64.最終話⑷
今の私が優先すべきは、来月に迫った大学共通テストに向けた勉強だ。他のことに意識を逸らしている場合じゃないのは百も承知している。
間違っても、鱈福屋さんのおかずが捨てられているのが気になって、勉強に集中できず試験は散々な結果——なんてことになってはいけない。
こんなの誰も喜ばない。それどころか、関わる人みんなを悲しませてしまう。
気にするな。考えてはいけない。忘れろ……。
何度も自分に言い聞かせる。それでも道端の光景はちっとも頭から離れてくれない。
こういう時に限って、夕食時のママは口数が少なかった。……いや、今日だけの話じゃないか。
そういや最近、溝口さんの惚気をママからあまり聞いてない。
「……溝口さんと何かあったの?」
「何って?」
箸を止めたママがきょとんと首をかしげる。
「や……、何もないならいいんだけど……このごろあんまり話を聞かないから」
「あら、……そうかしら?」
自覚なしか。
「倦怠期? 喧嘩でもした?」
「そんなわけありません。隆則さんは変わらず良くしてくれてます」
「……ならいいけど……」
会話終了。
なんだろう。ママとのやり取りがどことなくギクシャクしたものになってしまう。
気まずい空気の原因は……私なんだろうな。
言葉のキャッチボールがうまく続かないまま夕食が終わる。
お風呂に入って自室にこもっても勉強する意欲が湧かず、ベッドに突っ伏した。
「……隠すの下手すぎ」
らしくない自分に打ちひしがれる。これ絶対、ママは勘づいてるけど気を遣って何も言ってこないパターンだよ。
うつ伏せの体勢で床に手を伸ばし、ベッドの下に放置されたカバンを漁る。
手の感触だけでスマホを探し出し、顔の前まで持ってきた。
——今日、電話していい?
ホーム画面を開くと、京也先輩からの新着メッセージがあった。
見た瞬間、緊張で頭が真っ白になる。
嬉しいのに嬉しくない。今先輩と話したら絶対泣いてしまう。
それに……相手が嫌な気持ちになるってわかっている愚痴を、京也先輩には言いたくない。
「…………」
通知は見なかったことにして、スマホを無言でカバンに戻した。
アプリは開いてないから既読はつかない。メッセージに気づかなかったってことにしておこう。
「…………さいあく」
どっちにしたって自己嫌悪に見舞われるのだ。
のろのろと起き上がって勉強机に着いた。集中できないとわかっていながら数学の問題集を開く。
先輩を無視する言い訳なんて、勉強ぐらいしか思いつかなかった。
*
京也先輩からの連絡を無視した翌日、どんより気分で学校に向かう。
バスの車内で「連絡いただいてたのに、昨晩は気づけなくてすみませんでした」と先輩にメッセージを送った。
「……嘘つき」
これでよかったと思う半面、自分自身に自己嫌悪。
——気にしないで。学校頑張って。
返信が優しいから、申し訳ない気持ちになおさら拍車がかかった。
学校も塾も、授業に全然身が入らないまま一日が終わる。
本番までに時間もないのに……。
受験ノイローゼって、案外こういう勉強とは関係のないことがきっかけになるのかなぁ……と、現実逃避をしてみたり。
自分とは関係のないどっかの誰かの不法投棄に脳みそのリソースを持っていかれるとか。見方を変えれば私は大学受験に精神的な余裕があるのかもしれない。
そんなことをうだうだ考えながら帰路に着く。
家に帰るとキッチンカウンターに鱈福屋さんの袋が置かれていた。
それを見てどきりと背筋が伸びた。
「どうしたの、それ?」
恐々と指差して聞くと、ママはあっさりと答えた。
「京也君の日替わりおかずよ。今夜は隆則さんが出張でいないから、お店で預かってきたの」
ああ、そういやそんなこと言ってたっけ。
溝口さんがいなくて、京也先輩も夜が遅くなる時は、日替わりおかずをうちで預かる……提案したの、私だった……。
ということは、今から京也先輩が家に来るってこと?
ちょうど私がそれに気づいたのを見計らったように、ピンポーン——と、インターフォンが鳴った。
自動で点灯したモニターには先輩が映っている。
「あら、噂をすれば……京也君かしら?」
「うん。先輩来たみたい」
「じゃあ凛ちゃんお願いね」
「ええぇっ、私!?」
「ママおかず温めてるから、コンロを離れられないのよ」
「それぐらい私やるからっ」
焦る私に、ママはとても不思議そうだ。
「どうしたの? 京也君と喧嘩しちゃった?」
冷静に返されてはもはや何も言えない。
「……してないよ。…………行ってきます」
あんまり先輩を待たせちゃいけない。
諦めて鱈福屋さんの袋を手に提げ、玄関に向かう。
食べられる状態の、容器に納まる日替わりおかず。袋のずしりとした重さが、複雑な気分を味合わせてくる。
後ろめたさを隠して、私は玄関の扉を開けた。
「こんばんは。お待たせしました……」
そっと玄関扉を開ける。
上着を着ていなくても、外の寒さが気にならないぐらいに緊張していた。
「こんばんは。手間かけてごめんね」
「とんでもないです! 言い出しっぺは私なので、謝らないでください」
ダウンジャケットを着込んだ京也先輩に日替わりおかずが入った袋を手渡す。
「ありがとう。凛のお母さんにも助かりましたって伝えてくれる?」
「了解です」
……普通だ。京也先輩の顔を見るまであんなに悩んでたのに、蓋を開けてみたら私はいつもどおりに先輩と話せてる。
自分の図太さに感動すら覚える。
「あのっ……昨日の夜は、電話できなくてすみませんでした」
「気にしないで。大事な時期なんだから、自分のペースを優先しないと」
「……はい」
しょぼくれる私に、京也先輩は手にした鱈福屋さんの袋を掲げてみせた。
「晩御飯、ありがとう。いただきます。寒いだろうから早く家に入ろうか」
言われて自分が厚着していないことを悔やむ。大丈夫だとわかった途端に、もっと先輩と話したくなるとか、単純で我儘な自分に密かに呆れた。
それでも……あのことを先輩に言う気にはなれない。
「……京也先輩の顔が見れて、よかったです……」
「うん、俺も」
京也先輩の微笑みは破壊力抜群だった。寒さなんて忘れるぐらい顔が熱い。
胸のジクジクした痛みから必死に目を背け、私も笑った。
「なんか、今夜は勉強が捗りそうです。先輩と話たら一日の疲れが吹き飛びました」
「それはよかったけど……、あんまり根を詰めすぎないようにしなよ。あと、家に入ったら忘れずに鍵をかけような」
「はい……おやすみなさい」
おやすみ、お疲れ様——と。挨拶を交わして家に入る。
その場のノリで、案外どうにかなるものだ。
京也先輩と扉を隔てた途端に、風船が萎むように一気にテンションが下がった。
気落ちする中でも家の奥からお肉が焼ける香ばしい匂いがして、空腹を思い出す。
リビングに行くと、食卓にほかほかの夕飯が揃い、ママが待っていてくれた。
「ごめん、お待たせ」
「ちょうど準備できたところよ。タイミングバッチリね」
「京也先輩が、助かりましたってママに伝えておいてって」
それはよかったと喜ぶママと一緒に手を合わせ、いただきますをして夕飯を食べる。
ママも、京也先輩も——。
私の周りにいる人は、良い人たちばかりだから。
みんなが嫌な気持ちになるとわかりきっていることを、私の口からはとても言えない。
火曜日の夜は、翌日の朝のバイトが休みということもあって、京也先輩と電話で話す頻度が多い。
しかし今日は先輩側から通話の誘いはなくて、なんとなく私が伺いを立てるのもはばかられた。
先輩が家に来た時に「勉強が捗りそう」なんて言わなきゃよかった……。
*
気分の浮き沈みがジェットコースターみたいに激しい。
自分の感情を持て余しながらも迎えた翌日。——水曜日の学校にて。
「——アンタ、溝口先輩と何かあったでしょう?」
朝のバイトもないのでのんびりと登校し、教室に入った直後である。
私の席に来た美奈子はおはようの挨拶もなく、開口一番こちらの顔をまじまじと凝視してそう告げた。
「何かって、……何よ?」
「喧嘩でもした?」
昨夜のママに続いて美奈子までそれを言うのか。
「してないって。だいたいどうしてそう思うの?」
腕を組んだ美奈子が考え込む。
「目のクマと、悲壮感漂う空気……かしら? アンタ隠し事が下手なの自分でわかってる?」
「……それとどうして京也先輩が結びつくのよ」
「勉強が上手くいってないってのは違うでしょう。先週末にようやく模試でA判定をもぎ取ったって喜んでたわけだし」
まさか美奈子は私の悩みが受験勉強と京也先輩のことぐらいだと思ってるのか。
「この際だから言うけど、ちょっと前からアンタ変よ。最初は勉強に行き詰まってるのかと思ってたけど、違うのよね。私がわかるくらいだから、凛ママも気づいてるんじゃないかしら」
ぎくりと身が固くなる。
昨日、京也先輩と会った時、本当に「いつもどおり」でいられたか、今さら不安になってきた。
それにママも……あえて何も聞かないで、私が安心して帰れる場所を守ってくれてるんだ。
「いい加減に辛気臭いのよ。うじうじしてるぐらいなら吐き出してしまいなさい。そんなしみったれた顔で試験に挑まれたら、私のほうが心配で気が気じゃないのよ」
うーんこのツンデレ。
「……そんなことでって、呆れない?」
「呆れない呆れない。しょうもないことだったら笑い飛ばしてやるわ」
……こいつ。
「とにかく聞かなきゃ始まらないでしょう。私が野次馬根性みせてるうちに、観念してゲロったほうがアンタにとっても得だと思うけど?」
美奈子は指定校推薦で一足先に大学進学を決めた。だからこその余裕なのだろう。
いいから溜めているフラストレーションを全部吐き出せと迫られて、とうとう私は、美奈子に愚痴った。
そうはいっても、ひとつの事象に対して私が無駄に悩んでいるだけで、報告できることなんてたかが知れてる。
通っている塾の近くで、鱈福屋さんの日替わりおかずが頻繁に放棄される。
なんだかんだでそれがすべてだった。
犯人の顔は見たことないし、それをする理由も不明。
私が大好きなものを見ず知らずの他人にぞんざいに扱われて、勝手に憤ってるだけとも言える。
しかし話が進むにつれて、私の予想以上に美奈子は怒りのボルテージを上げていった。
「それって、その日に受け渡しがあった日替わりおかずなの?」
「わからない。ママにこんなこと言えないし……、鱈福屋さんの日替わりおかずの献立を、私は把握してないから……」
「でも、捨てられてるのが鱈福屋さんのおかずだっってことはわかるのよね」
「近くに袋とか容器も一緒に捨てられてるし、嫌でも目につくよ」
難しい顔で考え込んだ美奈子が、ぽつりと「意図的っぽいわね」と呟く。
ホームルームの始まりを知らせるチャイムが鳴って、一度話は中断した。
「凛のぶんも私が考えてあげるから、ひとまず勉強に励みなさいよ受験生」
「……まじ?」
これが指定校推薦で進路が決定した者の余裕か。
正直羨ましくもあり、ありがたくて、頼もしかった。
*
「2回までは偶然かもしれないけど、3回目以降は故意だと決めつけて問題ないはずよ」
まずはこれが前提ねと、昼休みにお弁当を食べながら美奈子が告げた。
「それは、私もそう思うけど……捨てた人はどうしてそんなことを?」
「そこよ。アンタが無駄に悩んでる最大の原因」
ビシッと指摘して、鋭い眼差しを向けられる。
「ソイツがどうしてそんなことをしたのかなんて、動機を理解しようとしなくていいの。アンタはソイツのやってることが許せない。うだうだ考えなくても、それだけで十分だと思わない?」
「まあ……一理ある」
「ついでに言うと私も許せないわ。ポイ捨て犯は地獄に堕ちればいいと思う。だけど、一番の被害者は、私でも凛でもなくて、——鱈福屋さんだと思わない?」
痛いところを突かれて、止まっていた箸を無意識に箸箱に戻した。
「明菜さんたちは、道に捨てられるためのおかずを毎日作って売ってるんじゃないでしょう」
「……そうだね」
「それでもって、鱈福屋の人たちには、誰に店の商品を売るか客を選ぶ権利があるのよ。ここから導き出される最善策はひとつしかないわ」
「ちょい待ち」
暴走しそうな空気にブレーキをかけようとするが、すでに遅し。
「ソイツの顔をおさえて鱈福屋さんに報告。それで万事解決よ。要はソイツにおかずを売らなきゃ捨てられないのだから」
「いや、……うん? そうかもしれないけど、ちょっと待って」
「あとは私に任せなさい。一度やってみたかったのよ、探偵ごっこ」
「待てと言ってんでしょ! そんな危ないことさせるわけにはいかないよ!」
「直接の接触なんてしないわ。ただちょっと遠くから現場の証拠写真を撮るだけよ。そうねぇ……念の為に年上の男の人に協力してもらいましょうか。それで私の安全も確保できると」
「それって鳥元先輩のこと? ……ねえ、本当は別れたとか嘘なんじゃないの? どう考えても仲良しじゃん」
私のことはどうでもいいのよと一蹴して、美奈子は面白そうに口の端を吊り上げた。
「ちょうど暇してたのよ。私が楽しんでもいいでしょう?」
嘘つけ。大学が決まったからバイトしまくってお金貯めるって言ってたくせに。
やる気スイッチが入ってしまった美奈子は、私には止められなかった。
「ありがたいし、嬉しいんだけど……、私、今度は美奈子が心配で勉強に集中できなくなるから、無理そうなら早いうちに諦めてよ」
「はいはい。飽きたら終わりにするわ」
口調が軽すぎる。これも絶対に嘘だろう。
◇ ◇ ◇
鱈福屋は地域に根ざした店である。
地元では有名だがチェーン展開をしていないため、全国的な知名度はゼロに等しい。
凛にとっては馴染みの深い店であっても、世間からすればローカルな街の惣菜屋の存在感は、全国展開されている弁当屋の足元にも及ばない。
客観視すれば、鱈福屋はその程度の規模の店なのだ。
だからこそ美奈子は今回の件に引っ掛かりを覚えた。
よりによってなぜそこまでコアなものが、凛の活動範囲において、凛が最も傷付く方法で放棄されているのか。それも一度や二度ではないという。
捨てられた食べ物が全国チェーンのコンビニ弁当だったら、美奈子はここまで気にならなかっただろう。
凛にしたって食材が捨てられることに怒りはすれど、誰にも胸の内を明かせずにひとりで悩むまでには至らなかったはずだ。
やってることすべてが作為的。悪意のある行動としか思えない。
美奈子はあえてそれを凛に伝えなかったが——。
鱈福屋の日替わりおかずを捨てているそいつの、悪意の矛先は凛である可能性が高い。
◇ ◇ ◇




