第10話「器をほどく朝、もうひとつの影」
鐘は鳴らないまま、朝が来た。
石畳は夜露で薄く濡れ、吊台の印は十八のまま動かない。白布は風を孕み、鈴は静かに口を閉ざしている。広場に漂っていたあの“拍のざわめき”が消え、代わりに人の息遣いだけが薄く重なっていた。
老人が杖を掲げた。「器をほどく」
言葉は静かだったが、骨の奥に響いた。
鐘守の家の倉から工具が運ばれる。錆びた鉤、木槌、細いノコ、麻縄。カイは槍を背に回し、代わりに鉄の楔を両手に持った。ヨルグは縛られたまま、黙って作業の段取りを口にする。「綱の節を解く前に、重しを受けろ。割り板は歯の順に外せ。庇の金具は内側を先に。……逆順に嵌めてきたものを、正順にほどくんだ」
老婆は粉の袋から遠ざけられ、祈り札の束の前に座らされた。彼女は札の紐をほどき、紙片に薄い香をふりかけながら、目を閉じて小さく呟いた。「器はね、壊すんじゃなく、ほどくものだよ。壊せば破片が声になる。ほどけば、沈黙が戻る」
俺とミナは祈りの家の扉の前で白布を外し、鈴の輪を一つずつ切り離した。布が剥がれるたび、石畳の上の影が少しずつ薄まる――そんな錯覚を覚える。
ミナが囁いた。「ねえ、リク。今、やっと息が合ってる気がする」
「拍が、私たちの側に戻ったからだ」
言いながら、俺は胸の底でひとつ数え、ふたつ数えた。数えは滑らかだった。逆拍も返拍も要らない。ただ、声があればいい。
◆
最初に手を付けたのは、庇の金具だった。
カイが楔を打ち込み、金具の裏の返しを外す。金具が外れる瞬間、塔が小さく軋んだ。軋みは、鐘の低音に似ている。器は沈黙の仕方まで音を持っているのだと思った。
ヨルグが縛られた手で顎をしゃくる。「次は割り板。歯を折るな。歯は“間”だ」
割り板は予想より脆かった。真鍮は油と煤でべたついているのに、爪で弾けば薄い鈴のような音を立てる。カイが慎重に板を引くと、歯の間から黒い粉がこぼれた。
ミナが眉を寄せる。「この粉、昨日の粉より重い」
「鐘の芯に使う煤だ」ヨルグが答える。「重さがいる。間を決めるためにな」
“間”。
俺は歯に指を触れ、軽く息を吹きかけた。粉がわずかに揺れ、歯と歯の狭間で渦を作る。そこに、夜ごとの“ひとつ多い”が宿っていたのだろう。
綱は、老人の指でほどかれた。
昨夜切った指はまだ赤く、包帯の下で荒れている。それでも老人の手つきは迷いがなかった。
「同じ結びは二度しない」と彼は言った。「なら、ほどき方も二度は使えぬ。……新しいほどき方を探すのが、長の仕事だ」
綱がするすると解け、塔の中に軽い風が通る。誰かが小さく笑った。――風が、器から抜けていく。
◆
吊台は最後にした。
柱の裏板を外すと、中から祈り札の束が崩れ落ち、粉塵が舞った。小さな文字がびっしりと書かれた札だ。名前、願い、亡者の数。
老婆が指で札の裏をなぞる。「ほら、ここに数え歌。古い古い拍の文字」
札の余白には、丸い印が連なっていた。十ごとに少し大きい丸。十一のところに、点がひとつ。
――“ひとつ多い”。
俺は喉の奥で短く息を呑んだ。「最初から、歌の中に余白があったんだ」
吊台の上梁に張っていた白布を外すと、布には孔が点々と残っていた。外から押した孔と、内から押し返した孔。二つの手が、互いを知らぬまま、“同じ拍”をなぞり合っていた。
ミナが掌で布を撫でる。「この孔、夜露を含むと膨らんで閉じるんだね」
「だから朝には消える」俺は頷いた。「記憶は残るのに、痕は消える」
数を奪い、拍に寄生した器。
今、ほどかれ、沈黙に戻る。
その沈黙に、俺の胸の鼓動がよく響いた。
◆
昼までに、塔の“音を作る部分”はほとんど外された。
残るは鐘そのもの。
カイが綱の代わりの縄を二本架け、老人と若い男たちで鐘をわずかに持ち上げる。音は鳴らさない。縁を布で包み、重さを地面に逃がしてから、金具を外す。
鐘は、想像していたより小さく見えた。
いや、鐘が小さいのではない。――拍が、人に戻って、鐘の影が縮んだのだ。
ヨルグが黙ってそれを見つめ、ぽつりと言った。「父さんは、鐘を『器』と呼ばなかった。『喉笛』と呼んだ」
喉笛。
器ではなく、声そのもの。
俺は鐘にそっと指を置いた。冷たい金属の下で、人の声が寝ている気がした。
「喉笛なら、声が必要だ」
「だから、鳴らすな」ヨルグは目を伏せた。「声は、もう足りている」
◆
作業が終わると、広場に小さな空白が生まれた。
鐘は庇の下で布に包まれ、割り板は紐で束ねられ、綱は輪にして倉へ戻された。白布は折り畳まれ、鈴は紐を切られて袋に入った。
誰もが自分の手のひらを見つめ、指を曲げ、開いた。
声を持たない影は、もう数に入らない。
でも――。
俺は吊台の印を見上げた。
十八。
止まった印は、止まったまま、石の目に食い込んでいる。
レナの言葉が、今も耳の底で揺れている。
“影はいつもひとつ多い”。
“影は投票しない癖に、数に入っている”。
器をほどいても、村にはまだ“ひとつ多い”が残っている気がした。
俺は老人に近づき、低い声で言う。「……ひとつ、訊いてもいいですか」
「なんだ」
「俺は――“ひとつ多い”ですか」
老人の目が、静かにこちらを見る。
ミナが袖を握り、指先が小さく震える。
カイは黙って槍を背に回し、弟の肩を軽く叩いた。
「答えは」老人が言った。「おまえがいちばん知っている」
喉が乾いた。
俺は何度も死に、戻った。
戻るたび、朝の拍は重なり、吊台の前に同じ顔が並ぶ。
俺だけが、数えの外にいる。
それは、影か。
それとも――“もうひとつの器”か。
ミナが囁く。「リク。あなたは“ひとつ多い”じゃない。あなたは“ひとつ足りない”を、埋める側」
言葉が胸に落ちる音がした。
俺は、息を吐いた。「なら、まだ埋めるものがある」
◆
ヨルグと老婆、エダの処遇は夕刻に決めることになった。
村は鐘を一度止め、声で拍を管理する術を習う。畑へ出る時刻、子どもを寝かしつける時刻、夜警の交代、祈りの列――全部、声と手の数えで運ぶ。
老人は紙片に簡単な“声の型”を書き、皆に配った。
「一日の拍は、人が決め、人が持つ」
紙片の端に、小さく丸が並び、十ごとに少し大きな丸。――だが十一の位置は空白のままにしてあった。
「空白は、呼吸のためだ」老人は言った。「“ひとつ多い”は、呼吸に回せ」
午後、練習の声が広場に満ちた。
「ひとつ」「ふたつ」「みっつ」――子どもたちは楽しげに数え、若い男たちは照れた声を出し、老婆は掠れ声で輪に戻った。エダは震える声で祈りの頭文字を刻むように数えた。
カイの弟は喉に声を持たないまま、口の形で数え、手で拍を打った。ヨルグは縛られたまま列の端に立ち、返し板の代わりに自分の手首の角度を押さえつけていた。
ミナは俺の隣で指を折った。「ねえ、戻らなくても良いんだって、今、やっと思えた」
「戻らない」俺は言った。「戻らせない」
◆
夕刻。
白布は片付けられ、鈴も見えなくなった。塔の影は細く、祈りの家の扉は開け放たれ、香の匂いが風に薄まっていた。
老人が皆を集める。「裁きの前に、確かめることがある」
祈りの家の奥から、古い箱が運ばれてきた。
カイが蓋を持ち上げる。
中には、薄い板が束になって収められていた。真鍮ではない。木だ。歯の代わりに、墨の点が並び、端に紐を通す穴。
「これは?」
老人が答えた。「昔の“数え札”。鐘を作る前の、拍の器だ。――村の誰かが、これを倉に隠していた」
ヨルグが目を細める。「父さんかもしれない」
老婆は薄く笑った。「器は増え、器は減る。……なるほどね」
箱の底に、紙片が一枚。
俺が拾い上げ、声に出す。
――「声で数えよ。器は“ひとつ多い”を生む」
老人が目を閉じ、短く息を吐いた。「昔から知っていたのだ。だが、人は器が楽だ。器は裏切らないと思う。……裏切るのは、人の手だ」
手。
俺は自分の手を見た。
この手は、何度縄を受け、何度朝に戻ったか。
戻るたび、俺はひとつ多い影だったのか。
――違う。
ミナの言葉が、胸で確かになった。
俺は“ひとつ足りない”を埋める手だ。
器がこぼした拍を、拾う手だ。
◆
裁きは穏やかではないが、復讐でもなかった。
老婆は器をほどく役を担い、ヨルグは鐘守の器具を道具に戻す役割を負った。返し板は砕かれず、冶具として村の鍛冶屋に預けられた――刃の角度を“揃える”のではなく、“鈍らせる”ための冶具に改めるために。
エダは祈りの列の声係を任され、鈴に頼らない合図を学ぶことになった。
カイは槍を持つ夜警の頭として、数えを守る。
老人は紙片の余白に、呼吸の丸を増やした。
夜が来る。
俺は吊台の前に立ち、石の目に残った十八の切り目を指でなぞった。
ミナが隣に立つ。「消えないね」
「消さなくていい」俺は微笑んだ。「これは、戻らないための目印だ」
広場に輪ができる。
鐘はない。鈴もない。
拍は、声で始まる。
「ひとつ」
「ふたつ」
「みっつ」
……数えは小さく、しかし確かに深く、村の隅々に染み込んでいく。
そのとき、不意に、耳の底で微かな“ずれ”が鳴った。
誰も気づかないほどの遅れ。
返拍で返せる程度の揺らぎ。
――だが、俺には分かった。
“最後のひとつ多い”は、まだどこかに潜んでいる。器ではなく、人でもなく、拍の外に。
心臓がひとつ打ち、もうひとつ追いかける。
俺は空を見上げ、静かに息を吸った。
戻らない。
でも、もし戻るなら、その“ずれ”を掴んでやる。
俺は生の拍で“影の拍”を図り、影の分だけ、生を足す。
ミナが小さく笑った。「――よっつ」
「いつつ」
俺たちの声は、もう鐘の代わりではない。
器の代わりでもない。
ただ、ここにいるという証明だった。
十八の印は、夜露に濡れて光っている。
その光は、過去の数えの墓標であり、これからの数えの起点だ。
俺は指を一本折り、胸の奥で囁いた。
ひとつ。
まだ、埋めるものがある。
――そして、埋めるのは、俺だ。
鐘のない夜が、静かに、確かに始まった。




