルグが鈍し板を下ろし、空を見上げた。
「返し板だったものが、鈍し板になった。刃の角度は人のものに戻った」
老婆が札の土を掌で撫でる。「祈りは土へ、数えは声へ。器は眠ってていい」
エダは合図の型を紙片に写し、若い子へ渡していく。「鈴がなくても回る」
俺は布に包まれた鐘に顔を近づけ、そっと囁いた。
「おやすみ。――もう、起きなくていい」
鐘は静かに、何も言わなかった。
◆
朝が来た。
吊台の印は十八のまま。だが、水の膜の向こうへ沈んだように浅い。
誰もその数を恐れない。
俺は印の縁を指で軽くなぞり、深呼吸してから、新しい数えを始めた。
「ひとつ」
外輪の子どもたちが笑って受ける。
「ふたつ」
畑へ向かう女たちが作業の手を止めず重ねる。
「みっつ」
夜警上がりの若い男たちが少し眠そうに続ける。
「よっつ」
祈りの家の戸口でエダが短く合図を置く。
「いつつ」
カイが弟の背中を軽く叩き、弟がはっきりと言った。
「……いつつ」
輪が一瞬だけざわめき、すぐに拍へ戻る。
俺は胸の奥で、静かに無拍をひとつ置き、次へ繋いだ。
老人が杖を俺に向ける。「長は、拍を守る者ではない。拍を手渡す者だ。……リク。今日から、おまえが『数えの長』だ」
広場がざわめく。
俺は首を振りかけ、ミナに袖を引かれて止まった。
彼女が笑う。「受け取って。ずっとやってきたことだよ」
俺は息を吸い、吐き、頷いた。「預かります。長は、空白を増やす。息のために。影ではなく、人のために」
◆
昼。
村の拍は、用事の数だけ増え、仕事の数だけ流れた。
鐘のない時刻合わせは、最初はぎこちなかったが、すぐに人の体に馴染んだ。
合声は歌に、胸の拍は踊りに、無拍は笑いの間に化けた。
笑い――それは器のどこにも刻めない「余白」だ。
囁きが最も嫌う場所。
そこへ、人は自由に息を置ける。
ヨルグは鍛冶屋の横で冶具の設計図を書き直し、子らに「角度を鈍らせる練習」を教えはじめた。刃物は、切るものから守るものへ変わる。
老婆は札の文字を読み聞かせ、死者の名を“鈴”ではなく“声”で呼ぶやり方を提案した。「名を唱える拍を増やしな。忘れるんじゃなくて、混ぜるんだよ」
エダは合図の型を祈りに組み込み、祈りは特別な時刻ではなく、“息の置き場”になった。
夕暮れ、俺は吊台の足元に座り、印を眺めた。
十八の切り目は、そのまま残す。
それは戻らないための目印であり、始まりの柱でもある。
ミナが隣へ腰を下ろし、肩にもたれた。
「怖い?」
「怖い」
「じゃあ、数えよう。……笑って」
俺たちは小さく笑い、声を重ねた。
「ひとつ」
「ふたつ」
「みっつ」
合間に、わざと長い空白を置く。
そこへ、囁きは戻ってこない。
空白は、もう人のものになった。
◆
夜。
広場の端で、子どもたちが輪になって遊んでいた。
「逆拍ごっこ」「返拍いっせーの」。
無拍の合図で鬼が動けなくなる遊びに、声と笑いが絶えない。
老人がその様子を見守り、杖で土をとんとんと叩いた。
俺は鐘の包みを遠目に見て、心の中でそっと礼を言った。
――器であってくれて、ありがとう。
――眠ってくれて、ありがとう。
星はあいかわらず、こちらの都合を知らない。
けれど、もう怖くない。
拍は俺たちが持っている。
奪われても、返せる。
返したあと、笑える。
俺は胸の奥で、最後の数えをした。
ひとつ。
ふたつ。
――そして、空白。
その空白は、誰のものでもなく、確かに俺たちの村のものだった。
終
(「声と拍の村」全20話 完)




