第16話「取引の囁き、声の代償」
夜が深まり、村は寝静まった。
広場の吊台の影の下で、俺はひとり立っていた。
喉の奥がじりじりと焼けるように痛む。声を出そうとするたび、影が舌の裏に貼りつく。
――「声を返そう。その代わりに、おまえの声をよこせ」
囁きは甘い。だが、甘さの奥に骨を砕くような冷たさがある。
ミナの眠る小屋を背に、俺は声を絞った。
「俺の声は……俺のものだ」
だが、その返事が遅れて響いた。
「俺の声は……俺のものだ」
影が、俺の声を真似て返す。
すでに“皮”と“本物”の境界は曖昧だ。
◆
翌朝、広場に集まった村人は俺の顔色に気づいた。
カイが真っ直ぐに問う。「リク。……奪われたのか」
「まだだ。だが囁きは取引を持ちかけてきている」
村人の間にざわめきが走る。
老婆が杖を突きながら嗤った。
「ほら見な。囁きは最初からおまえを狙っていた。戻ってきた拍ごと声を食われるんだよ」
ヨルグは険しい顔で言う。「違う。狙われているのは“戻る力”そのものだ。おまえが境を切ったから、影はおまえに結びつこうとしている」
老人が杖を鳴らして沈黙を作った。
「どちらにせよ、試さねばならぬ。リク、おまえが声を奪われぬことを示せ。村はそれを支えよう」
◆
試みは昼に行われた。
輪は二重、三重に組まれ、俺はその中心に立つ。
「ひとつ」
合声が厚みを持ち、広場を覆った。
「ふたつ」
俺の声は掠れ、遅れて返ってきた。
外から、俺の声と同じ声が「ふたつ」と唱える。
合声が押し出す。
だが、消えない。
俺の声の“皮”が外に浮かび続けている。
「リク!」ミナの声が響く。「奪わせないで!」
俺は喉を押さえた。
皮を引き剝がすように、返拍を打つ。
「みっつ」
心臓を逆に刻み、喉を締め付ける。
「よっつ」
逆拍を重ね、声を無理やり押し込む。
血の味がした。
だが外の声は、まだ俺を真似ていた。
◆
その時、弟が一歩前に出た。
声を持たない彼が、口を大きく開いた。
音は出ない。
だが俺の耳には――確かに「いつつ」と聞こえた。
奪われた声が、影を通じて返ってきている。
囁きは俺と弟を繋ぎ、声の境目を曖昧にしていたのだ。
「……取引だ」
俺は気づいた。
俺が声を差し出せば、弟に声を返す。
囁きはそう囁いている。
弟の喉が震え、今にも言葉を得ようとしている。
だが、それは俺の声を代償にしてだ。
◆
「リク!」
ミナが叫ぶ。
「だめ、声を渡しちゃだめ! あなたの声は――私たちの声でもあるんだよ!」
彼女の声が涙で震えていた。
合声が重なり、広場を満たす。
「むっつ」「ななつ」……。
囁きはその外で、俺の声を重ね続けていた。
――「ひとつ多い」。
老人が杖を突いた。
「リク。決めるのはおまえだ。声を守るか、渡すか。……だが忘れるな。渡した声は二度と戻らぬ」
弟の瞳が俺を見ていた。
声を求める、必死の眼差し。
胸の奥で囁きが甘く響いた。
――「返してやろう。おまえの声と引き換えに」
◆
俺は目を閉じた。
返拍を打ち、無拍を作り、喉を閉じる。
声を差し出す寸前で、ミナの手が俺の手を握った。
温かさが走り、胸の奥に小さな光がともる。
俺は囁きに向かって言った。
「取引はしない。俺の声は俺のものだ。弟の声も、弟のものだ」
その瞬間、囁きが裂けるように笑った。
広場の外にいた“俺の声”が、粉々に砕けるように消えた。
弟の喉が震え――かすかに、音を漏らした。
「……ひとつ」
広場がざわめきに包まれた。
声は掠れて小さかった。
だが確かに、弟自身の声だった。
◆
俺は喉に手を当てた。
まだ声はある。
奪われなかった。
囁きは怒っているのか、笑っているのか分からない声を耳の奥に残し、遠ざかっていった。
老婆が呟いた。
「渡さなかったか。……なら影はもっと欲しがるよ」
老人は杖を突き、静かに言った。
「それでいい。欲しがらせろ。……我らの声は、奪われて終わるものではない」
俺は弟を抱きしめ、胸の奥でひとつ数えた。
――俺の声は、俺のものだ。
そして弟の声も、弟のものだ。
その当たり前を守るために、俺は戦う。




