6.両片思いが動きだす⑹
◇ ◇ ◇
大手家電メーカー・シキシマの本社ビルにて。
広い部署内の一角、パーテーションによって区切られた簡易的な応接用のスペースで、隆則は経済誌の記者から取材を受けていた。
ひとり親で子育てに追われながらも大手企業の部長級にまで上り詰めたことに関して、記者が苦労話を聞き出そうとあの手この手で繰り出す質問に、そつのない答えを返していく。
仕事と子育てが両立できたのは、社員たちの理解と助けがあったから。
何より会社からの手厚いサポートを受けられたのが大きかった——と。
息子ももう手のかからない年齢になったので、今まで助けてもらったたぶん、今度は自分が社員たちをサポートすることで返していくつもりだ——とも。
隆則が雑誌の取材を受けたのはこれが初めてではない。
社内の労働環境の良さを外部にアピールするために会社が隆則を広告塔にしていることは、本人も理解していた。
本来は自分のような存在が取材対象にならず、当たり前とされることが、これからの社会の目指すべきところなのだろう。
しかし働き方改革という単語が社会に浸透した現在であっても、隆則のように勤め先から好待遇を受ける例はまだまだ少数派なのが現状だ。
取材が進むにつれて話題は会社の話題からプライベートの事柄に移行していく。
「——では、今では家事は息子さんと分担でされているのですね」
「そうはいっても、洗濯や食事の片付けといった最低限のことだけですよ。掃除は休日にまとめてしますし、どうにも上手くいかなくて、家での料理は早いうちから諦めましたので」
「そうなると、お料理の担当は息子さんがされているのですか?」
記者の男性が興味津々といった具合に食いついた。
少々仕事のことから脱線しすぎてしまったな。隆則は苦い思いを苦笑で誤魔化し、いいえと首を横に振った。
「いいえ。我が家では私も息子も料理はしません。いつもの食事は行きつけの惣菜店を頼っています」
「ですが……、ちまたでもおふくろの味という言葉があるように、息子さんも本当はお父さんのご飯が恋しいのでは? 親父の味、とでも言うのでしょうか」
「息子にとっての親の味、故郷の味というのは、まさに惣菜店の味がそうなるでしょう。私が作るよりも遥かに美味しく、栄養価を考えた食事を毎日いただいてます」
「はあ……そういうものですか」
記者のペンが止まっている。彼にはあまりピンとこないようだ。
「先ほども申しましたが、子どもを育てながら仕事を続けるのは、簡単ではありません。私はすべてを完璧にこなせるほど優秀でないので、どこかで手を抜く必要があったのです。私にとって、それが料理だったということです」
息子の京也を引き取ってから十年以上、鱈福屋の加藤には世話になりっぱなしだった。
下町気質で人情に溢れる大学時代の先輩は、ある日突然幼子を育てることになった隆則に何かと世話を焼いてくれる。
「なるほど。参考にさせていただきます」
声に熱意が消えたことをさほど気にせず、隆則は軽くうなずく。
今の話を記者は「子育て部長」のイメージにはふさわしくないと判断した。料理のくだりが雑誌に載ることはないだろうと、隆則は経験から推察していた。
「本日はお時間をいただきありがとうございました。貴重なお話、大変勉強になりました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
取材が終わり、総務部のあるフロアのエレベーターまで記者を見送る。
最後に思い出したように記者が申し出た、出版社が出している生活系の女性誌に、息子と一緒に出てみないかというお伺いについては、プライベートの取材は受けていないと丁重に断っておいた。
「——イケオジ部長とその息子、特集組んだら反響があると思うんだけどなぁ——ですって」
午前最後の予定が済み、昼休憩までの時間でデスク回りを整理していると、部署に戻った同僚がそんなことをボソリと隆則に告げた。
「来客バッチを付けた男の子がロビーでこぼしてましたけど、どう考えても部長のことですよね?」
面白そうに言ってくるの女性社員は松永という。隆則の直属の部下だ。
ブラウンのスーツを着こなすショートヘアの松永は面倒見のいいこざっぱりとした性格で、後輩たちからも慕われている。
仕事の能力的にも隆則とそう変わらないはずの彼女が課長級に留まっているのは、これまで三度の産休と育休によって長期で会社を休む期間があったためだ。
十年以上前ではあるが、京也を引き取った際に会社に多大な迷惑をかけた自分が今や部長級となり、正式な手続きに則り会社を休んだ松永は昇進が見送られている。
子育てに理解がある会社とはいえ、実態はそんなものだ。
松永自身は昇進に意欲を示してはいるが、それでも現状にある程度の納得を示している。彼女は隆則のことを部長と敬いつつも、同期入社ということもあり気さくに接してくれる。
意図してか無意識なのかは定かでないが、部署の空気に配慮する彼女の立ち回りはいつも見事なものだった。
「メディアの取材は会社をとおして受けているものだからね。個人的な取材は興味がないよ」
「でしょうね。でも、もったいないわねえ。溝口部長がイケオジって言われてたのは笑えるけど、京也君も今じゃかなりのイケメンに育ってるでしょうに」
「万が一にも需要があったとしても、供給する側が与えることを望まなければ話しはそこで終わるものだ」
スピーカーから正午を知らせる音楽が鳴り響き、隆則は席を立った。
「あ、お昼ご一緒いいですか?」
勝手知ったる仲の松永に快く承諾すると、松永は弁当を取りにロッカールームへと向かった。
隆則もロッカーから貴重品を取り出し、部署前の廊下で松永を待つ。すると女性社員が小走りで隆則に近づいてきた。
「お疲れ様ですっ」
「お疲れ様です」
挨拶を交わしながら女性社員の顔を頼りに記憶を掘り起こす。彼女は、たしか二年前に新卒で入社してきた。配属先はどこだったか……。
「あの、私今日、溝口部長にお弁当作ってきたんです! よろしければ……」
上目遣いでもじもじと。明るい柄物の保冷バッグを差し出してくる彼女を、隆則は片手を前に出して制した。
「気持ちは嬉しいが、受け取ることはできないよ」
はっきりと辞退すれば、彼女は一瞬大きく目を見開き、瞳に涙を滲ませて俯いた。
「そんなぁ……、せっかく作ったのに……」
保冷バッグの持ち手を胸元で持ち、寂しげに呟く。
しゅんとする女性社員と隆則を、廊下を行き交う社員たちは何事かとギョッとしながらも通り過ぎていく。
情に訴えてきたとしても意思は変えない。
隆則は周りから見たら自分は完全に悪者だなと苦笑しつつ、ゆっくりと口を開いた。
「逆の立場で考えてみなさい。もしも上司が君に今日はこれを食べるようにと昼食を強制してきたら、それは立派なハラスメントだ。良かれと思ってしたことでも、好意の押し付けは立場に関係なく褒められることではないよ」
諭すよう言っても納得ができないのか、彼女は動かず固まったままだ。それを気にせずさらに続ける。
「今後は先に伺いを立てて、相手にも意思決定ができる余白を作るようにしなさい」
「……はぁい」
不服そうな返事に、それでも隆則はうんと大きくうなずく。
「私は昼食を社員食堂で取ることを日課としているんだ。よっぽどの用事がない限りはルーティーンを崩すつもりはないよ」
横目に松永が呆れた顔で待機しているのが見えた。
またあとでからかわれるのだろうなと、隆則的には女性社員よりも松永にげんなりしてしまう。
「君の優しさはありがたく受け取ろう。私などに気を遣ってくれてありがとう。しかし手作り弁当なんて大変なもの、上司だからと気安く渡すものではないよ。そういうことは心に決めた大切な人にしてあげなさい」
遠回しにこんなことはしないでほしいと伝えたつもりだ。
女性社員は「承知しました」と呟き、隆則に頭を下げて自分の部署に戻っていった。
「部長に対してチャレンジャーな子でしたね。あのガッツは今時珍しい。あれで打たれ強ければ将来有望なんですけど、果たしてどうでしょうか」
廊下を歩きながらさっそく先ほどの出来事を松永が振り返る。
「そういえば最近は部長へのアタックもめっきり少なくなりましたね。ちょっと前までデートのお誘いとかわりと頻繁にあったでしょう」
「それだけ私も歳を取ったということだよ」
松永の言う「ちょっと前」とは軽く十年は前のことだ。一度結婚に失敗した身であっても隆則とのそういう関係を望む者はそれなりいた。果てには当時の上司が、隆則と同じバツイチの女性を紹介しようとしたり。
仕事と息子のことで精一杯だったあのころに、恋愛を楽しむ余裕などあるはずもなく。誘いを断り続けているとそのうち声をかけてくる者はいなくなった。
自他ともに認めるいい歳のオジサンとなった今、ようやく周りも落ち着いてきたわけだが、伴侶を得る機会を捨てた自分の生き方に後悔はない。
地下一階の食堂に到着し、席の確保を松永に任せて隆則は券売機に並ぶ。
昼食はアジフライ定食にした。
息子の京也は揚げ物を苦手としているため、たまに食べたくなるフライ系の料理は昼に摂るようにしている。
松永と雑談を交わしながら昼食を食べ終え、返却口へと食器を戻しにいく。
食堂をあとにするタイミングで、とある社員とすれ違った。
トレイに乗る皿に多くの食べ残しを乗せたまま返却口へと進む男は、かつてこの食堂に勤めていた西森 遥子とトラブルを起こした者である。
胸の内にもやもやした感情が燻るのを自覚しながらも隆則は努めて彼を意識の外へと退け、松永と共に自身の部署へと戻っていった。
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