9.二人の距離を縮めるには⑴
塾帰りのバスの中でスマホを開く。
こういうのは勢いだと自分に言い聞かせて、文字を打ち込んだ。
——こんばんは。今日はありがとうございました。
返事は期待しちゃいけないとわかっているけど、スマホが視界に入っていたらそわそわしてしまう。意識しないようにあえて鞄の奥にしまってバスを降り、足早に帰宅した。
夕食後にチェックしたらメッセージアプリの通知が来ていて、急いで画面を開いた。
京也「こちらこそ。話せてよかった」
京也「ひとつ、厚かましいお願いしてもいい?」
——??
京也「嫌じゃなかったら、名前で呼んでもいいかな? 西森さんだと、どうしてもお母さんと被ってややこしいから」
——全然大丈夫です。
——私も、先輩のこと京也先輩って呼んでもいいですか?
京也「いいよ。お互いそうしよう」
京也「凛さん? 凛ちゃん?」
——うーん、なんかどっちもしっくりこないんですけど……
京也「モリリン?」
——凛でお願いします。呼び捨てがいいです。
京也「じゃあ凛で。改めてよろしく」
——はい。こちらこそよろしくお願いいたします。
京也「遅くまでごめんね。おやすみ」
——とんでもないです。おやすみなさい。
トーク画面を何度も読み返す。失礼なことは、多分書いてない。
先輩とのやり取りが終わったころには毎日の就寝時間をとっくに過ぎていたけれど、緊張しすぎてしばらく眠れそうになかった。
◇ ◇ ◇
その日、父親である隆則が出張で不在になるため、京也は日替わりおかずを受け取りに鱈福屋を訪ねた。
夕方から夜にかけての鱈福屋は仕事終わりの人たちで繁盛する。今日も店は軽く混雑しているのが遠目からもわかった。
鱈福屋に近づくと、カウンターに立つ遥子の明るい声が聞こえてきた。夕方の店番は彼女が任されることが多く、遥子は看板娘として常連客にも親しまれている。
ちなみにこの時間、店主である加藤は明日に向けての下準備にまわり、加藤の妻は隣の精肉店の揚げ物を手伝っていることが多い。
鱈福屋の内部事情に、京也は並みの常連客よりも詳しかった。
「ありがとうございます。ここに来ると、やっと一日が終わったーって思えるんです」
「こちらこそ、いつもありがとうございます。お仕事お疲れ様です。ゆっくり召し上がって、しっかり休んでくださいね」
「いやー、そう言っていただけると明日も頑張れそうです」
京也と同じく日替わりおかずを取りに来たスーツ姿の男が嬉しそうに遥子と会話を弾ませる。
遥子は男の好意に気づいているのか、いないのか……。
加藤の妻・明菜いわく、そういった方面で彼女に好意を抱く客は少なからず存在するらしい。
最近明菜と話した際にちょっとした世間話として話題にあがったのだが……「これって京ちゃんのお父さんに言ってもいいと思う?」と最後に聞かれたのが意味深だった。
豪胆で細かいところを気にしない店主の加藤とは違い、明菜は細かい部分に気が回るタチだ。きっと遥子と隆則の想いには、とうに気が付いているのだろう。
店頭にできた列に並ぶ。しばらく待つと、やがて自分が先頭になった。
「京也君、いらっしゃい」
「こんにちは」
スマホに表示した鱈福屋のアプリ画面を遥子に見せる。顔パスで通るのは承知しているが、周囲の目もあるので京也は毎回客としての体裁はつくろうようにしていた。
遥子のほうも心得たようにうなずく。そして「少々お待ちください」と言って店の奥から日替わりおかずを持ってきた。
「はいこれ。今日の煮込みハンバーグは汁気があるから、傾けないように気をつけて」
「ありがとうございます。いただきます」
京也が丁寧にお辞儀をすると、遥子はにこにこ顔をさらに綻ばせた。
「こちらこそありがとうございます。美味しく召し上がれ」
鱈福屋で会う彼女はいつも明るい。店に来るのが隆則ではなく息子の京也であっても、残念る様子は見せなかった。
その明るさは接客業としての仕事の仮面を被っているからか。はたまた自分が遥子にとって、好いた男の息子であるからか。
初めて顔を合わせたときは疑い警戒していたものの、これが遥子の自然体なのだと京也が結論づけるのは割と早かった。
凛は美奈子のことを「コミュ力お化け」などと言っていたが、その評価はまず自分の母親にするべきなのではと思う。それぐらいに遥子の人当たりの良さは尋常じゃなかった。
——よくこんなできた人が親父のことを好きになったな。
京也にとって父親の隆則は仏頂面がデフォルトの、真面目しか取り柄のない仕事人間だ。
子供ながらに隆則にも親としての優しさがあるのは知っている。しかし冗談が通じなければユーモアのかけらもない、面白みに欠ける男だということも、息子として十分理解しているつもりだ。
いったい遥子は隆則のどこを好きになったのか。
きっかけは隆則が遥子に鱈福屋を紹介したことだったとしても、恩が転じて恋情になったわけではあるまい。
どう考えても両思いだというのに距離を縮めようとせず現状を保つ父親たちの姿勢は、無視し続けるにも限度があった。
自分だけでなく、凛も同じ感情を抱いていたというのだから心底安心させられる。
交換した凛の連絡先は、京也にとってある種のお守りのようなものだ。
いつでも連絡ができるようになって数日、スマートフォンのメッセージアプリで会話をしたのは初日の夜だけである。
京也も凛もこれといって話すことがないのでそれが当然なのかもしれないが……。なんとなく、親たちもたとえ連絡先を交換しあったところで自分たちと同じようになるのではと思うと、先が思いやられて複雑な気分になった。
夕飯を片手にマンションに帰る。
薄暗い部屋に電気をつけ、換気のために窓を開けた。
しんと静まり返った部屋に冷蔵庫のかすかな稼働音が聞こえてくる。広いリビングに今夜は京也ひとりだけだ。
父親のいない夜に寂しさを感じる年齢でもない。
ひとりで家にいることで過去のトラウマが脳裏をよぎることもあるが、それも鱈福屋の美味しいご飯が消し去ってくれる。
片親という境遇に不満もない。むしろ京也にとって、母親というのはある種の嫌悪の対象だった。
京也は母親という存在に今さら何かを求めないし、たとえ父親と遥子が結ばれたとしても、遥子を本当の意味で母と認識することはないと考える。
それでも。それだからこそ……。自分が父親の人生を狂わせた自覚があるだけに、散々苦労をかけたぶん隆則には幸せになってほしかった。
◇ ◇ ◇
彼のことを「京也先輩」と——。
メッセージや心の中で彼をそう呼ぶのはいいとして、美奈子以外の人の前では間違っても先輩をそんな呼び方しちゃいけない。
学校で京也先輩と呼んでしまったあかつきには、ほかの三年の先輩方からヘイトを買うのが目に見えている。
連絡先を交換したのだからもう校内で話しかける機会はないだろうけど、もしそんなことがあったとしても絶対に「京也先輩」なんてうっかり口走ってはいけない。
先輩はそこら辺に気を使ってくれると思うけど、鳥元先輩が私を「モリリン」などと学校で気安く声をかけてきたらと思うと不安しかない。
美奈子は鳥元先輩には事が起こる前に釘を刺しておくと言ってくれたけど……。これはもうビジネス陽キャで計算高い鳥元先輩がタチの悪い愉快犯でないことを祈るしかなかった。
家に帰っても気は抜けない。私はママの前では「京也先輩」なんて馴れ馴れしさを出さず、彼については溝口さんの息子さんでとおすのだ。
先輩と私の精神的な距離が近くなったとはいえ、これを徹底しなければ次なる問題が発生してしまう。
まるで秘密の恋をしている気分だ。恋愛をしているのは私たちじゃなくて、その親なのだけど……。
隠し事が増えてしまったとしても、先輩と繋がったことで精神的に楽になれたという事実には変わりがない。
悩みを共有できる人がいるとこんなに心強いとはとは、少し前まで全然想像できなかった。
本当に、美奈子には感謝ばかりだ。
体育の授業が終わり、グラウンドから教室へ戻っている最中、廊下を前から京也先輩と鳥元先輩が歩いてきた。
同じ学校に通っているのだから、こういうところで会うのもなんらおかしくない。これまでにだって何度も校内で先輩たちを見かけることはあった。
私の隣には美奈子がいて、鳥元先輩を捉えたその瞬間から余計なことをするなと睨みを利かせていた。
その甲斐あってか先輩たちとは軽く会釈をしただけで、何事もなくすれ違うことができた。
妙な緊張感から解放されてほっとする私に、美奈子が次の授業の話題を振ってくれる。ありがたく話に乗っかって、楽しくおしゃべりしながら教室に戻った。
席に着いて教科書の準備をしていると机に影ができた。
「なあ、お前やっぱり溝口先輩となんかあんだろ?」
席を挟んで正面にたった河原君が、机に手をついて私を覗き込むように見下ろす。驚いて咄嗟に椅子を引き、距離を取ろうと立ち上がった。
「うわっ、……んだよ。そんなに驚くことかよ」
「ち……、近いよ」
ばくばくと心臓が鼓動を強めるなか、どうにか言葉を口にした。
いつも思うけど、私と河原君はパーソナルスペースの認識に差がありすぎる。
「あ? 近いってなんだよ。西森だっていつも唯塚と顔つき合わして喋ってんじゃねえか」
「それは、そうだけど……」
美奈子は気心が知れた友達だし、同性だからって言い訳したら、差別だとか言われるのかな……。
不安ばかりが頭の中をぐるぐると駆け回り、何を言えばいいのかもわからなくなる。
立ち上がったところで私の身長では河原君をわずかに見上げることになる。大きな人に見下ろされる状況に萎縮してしまって体が動かない。
「そんなことよりっ、私になんの用事?」
精一杯の虚勢を張って聞いてみると、彼はニカッと意地の悪そうな笑みを浮かべた。
ああもう、河原君って絶対にいじめっ子のドエスだ。
「西森って溝口先輩の何なわけ? さっきも廊下で意味深に見つめあってただろ」
目撃されてたか。まあ同じクラスだし……体育のあと、更衣室から教室に帰る途中だったからそれは別に不思議じゃない。
ただ見つめ合ってるって何よ?
「見知った人に会釈するのっておかしいことなの? 落とし物を拾ってくれた先輩に気づいて無反応でいるとか、そのほうが失礼だと思うけど」
だいたいあのとき、美奈子と鳥元先輩もいたってのに、どうして私に突っかかってくるかな。……まあ、美奈子よりも私のほうが気が弱くてからかいやすいからなんだろうけど。
私がムッとした表情になると、河原君はますます面白そうに笑う。
「そう言って、本当は嬉しかったんじゃねーの?」
「……わけがわかんない」
早く飽きてどっかに行ってくれないかな。でないと着席できないよ。
「……仮に私が溝口先輩のこと好きだったとしても、それって河原君に何も関係ないこだよね」
「は? お前あの先輩に告ってフラれたくせに、まだ未練あるのかよ」
……なんでそうなるの?
私は溝口先輩に告白してないし、フラれてない。そして何より恋愛対象として好きではない。
彼の脳内では一体どんなストーリーが組み立てられているというのか。
だけどもう、この方向でいくしかないか。
「たとえ私が溝口先輩を好きで、告白してフラれたところでまだ未練があったとしても、それは河原君には関係ないよね」
機械のように淡々とあなたには関係ないことだと繰り返す。この先どんな風に言われても「関係ない」を続けようとしたけど、その前に河原君が空気を変えた。
「あぁ? ……うっぜぇ」
クラスのムードメーカーの怒りは教室中に伝播する。辺りが一瞬にして静まり返った。
怒らせた。どうしよう……。
何事かと様子をうかがってくる周囲の視線も合わさり頭が真っ白になる。
「あ……、ご、ごめ……」
どうにかこの場を収めようと謝ろうとした私の視界の端に、青色の小さな物体が入り込んだ。
それは一直線に私を睨む河原君の側頭部にぶつかり、そこで初めて青色の物体がしわくちゃに丸められたハンカチだと理解する。
「アンタ、ちょっと目を離した隙に凛にウザ絡みしてんじゃないわよ」
注目をものともせず颯爽と現れた美奈子は床に落ちた自身のハンカチをひったくり、身を起こす勢いのまま河原君の目の前に立った。
美奈子に至近距離で見上げられ、怯んだ河原君がたたらを踏んだ。
「あんたのそうやって人を選んでからかってくるとこ、ほんとクソ」
「な……んだよ……」
授業開始のチャイムが鳴る。
たじろぐ河原君は美奈子から私に視線を移し、舌打ちをして自分の席に戻っていった。
一触即発の空気がゆるみ、クラスメイトたちも各々の動きを再開する。
「ったく、おちおちお手洗いにも行けないわ」
河原君を睨んだいた美奈子が私に振り返る。
「よくひとりで頑張ったわね。愚痴はあとでいくらでも聞くわ」
そう言って私の肩をぽんと叩いて美奈子は席についた。
せっかく耐えていたのに、ここにきて泣きそうになったのはナイショだ。