第14話「声を奪う者、声を返す者」
夜は長かった。
広場を囲んだ声の輪は崩れ、家々に灯が戻っていった。
だが俺は眠らず、吊台の前に残った。
耳の奥でまだ、あの声が囁いている。
――「ひとつ多い」。
昨日切ったはずの紐の残響のように、拍の裏に潜み続けていた。
ミナが毛布を抱えてきた。
「リク、少しは休んで」
「眠れないんだ」
「囁き?」
「ああ。切ったはずなのに、まだ残ってる」
彼女はしばらく黙って俺の顔を見て、やがて小さく笑った。
「じゃあ、眠れないなら、一緒に数えよう。声で。朝まで」
二人で指を折り、声を重ねた。
「ひとつ」「ふたつ」「みっつ」――。
囁きが入り込む余白を、合声で塞ぎ続けた。
夜明け前、目の奥が焼けるように痛んでも、声は絶やさなかった。
◆
朝。
子どもたちの数え声が、広場に溢れた。
弟はまだ声を持たないまま、口の形と手拍で参加している。
だが、ときおり――輪の外から「よっつ」「いつつ」と声が響く。
弟の声に似ている。けれど、どこか澄みすぎていた。
それは“本人の声”というより、“声の皮”だった。
「奪ってる……」
俺は低く呟いた。
囁きは、声を奪い、皮のように被せて返す。
弟だけではない。村の子の一人が咳き込み、次の瞬間、輪の外からその子の声が「むっつ」と返ってきた。
母親が抱き寄せると、子の喉は震えていない。
声は、すでに影の側にあった。
◆
混乱が走る。
老婆は柱に凭れ、笑いながら言った。
「ほら見な。器を壊したって無駄さ。影は器じゃなく、人の声を食う。奪った声を返すかどうかは気まぐれよ」
ヨルグは顔をしかめた。「違う。返すのは理由がある。……囁きは数えの拍を欲しがってる。奪った声を“ひとつ多く”するために返してるんだ」
老人は杖を鳴らした。
「ならば、声の数えを守るしかない。声を奪われたら、合声で奪い返す」
彼は輪を組み直させた。
子どもと大人、老人と若者を対にして声を重ねる。
二人で同じ拍を言えば、囁きは入る余白を失う。
◆
試みは続いた。
「ひとつ」――合声。
「ふたつ」――合声。
囁きが割り込もうとするが、重なった声に弾かれる。
だが、三巡目の「よっつ」で、突然、老婆の声が抜けた。
口は動いているのに、音が出ない。
次の瞬間、輪の外から「よっつ」と響いた。老婆の声だ。
奪われた。
広場がざわつく。
老婆はうろたえたように喉を押さえたが、すぐに薄く笑った。
「ほらね。あたしの声も食われたよ」
その笑みは、悔しさか、諦めか、あるいは安堵か分からなかった。
ヨルグが叫んだ。「取り返せ! 合声で押し出せ!」
俺とミナ、カイと弟、村人全員が声を重ね、「いつつ」と唱える。
広場に厚みのある拍が満ちた。
外の「よっつ」が揺れ、かすれ、やがて掻き消えた。
老婆の喉から、遅れて声が漏れた。
「よっつ……」
かすれていたが、確かに戻った。
◆
奪われた声は、返せる。
だが、それには全員の声を重ねる必要がある。
合声を乱さず、余白を埋め続けなければならない。
影は余白を狙い続ける。
ひとつ油断すれば、また誰かの声が抜ける。
その日から、村の数えは試練になった。
輪は日に三度組まれ、全員で声を重ねる。
子どもも、大人も、老婆も、ヨルグも。
誰も抜けられない。
抜ければ、その隙に囁きが入る。
夜、俺は胸に手を当てた。
拍は整っている。だが耳の奥で、まだあの声が囁いている。
――「ひとつ多い」。
それは、俺自身の声に似ていた。
◆
眠りの境目で、夢を見た。
吊台の前。
影が並び、俺と同じ顔で数えている。
「ひとつ」「ふたつ」「みっつ」……。
俺の声で、俺よりも正確に。
そして最後に、影は笑って言った。
――「ひとつ多い」。
目が覚めると、喉が乾いていた。
声を出そうとした。
だが一瞬、音が出なかった。
――奪われた?
慌てて「ひとつ」と叫ぶと、音は戻った。
だがその声は、どこか自分のものではないように響いた。
◆
朝。
広場に集まった村人の前で、老人が告げた。
「囁きは器ではなく、声を奪い、返す。……声そのものが次の戦場だ」
彼は杖を掲げ、俺に目を向けた。
「リク。おまえが切った紐の先は、まだ残っている。おまえ自身の声に囁きが寄っている」
皆の視線が俺に集まった。
喉の奥が震える。
本当に、俺の声は俺のものか?
返す声と奪う声、その境目はどこにある?
ミナがそっと言った。
「リク。……合声で守ろう。あなたの声も」
俺は頷いた。
だが、心の奥底で囁きが笑った。
――「守っても、ひとつ多い」。




