第13話「弟の声、影の声」
夜の広場に、確かに響いた。
――「ひとつ」。
声は澄んでいて、若く、どこか懐かしい響きを持っていた。
村の誰もが耳を疑い、息を呑んだ。
なぜならそれは、声を持たぬはずの者の声だったからだ。
カイの弟。
物心ついたときから声を発したことのない少年。
その彼が、輪の外から拍を刻んだのだ。
「兄さん……?」
カイの喉が乾いた音を立てた。槍の石突が石畳を擦る。
輪の中の誰もが、息を止めて弟を見つめた。
だが弟は、声を発した本人のように驚きもせず、ただ手拍を続けている。口は動かない。目は広場を見ていない。
――なのに、声はした。
◆
老婆が口を開いた。
「囁きだよ。声のない子の余白に、囁きが棲みついた」
彼女の声は掠れていたが、確信があった。
ヨルグが低く否定する。「違う。あれは弟自身の声だ。……父さんもそうだった。鐘の下に育った者は、声が遅れて出ることがある。影に奪われたんじゃない。戻ってきただけだ」
議論は瞬く間に二つに割れた。
老婆は「囁きが口を借りている」と言い、ヨルグは「遅れて出た本物の声だ」と主張する。
どちらも一理ある。
だが、真実はどちらかひとつではないのかもしれなかった。
俺は輪の中央に出て、弟の前に膝をついた。
「……もう一度。言えるか?」
弟は何も答えない。ただ手拍を二度、打つ。
それは「危険なし」の合図だった。
その直後、声が――。
「ふたつ」
はっきりと返った。
◆
ミナが俺の肩を掴む。「リク、危ない。あれは囁きだよ」
「分かってる。でも――確かめたい」
俺は弟の目を覗き込んだ。瞳は深い闇を宿していた。光を映していない。まるで声を発しているのが本人ではないと告げるように。
だが同時に、口元は震えていた。声なき言葉を形にしようとするように。
「……弟、おまえは囁きか?」
問いは愚かだった。返事をするなら囁きだし、返事をしなくても囁きだ。
けれど俺は問わずにいられなかった。
返ってきた声は――。
「みっつ」
◆
広場がざわめいた。
子どもたちは泣き、大人たちは後ずさり、老婆は笑い、ヨルグは顔を覆った。
老人だけが杖を鳴らして沈黙を求めた。
「静まれ。……これは裁きの時と同じだ。恐れるな。声を見極める」
老人は弟に近づき、杖の先をそっと肩に置いた。
「声は誰のものでもよい。だが、声を奪うものは許さぬ。……囁きなら追い出す。本人なら守る」
その言葉に、俺は頷いた。
「方法は?」
「合声だ」老人は言った。「輪の声で彼を包む。囁きは合わない。本人の声なら、合える」
◆
輪が組み直された。
弟を中央に置き、俺とカイとミナと老人が囲む。さらにその外に村人全員。
声の壁を幾重にも作り、囁きを閉じ込める。
老人が目を閉じ、ゆっくりと告げた。
「始めよ」
「ひとつ」
俺とミナが重ねる。
「ふたつ」
カイと弟。
――だが、弟の口は動かない。
声だけが、確かに響いた。
村人たちが「みっつ」と続ける。
「よっつ」
俺とミナ。
「いつつ」
カイと……弟。
その瞬間。
弟の口が、わずかに開いた。
声は遅れて、かすかに漏れた。
掠れて、震えて、言葉にならない。
だが、確かに――本人の声だった。
◆
広場が静まり返る。
老婆は顔を歪め、「囁きが真似をしただけさ」と吐き捨てた。
ヨルグは涙を流し、「違う、あれは弟の声だ」と叫んだ。
老人は杖を鳴らした。「どちらでもいい。――本人の声が出た。それが真実だ」
だが、俺は知っていた。
囁きは消えていない。
合声で押し出された一瞬の隙に、弟の声が戻っただけだ。
次に余白ができれば、また囁きが入り込む。
ミナが俺の手を握った。「リク……もう、止めよう」
俺は頷いた。だが胸の奥で思う。
――まだ決着はついていない。
囁きは声を奪い、声を返し、影を残す。
弟の声が戻ったのなら、次は俺自身の番だ。
俺の拍の余白に、囁きは必ず狙いをつける。
その夜、俺は眠らなかった。
耳の奥で、また囁きがしたからだ。
――「ひとつ多い」。




