花の海で恋う
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本作は花吐き病の設定をお借りしています
※プロットを共有し、誤字脱字の確認や執筆の補助、構成の相談でGemini(AI)と協力しています
喉を焼くような咳に襲われ、堪えきれずに口元を覆う。
次の瞬間、掌に散ったのは鮮やかな薔薇の花弁だった。
呆然と赤いそれを見る。
「……まさか、これ……」
前世で流行った、創作の病。
報われぬ恋をした者が罹る、不治──花吐き病。
断罪されるための、ハッピーエンドへの踏み台でしかない悪役令嬢である私に、どうして。
こんなこと原作にもなかったのに。
まさか、恋心を咲かせながら命を削られることになんて思ってもみなかった。
胸を締め付ける痛みと共に、絶望が静かに広がる。
今日も、彼は優しく笑う。
それが婚約者という役割に対する、形だけの振る舞いだと分かっているのに。
未来に希望を抱いてしまう。
前世の記憶に蓋をして。
物語のヒロインは、現れないかもしれないと。
内心、運命に怯えながら、矛盾する希望と絶望に揺れ動き。
それでも、内心を隠して私は微笑む。
私の矜持を、最後まで守り抜くために。
家族には気づかれてしまったけれど。
存外、私は愛されていたらしい。
両親も兄も、私達の仲は良好だと思っている。
必ず治る、と信じてくれていることが、心苦しい。
家族に励まされながら、一週間が過ぎた。
彼を想う度、薔薇を吐く。
彼は会えば、変わらず優しく微笑んでくれる。
その笑顔に、私は希望を抱かずにはいられない。
それから2ヶ月が経ったある日、彼は初めて彼女の姿を見た。彼女に、出会って、しまった。
可憐な少女、物語のヒロインその人。
白磁の肌に、露を宿したような大きな瞳。
蜜色の髪は、柔らかな光を反射して、まるで天使の輪のように輝いて。
私だけではなく、誰もが彼女の姿に見惚れていた。
そして、隣にいた彼が、息をのむのが分かった。
私の隣で、彼は彼女から目が離せないでいる。
その視線に、熱い感情が宿っているのを、嫌というほど感じ取った。
胸が、ちくりと痛む。
痛みはすぐに、喉の奥へと広がっていった。
咳を堪えきれず、咄嗟に口元をハンカチで覆う。
「どうしたんだ?」
心配そうに声をかけてくれる彼に、私は首を横に振る。
彼には分からない。
掌に零れ落ちた、リナリアの花弁。
小さく可愛い、願いの花。
ひらりと舞い落ちるそれを、見失う前に得意の火魔法で灰にする。
誰かに移すわけにも、見られるわけにもいかない。
これは、私の想いなのだから。
物語は始まったのだ。
希望が絶望に変わる、その瞬間を、私は静かに受け止めた。
「少し、疲れたかい?」
彼は私の顔色を気遣うように、そっと声をかけてくれる。
婚約者としての体裁を保つためだと分かっていても、その優しい声に、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
矜持を守ろうとしても、花吐き病は容赦なく、私の体を蝕む。
吐いたリナリアの花弁に反して、恋の終わりは静かに示された。
けれど、ただ私は微笑む。
彼の幸せを、見届けるために。
それからというもの、彼は私と会う機会を徐々に減らしていった。
会ったとしても、その視線はどこか宙を彷徨い、生返事しか返ってこない。
「公務が忙しくてね。すまない、あまり君の傍にいてやれなくて」
彼は申し訳なさそうに微笑み、早々に帰っていく。
とても残酷な人だ。
その貼り付けられた笑顔に、気づかないとでも思っているのだろうか。
彼の頭の中には、あの愛らしいヒロインがいるのだと、嫌でも思い知らされるというのに。
ひとり、部屋に戻ると、止めどなく咳が溢れた。
「嘘つき……」
口元を抑えた掌から、鮮やかな水仙の花弁が零れ落ちる。
嫌だ、と心の底から叫んだ。
彼女の隣で、穏やかに笑い合う彼の姿を思い出すだけで、この胸からとめどなく花が溢れてくる。
彼女に向ける優しい眼差しで、どうか私に見てくれないだろうか。
そんな、叶うはずもない願いが、花となって溢れていく。
吐く花は、薔薇からリナリアや水仙、アネモネへと変わった。
それは、現実と願望が入り雑じった花々。
日に日に量が増え、人目を避けては、花をすべて灰にしていく。
喉の焼けるような痛みも、胸の奥から広がる痛みも、もはや日常になっていた。
家族も、私の異変に気づいている。
「あの方とお会いする機会が減っているようだね」
父は彼に抗議してくれているようだった。
母は食事の度に「少しでも栄養を」と、私の好物ばかりを並べる。
兄は何も言わず、ただ静かに私の部屋の前に立っていることが増えた。
私を愛してくれている。その事実が、たまらなく苦しい。
やがて訪れる別れと、死。
その両方を、家族は覚悟しているのだろう。
そうして迎えた、運命の夜会。
物語通り、彼は私をダンスに誘うことはなかった。
代わりに、私を壁際にエスコートし、「少し休んでいてくれ」とだけ言い残して去っていく。
その背中を追う私の視線の先には、きらびやかなヒロインが立っている。
彼女は、物語のヒロインらしく、その場にいるだけで周りの空気までもが花開くような少女だ。
彼は彼女を見つけ、まるで磁石に引き寄せられるように近づいていく。
そして、彼女の小さな手を優しく取り、微笑んだ。
その笑みは、私に向けられる貼り付けられた笑顔とは違う。
心からの、温かく、柔らかい笑み。
私に向けられる優しさが、どれほど偽りだったのかを、その一瞬で思い知らされた。
二人は楽しそうに談笑し、やがてダンスホールへと向かっていく。
周囲の人々の視線が、彼ら二人に注がれている。
「お似合いだわ」
「まるで絵本から抜け出してきたみたい」
そんな声が聞こえてくる。
まさに原作通り。
いや、原作以上に、二人は光り輝いて見えた。
私は壁にもたれかかり、呼吸を整える。
心配した兄が飲み物を片手に、歩み寄ってくる。
不和を悟られる訳にはいかない。
姿勢を正し、兄から飲み物を受け取り、談笑している風を装う。
彼はこちらに気づかず、ヒロインと楽しそうに踊る。
その視線に映るのは、ヒロインただ一人。
胸がちくりと痛んだ瞬間、喉の奥から、焼けるような痛みがせり上がってくる。
激しい咳と共に、鮮やかな花が口から零れ。
兄の影に隠れ、溢れた涙には気づかないふりをした。
信じていたわけではない。
信じたいと願っていただけだ。
ある日の午後。
病が進行し、体力の衰えを感じていた私は、街の庭園を散策していた。
風に揺れる花々を眺めていると、遠くから楽しそうな声が聞こえてくる。
聞き覚えのある声のする方へ、足は勝手に動いた。
生垣の隙間から覗くと、彼と彼女が楽しそうに話していた。
彼女が彼のために、花を一つ一つ摘んで、花冠を作っている。
完成したそれを嬉しそうに彼の頭に乗せ、満面の笑みを浮かべた。
その無垢な笑顔を、彼が目を細めて見つめている。
私に向けられることのなかった、穏やかで優しい眼差し。
その光景は、まるで私を無視して、ただ二人だけの世界が築かれているかのようだった。
静かに胸が締め付けられ、喉の奥が震える。
気づけば、掌には無数の小さな花弁が散っていた。
アネモネ、そして、小さく可愛らしいリナリア。
もう、この想いは届かないのだと、嫌というほど思い知らされているというのに。
物語の開始からおよそ一年。
覚悟を持って、迎えた婚約破棄の日。
澄んだ空気の中、馬車の扉が開けられた。
兄に抱えられながら、馬車へ乗り込む。
いつもの、華やかなドレスではない。
胸元には花を吐いても目立たないように、と兄が選んでくれたフリルがついたドレス。
向かいの席に座った兄は、何も言わずに私を見つめる。
その視線に、どれほどの愛と悲しみが込められているのか、痛いほど分かっていた。
家族は、私の決意を尊重してくれる。
もう、治らないと分かっていても、私自身の願いを叶えようとしてくれる。
それがただただ嬉しい。
けれど皆の顔に、以前のような明るい笑顔はない。
あるのは、私を案じる深い憂いと、静かな怒りだ。
その怒りが、誰に向けられたものか、あえて問うことはしない。意味のないことだ。
王宮へと続く道は、いつもより長く感じられた。
馬車の揺れに合わせて、私の体は悲鳴を上げる。
この道のりが、私の人生の締めくくりなのだと、改めて悟る。
でも、不思議と怖くはなかった。
最期まで、私は私のまま。
そう、心に決めていたから。
ただ、家族と過ごす温かい時間は、永遠に続けばいいのに、と静かに願う。
城について、馬車から降りる際も、兄は私の腰に手を添え、ゆっくりと階段を下りさせてくれる。
その手は、まるで壊れ物を扱うように優しい。
最近は家に籠ることが多かったので、久しぶりのドレスが重い。
脚は鉛のようで、立っているのがやっとだ。
膝が震え、今にも崩れ落ちそうになる。
そんな私を、兄がしっかりと支えてくれた。
「大丈夫だ。俺が傍にいる」
囁くような兄の声が、震える私の心を落ち着かせる。
決して焦らせず、私の歩幅に合わせてくれる。
一歩、また一歩と進むたびに、筋肉が軋む。
痛みはもはや、私の一部になっていた。
胸の奥から湧き上がる熱い塊を、必死に飲み込む。
花を吐いて、兄を悲しませたくない。
そう心に言い聞かせるも、花を吐きそうになる度に、喉が張り裂けそうな感覚に襲われた。
案内された応接室に着く頃には体力は限界を迎え、全てを気力で支えている状態だった。
兄のエスコートがなければ、登城すらできなかっただろう。
立つのもやっと、けれど笑顔で最上級のカーテシーを。
指先まで、心を込めて。
花を吐かないように心を無にする。
「この婚約は、白紙となった」
彼の言葉が静かに胸に刺さる。
何も言えず、ただ薄く微笑んで頷く。
書類にサインをして廊下に出た瞬間、緊張の糸が切れた。
力なく膝を折りそうになる私を、兄が抱え上げて屋敷へ帰宅する。
部屋へと連れられ、ゆっくりと休むように、と兄が微笑う。
兄とともに使用人達も静かに退出し、部屋に一人。
静寂に包まれる。
喉を焼く痛みに、静かな咳が零れる。
唇からこぼれたのは、鮮やかな赤薔薇。
続いて、黄金のマリーゴールドが舞い。
最後に白いチューリップが雪のように降り積もる。
視界が花で覆われ、床もシーツも色鮮やかな花弁に染まっていく。
絢爛な花々は静かに広がり、やがて一面を埋め尽くす。
その海に身を委ね、花の香りを鼻腔いっぱいに感じる。
もう、彼のことを想っても、花は咲かない。
どうか、夢の中だけは幸せであれ──
そう願いながら、微笑んで目を閉じた。
──その日、私は眠るように花の海に沈み、恋を終えた。
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