第1話「鐘が鳴る村」
鼻腔の奥がひやりと痺れ、石の粉の匂いがした。
冷たい硬さが背中に広がっている――俺は石畳の上に倒れていたらしい。頬を上げると、石造りの広場が円形に開け、その周囲を低い木造の家々が囲んでいた。軒から吊るされた乾草束が風に揺れ、見覚えのない空の色が淡く滲む。
起き上がる。体は無事だ。だが頭のどこかが欠けている。
俺の名前は――
舌の先にかかった音が、霧の中へ逃げた。何かを名乗って生きていた記憶が、砕けた氷の欠片みたいに散っている。手の平を見た。傷も印もない。装いは見慣れない粗い布のシャツとズボン、硬い革靴。ポケットは空だ。
とん――
とん、とん、とん――。
重たい鐘の音が高い塔の方角から降ってきた。顔を向けると、広場の北側、教会にも見える尖塔が一本、空を刺している。鐘が鳴るたび、家々の戸が開き、人影が溢れだした。男、女、老人、子ども――十人ほど。皆、俺を一瞥してから、足早に広場の中央へ集まっていく。
「位置につけ。時間だ」
濁声が広場を踏む。灰色の髪を後ろに束ねた老人が、黒い外套の襟を正して前に立った。皺だらけの額、鉤のように曲がった鼻、しかし目だけは澄んだまま鋭い。二、三歩分後方に、槍を持った若い男が立つ。武骨で、無駄のない動き。他の者たちは半円に並び、俺だけが輪の外に取り残された。
「初めての顔がいるな」
老人は俺を見た。周囲の視線が一斉に刺してくる。中に、栗毛の少女がいる。年の頃は十五、六か。薄茶色の瞳が怯えながらも、俺から逸れない。隣の太った男は、手を胸の前で落ち着きなく擦り合わせ、口の端に泡を噛んでいる。編み上げ髪の女は腕を組み、冷たい笑みを薄く貼り付けている。
「名を」
老人の問い。
言えない。喉が乾いて擦れる。名前は、どこに置いてきた。
舌に浮かぶ音を、俺は掴み損ねた。
「彼は昨日までいなかった」
「どこから来た?」
「質問に答えないのは怪しいわ」
ざわ、と輪の内側で低い波が立つ。
槍の若者――革鎧の肩に指で刻まれた傷がいくつもある――が一歩前に出た。「村の掟を知らない顔だ。処理は迅速に」
「待ってください」
栗毛の少女が小さく手を上げた。「せめて話を聞いてからに……」
「駄目だ、ミナ。情けは村を殺す」
太った男が吐き捨てる。その声には怒りより恐怖が勝っている。
老人は掌を上げるだけで、ざわつきを沈めた。「掟を告げる。よそ者も、村人も、誰もがこれに従う。――この村には、人ならざるものが紛れている。夜に牙をむき、血を啜る獣。わしらはそれを“狼”と呼ぶ。狼を見つけ出し殺すまで、われらは毎晩、投票で一人を処刑する」
その言葉は、落ち着いた調子のまま、俺の胸を氷で刺した。
投票、処刑。
遊戯ではないのか。誰も笑っていない。誰ひとりとして。
「毎夕、鐘が鳴れば広場に集まる。名を挙げ、理由を述べ、疑わしき一人に手を挙げる。多数を得た者は吊る。反対は認めない。掟は長く、重い。疑いを先延ばしにすれば、夜に死者が出る」
老人は俺を示した。「今日は十一人いるはずがない。誰かが増えた。増えた者は、狼の手引きか、狼そのものだ」
「待て」俺は声を押し出した。「記憶がないんだ。気がついたらここにいて、名前さえ――」
「記憶がないなど、いくらでも言える」編み髪の女が鼻で笑う。「狼が自分を守るために使う、古い手」
「匂いが違う」槍の若者が低く言う。「この村の石と煙の匂いを纏っていない。今朝ここに落ちた」
ミナと呼ばれた少女だけが、目を伏せきれずにいた。「でも、もし本当に――」
「始めよう」
老人は塔の鐘に目をやった。最後の一打が空に染み込んでいく。
「――投票だ」
空気が一段重くなった。誰かが唾を飲む音が、広場に大きく響く。
俺は輪に近づいたが、槍の穂先が静かに道を塞いだ。若者の目が言う。そこから先は、お前の場所ではない。
「名前を」老人が順に促す。
太った男が早かった。「俺はドルン。俺の票は――そいつだ。今朝突然現れた。理由はそれだけで十分だろ」
編み髪の女が続く。「レナ。私も同じ。狼は皆の同情につけ込む。最初に切るべきは、最も説明のつかない者よ」
老女が震える手で印を切る。「神に――すまないよ。わたしはエダ。外から来た者に入ってほしくはない」
ミナが唇を噛む。
「わ、わたしは……ミナ。保留は、できないの?」
「できん」老人は淡々と遮った。「選ばねばならぬ」
「……だったら、私の票は、保留に近いけれど――」彼女は俺を見た。「あなたの話を、明日も聞けるようにしたい。だから……ごめんなさい。私は、レナ」
俺は瞬きをした。俺以外への票が初めて一点灯った。
レナが目を細めた。「子どもね」
槍の若者が応じる。「俺はカイ。票は――そいつ」
彼は俺の肩口の埃まで測るように見ていた。「この村に入った者の足には泥がつくはずだが、そいつの靴は乾いている。――いつ入った」
俺は答えられない。入った覚えがない。目を開けたら、いたのだ。
残りの者たち――無精髭の木こり、顔に火傷の跡のある女、痩せた青年、寡黙な老婆が次々に票を投じていく。俺の名が、石畳に落ちる小石のように重なっていった。
「多数が出た」
老人が宣告する。「本日の処刑は――よそ者だ」
「待ってくれ」俺は一歩踏み出した。「俺は狼じゃない。証明はできない。けど、見れば分かるだろ――狼なら、もっと上手く紛れる。俺は下手すぎる」
笑いが一斉に起きかけて、すぐに消えた。誰も余裕を持っていない。
カイが縄を持って近づいてきた。縄の繊維が光を吸う。「終わらせる」
ミナが震える指で俺の袖を掴みかけ、すぐに離した。「……ごめんなさい」
俺はカイの目を見た。彼は道具のように無表情だった。
広場の端に、古い吊台がある。木枠は苔を吸い、支柱には古い切れ目が幾重にも刻まれている。ここで、どれだけの名が空へ消えたのか。
足台の上に乗せられる。縄が首に掛かった。
最後に老人が短く祈りの言葉を唱える。言葉の意味は分からない。ただ、終わりの章句であることだけが分かる。
「待て」俺は声を張った。「せめて、名前だけは思い出したい。俺の――」
喉を縄が締めた。
ぐ、と世界が揺れる。足台が抜かれたのだ。
首の骨が軋み、視界の端が黒く燃え、遠くでミナの叫びが水の中から聞こえた。カイの影が揺れ、レナの口元が冷たく吊り上がり、ドルンが目を背ける。老人は目を閉じ、額に指を当てる。
空がぎらつく。鐘の塔が遠い。
酸素がほどけ、体が自分を手放していく。
その瞬間、空に閃光が走った。いや、俺の頭の内側で、何かが弾けた。
名だ。
名前が、戻る。
――リク。
俺の名は、リクだ。
黒がすべてを飲み込み、落下は終わった。
◆
鼻に石の粉の匂いがした。
冷たい硬さが背中に広がっている――石畳。
目を開ける。円形の広場。家々。乾草。尖塔。
とん――とん、とん、とん――。
鐘の音が、さっきとまったく同じ高さで鳴る。
身体を起こす。喉には縄の痕などない。ただ、首の奥にじん、と焦げたような痺れが残っていた。俺は両手を見、指を折り曲げ、手の甲を叩いた。現実感は痛みとともに戻ってくる。
戸が開く。人影が流れてくる。
老人、カイ、ミナ、ドルン、レナ、老女のエダ、木こり、火傷の女、痩せた青年、寡黙な老婆。
同じ順番、同じ歩幅、同じ表情で、半円の列が整っていく。
――同じだ。
世界そのものが巻き戻ったのだ。
俺は吊られ、死に、そして最初の朝へ戻ってきた。
老人が言う。「初めての顔がいるな」
デジャヴはあまりに正確で、恐怖が逆に静かになっていく。俺は呼吸を整え、今度は先に口を開いた。
「名を」
老人の問いが来る前に、俺は答えた。「リク」
輪がわずかにたわむ。カイの眉が、髪の陰でほんの少し上がった。ミナの目が光る。レナの笑みが遅れる。ドルンが口を噛む音が、今度ははっきりと分かった。
違う。微細だが、前回と違う。名乗ったことで、歯車が一齣ずれた。
「どこから来た」
「分からない」それは事実だった。「目を開けたらここにいた。けれど、あなたたちが今から何を言い、何をするか、俺は知っている」
レナが鼻を鳴らす。「占い師の真似?」
「違う。俺は一度――ここで吊られて死んだ。そして、戻ってきた。今朝に」
笑いは起きなかった。……誰も笑えるほど、心に余裕がないのだ。
老人は瞑目する。「狂気か、真か。わしらは結果で判断する。今晩も投票は行う。狼が一匹である保証はどこにもない。疑いの刃は鈍らせぬ」
ミナが手を上げかけて、俺を見た。「質問してもいい?」
「どうぞ」
「前の……その一度目で、私、何て言った?」
俺は即答する。「君は、保留はできないのかって尋ねて、それから、レナに投票した」
ミナの肩が小さく跳ねた。カイがわずかに槍を握り直す。その音も、前とは違って聞こえる。
「じゃあ、私からも」カイが言葉を挟んだ。「俺は何をした」
「縄を掛けた」
そう言った自分の喉が苦く渇く。カイの瞳は深い井戸のようで、そこに映る自分が、細く揺れた。
「――なるほど」老人は短く頷いた。「夢や虚言にしては、具体だ。だが、それが真でも、今ここでの判断を変える理由にはならん。投票は行う。彼の言葉は、彼自身を救わんかもしれんが、夜を救う糸口にはなるやもしれん」
俺は輪を見渡す。
すべてが同じに並んでいる。だが、同じであること自体が情報だ。
戻ってくるたび、少しずつ、たぶん、変えられる。
ならば――今やるべきは、最初の日の最初の投票で、ひとつでも違う「流れ」を作ることだ。
「提案がある」俺は一歩踏み出した。穂先が道を塞ぐ前に、早口で続ける。「疑いの理由を、各自、ひとつだけ“事実”に結びつけて述べてくれ。印象でも恐怖でもない、現に見える事実に。――例えば、ドルン。あんたは俺の靴が乾いてるって言うべきだった。カイ、あんたはもう言った。エダ、あんたは神の名を理由にするな。ここでは神は票の数を数えない」
ざわ、と波が立つ。
レナが笑い、指先で髪を弾く。「面白いじゃない。じゃあ、私の“事実”。――あなたの手のひら。さっきより黒い。さっき、って言っても分からないでしょうけどね。塔の階段に触れていた跡がある。登っていた?」
俺は手のひらを見る。石粉が薄くついている。……一度目の最後、俺は縄に喉を締められながら、空に走る閃光を見た。塔の鐘。もしかして――
視線が自然に塔へ引かれる。尖塔の付け根、庇の影が濃い。そこに小さな金属光が沈んでいる気がした。
ミナが俺を覗き込む。「何か、見えた?」
「あとで確かめる」俺は息を飲む。「まずはここを凌ぐ」
老人が杖を突く音が、会話の切れ目に落ちた。「では、投票だ。名と、事実をひとつ」
今度は、俺から始めた。
「俺は、レナに一票」
レナの眉が跳ねる。「根拠は?」
「事実。あなたの靴の踵だけ、泥が新しい。今日、広場の外に一度出た。皆は鐘の時間に合わせて家から来た。あなたは別の場所から来た。理由は知らないが、違う足跡をつけてる」
半円の中で、視線が地面を舐める。確かに、踵にだけ濃く黒い泥が盛り上がっていた。
レナは薄笑いの形を崩さない。「だから狼だと?」
「違う。ただ、違う“流れ”を示したかった。――俺に全票を積み上げるよりは、情報の出る票がいい」
ドルンが唇を舐める。「面倒なことを……だが、事実で言うなら、俺はよそ者に入れる。こいつの靴は乾いてる。村に入ったばかり、何かの手引きがある」
カイが短く言う。「俺は保留をしない。票は――レナ。踵の泥。理由の説明がない」
ミナが両手を胸の前で組み、勇気を搾る。「わ、私は……」彼女は広場の縁に目をやった。「吊台の足元、誰かが“印”を刻んでる。昨日の刻みには見えない。新しい。――誰が刻んだの?」
彼女は名を呼ばず、事実だけ置いた。老人が小さく目を細める。「ミナ。名も要る」
「……じゃ、私は――ごめん、リクじゃない。レナに。踵の泥」
票が分かれた。
エダは震えながら俺を指し、木こりは黙って俺を示し、火傷の女はレナへ、痩せた青年は俺へ、寡黙な老婆は長く目を閉じ――やがて、俺へ。
合計が数えられる。俺とレナ。
多数は、まだ、俺だ。
「本日の処刑は――」
老人の声に、俺は一度目の冷たさが喉に戻るのを感じた。足台、縄、空――。
だが、一度目と違う。
俺は、塔の庇の金属光を見た。
そして――吊台の足元に刻まれた、見覚えのない印。円と、短い切れ目。
ミナが見つけたそれは、俺の胸の内側で別の記憶を刺激していた。
円、切れ目、穴――。
どこかで、見た。どこで?
喉の奥に、燃えるような焦燥が走る。
縄が近づく。カイの手は迷いない。
俺は言った。「カイ。吊る前に、塔の庇を見てくれ。金属が落ちてる。――鐘の仕組みを変えるものだ。もしそれが、狼の印なら」
レナが笑いで上塗りする。「最期の足掻き」
「違う。これは“流れ”の楔だ。俺が死んでも構わない。けど、その前に、見るべきだ。ミナ、君が言った印も――吊台の足元に刻んだのは誰だ」
老人は逡巡し、杖の先で石畳をコツと叩いた。「カイ。縄をかける手は止めるな。だが、塔を見ろ。ミナは印を確かめろ。――それで何も出なければ、掟どおりだ」
カイが頷き、槍をミナに渡すと、塔へ歩く。ミナは吊台へ走る。
レナが腕を組み、俺を睨む。「時間稼ぎ」
「そうかもしれない」俺は息を整えた。「けど、時間を稼ぐこと自体が、今は命だ」
カイが塔の庇の下に手を伸ばす。金属音。
彼が握って戻ってきたのは、小さな真鍮の輪と、短い歯のついた部品だった。歯車か、鍵か。
「鐘の引き金の一部だ」カイが言う。「外されていた。――誰が」
ミナが吊台の足元から顔を上げる。「印は新しい。円に、均等な切れ目が……」彼女は息を吸う。「投票と、同じ数」
広場に静寂が下りた。
俺の喉に、縄がまだ触れている。だが空気は違う匂いになっていた。
老人が口を開く。「掟は守る。だが、事実は重い。――今日の処刑は保留できん。だが、明日のための目は開かれた」
俺は頷いた。
負けだ。今日は、まだ、俺が吊られる。
だが、次がある。
俺は死に戻る。最初の朝へ。
そのたびに、ひとつずつ、違う場所に楔を打てる。
塔の部品。吊台の印。踵の泥。
レナの足跡。カイの癖。ミナの勇気。老人の逡巡。ドルンの恐怖。
すべては、積み上げられる。
縄が首に触れ、皮膚が冷たさを飲む。
俺は目を閉じ、次の朝のために、ひとつだけ祈った。
――忘れないように。
名を。事実を。流れを。
鐘の音が、また、高みから落ちてきた。