第18話「鼓動を狙う影」
夜が明けても、村には奇妙な沈黙が漂っていた。
昨日の「無声の夜」の余韻がまだ骨に残っている。
子どもたちは遊びの拍を口にしながらも、すぐに黙り込み、大人たちは笑い声を立てることをためらっている。
誰もが知ってしまったのだ――声は奪われる。
そして、鼓動さえ狙われていると。
俺は吊台の前に立ち、掌を胸に当てた。
ドン、ドン……心臓は確かに鳴っている。
だがその裏で、もうひとつの鼓動が追いかけている気がした。
囁きが模倣している。
声ではなく、命の拍を。
◆
老人が広場に皆を集めた。
「今度の相手は声ではない。鼓動だ。声は重ねられるが、鼓動は一人ひとり別々に鳴る」
ざわめきが広がる。
老婆が不気味に笑った。
「つまり、合わせようとすれば命が狂う。ひとつ早ければ血が暴れ、ひとつ遅ければ息が止まる。囁きはそこに入り込むんだよ」
ヨルグが首を振った。
「違う。合わせるんじゃない。響かせるんだ。鼓動を同じ器に響かせれば、囁きは紛れ込めない」
「器はもう壊したろうが」老婆が鼻を鳴らす。
ヨルグは吊台を指さした。
「器は人だ。胸が器だ。ここに響かせる」
俺は拳を握った。
「なら試そう。鼓動を声に変える。胸を打ち、血を鳴らす。それを輪にするんだ」
◆
夜。
輪は声を封じ、代わりに胸を叩いた。
ドン、ドン、ドン……。
子どもも女も男も老人も、一斉に胸を打つ。
音は声より不揃いだ。
だが、不揃いだからこそ厚みがあった。
囁きが入ろうとしても、一定の隙を見つけられない。
しかし、鼓動の合奏は身体に重かった。
額に汗がにじみ、息が乱れ、老人の顔は青ざめていった。
「無理をするな!」カイが叫んだ。
だが老人は杖で胸を叩き続けた。
「止めたら囁きが入る!」
◆
その時だった。
弟が胸を叩くのをやめ、喉を押さえた。
顔が真っ青に変わり、目が虚ろになる。
「弟!」カイが駆け寄る。
だが弟の胸は――二重に鳴っていた。
本来の鼓動と、その裏で遅れて追いかける影の鼓動。
囁きが弟の命を模倣している。
俺は弟の胸に手を重ねた。
熱が伝わる。だが、裏の拍のほうが強い。
「……奪われる」
囁きが声ではなく、鼓動を剥ぎ取ろうとしている。
◆
ミナが叫んだ。
「リク! 返拍だ!」
俺は息を吸い、弟の胸に合わせて自分の心臓を逆に打とうとした。
返拍で影の鼓動をずらし、本物を浮かび上がらせる。
だが、自分の鼓動を操作するのは声より危うい。
一瞬でも誤れば、自分が死ぬ。
老人が背中を叩いた。
「やれ! 命を張るのはおまえだ!」
カイが弟の肩を押さえ、ミナが俺の手を握る。
俺は目を閉じた。
――ドン。
弟の鼓動がひとつ遅れる。
俺はその隙に、返拍を胸で打った。
――ドン!
全身の血が逆流するように痛み、視界が白く弾けた。
だが弟の胸の裏拍が消え、本来の鼓動だけが残った。
◆
弟が息を吐き、喉から小さな音が漏れた。
「……ひとつ」
かすれた、だが確かな声。
囁きは追い払われ、弟の鼓動は戻った。
村人たちが泣きながら胸を叩き続ける。
ドン、ドン、ドン……。
鼓動の合声は輪を広げ、囁きの影を押し出していった。
◆
夜が明けた。
吊台の印は十八のまま、だがその縁は薄れている気がした。
俺は胸を押さえ、荒い息を吐いた。
喉が焼けるように痛い。
昨日までの囁きが、今は鼓動の奥に潜んでいる。
「次は俺だ」
そう呟くと、ミナが強く首を振った。
「違う。次はみんなで守る。あなたひとりにさせない」
俺は彼女の手を握り、心の底でひとつ数えた。
――鼓動を奪わせない。
たとえ影が命そのものを狙っても、俺たちは返す。




