第15話「声の皮、俺の声」
朝の広場に輪ができた。
だが昨日までの輪とは違う。
誰もが緊張で唇を固め、互いの声を見張り合っている。
囁きが声を奪い、返すと知ってしまったからだ。
声はもう、人を証すものではなく、いつ奪われるか分からない影の皮だった。
俺は輪の中央に立ち、胸の奥を押さえていた。
夜の夢の残響が、まだ消えない。
自分と同じ顔の影が、俺より正確に数えていた。
――「ひとつ多い」。
その言葉が耳に残り、喉を震わせるたびに自分の声が自分のものではない気がする。
◆
「始めるぞ」
老人が杖を鳴らした。
「ひとつ」
俺とミナが声を合わせる。
「ふたつ」
カイと弟が続く。
輪の外へ、声が広がる。
囁きは今のところ、静かだった。
だが「みっつ」を唱えた瞬間、俺の喉が止まった。
声が出ない。
口は開いているのに、音が漏れない。
広場のざわめきが一斉に高まる。
次の瞬間、輪の外から――俺自身の声が「みっつ」と返ってきた。
俺は愕然とした。
囁きが、俺の声を奪ったのだ。
耳の奥で冷たい笑いが響いた。
――「返してほしいか?」
◆
「リク!」
ミナが肩を掴み、必死に叫んだ。
「合声だ! みんな、重ねて!」
村人たちが一斉に「よっつ」と声を重ねる。
厚みのある合声が広場を満たし、外の「みっつ」は掻き消えた。
俺の喉から、遅れて声が漏れた。
「みっつ……」
戻った。だが掠れていた。
まるで借り物を返されたかのように。
老婆が笑う。「ほら見な。おまえの声も皮にされた。囁きは剥ぎ取り、返すたびに薄くするんだ」
ヨルグが険しい顔で言う。「違う。返すのは試しているんだ。……声が誰のものか、確かめてる」
老人は杖を強く突いた。「どちらでもいい。大事なのは“取り返せる”と示すことだ」
◆
その日から、輪は俺を守るために組まれた。
皆が俺の声に自分の声を重ね、余白を与えないようにした。
だが、心の奥では恐れていた。
守られるほど、俺の声は俺のものではなくなる。
合声に紛れれば、俺の音は輪の中に埋もれ、皮と本物の境がなくなる。
夜。
ひとりで吊台に立った。
声を出してみる。
「ひとつ」
返ってくる。俺の声で。
「ふたつ」
また返ってくる。
誰もいないのに、もうひとつの俺が輪を作っている。
胸が冷えた。
これはもう囁きではない。
俺自身の中に生まれた“声の影”だ。
◆
眠れずに夜を歩いていると、弟に出会った。
彼は声を持たないまま、月明かりの下で口の形を作っていた。
「ひとつ」「ふたつ」……声にならない数え。
だが、俺にははっきりと聞こえた。
――弟の声で。
奪われた声が、影を通じて俺にだけ返ってきているのだ。
「おまえも奪われてるのか」
問いかけても、弟は首を振らない。ただ目を逸らした。
次の瞬間、耳の奥であの声が囁いた。
――「声を返そう。だが代わりに、おまえの声をよこせ」
俺は息を呑んだ。
囁きは取引を持ちかけてきたのだ。
◆
翌朝。
広場に輪ができ、全員が俺の顔を見ていた。
老人が言った。
「リク。声を守るのはおまえ自身だ。合声に頼るだけでは、いずれ囁きに呑まれる」
ミナが泣きそうな声で言った。「お願い、奪わせないで」
俺は拳を握った。
「……奪わせない。俺の声は俺のものだ。返すも奪うも、俺が決める」
喉の奥で、囁きが笑った。
――「では試そう。おまえの声は本当におまえのものか?」




